68.見方を変えれば、表は裏に、裏は表に転じる
「……ルーフさんにお願いするの?」
確かに、思っていたよりもルーフさんは強い。
いや、強いという言い方は、ちょっと違うかな。
どちらかといえば、守ることに特化しているタイプというか。
助けてもらったうえで弱いなんて言えないけど、強いっていうのはまた違う。
ルーフさんの武器は、シャボン玉だったし。そもそも、武器って言っていいのか。道具かな。
それにあのときの相手は代理人。影だ。
グラオさんたちが言うには、代理人はあくまで本体の影。
戦わざる者に刃は向けられない──ルーフさんは、戦う術を持っているわけではない。
「いいや」
シュリから返されたのは、あまりにもシンプルな否定だった。
ヒューノットは、選択肢を口にしたあとは黙り込んでいる。
入るか、入らないか。
ようするに、入ったら、確実にあのふたりを巻き込むことになるのだろう。
だから、ヒューノットは勧めて来ない。
でも、たぶんだけど、それ以外の方法がないから、黙っているのだろう。
ヒューノットの気持ちはわかる。
私だって、できれば、あのふたりを巻き込みたくない。
あれ、おかしいな。むしろ、巻き込まれているのは私だな。
「……」
お願いする相手がルーフさんではない、というのなら、プッペお嬢様か。
確かにすごく新たな展開という感じではある。
プッペお嬢様にお願いするなら、ルーフさんの許可だって必要だろう。
保護者として同伴してもらわないといけないだろうし。
それにしても、不可侵は我々の手にある──ということは、つまり。
「……ユーベルと、関係があるんだよね?」
問いかけてみると、シュリはゆったりと頷きを返してきた。
シュリもヒューノットも、それ以上の情報は渡してくれない。
ヒューノットは、いつも通りだとも言えるけど。
違和感を覚えて眺めていると、シュリは静かに肩を竦めた。
ふたりとも、門には近づかない。
三角形の頂点に位置する私だけが、ふたりよりも門に近い状態だ。
もしかすると、近づけないのかもしれない。
「ねえ。教えてくれないと選べないよ」
意を決して声を出すと、ヒューノットがシュリを見た。
それはまるで、話をうながす動きにも見える。
いつもなら、ヒューノットがうながされる側なのに逆だ。
ますます、よくわからない。
やがて、シュリはゆっくりと足を踏み出した。
二歩、三歩。私に並んで、そして超えて、開かれた門のラインに立つ。
まるで、そこから先には見えない壁があるかのように。
「──ヤヨイ。卑怯な我々を、どうか許して欲しい。私もヒューノットも、彼らを結末までの過程に引き込む術を持っていなくてね」
ゆっくりと、私たちの周りを風が通り抜ける。
シュリの黒い髪が揺れて、肩の上で跳ねた。
細い身体を隠す黒色のローブも、ゆったりと広がって揺れている。
「停滞していた彼らの時間を朝陽のもとに導き、彼の終焉を絶望から引き上げた君は、選択肢の矛先を自らのもとに引き寄せた」
「ど、どういうこと?」
「我々の捧げた選択肢を放棄した君は、新たな選択を我々に差し出したということさ。おかげで、ヒューノットは解き放たれつつある」
"選択肢を放棄"した。
それは、ユーベルにも言われた言葉だ。
あのとき、シュリは全く否定をしなかった。
そうはいっても、ルーフさんと戦うかどうかの選択肢にまで行き着かなかったわけだけど。
私は単純に、プッペお嬢様をあの場所から連れ出す気でいただけだ。
それができたら、ヒューノットが戦わなかったとしても、星に狂わされたルーフさんがプッペお嬢様を襲わない、はずだから。
「それ、ユーベルも言ってたけど──」
「──ユーベル・フェアレーターは」
私の言葉を遮って、シュリが声を出した。
そんなことは初めてで、思わず言葉を止めてしまう。
