66.適切な愛
「──ヒューノット!」
一瞬の静寂を引き裂いたのは、シュリの声だった。
私を抱き締めたまま、珍しく焦った声を上げている。
だけど、私はろくに動けないままだ。
震えるばかりで、身体どころか足さえも動いてくれない。
瞼越しでもはっきりと感じられていた光が、ゆっくりと落ち着いていく。
痛みだと錯覚するほど強い光が消えれば、少しずつシュリの腕から力が抜けた。
「……?」
そろりと顔を上げれば、白く染まったままの景色が目に入った。
シュリの髪やローブの黒色だけが、妙に浮いて見える。
状況がわからなくて、自然と眉間に皺が寄った。
「っあ」
ふわりと、シュリの腕が、そして身体が離れる。
私から離れた身体は白い草の上を駆けて、ヒューノットのもとへと向かう。
周囲にモドキの姿はなく、枯れたように白くなった草原が広がったままだ。
そしてヒューノットが、その場にうずくまって片手で目元を押さえ込んでいた。
ぞっと背が震える。
目。
光。
「……っ」
ルーフさんを連想してしまい、慌てて首を振る。
ヒューノットの傍らに膝をついたシュリは、その背をさすりながら顔を覗き込んだ。
あんな風に慌てているシュリなんて、見たことがない。
何が、起きているのか。
怖くて、近づくことができない。
「ヒューノット、痛むのかい? お願いだ、どうか見せて。顔を上げて欲しい。見せてくれないか、お願いだから」
シュリの声だけが風の中に落ちる。
その身体が重なって、ヒューノットの様子はきちんと見えない。
ただ、顔を上げたその顎から、赤い液体が滴り落ちていることは確かだった。
「っ、ヒューノット……大丈夫?」
思わず小さく息を飲んだあと、少し遅れて傍に寄ってみる。
すると、ヒューノットは煩わしげに手を振った。
「うるさい。大げさにするな」
声は震えておらず、いつも通りに苛立ったものだった。
そのことに、ほんの少しだけ安心してから首を振る。
シュリは、私を見たあとで再び彼の顔を覗き込んだ。
よくよく見れば、ヒューノットの目から血が出ているとわかった。
少しにじんだ程度、ではない。
流れ落ちるほど、大量だ。
「少しだけ辛抱してくれるかい、ヒューノット」
「……ああ」
足元の白い草が赤々と染まっていく様子に息が詰まる。
そんな私を肩越しに振り返ったシュリは「心配いらないよ」と口許で笑った。
私も動揺しているけれど、シュリだって平気ではないはずだ。
何とか頷きを返すと、シュリはゆっくりとヒューノットに向き直って顔を近づけた。
片手で濃紫の前髪を持ち上げて晒した額に、ゆっくりと唇が触れる。
その瞬間、真下からふわりと柔らかい風が持ち上がった。
「──っ」
風が頭の上まで通り抜ける頃には、ヒューノットの身体にあった細かな傷も外套の汚れもなくなっていた。
本当に、たったひと瞬きの出来事だ。
ただ、足元に広がる赤色と、ヒューノットの肌を汚す赤色だけは残っている。
「……大丈夫?」
「問題ない」
頬から顎にかけて滴っていた液体を乱雑に拭ったヒューノットは、その言葉通りにしっかりと立ち上がった。
膝をついていたシュリも立ち上がるけれど、その手は再び彼へと伸ばされる。
細い指先がそっと触れたのは、ヒューノットの目元だった。
指の腹で、するりと肌をなぞっていく。
「……あっ」
傷は癒えたのではなかったのかと視線をシュリの指からヒューノットの目まで持ち上げる。
すると、そこにあったはずの青色がなくなっていた。
深い青色だった瞳の片方が、白のような灰色のような──いや、銀色に染まっている。
それは、ルーフさんの瞳と同じ色だ。正確には、星が瞳に宿っていた頃の、色。
光の入り具合で色合いが少し変わるけど、同じ色だといって差し支えがないだろう。
驚いた私の声に反応を示したヒューノットは、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何だ」
ヒューノットの青と銀の瞳が、目元に触れているシュリにも向けられる。
シュリは数秒だけ黙って、それからゆっくりと息を吐いた。
仮面の向こう側に隠された表情は、想像もできない。
「どうやら、──……星に、侵されたようだ。まだ、片方だがね」
シュリの声は、意外と冷静だった。
静寂を引き裂いたときのような、焦りと不安が混ざった声ではなくなっている。
だけど、努めて、そのように振舞っているようにしか思えなかった。
ぐっと感情を押し込んでいるような、そんな様子に見えてしまう。
