67.正当が常に正義であるとは限らない
「──……"王様"はね、地上で生まれてはならないんだ」
シュリの声が頭に入り込む。
だけど、今は話の意味までは理解できない。
私の理解が追いついていないのに、それでもシュリは言葉を続ける。
「本来なら、空に生まれなければならなかった。"彼"はそもそも、空のモノだ」
まるで歌うように、奏でるように、朗読するかのように、読み聞かせているかのように。
シュリの声は淡く続いて、その言葉は当然のように流れていく。
私に話しかけているというよりも、どこか独り言のようでもある。
「私は、許してしまったんだ」
静かに紡がれる言葉が、ゆっくりと耳に届く。
ヒューノットは、何ひとつ声を発さないままだ。
まるで、それこそが役割であるかのように沈黙を守り、シュリの言葉を聴いている。
私のように、呆気に取られているわけではない。
「幼い弟を奪われた彼女が、空へ帰る筈だった星の子を連れ戻す事を見逃した──軽率な誤算さ」
「ちょ、ちょっと待ってよっ」
ハッと我に返った私は、慌てて制止の声を上げた。
シュリは気を悪くした様子もない。
ただ、口許で笑って頷くと、そのまま言葉を途切れさせた。
ゆっくりと息を吸う。
変に乱れた鼓動は、まだうるさいままだ。
「それって、どういうことなの、ツェーレくんはもう……」
既に、亡くなっている、という意味なのだろうか。
だけど、レーツェルさんの計画にはツェーレくんが必要不可欠だ。
ツェーレくんがいないのなら、そもそも成り立たない。
レーツェルさんに別の弟がいるというのなら、話は別だけど。そんなことはないだろう。
「──そうとも」
シュリはゆっくりと片手を持ち上げて、パチンッと指を鳴らした。
舞い上がった風のせいで反射的に閉じた目を開いたときには、雪景色に変わっている。
周囲を見回せば、そこが例の丘だとわかった。
遠くには、教会のような建物が見えている。
戸惑う私の視線を、シュリの指先が誘導した。
「……あっ」
細い指先が示す方へ視線を向けると、そこにはひとつの墓石があった。
文字が刻まれてはいるけど、知っている言語じゃないから読めない。
たぶん、名前だろう。それと、生まれた年なのかな。
シンプルな、白い石の墓標。きれいにはされているけど、さびしい印象は拭えない。
丘の端にぽつんと取り残されているせい、だろうか。
「──言っただろう? 彼は、正当な星の後継者。地上にいられた年月は、たかだか片手で事足りる程度さ。傍らの静寂で安寧を得る事こそが願いであり救いの……悲嘆の子さ。本来なら、空で祝福に包まれる筈だった」
墓石の前に膝をついたシュリは、僅かに丸みを帯びた墓石の頭をゆったりと撫でた。
ヒューノットは、ただ黙って見つめている。
青と銀。色違いの目が見ているのは、墓石──ではなくてシュリのようだ。
私は墓石へ視線を戻して、胸の奥に溜まった空気を吐き出した。
認めたくなかったけど、これはツェーレくんのお墓なのだろう。
ツェーレくんはもうずっと昔に亡くなっていて、レーツェルさんが生き返らせた、ということか。
そして、それを──どんな形かは、わからないけど──シュリが出助けした。
いや、シュリのことだ。
積極的に手を貸したわけではない可能性の方が高い気がする。
「いずれにしても同じ事さ。彼は、地上では長く生きられない。いつしか失うのなら永遠を得る為の器に溶かし込もうとしたレーツェルの気持ちは、全くもって分からないものでもないさ。だからといって、許されるものでもない事もまた確かではあるけどね。結局のところ、ツェーレの未来は閉ざされてしまう」
立ち上がったシュリが私に向き直ると、ヒューノットの視線もこっちに向いた。
シュリの表情は、仮面のせいで全くわからない。
