70.絶望とは憂鬱の形を真似ているに過ぎない
真っ直ぐに壁へと向かったヒューノットに、壁を破るのかと思ったのも束の間。
急に重力の方向が真後ろに変わって、ワケもわからないまま跳躍したあとで屋根に到達した。
ヒューノット、壁も走れるらしい。
どういうことだよ。
ヒューノットを見上げると、建物の向こう側を険しい顔で見下ろしていた。
焦げ臭いニオイが鼻につく。
「──……ルーフッ!」
びくっと跳ねた身体が竦むほどの怒鳴り声。
声を上げたヒューノットの視線を追うけど、煙が立ち込めていて何も見えない。
だけど、確かにルーフさんが呼び返す声が聞こえた。
煙は建物の中ではなくて、建物の裏手から上がっているみたいだ。
最初は灰色に見えていた煙が、少しずつ黒さを増している。炎自体は見えていない。
屋根の端まで駆け寄ったヒューノットは、舌打ちを繰り出した。
「……まさか、先を越されたのか」
「え?」
どういう、意味なのか。
苛立った様子で低い声を漏らしたヒューノットは、軽く膝を曲げてから躊躇いなく空中へと飛び出した。
反射的に強張る身体が、急にふわりと浮く感覚。
重力を無視しているようで、何ひとつ逆らわないような──
「──ルーフ! 任せたぞッ!」
「は?」
耳が痛いほどの大声に視線を向け直すと、離れた腕が見えた。
ぞっと背が粟立つ。いやそんなばかなありえないよねと思いたかったけど、無理そうだ。
「ぎゃああぁぁあっ!?」
何階建てだったかはわからないけど、とにかく放り出された。
喉が痛くなるほどの悲鳴を上げながら煙の中に落ちる。
任せたって何だよ。ルーフさんにどうしろっていうんだ。
嫌だルーフさんごと事故死なんて絶対に嫌だ。
こんなことなら、まだ屋根に取り残された方がいい。
いっそのこと、玄関に置き去りにされた方がマシだった気がする。
思いのほか地面が近かったのか、背中に何かが当たった。
だけど、それは地面というには柔らかすぎる。
まるで薄い布をなぞったような、あまりにも淡い感覚しか伝えて来ない。
周囲の色が変わったと思ったときには、球体の中にいた。
「……は?」
さっきから単語ひとつ出て来ない。
煙は相変わらず立ち上っているけど、球体の中には入って来なかった。
少し冷たい球体は、少しずつ地上に向かって落下している。
どう見ても、シャボン玉。
だけど、シャボン玉でこのサイズは有り得ない。
そもそも、シャボン玉に人は入れない。
でも、そんな現実離れしたシャボン玉を操る人なら知っている。
「ルーフさん!」
ふよふよと漂っているように思えたシャボン玉は、煙の発生源から遠ざかっているみたい。
煙が薄くなったあたりで棒を片手に持つルーフさんが見えて、私は思わず声を上げていた。
金の髪を風に揺らしながら立つルーフさんは、棒を軽く揺らしてシャボン玉を誘導している。
えっと。何だろう。
めっちゃファンシーだな、この人。
「ヤヨイさん、こちらへ。……申し訳ありません。遅くなってしまいました」
しかも、謝られた。
どう考えたって、悪いのはヒューノットだ。
アイツ本当に何なの。
ルーフさんが差し出した手を取ると、シャボン玉は自然と割れて消えてしまった。
急だったけど、何とか彼の手を頼りにして地面に降りることができて一安心だ。
さっきは本当に、冗談抜きで死ぬかと思った。
「い、いえ、こっちこそ、ごめんなさい」
慌てて声を返すと、ルーフさんはゆったりと腕を下ろす形で私の手を解放した。
やさしい。
ヒューノットには、こういう繊細さがない。
秘めているとも思えないな。不器用め。
「あ、あのっ、プッペちゃんはっ」
ルーフさんがここにいて、大丈夫なのか。
見回してみても、プッペお嬢様の姿はない。