「……君が、選択肢以上の行動を起こしたから現れたのさ。君は、彼を殺すか否かでは選択肢を見なかった。──いいや、そもそも君の前に掲げられた二択は、君の選択そのものに対して役に立っていなかったとも言えるだろうね。君は彼女を守る為に、彼を生かす為の選択肢を模索した。そうだろう?」
止まらない風の中で、シュリの髪が揺れて仮面の上で跳ねた。
確かに私は、ルーフさんとヒューノットを戦わせたいわけではなかった。
プッペお嬢様を連れ出す選択をしたのも、狂ったルーフさんに会わせるためじゃない。
たとえルーフさんが暴走したとしても、襲わせないために連れ出したかった。
結果的にヒューノットが見つからなくてユーベルと遭遇したから、戦うかどうかの選択肢を選び直せてないけど。
「それは、まあ、そうだけど……」
「かつての傍観者達は、君のように新たな選択肢を生み出そうとはしなかった。ただ漫然と、目の前に差し出された二枚のカードから片方を選ぶだけだ。彼らは、我々が訴える声を持たない事を知ってはいたが、だからこその選択肢であると捉えていただろう。不躾に呼びつけた我々に、彼らを責める事などできはしないけどね。だが……いずれにしても、ヤヨイ。君が君自身の思考によってカードの裏表に気付き、或いは三枚目のカードの存在を我々に知らしめた事は確かだとも」
「ええ、うん、まあ、えっと、それはわかるんだけど……」
選択肢を放棄したというのが、つまり、新しい選択肢を生み出したことにつながるのだとして。
どうして、そこにユーベルが絡んでくるのか。それが、わからなかった。あのときも、今も、だ。
シュリは口許で小さく微笑んだ。
「言っただろう? ユーベル・フェアレーターの不可侵は我々の手の中にある」
「う、うん。それは聞いたけど」
そして、それを使うことに気が進まないらしい、というのも聞いた。
聞いたけど、知りたいことはスッと教えてくれない。
「──ユーベル・フェアレーターの不可侵こそ、プッペとルーフなのさ。だからこそ、彼女達を生存させる事が出来た君に対して感謝を告げたわけでね。我々に直接的な干渉が叶わないように、ユーベル・フェアレーターもまた過程に対して干渉する事が出来なかった。ようするに君が救い上げた結末は、彼女達だけのものではなかったのさ。嘆きを抱えていたのは、空だけではないのだからね」
「ちょ、ちょっ、ちょっと待ってよっ」
あまりにも当然のようにすらすらと言われてしまって、わけがわからなくなってきた。
慌てて話を止めに入る。静かに応じてくれたから、まだ助かるけど。
一旦落ち着いて、息を吸う。
仮面越しの表情は、まったくわからない。
「不可侵って、わかりやすく言うとなに?」
我ながら頭の悪そうな質問になってしまった。
だけど、シュリは何でもとにかく比喩的で、ストレートに言ってはくれない。
何かを例えているのか、象徴としての言葉を使っているのかもわからない。
「ルーフにとってのプッペという事さ」
シュリは、さらっと言い放った。
それってわかりやすく言っているのか。
私が首を傾げると、シュリは更に言葉を続ける。
「または、グラオにとってのゲルブ。あるいは、レーツェルにとってのツェーレであるとも言えるだろうね。」
「……ええと」
ルーフさんにとって、プッペお嬢様って何だ。
大切にしたくて、そうだ。守りたい存在だ。
グラオさんとゲルブさんは兄弟。レーツェルさんとツェーレくんは姉弟。
似ているような、似ていないような。
でも、確かに共通点はある。レーツェルさんは、ちょっとどうかと思うけど。
「……守りたい相手、ってこと?」
自信はなかった。
だけど、確かめないと進めない。
そっと確認すると、シュリはゆったりとした仕草で頷いてくれた。
ヒューノットが物言いたげな視線を向けてくるけど、そこはちょっと気づかない振りをする。