かといって、顔を晒しているヒューノットの方も、何を考えているのかなんて読み取れないけど。
「つまり、レーツェルは弟を奪うこの世界を必要としていないのさ」
シュリは、事も無げに言葉を放った。
ツェーレくんの生存ルートが全くないのなら、レーツェルさんにとってはそうなるのかもしれない。
だけど、あまりにも乱暴な結論だ。
「ユーベル・フェアレーターもまた、空から星を奪う姉弟の存在を排除したい」
シュリが再び指を鳴らせば、周囲の景色はひと瞬きの間に入れ替わる。
平原がいろんな場所に繋がっているというよりも、シュリが繋げているという印象だ。
まあ、シュリ自身が境界の鍵を飲み込んだとか言っていたから、あながち外れでもないだろう。
「──これは単なる憶測に過ぎないが、恐らくは最も真実に近い推測だとも。あの二人が互いを異質で排除すべき存在であると見做していると仮定すれば、まず間違いない。双方の利害は、一致しているのさ。世界を二分するまでもない。彼らはこの世界の運命そのものを引き裂いて、未来を塗り替えようとしているのだろうね」
シュリの言葉には、あまり強い感情は滲まない。
あくまで、客観的な第三者の説明という空気だ。
ただ、どちらかといえば、意図的に感情をセーブしているような気がする。
とにかく、レーツェルさんとユーベルが手を組んだ可能性は極めて濃厚なようだ。
「……そのせいで、こっちもおかしくなってるの?」
画廊のクレヨン画も、平原の光景についてもそうだ。
平原に至っては、モドキのせいかもしれないけど。
だとしても、もとはといえばレーツェルさんのせいだ。
「恐らくね。とにかく──彼女達がどのような手段を取るかは不明だが、我々に狙いを定めた事だけは確かだろう。彼女達にとって必要なものを我々が持っているのだからね」
そう言うと、シュリはゆっくりとヒューノットに顔を向けた。
ヒューノットは少し意外そうに目を丸くしたけど、すぐにふいっと顔を背けてしまう。
思春期か。照れてるのか。
「──彼女達が手を組んだ以上、我々も手段を取り纏めておく必要があるだろうね」
シュリはどこを見ているのだろう。
ヒューノットの目、かもしれない。
「……対抗手段なんて、あるの?」
ユーベルはともかく、レーツェルさんの目的は明確だ。
だけど、シュリの言う通り、何をして来るのかはわからない。
モドキのあれは、いわば宣戦布告だった可能性もある。
ヒューノットをターゲットにしたのは、戦意喪失を狙ったのかもしれない。
私も同じようにヒューノットを見る。
すると、シュリは笑みを浮かべた。
「もちろんだとも、ヤヨイ。だから……そうだね。君には申し訳ないが、どうか選択権を手放さないで欲しい」
「うん、それは大丈夫だよ」
大丈夫ではないけど。
平気というわけではないけど。
だけど、ここまで来て、放り出すなんてできそうにない。
レーツェルさんを野放しにして、私が無事でいられる気もしない。
それに、今だってツェーレくんを助けたい気持ちは確かにある。
「私の選択次第で、未来が変わるんだよね?」
「そうさ」
「だったら、これから新しい未来だって生まれるよね?」
「その可能性はあるとも」
それなら、やっぱりまだチャンスはある。
ルーフさんだって助かったのだから、ツェーレくんだって救える可能性がないわけじゃない。
プッペお嬢様のことも、バッドエンドになんてさせたくない。
シュリの肯定に頷いたとき、ヒューノットが「ヤヨイ」と名前を呼んできた。
あまりにも唐突で、反応が少し遅れてしまう。
「……忘れるな。すべての願いを叶える事は出来ない」
びくっと肩が震えた。
それは前に、言われたことのある言葉だ。
ハッピーエンドとは、何か。そう聞いたときに、ヒューノットは「そんなものはない」と言い切った。
