08.せんたくし
――待って。こんなの聞いてない。
「へっ、あ、え……どういう、……」
意味ですか、と。
問う私の声は、ひどく情けなく響いた。
確かに星を吐き出させる方法なんて、私の頭では思いつかない。情報も不足している。そもそも現実的に考えれば、星なんて誤飲しようがない。解決法なんて、思いつくわけがなかった。
しかし、だからといって。
「戦う、って……?」
そんなことが選択肢に入っているとは、本当に微塵も考えてはいなかった。
立ち上がった巨大な山――こと、ゲルブさんは左右にぐらぐらと揺れている。
巨体も巨体。ヒューノットよりもずっと大きい時点で、もはや素材がフェルト生地だからどうのという話ではない。揺れる度に周りの木々が押し遣られ、中には倒されたものもある。
見た目は違うが、印象は巨大な熊という感じだ。
「戦うか、戦わないか」
ヒューノットは、同じ言葉を繰り返す。
ただそれだけで、そこに説明を付け加えてくれることもない。シュリだったら、その選択肢でいいのかどうかを、かなり遠回しに確認させてくれそうなものだけど。
それも、チュートリアルだけなのかもしれない。あの人の説明は、とてもわかりにくいものだった。
「たたかうだって?」
私よりも先に反応を示したのは、グラオさんだ。
視線を向けると少し困惑したような、そんな様子でこちらを見ている。
当然だ。だって、この大きな人はグラオさんの大切な弟で、そして救ってくれと頼んできた対象でもある。
ほとんど球体に近いほどに膨れ上がっていて、高さはゆうに3メートルはありそうだが。それでも、弟は弟だ。既に理性的な感じはなく、虚ろな黄色い目がこちらを見ている。
ぞっとするくらい、人形だ。そこに人格があったり、思考があったり、そんな気配は一切感じられない。
ここの住民全てがフェルトの人形だとわかっていても、何となく表情があるように思える気がしている私からすると、人形らしい人形として出て来たゲルブさんは異質な感じを放っていた。
「ほ、他に選択肢とかっ」
慌てて声を上げると、ヒューノットは肩越しに視線を向けてきた。
しかし、それは一瞬のこと。呆れたような目で見たあとは、すぐに前を向いてしまった。
「戦わないでっ、何かこう、星だけ吐き出す方法とか、ありそうだし!」
ヒューノットは、プレイヤーに選択肢を突きつけた後には余計なことを言わない。らしい。
そのあたりの説明は、シュリからも受けていない。もしかして、それが「彼は寡黙」という紹介に繋がったかもしれないけど、そんな事情まで知ったことじゃなかった。
そもそも星というのも、天体という意味ではないかもしれない。
何かこう、違うモノを示している可能性だってある。あって欲しい。
戦わない選択肢を出した私を背にしているヒューノットは、そのまま黙ってゲルブさんを眺めていた。ゆらゆらと大きく、そしてゆっくりと左右に揺れるゲルブさんの目が、こちらを見る。笑みを形作るように口許が作られていたグラオさんと違って、ゲルブさんの口許は真一文字。横にぎゅっと引き結ばれていて、斜めにギザギザと黒い毛糸で縫い止められている。毛糸。毛糸なんて、他の人形たちには見られなかった。いや、縫い目自体がなかったはずだ。
ぐらりぐらり。巨体が揺れたまま、ゆっくりとグラオさんの方を向く。
すると、グラオさんは慌てて駆け寄っていった。その足は遅いけど、頑張って急いでいることくらいは感じられる。
「――げるぶ! ああ、かわいそうなげるぶ。ぼくが、たすけてあげられなくて、ほんとうにすまなかった!」
グラオさんの声だけが響く。
ゲルブさんからの、返事はない。
「ぼくは、ほんとうにこうかいしているんだ。あんなことさえ、しなければ。きみは、こんなにくるしまなくても、よかったのに……」
兄の後悔は、弟に届いているのだろうか。
グラオさんは、更に言葉を続ける。
「ああ、げるぶ。ぼくのたいせつな、おとうとよ。だいじょうぶだよ。しんぱいない。ここにいる、だいじんたちが、きみをたすけてくださるから。さあ、げるぶ。ほしをはきだして、またげんきなきみに、もどってくれないか。おねがいだ、ぼくは――――」
短い腕を広げて、懸命に言葉を繰り出していたグラオさんが一瞬にして弾き飛ばされた。一瞬すぎて、何も見えなかった。慌てて顔を向けると、周囲の木が一直線に薙ぎ倒されている。遅れてゲルブさんを見れば、頭突きをしたらしい格好のままで固まっていた。