「……そうか」
「視界に違和感はないかい? 異物感や、痛みなどは……」
「……いいや。今のところ、問題ない」
ヒューノットの受け答えは淡々としていて、声の調子も含めて確かにいつも通りだ。
だけど、そのまま問題がないものとして受け取っていいのかは、微妙なところだと思う。
シュリもそうだけど、ヒューノットもそういう類のことは隠してしまいそうだ。
なんて厄介な人たちなんだろう。
私は、本当にただ文字通り、傍観者としてふたりを眺めていること以外は何もできない。
確かにルーフさんが普通に過ごしていたことを思えば、今のヒューノットは痛みを感じていないのかもしれない。
だけど、確実にそうだとも言えない。
そういうあたりについては、信用できなかった。
「──これでより明確になった。やはり、彼女の狙いは我々のようだね」
ゆっくりと腕を下ろして私に向き直ったシュリは、深い息を吐き出して肩を竦めた。
より正確に言うのなら、私たち三人だ──というのは、シュリが言ったことだ。
「あの、あのさ。それって、結局どういう……」
戸惑いがちに口を開いた。
ちらりとヒューノットを見るが、特に何も言ってこない。
それどころか、そもそも私を見てすらいないけど。
「そうだね……新たな未来の矛先は未知数だが、未来を芽吹かせた原因は明確だ。選択肢の示す先を変えた事による枝分かれだ。つまりね。少なくとも、ヤヨイとヒューノットは欠かせないという事さ。君が選び、彼が実行する。私は君と彼を繋ぐ鍵を持っている訳でもあるから、ついでに範疇に入ってはいるだろうね」
ついで、と言えるのかどうか。
レーツェルさんは、ツェーレくんの生存ルートを探している。
もし、それがないのなら、彼女にとってこの世界は必要のないものだ。
だから、あちらの世界を──現実世界を乗っ取ろうとしている、というのは、まあ、理解できている。
「……シュリの鍵とか、プレイヤーの選択権を奪う、ってこと?」
「その可能性が高いだろうね。だが、ヤヨイと私の場合はそれが役割であって、全く譲渡できない訳ではない。その点、ヒューノットは少し毛色が違う。彼の役割や力は、彼自身のものだからね。だから、器に入れ込もうとしているのだろう」
確かに、プレイヤーだったら他にもいる。私じゃなくてもいい。
シュリが飲み込んだ"境界の鍵"がどういうものか知らないから、他の人に譲れるモノなのかはわからないけど。
ヒューノットの強さはヒューノット自身のもので、プレイキャラかどうかというのは関係ない、ということか。
「レーツェルさんは、ヒューノットが欲しい、ってこと?」
だから、モドキがいたのか。
入れ替わりを企んでいたのか、そもそもモドキをヒューノットの後釜に据えたかったのかはわからない。
まあ、どちらにしても、ヒューノットを自分側につかせたいことは確かだろう。
傍観者に、ヒューノットの解放を求めたのだから。
「正確に言うのなら、ヒューノットの存在自体といったところだろうか。或いは、スキルそのものか。とにかく……彼の能力は突出している。だが、……そうだね。実に厄介だ。ピースの表裏も形も全て把握されてしまったのなら、我々にとってはあまりに不利な状況になっているのだからね」
「……ええと……どういうこと?」
戸惑いがちに問いかける。
シュリは、いつものように即答しなかった。
そんなシュリの様子に違和感を覚えたのは、私だけではなかったようだ。
ヒューノットも訝しむように、眉を寄せて視線を向けている。
平原を流れる風はとても静かで、ヒューノットやシュリの衣を小さく揺らして抜けていく。
「……レーツェルは、空の秩序を知ったと考えられるのさ。そして、その手元には王の器が取り残されている。器の為には星が必要だが、空さえ手に入れば星など幾らでも落とす事が可能になってしまう。地上と空の分離は、結局のところ世界の崩壊を示していてね。我々は同じ轍を踏む訳にはいかないんだ」
「ちょ、え、なに、それ、どういうこと……?」
「災厄と罪人が手を組んだという意味さ」
あまりにもさらりと言われてしまって、理解が追いつかなくなる。
災厄と罪人──ユーベルとレーツェルさんが、手を組んだ。
「──馬鹿な」
先に声を出したのは、ヒューノットだった。
眉間に皺を寄せながら、理解し難いと言いたげにシュリを見つめている。
シュリは私とヒューノット、それぞれに視線を向けたあとで、静かに頷いた。
「推測だが、正しい筈だとも。彼女達はそれぞれ離反する為に、互いに利用価値を認めて手を組んだ可能性がある」