元々は綺麗な庭になっていたのだろう。
花壇や庭木が見えているけど、もう煤けたニオイと煙で台無しだ。
「お庭にいらっしゃいます。最も、安全な場所です」
そう言われて、私はハッとした。
あの庭だと思ったから。
プッペお嬢様のママが、娘のために贈った場所。
守りたいと願ったルーフさんが、怪物になってしまった──ルートも、あった場所。
大小もデザインもさまざまなサンキャッチャーが吊り下げられ、たくさんの花で飾られた特別な庭。
振り返って建物の窓を見ても、その奥に何の部屋があるのかはわからない。
ルーフさんはじっと、煙の中を見つめている。
その場から、動こうとはしない。
「ヤヨイさんも、できれば中へ──」
ルーフさんがそう言いかけたとき、煙の中に何かが見えた。
ゆっくりと、こっちに近づいて来る。
風に流され始めた煙は、少しずつ薄れているようだ。
炎は見えない。何の煙だったのかは、わからないまま。
長身のシルエットが、だんだんと鮮明になっていく。
くすんだ煙の中から現れたのは、ひとり。
煙の残滓を纏いながらその人物の頭を飾るのは、見慣れた濃い紫色の髪。
長身が纏うのは黒色の外套。
その髪は、長かった。
「──ッ」
急激に身体が強張ったその瞬間、ルーフさんが私の前に出た。
それと同時に、あいつが──ヒューノットの器が駆け出す。
ルーフさんが腕を振るうよりも、ずっとモドキの方が速い。
速すぎる。
ひと瞬きの間に距離が詰まった。
「ひっ……」
喉から呼吸と一緒に悲鳴が漏れる。
濃紫色の髪。青い瞳。その顔。そっくりすぎて怖いと思っていた。
ほとんど一緒。同じ顔をしていて、髪や目の色も同じ。それが不気味だと、そう思っていた。
だけど、違う。
今ならヒューノットが、類似と同一は違うと言った意味がわかる。
同じ顔をしているのに、モドキはヒューノットに似ていない。
モドキの方が、ずっと恐ろしい。
何も映していない瞳が、感情のない表情が、ためらいのない動きが、怖くて堪らなかった。
ルーフさんが棒を振るう、けど、間に合わない。
ヒューノットを呼びたいのに声が出なかった。
ただ、息を飲んだ。次の瞬間――
「──── 退 け……ッ!」
低い声が耳に届いて、ほとんど同時に金属のぶつかる音がした。
空中から繰り出された蹴りが、モドキを煙の中へと弾き戻す。
着地したヒューノットは片手を地面についた直後、低い姿勢のまま駆け出した。
ヒューノットが駆け抜けた場所の煙が引き裂かれる。
真っ直ぐにモドキへと向かった彼は、体勢を立て直したモドキの腹部に蹴りを叩き込んだ。
地面を削りながら跳ね飛ばされたモドキの姿が、煙のせいで見えなくなる。
たった数秒の出来事で、私は息をするのも忘れて眺めていた。
「……クソ。間に合わなかった」
ヒューノットが荒れた声を落とした。
どうして。間に合ったのに。ルーフさんも、ついでに私も無事なのに。
怖くて意味を聞けないまま、私はルーフさんに身を寄せた。
ルーフさんは棒を構えた姿勢を解かずに、じっと身体を強張らせている。
いよいよ煙が晴れていくと、花壇を破壊して庭木にぶつかって止まったモドキの姿が見えた。
長い濃紫の髪が外套の上、そして地面にも散らばっている。
仰向けに倒れたモドキの腕は、あらぬ方向に向いていた。
「……っ」
だけど、モドキのそんな状態よりも、目を引くものがあった。
大きな木の傍に、ヒトガタが立っている。
灰色の肌も、人形のような形も、全く同じ。
ヒューノットに襲い掛かった奴ら。
街で徘徊しながらプレイヤーを探していた奴ら。
あいつらと、同じヒトガタだ。
でも、その頭部は違っていた。
蠢く黒い何かに囲われた白いお面をつけている。
お面、というよりは。
人の顔にも見えた。