全員の願いを叶えることは、できない。
――守りたければ、手の届く範囲にしろ。腕を広げすぎるな。身の程を知らなければ、全てを失う事になるぞ。
あのときの、ヒューノットの言葉が、声が、頭の中によみがえる。
頷くことさえできずにヒューノットを凝視していると、シュリが軽く腕を広げた。
「ヒューノットの言う事は尤もだ。ヤヨイ。どうか無理はしないで欲しい。選択とは、そういう事さ。どちら一方を選ぶのであれば、どちら一方を選ばないという事だ。抱く願いが同一ではない以上、光を当てれば影となる場所が出来るのは止むを得ない。どうか取捨選択を躊躇しないで欲しい。例えばもし、我々のどちらかを選ばなければならない時は──」
さらさらと、黒髪が仮面に触れながら揺れる。
通り抜けていく風は、とても静かだ。
「──ヒューノットを選ぶといい」
それは度々言われることだ。
シュリはいつも、自分ではなくヒューノットを選べと言う。
「だめだ」
しかし、今はヒューノットがそれを拒絶した。
「ヒューノット。わかってくれないか。仕方ないだろう?」
シュリが困ったように言うけど、ヒューノットは頷かない。
あのとき。
シュリを食べようと大きく開かれたバケモノの口に、肩ごと右腕を差し込んで止めたのは彼だ。
そして、シュリを選ぶように懇願してきた。
姿が見えなくなったとき、探してくれと頼んできたときも同じだ。
ヒューノットは、繰り返せないシュリをずっと気にしている。
「……ふざけるなよ」
苛立ちを隠さないヒューノットは、見ているだけで背が震えてしまうくらい怖い。
目つきの悪さもそうだけど、とにかく強いことを知っているから余計に怖かった。
さすがに、殴りかかってくることはないだろうけど。
「悪いね、ヒューノット。これはヤヨイに託す選択だ。ケースバイケースだとは言えるが、我々が口を挟む事ではないのだよ。そして、私は私の思う最善を推奨しているに過ぎないのさ。……すまないね、ヤヨイ。君にしかお願いできない事なんだ」
シュリの調子は相変わらずだ。
自分のことになんて、まるで頓着していない。
むしろ、そのせいでヒューノットが気を揉むことになっている気がする。
そうなると、ヒューノットは振り回されキャラなのか。意外だ。
「……うん。わかってるから、大丈夫だよ」
最善の選択ができる──とは、言い切れないけど。
ヒューノットとシュリ。ふたりが、それぞれに言いたがっていることは理解できる。
やっぱり、このふたりは、互いに相手が大切なんだろう。
「ありがとう。──さて、では我々も動かなくてはならないね」
ゆっくりと頷いたシュリは、ぐるりと周囲を見回した。
ヒューノットはまだ少し物言いたげにはしているけど、シュリの言葉を遮ることはしない。
「うん、でも、どうするの? レーツェルさんたちを、こっちに連れ戻すの?」
少なくとも、今は現実世界にいるわけだ。
とにかく、こっちの世界に戻って欲しい。
問いかけると、シュリは静かに頷いた。
「そうだね。だが、簡単に実行可能だとは思えないな。彼女が我々の話に耳を傾けてくれるとも考えにくい」
「……う、うん。まあ、そう、だよね」
確かに、もう今さら話し合いで解決という感じではなさそうだ。
そもそも、傍観者である私や案内人のシュリは、レーツェルさんに恨まれていると思って間違いない。
私たちの話どころか、呼びかけにも応じてくれるとは思えない。
頼みの綱はヒューノットだ。
だけど、モドキを使って強引な手段に出たことを考えれば、やっぱり説得は難しい気がする。
まあ、ヒューノットが交渉なんてできるとは思えないんだけど。
イメージでしかないけど、不得意そうだ。