「――――――っ……」
一体、いつ。動いたというのか。
本当に一瞬の出来事すぎて、わからなかった。この感覚は、チュートリアルの時と似ている。速いとか、そういうことよりも。
《《干渉すること》》が、できない。
それを、とても強く突きつけられた気がした。
弾き飛ばされたグラオさんの姿は見えない。
木々の間か、その下で倒れてしまっているのかもしれない。
「動くなッ!」
私が動き出そうとしたその瞬間、ヒューノットが大声を上げた。
怒鳴り声に身体がビクッと震えて、全身に強張りが広がる。彼の方を見れば、自然とゲルブさんが視界に入って来た。既に頭を持ち上げて姿勢を戻している。もう、左右に揺れてはいない。それどころか、じっとこちらを眺めている。それこそ、睨みつけるかのようだ。
そう思った直後、まるで獣の咆哮のような声が周囲に響き渡った。
実際に聞いたことなんてないけど、絶叫のような、断末魔のような。
風が吹き荒れて、まるで台風の中にでもいるかのようだ。
黒い毛糸で封じられていた口が、一気に裂けて広がっている。
辛うじて、縫い止めている毛糸は残っているものの、今にも外れてしまいそうな程に伸びていた。
風の勢いに負けてしまった私が背に隠れても、ヒューノットは動こうとはしなかった。ただじっと、ゲルブさんと対峙している。
声が消えて強い風が落ち着いたタイミングで、ヒューノットの横から顔を出した。
口を開いたままで再び左右に揺れ動き始めたゲルブさんを見て、ハッとする。開いたままの口の中、その奥に銀色のような、白のような、何か光る物体が見えたのだ。もし星というのなら、あれがきっとそうに違いない。
「ヒューノット! あれ、あそこっ、口の中に星みたいなのが――――」
――ある、と言いかけた瞬間、ぎちぎちと嫌な音を立ててゲルブさんの口から何かが出て来た。
出て来た、のではない。あれは、口の中にぎっしりと生えている不揃いの牙だ。
牙という表現が正しいのかどうか。
まるでヒルの口のような、何とも言えない不気味な状態に仕上がっている。
ついさっきまで、そんなものはなかった。
ヒューノットが腕を伸ばしたかと思ったら、突き飛ばされた。
物凄い力で身体が浮くような感覚がして、地面に叩きつけられるかと思ったけど、柔らかなフェルトの木々がクッションになってくれた。慌てて顔を上げる。
ヒューノットがいない。
いくら木々に囲まれた場所だからといって、スケールの小さな森だ。
見失うはずがない。すぐにまた、ゲルブさんを見た。
ヒューノットはいなくなってなんか、いない。
姿が見えなくなって、錯覚しただけだ。彼の上には、あの巨大な身体が圧し掛かっている。仰向けに倒されて押し返そうとしている彼を、ヒューノットを押さえつけて、首のあたりに噛み付いていた。ぎちぎちと、何かが軋む音。暴れている彼の脚が地面を叩く音。何かが千切れるような音。
信じられなかった。
「――ヒューノット……ッ!」
ヒューノットは、ほとんど無抵抗に近い。
辛うじて、ゲルブさんの胴体に爪を突き立ててフェルト生地の一部を毟り取っているが、そんなのちっとも効いてはいなかった。
異様な巨体は圧し掛かったまま。少しずつ、ヒューノットが押し潰されているように見える。倒された木々が邪魔をして、すべては見えない。何が、どうなっているのか。
身体が竦んで動けないまま、私は何度か名前を呼んだけど、答える声は返って来ない。音と音の間に、呻き声が届くだけだ。
聞いてない。
待って。こんなの聞いてない。
次第に周囲が暗くなって来て、全身に震えが走り始めた。
腰が抜けたまま、ヒューノットを助けるどころか自力で立ち上がることすらままならない。顔も上げられなくなった。どうなっているのか、見たくない。怖かった。明らかに、ヒューノットが何かされている。それも一方的に、だ。この音が、あの声が、無事ではないことを確かに示していた。私の所為だ。戦わない――私がそう選んだから、選んでしまったから、ヒューノットは動けない。
両手で耳を覆った時、すぐそばに気配を感じて顔を上げた。
ヒューノットかと思ったが、そこに立っていたのは別の黒い姿。見覚えがあった。