何か、ぶつぶつと言っている。
モドキが軋む音を立てて起き上がると、ヒトガタの声がはっきりと消えた。
『──タタカエ』
機械音声のようなぎこちない話し方。
合成された音みたいな声。
聞いたことのない声だった。
そもそも、ヒトガタが意味のある言葉を話していた気がしない。
声自体、持っていたのかな。
『──タタカエ』
ヒトガタは、ずっと同じ単語を繰り返している。
荒れ果てた庭の中でヒューノットと対峙し直したモドキは、自分の手で捻じ曲がった腕を治した。
いや、位置を直しただけかもしれない。
目の部分をくり貫かれた白いお面は、まるでデスマスクみたい。
固くて、表情がない。
ヒトガタは、ゆっくりと腕を持ち上げてヒューノットを示した。
『──コロセ』
ぞっとするほど暗い声が響いた直後、モドキが真っ直ぐにヒューノットへと向かう。
こちらを向いたヒトガタの顔。
見覚えなんかない。
でも、それは誰かの顔だと思えた。知らない人だけど。見たこともない顔だけど。
「……っ、プレイヤー」
あのヒトガタは、ひょっとして、プレイヤーを飲み込んだのではないか。
恐ろしさで血の気が引く。
両方の世界と繋がりを持つプレイヤーを食べることで、成り代わる──勘違いしていたのかもしれない。
私は、そうすることで現実世界の人たちにヒトガタが認識されるものだと思った。
だけど、そうだ。ヒトガタがプレイヤーに成り代わったのなら。
あのヒトガタは、選択権を持っている可能性がある。
「ヒューノット! 逃げて!」
私は咄嗟に声を上げた。
モドキと向き合っていたヒューノットが、こっちに視線を投げてくる。
青い瞳が私を見たと思った次の瞬間、小手の部分でモドキを殴りつけた。
モドキの腕が大きく揺れた直後にヒューノットの頬を裂き、振るった手の方向へ血が飛ぶ。
身体を引きかけたモドキに回し蹴りを叩き込んだヒューノットは、間髪入れずに頭部を掴んで地面に叩き付けた。
不自然な角度になったモドキの下半身が軽く浮いたように見える。
「──避けてください!」
ルーフさんが声を上げて棒を振るった。
真横に一線を描くように大きく宙をなぞった棒の先で光が弾ける。
まぶしくて目を閉じた直後、強引に抱き上げられた。
「一旦引くぞ。話はあとで聞いてやる」
ヒューノットの声は冷静だ。
小脇に抱えられた形の私は、とにかくその胴体にしがみつくしかない。
よく腕一本で支えられているものだと思いながら、ルーフさんの姿を探した。
彼に至っては、ヒューノットの肩に担ぎ上げられている。
「ルーフ」
「は、はいっ」
ヒューノットに名前を呼ばれたルーフさんが、少し慌てた調子で棒を振る。
飛び散った雫がすべてシャボン玉になった直後、ヒューノットは一気に駆け出した。
片足を後ろに引いて体勢を低くしたあと、大きく飛び上がって庭木の幹を蹴る。
そして次に壁を蹴って高く舞い上がり、あっという間に屋根へと戻ってきた。
私とルーフさん。ふたりを抱えて、だ。
体力と腕力のオバケ。
お嬢様が館にいる限り、ここから離れられない。
だけど、お嬢様を引っ張り出す方が心配だ。
もちろん、ルーフさんだって放置するなんてことはできないと思う。
裏庭を見下ろすと、大量のシャボン玉にまとわりつかれたモドキが見えた。
パンッパンッと音を立てて弾ける度に光が散っている。
あれ自体にも意味がありそうだけど、聞いている場合じゃない。
「さっきは何のつもりだ?」
ヒューノットに睨まれたからだ。
「だ、だってアイツがいたからっ」
「どっちだ」
「ヒトガタだよ! ツチクレの方!」
ヒューノットはそう呼んでいた。 そして、シュリは傀儡と呼んでいたかな。
いや、今は呼び名なんて、どうでもいい。
「それがどうした」