「待って、待ってよっ。ユーベルは世界を終わらせたくて、レーツェルさんは世界を変えたいんだよね?」
ユーベルの目的は、あくまで世界に終焉を招くこと──の、はずだ。
そして、レーツェルさんは手段のために、つまりはツェーレくんの生存ルートを作るために行動している。
世界を放棄するつもりだって話は、確かにされたけど。
だけど、ふたりの目的が同じように重なるとは思えない。
「そ、それに、ユーベルのせいで、レーツェルさんたちの歯車が狂ったって……っ」
そう、そのはずだ。そして、それを言ったのは、シュリだ。
空から星を奪ったレーツェルさんと、星を空に返さなくなったツェーレくん。
あの姉弟が星を返さずに隠したせいで空が怒り、そして世界が滅亡した。
ぐるぐると思考が巡って、きちんとまとまらない。
「――"レーツェルは、この世界に"統率者"を生み出そうとしている"」
頭が働かない私を前に、シュリは静かに言葉を紡いだ。
それはまるで歌うようでもあって、どこかで聞いた調子でもあった。
「"星を落とす大罪人を裁く為でもあり、自分達の世界を元に戻す為でもあり、祈りを捧げて繋ぎ止めていた全てを守る為でもある"」
シュリの言葉をじっと聴いているのは、私だけじゃない。
ヒューノットもまた、答えを求めて耳を傾けているように見えた。
「ユーベル・フェアレーターは、その名が示す通り災厄そのものだ。この世界にとっては終焉を齎す為の存在でもあり、空にとっては秩序そのものだ。だが、乱された秩序に意味も価値もない。裁きが下されるべきは罪人に対してだが、それはつまり裁く者に同等の罪を背負わせる行為でもある。災厄は空を染め上げ、罪人から唯一を奪い去った。空が取り落とした星の子を、地上に繋ぎ止めようとした挙句の悲劇だとも」
シュリの口から溢れていくのは、決まり切った台詞のような言葉たちだ。
最初の頃に聞いた、テンプレートを並べるだけのような、そんな口振り。
「……星を叩き落して空を崩落させたのは、他ならないユーベル・フェアレーターの所業だ。だが、崩落に至る理由を作り上げたのはレーツェルである事には違いない。彼女は罪の自覚を胸に抱いたまま、星の後継者を器に押し込めようとしたのだからね」
シュリは、どこを見ているのだろう。
白に染まった草原の果てへと視線を投げているようだ。
仮面に隠された表情は、全くわからない。
「……レーツェルさんが、星を落としたから空が怒ったんだよね?」
星の後継者──弟であるツェーレくんを理想の王様にするために、レーツェルさんは星を落とした。
ツェーレくんは、地上に落ちた星を返す役割を持っている。
だけど、その役割は姉であるレーツェルさんに許されなかった。
星を奪われた空が怒って、それで。
「……それで、どうしてユーベルが……」
秩序、といったのだったか。
視界の端に白い草が散って流れていく様子が入り込む。
風はまっすぐに流れて、シュリの黒いローブを揺らしている。
「──空にとって、彼女は秩序そのものだからさ」
シュリの声は透き通っていて、とても聞き取りやすい。
歌うように、当然のように、事実を並べるだけのように淡々と、ただ、言葉を紡ぐ。
災厄と、秩序。
かけ離れたそれらが、私の中ではうまく結びついてくれない。
「ユーベル・フェアレーターは、空の秩序そのものだ。言っただろう。乱された秩序には意味も価値もない。彼女は空の崩落を招き、この世界を崩壊へと導いた災厄そのものでもあるのさ。そして私は──」
言葉の途中、急にヒューノットが手を伸ばした。
シュリの手首を捉えた彼は、険しい表情を浮かべて首を振る。
ふたりが互いに見つめ合ったのは、たった数秒だ。
やがて、シュリは口許でゆったりと微笑んだ。
そうすれば、ヒューノットは諦めたように手を離した。
ただゆっくりと、シュリから離れていくヒューノットの手は、どこか躊躇っているようでもある。
宙に留まる彼の手と、再び私を向いたシュリ。
ヒューノットは、何も言わなかった。
「聞いてくれ、ヤヨイ。どうか、覚えておいて欲しい──私は、シュリュッセル・フリューゲル。境界の守り人。世界の案内人。だが、元は地上の安寧にして、空の断罪者でね。そして──」
シュリの声が、静かに響く。
「──ユーベル・フェアレーターとは、対の存在だ」
その瞬間、脳裏にはあの噴水が過ぎった。
噴水を守るように、噴水に守られるように、立っていた白い石像。
赤ん坊に触れるふたりの。
ふたりの、姿。