ルーフさんにとっての、プッペお嬢様。
明らかに守る対象だろう。
その流れでいうのなら、ヒューノットにとってのシュリだ。自覚があるのかは、知らないけど。
頷きを返したシュリは一度だけ、ヒューノットに顔を向けた。
そこに言葉はない。
どちらも、何も言わなかった。
それに、たった数秒だけだ。シュリは、すぐに私を見た。
「……ユーベル・フェアレーターにとって、彼らは不可侵そのもの。本来であれば接触する相手ではない傍観者に感謝を告げるほど、彼らは特別で特異的な存在でね。だからこそ、我々にとっての切り札になり得る。リスクがない訳ではないが、最善は最良だとも」
ゆっくりと、シュリの手が洋館に向く。
白い手が、ほっそりとした指先が、まるで案内をするかのように洋館を示す。
だけど、敷地内には入らない。
あくまで、門の手前に立っている。
何だろう。まるで、招かれなければ入ることができない吸血鬼のようだ。
黒衣を揺らしていた風が、少しずつ静かになっていく。
「さあ、ヤヨイ。入るか入らないか、だ。決めるのは君だよ」
選択肢を掲げるのは、ヒューノットの役目だ。
案内人であるシュリが、その代わりをするのはちょっと違和感があった。
私は、まだ決めかねている。
どうしてなのか、すぐには頷けなかった。
「ヤヨイ。言っただろう? 気は進まないが、打てる手は打ちたい──彼らの力を借りなければならないのだよ。我々には、対抗できる手札があまりにも少ないのだからね」
門扉が僅かに揺れて音を立てた。
早くしろと急かされている気分になってしまう。
ヒューノットを見たけど、何かを言うどころか動く気もなさそうだ。
「……わかったよ。ユーベルはプッペちゃんとルーフさんが大切だから、協力してもらうってことでいいよね?」
理由はわからないけど、そんなの今さらだ。
ずっと理由がわからないことだらけだもの。
だけど、確かにユーベルは私に感謝してきた。
――あの子達を傷付けずにいてくれて、ありがとう
ユーベルは、確かにそう言った。
あれはきっと嘘ではない、と、思いたい。
レーツェルさんはわからないけど、ユーベルはプッペお嬢様たちを傷付けない。
確認の問いに対して、ヒューノットは沈黙したままだ。
視線を足元に落としていて、その表情はどこか不機嫌そうにも見える。
そしてシュリもまた、何も言わなかった。
肯定も否定もしない。
「……ええと、入るってことで……いいかな?」
どうして、ふたり揃って黙っているのか。
居心地が悪くて、ついつい一足先に門をくぐってしまった。
ヒューノットが続き、最後にシュリが私たちに向き直る。
だけど、踏み込まない。
一度は落ち着いた風が、またゆっくりと黒衣を揺らし始める。
門の内側に入った私とヒューノットが振り返ると、シュリは小さく頷いた。
風は、さっきとは反対方向だ。門の中に入り込んでいた風が、今は外に吹いている。
「──ヤヨイ。卑怯な我々を、どうか許して欲しい」
それは、さっき聞いた言葉だ。
どうして、そんなことを強調するのだろう。
そう思ったとき、急に風が強くなった。
唸るような音と共に激しく吹き荒れ始めて、目が痛いほどだ。
思わず目を閉じてしまった直後、門が勢いよく閉じられた。
続いてガシャンッと施錠される音が響いて、思わず肩が跳ね上がる。
「すまないね、ヤヨイ。我々には君の選択を利用して、彼らを人質にするしか方法がない。現時点ではそれが最良だ。ユーベル・フェアレーターは彼らを傷付ける事を、決して良しとはできないのだからね。──ああ、判断材料を少し足した方がいいかもしれない」
門の向こう側で、シュリは微笑んだ。
猫を模した仮面の目も、笑ったような気がする。
「──ヤヨイ」
「プッペは、"ユーベルの娘"なのさ」