私とルーフさんを丁寧に降ろしたヒューノットは、平然としている。
焦っているのは、私だけみたい。
「ど、どうしたっていうか……その、顔ができてたし、何か言ってたし……」
「言っていた?」
そこでやっと、ヒューノットは顔をしかめた。
あんなにわかりやすいのに、ヒューノットが気づかないとは思えないけど。
私は、折れた木の傍に立っているヒトガタを示した。
ルーフさんもヒューノットも、そっちを見る。
「あいつ。白い顔ができてて、もしかしたら、プレイヤーを……」
──飲み込んだのかも、とは言えなかった。
何だか、怖い。
言ってしまったら、それが本当のことだと認めなければならないような気がした。
そんな些細な抵抗なんて、何の意味もないことはわかっているはずなのに。
ヒューノットは眉間に皺を寄せたまま、目を細めてヒトガタを睨み付けた。
不可思議なシャボン玉は足止めにはなるけど、ただの時間稼ぎでしかない。
モドキの様子を窺いながら、ヒューノットをちらりと見た。
「……ああ、成り代わった。だから言っただろう。俺達は、先を越された」
ヒューノットは不機嫌そうに舌打ちをした。
成り代わった。
やっぱり、あのヒトガタは誰か、他のプレイヤーと接触してしまったみたいだ。
そのプレイヤーがどうなったのか。知りたいけど、聞けない。
「……何を言っていた」
「え……?」
ヒューノットが急に問い掛けてきた。
顔を上げると、彼はまっすぐに裏庭を見据えている。
「土塊は何を言っていたんだ」
「え、あ、戦えとか、そういうことを……」
「指示か」
「う、うん」
指示、なのか。
どうなのか。
私には、選択肢から行動を突きつけていたように思えたけど。
ヒューノットは、ふん、と鼻を鳴らした。
「……それで俺の器を使った訳か。随分と見くびられたものだな」
苛立った様子ではあるけど、ヒューノットに焦りは見られない。
それは助かるところではあったものの、だからって安心はできなかった。
ゆっくりと腰を屈めて、口許を両手で覆う。
だって、こわい。
今は私にプレイヤーとしての主導権があるらしいけど。
もし、それがなくなったら。
もし、ヒューノットがあっちの選択に従わなければならなくなったら。
もし、もしかしたら。
嫌な可能性ばかりが浮かんで消えていく。
「──ヤヨイ」
ヒューノットの低い声が落ちてきても、私は顔が上げられなかった。
すると、ヒューノットは私と目の前に屈み込んだ。
私の視界には、もう裏庭はない。
あるのは、ヒューノットの姿だけだ。
「──恐れるな、ヤヨイ」
ビクッと肩が震えた。
考えを読まれたようで、怖くなってしまう。
平気な気持ちと怖がる部分が一緒になっていて、本当はどう思っているのかわからなくなってきた。
「──聞け。お前は俺が必ず守る。言っただろう。もう、誰も失わせない」
そう言いながら、ヒューノットはゆっくりと立ち上がった。
黒い外套に身を包んだ長身。短い濃紫の髪。目つきの鋭い青い目。
私を見下ろす表情は相変わらずで、だけど、少しだけ頼もしい気がした。
生温い風で屋根の上を抜けていく。外套が、小さく揺れた。
「──だから、お前は俺を信じろ。俺も、お前を信じる」
そう言い放つなり、ヒューノットは屋根から飛び降りた。
真っ直ぐにモドキを狙って着地直前に顔面へと蹴りを叩き込んだ後、ヒトガタへと向かう。
だけど、私はやっぱり、それを見ていることしかできない。
どうにも歯がゆくて、落ち着かない。
すると、そんな私にルーフさんが濡れた棒を差し出した。
シャボン玉を生み出す棒だ。
見上げれば、もう一本別の棒を握っている。
「スペア、あるんですね……」
「もちろんです」
ちょっとだけ、肩から力が抜けた。




