69.時に心は、頑ななまでに真実に従わない
プッペお嬢様が、ユーベルの娘。
ユーベルは、あのふたりを傷付けない。
選択を利用した。
人質にするしかない。
頭の中でシュリの声が繰り返された。
時間にしてしまえば、たった数秒の出来事だろう。
「──……」
振り返った先には閉ざされた門扉しかない。
その向こう側にいたはずの、シュリの姿はなかった。
「……行くぞ」
ヒューノットが、低い声で促してきた。
私は、すぐには動けない。
それでも、ヒューノットは苛立った様子は見せなかった。
「……今の、今のって、どういう意味?」
ユーベルにとって、ルーフさんとプッペお嬢様は不可侵そのもの。
特別で、特異的な存在。だからこその、切り札。
もしかして、私はとんでもない選択をしてしまったのかもしれない。
私の目は門扉に釘付けになっていた。
睨んだところで、シュリが姿を見せるわけでもない。
だけど。
シュリは確かに、「卑怯な我々を許して欲しい」と言った。
私の、傍観者としての、選択を利用したって。
「……意味などない。言葉の通りだ」
「ま、待ってよ、納得できないよっ」
ヒューノットの声は相変わらずで、だけど、いつもよりは少し沈んでいる。
振り返って顔を見るけれど、表情からは感情がうまく読み取れない。
案内人であるはずのシュリが、選択肢を掲げたときに覚えた違和感は嘘ではなかった。
傍らに立ったまま、ヒューノットは静かに私を見ている。
「レーツェルさんに手が出せないから、ユーベルの弱点をつこうってこと?」
だけど、弱点が、プッペお嬢様とルーフさんだなんて聞いてない。
眉を寄せると、ヒューノットは静かに息を吐いた。
その深い溜め息のあとで、頷きをひとつだけ返してくる。
「だから、プッペお嬢様たちを利用するってこと?」
自然と声が、責める響きになってきた。
だって、こんなのおかしい。
いくら最善の策だからって、あのふたりを巻き込んで良いとは思えなかった。
それに。
ヒューノットだって、乗り気ではないはずだ。
「……そうなる」
肯定を示したヒューノットの視線は気だるく足元に下がっている。
決して、積極的だとは思えない。
だとしたら、シュリが先導したのかな。
「……ヒューノットだって、ふたりを巻き込みたくないんじゃないの?」
ヒューノットがシュリに噛み付いたのは、ルーフさんとプッペお嬢様絡みのときだ。
結末がわかっていて繰り返せなくなったヒューノットは、耐え切れずにタブーを犯した。
ルーフさんが、プッペお嬢様を手にかけて絶望するよりも先に──。
息が詰まる心地がした。
あのときのことは、できるだけ思い出したくない。
「……俺は──」
ゆっくりと、ヒューノットが口を開いた。
青い瞳が私を見て、そして、少し外れて後ろへと飛ぶ。
門扉を振り返っても、そこには誰もいない。
「──……手を尽くしたい」
声に誘われてヒューノットに視線を向け直す。
私を真っ直ぐに見据える青い瞳に、少しだけ身体が強張った。
緩やかに通り抜ける風が、やけに冷たい。
ヒューノットの髪を揺らした風は、館へと誘うように流れていく。
「もう誰も、死なせはしない」
そうだった。
すべての選択を実行しているのは、ヒューノットだ。
例え、その先が見えていたとしても、嫌だと感じていても、彼は選択された道に進むしかない。
青い目に見据えられて、妙に居心地が悪い。
私だって、常に最良の選択ができているとは思えない。
うなづくことも、返事をすることもできなくて、私はただヒューノットを見つめた。
「お前、前に聞いたな。ハッピーエンドは何なのかと」
「……うん」
シュリは、世界の終焉を阻止したがっていた。
レーツェルさんは、理想の王様に地上を統治させたい。
ルーフさんはプッペお嬢様を守りたくて、プッペお嬢様はママに会いたがっている。
みんなの願いはバラバラで、だけど明確だ。
でも、ヒューノットの願いはそこにはない。
だから、聞いてみたけど、あのときの答えは「そんなものはない」だった。
「すべての願いを叶えようがない──今でも、そう思っている。誰しもが幸福になれる道などない」
ヒューノットの言葉が、少し痛い。
だって、あまりにも正論だ。
全くもって、その通りだとしか言えない。
「……ヒューノットは? ヒューノットは、どう考えてるの?」
よくよく思えば、ヒューノットの答えは個人的なものではなかったように思える。
諦めてしまった結果のように感じていたけど、そうではないのかもしれない。
じっと見つめていると、ヒューノットはゆっくりと肩を竦めた。
「──俺は、狂った歯車を戻したい。その為なら、手を尽くす。世界に順ずる事には、もう飽きた」
そう言い切ると、ヒューノットは屋敷へと顔を向けた。
ふたりを巻き込むことに、ヒューノットが反対するかと思ったけど。
そうではなさそうだ。
「……でも、あのふたりは……」
むしろ、今は私だけが渋っている状態なのかもしれない。
誘い方次第で、ルーフさんは協力してくれるだろう。
プッペお嬢様は、どうなるのかわからないけど。
何にしても、あのふたりに危ないことはさせたくない。
「それに、ユーベルがママってことは……」