「――シュリ、シュリッ! ヒューノットが危ないっ、シュリッ! たすけてよっ!」
自分でもひどい声だと思う。冷静な部分と混乱している部分が入り乱れていて、私の中は混沌としていた。
情けない声を上げながらも、立ち上がることさえ出来ないでいる私を見下ろすシュリの表情は読めない。銀色の仮面越しに見つめる視線さえ、よくわからなかった。助けて欲しいと言っても、シュリは動こうとはしない。
そこで気が付いた。シュリは、案内人。そしてサポート役。
「悪いね、ヤヨイ。それはできないんだ。戻るか戻らないか、決めてくれないかな」
冷静な声が耳に届いた。
それだけで頭の中を満たしていた熱が一気に下がる。しかしそれは、冷静になったというよりも、憤りによって混乱が引き上げられたといったほうが近い。どうして。どうして、助けてくれないのか。シュリがそういう役割ではないにしても、どうして何もしてくれないのか。感情が落ち着いてはくれない。
「もど、……もどる。もどるよ、もどって、もどって! お願いだから、戻って!!」
何がどう、なんて考えられない。
今の状況に耐え切れなかった。
泣き叫ぶ声を上げて、両手で耳を塞いだまま顔を伏せてうずくまるように身体を丸めた。
「戻してよ……ッ!」
しん、と。
突然、何も聞こえなくなった。
軋むような音も、何もだ。
騒々しい音がすべて、なくなっている。
恐る恐る目を開いて足元を見れば、そこにあるのは芝生だった。
ハッとして顔を上げると、私がいたのは例の場所。
風が流れて、シュリが傍に立っていて、青空が広がっているだけの草原だ。
「……どう、いう」
シュリの傍を見ても、ヒューノットはいない。
困惑している私の傍で屈み込んだシュリは、緩やかな手つきで背を撫でてきた。おかげで痛いくらいだった強張りが抜けて、息が詰まる感覚が落ち着いて来る。
反対側を見たけど、それでもヒューノットはいなかった。
もう一度、シュリを見る。
「――おかえり、ヤヨイ」
シュリの声は落ち着いていて、とても穏やかだ。
「ここは、この世界の中心部。全ての場所を繋ぎ、全ての時間に通じる。引き留める事は出来ないが、引き戻す事は出来る。一にするのも十にするのも、全ては全て君の選択次第だ。この世界で君は唯一、何者にも制される事のない存在だからね。さあ――――」
「ひ、ヒューノットはっ? ねえ、どこ?」
シュリの台詞を遮ったのは、初めてだ。
いつも通りに定められた台本を朗読するような、決まりきった文句を口にしているだけのような、そんな調子ですらすらと言葉を紡いでいたシュリが言葉を途切れさせる。
それから、静かに息を吸った。
「……君の選択が導いた結果さ。彼は星を食らった巨大な怪物に飲み込まれ、フェルトの街は壊滅する。ヒューノットが食い止められなかった怪物を、街の住民達に止められるはずもないからね。彼を食らった怪物は、すべてを破壊して飲み込んでいく事だろう。それが結果だよ」
その言葉に、腹の底が冷える感覚がした。
戦うか、戦わないか。たったふたつの、選択肢。是か否か。たったそれだけの、シンプルな二択。
私は私が選んだ結末を最後まで見届けることもなく、こちらに戻って来てしまった。
言葉を失っている私の背を撫でる手は、とても優しい。それだけに、ひどく胸が痛い。
私の顔を覗き込みながら、シュリは言った。
「――大丈夫さ、ヤヨイ。君は、何度でもやり直す事が出来る。その為に私がいるんだ。この世界において、君がどのように動いたのか。どのような事をしたのか。どのような物言いをしたのか。私は全て知っている。君の存在を残す為に、私は在るのだからね。……さあ、世界を始めよう。それとも、閉じてしまうかい。どちらも、君の心次第だ。私はそれに対して異を唱える事はない。もちろん、誰ひとりとして君の選択肢に否の声を上げる者はいないさ。君は安心して、君の選択肢を掲げるが良い。それこそ、我々が君に望む役割なのだから」
まるで決まり文句のように、当然のものとして存在しているかのように、ただ朗読をしているだけであるかのように、決められた台詞を繰り返すだけのように、簡単な挨拶を読み上げているかのように、淡々としていて穏やかで、聞き取りやすい声が言葉を紡ぎ落としていく。
彼らの招待を、私は甘く見ていたんだ。