「君の世界で暴れる訳にはいかない。しかし、境界も随分と乱されていてね。全く機能していない訳ではないが、強固さは失われている。絶対的な不可侵を確約できない事だけは確かだとも。幾らか影響が出てしまう可能性は高い」
「……つまり?」
「今や、境界は扉でも門でもない。殆ど自由に出入りが可能だと思って欲しい。彼女を連れ戻したところで、もはや丘に閉じ込める事すら怪しいという訳さ」
たとえこっちに戻しても閉じ込めておけないから、また同じことが繰り返されるかもしれない。ということか。
境界が機能していないことが、鍵を飲み込んだシュリに影響してなければいいんだけど。
ちらりと様子を見てみる。
だけど、シュリはいつも通りだ。
まあ、わかりやすく態度に出してくれるとも考えにくい。
だから、そういう意味でヒューノットはシュリを信用していないのだろう。
「つまり、現時点においてレーツェルを抑制する直接的な方法はないというのが、私の正直な意見さ」
「そんな……」
「大丈夫さ、ヤヨイ。ならば、見方を変えればいい。接触不能な領域が多いとしても、難攻不落という訳ではない。必ず、綻びがあるものだからね」
私はちょっと困惑したけど、シュリは余裕そうだ。
何か策があるのなら、さっさと言って欲しい。
ヒューノットはどう思っているのか。
一度黙り込んでしまうと、一言も放とうとはしない。
「この場合、レーツェルに干渉できないのだと仮定して除外したとしても、綻びとなる可能性はまだ二点ある」
「……ツェーレくんと、ユーベル?」
「そうだとも。ユーベル・フェアレーターは表立って行動を起こしていない。勿論、裏で手ぐすねを引いている可能性は否めないが、彼女ほど我々に対して優位に立っていない事は確かだ。どのような協力関係にあるのか、何を与えて何を得ているのか。そのあたりが不明である点は不安だけどね」
シュリは、まるで知っているかのように言葉を口にする。
対になっている存在だと言っていたけど、やはり色々と知っているようだ。
だけど、だからといって狙いやすいとも思えない。
レーツェルさんは底知れなさがあるけど、ユーベルだって得体が知れない。
ツェーレくんに手を出したくないのは、確かだけど。
「……シュリュッセル」
ヒューノットが急に声を出した。
苛立っている様子ではないけど、眉間には皺が寄っている。
「悠長に手を拱いている暇はない。気は進まないが、打てる手は打ちたい。何せ、ユーベル・フェアレーターの不可侵は我々の手の中にあるのだからね」
「……」
ヒューノットは何も返さなかった。
ただ黙って、シュリを眺めている。
確かに何か手段があるのなら、できるだけ試したいところだ。
だけど、それがどんなものなのかは、知っておきたい。
やがて息を吐き出したヒューノットは、私に向き直った。
「行くか、行かないか」
「えぇ?」
急な選択肢の提示に、わかりやすく戸惑ってしまった。
いっそのこと、懐かしくすら感じるシンプルな選択肢だ。
しかし、ヒューノット自身も渋っているのだろう。
私の困惑に対して、苛立ちを見せずに口を噤んだ。
「行くか、どうかって……どこに?」
戸惑いのままに聞いてみたけど、ヒューノットはシュリに向かって顎先をしゃくっただけだ。
私には、何の答えも返してはくれない。無視かよ。
「ここさ」
変わりに声を返したのは、シュリだった。
再び指を鳴らした音がしたかと思えば、あっという間に景色が一変する。
「──……え」
眼前には、私の背丈よりも遥かに高い門扉が開かれたまま止まっていた。
そして門からは、規則正しく敷き詰められたレンガの道が、建物に向かっている。
道の両脇には花が整然と植えられていて、雑草なんて一本たりとも生えていない。
「入るか、入らないか」
ヒューノットの声が聞こえた。
見間違えるはずもない。
ここは、プッペお嬢様の館だ。