空が白くなったら、帰ってくる。それって、つまりバッドエンドなのでは。
言いよどんでいると、ヒューノットは緩やかに首を振った。
「考えるべきは、新たな可能性の矛先だ」
「……新しい、選択肢の先ってこと?」
「ああ」
ヒューノットの言うとおり、全員が幸せになるルートがあるとは限らない。
だけど、誰も死なない結末には、なるかもしれない。
その可能性があるのなら、ほんの少しでも有り得るのなら、賭けてもいいかもしれないけど。
迷いながら門を振り返る。
でも、門扉はきっちりと固く閉ざされたままだ。
「……聞いてもいい?」
ここに入ってしまって、戻れないのだとしても。
そして、それがシュリやヒューノットの狙いだったとしても。
今からだって、選べるはずだ。
選択肢がふたつではないことを、教えてくれたんだから。
「ヒューノットは、あのふたりに協力をお願いするべきだと思う?」
だから、ヒューノットはどう思っているのかを知りたかった。
ヒューノットがどう考えていて、どう思っていて、どうしたいのか。
問い掛けると、ヒューノットは即答しなかった。
返されたのは沈黙。
だけど、それがただの無視ではないことくらい、そろそろわかっていた。
「……」
ヒューノットは何も言わない。
私も、何も言わない。
急かしもしないし、答えを求めもしない。
ただ、待っているだけだ。
ヒューノットはいつも、こっちが諦めるまで待っているような気がしたから。
「──はぁ……」
わかりやすくため息をつかれた。
「ユーベル側の事情を考えれば、そうするべきだと思う。だが、奴らの事情を考えれば、躊躇するところでもある」
回りくどい言い方をされたけど、シュリほどではない。
ユーベルの弱点がわかっているのなら、そこをつつくのは確かに有効な手だろう。
それは、私だってそう思う。
だけど、プッペお嬢様たち側で考えると、それが最善だとは言えない気もする。
結局のところ、ヒューノットと私の意見はほとんど同じだ。
だから、前に進めない。
いや、だからこそ、ヒューノットは私に選ばせたかったのだろうけど。
「……だったら、プッペちゃんとルーフさんに聞いてみようよ」
そう言うと、ヒューノットは少しだけ驚いたようだった。
「どうしたいのか、聞くのはいいよね?」
それがタブーだと言われたら、万事休すだけど。
ヒューノットの行動のようにエラーだと言い切られることはない、と、思う。
確認したけど、ヒューノットは答えてくれない。
あれ。
「ええっと、だめなら……こうしようよ。"頼む"か、"提案する"か、で、提案する方を選んだ的な」
我ながらひどい。
例えがひどい。
何も浮かばなかった。
「……それを言うなら、提案するかしないか、だ」
ヒューノットに訂正された。
うう、自分でもわかっていただけに、訂正されると辛いものがある。
「だが、……いいだろう。選択肢のいずれかを選ぶ事は、お前の権利だ」
「……じゃあ、ふたりに聞いてみる?」
「ああ。それでいいだろう」
一方的に巻き込むとか、そういうのではなくて。
これなら、あのふたりの感情とか事情とか、そういうものを配慮できる。
そのはずだ。そう、思いたい。
少なくとも、強制はしたくなかった。
「ママのことだって、少し聞いておきたいしね……」
そのあたりが、更に事情を複雑にしているような気がする。
これで、ユーベルが全く関係ないなら良かったのに。
ああ、いや、無関係だったら弱点でも何でもないか。
わが子だから、手を出せない。そういう話のはずだ。
って、あれ。
「……ルーフさんは?」
「何だ」
「いや、ルーフさんもユーベルの子?」
「違う」
そうだよね。
私の変な質問に、ヒューノットは思い切り眉間に皺を寄せた。
いやいや、怖いから。怖いからそれ。やめてほしい。
確かに、ルーフさんとプッペお嬢様は兄妹って感じではない。
微笑ましさで言うと、兄妹でもいいけど。そういうことではなくて。
「どうして、ルーフさんもユーベルの弱点に入るの?」
「……」
「ねえ」
「……」
「聞いてる?」
「……」
やばい。
完全に黙秘権を行使された。
「……ま、まあ、うん。わからないなら、それでいいよ……」
言いたくないのなら、そこまで必死につつくことでもないな。
私はすぐに首を振って、奥にある洋館を見た。
行動で示したほうが早いかと思って、真ん中を通る道を歩き出す。
ヒューノットも後ろからついて来た。
ちょうど、洋館の入り口に差し掛かったときだ。
真後ろからぐいっと腕を引っ張られた。
「ちょっと、なに、どうし──」
──たの。
と、聞く暇さえない。
けたたましい破裂音と共に、周囲が激しく振動した。
視線を転じた先では、灰色がかった煙が上がっている。
音がした瞬間、私はヒューノットに抱き込まれていた。
建物から煙が上がっているのか。
それとも、建物の向こう側なのか。
何もわからないまま、身体が強張る。
「──行くぞ」
ヒューノットは、私を抱え上げて駆け出した。
激しい振動にビクついて、思わず強くしがみついてしまう。
今度は、置き去りにされなかった。
そのことに、驚きを感じながら。




