65.憐憫の声
「……何、これ」
中央が割れるように開いた扉の先にあった平原は、真っ白に染まっていた。
ヒューノットがいた街みたいに、白色しか存在が許されていないかのようだ。
だけど、踏み出しても草の音がするだけで、雪はどこにもない。
本当にただ、白くなってしまっているようだ。
「――さあ、ヤヨイ。ヒューノットを呼んでごらん」
驚いて固まっている私の背を叩いたシュリは、あくまで普段通りだ。
振り返っても、当然ながら仮面のせいで表情は読み取れない。
シュリがあまりにも平然としているから、驚いている私の方がバカっぽい。
「え、ええっと」
呼べと言われても、どうすればいいのか。
戸惑う私に、シュリは口許に笑みを浮かべた。
「何も難しい事はないとも。呼べば良いだけさ。呼び起こされた方が正しいとも限らないが、ならば正してしまえば良いだけの話なのだからね。何事も、中身はシンプルなものさ――おっと、それは持っていてくれるかい? 今の君には、必要なものだろうから」
言葉を繋げていたシュリが急に両手を挙げる。
何事かと思った私は、自分の手が硬いモノに触れていることに気がついた。
首に掛けたシュリのネックレス。心臓の入った銀の鳥篭。それを、握り締めている。
慌てて手を離せば、ちょっとした重みが首に掛かった。
首から掛けていたのだったか、ポケットに入れていたのだったか。記憶が、少し曖昧だ。
そもそも、触れている自覚なんて全くなかった。
奇妙な感覚を覚えながら、おずおずとシュリを見る。
「……あ、あのさ」
「何だい?」
「前にも思ったんだけど、シュリは呼ばないの? ヒューノットのこと」
ユーベルに襲われたときもそうだ。
シュリは、私にヒューノットを呼ぶように言った。
今もそう。何か、意味があるのだろうか。
しかし、シュリはいつものように小さく笑っただけだった。
「君が呼ぶよりほかにないのさ。ほら、ヤヨイ。ヒューノットを呼んでごらん」
まるで、それが定められた台詞であるかのように言い放たれる。
白に染まった平原には、他に誰もいない。
扉が見えているわけでもなければ、塀に囲まれた街が遠くに見えるわけでもない。
ひどく、寂しい光景だ。
ええい。どうにでもなれ。
「……ヒューノット――!」
大きな声を上げて空を見上げると、空自体がなくなっていた。
空の中央。ちょうど私たちの真上にあるのは、くり貫かれたような穴だ。
ぽっかりと開いた穴の向こう側は、黒とも紫とも言えない妙な色が広がっている。
何だ、何が起きているんだ。
ぞわりと背が震えた瞬間、目を開けていられない程の突風が吹き荒れた。
足元の、白く染まった細かい草が飛ばされていく。
「――ちょっ」
反射的に風除けにした腕を少し下ろすと、風にはためいている黒い外套が見えた。
まるで真上から飛び降りて来たかのようだ。
青い瞳が、真っ直ぐにこっちを見ている。少し鋭い目元。そして、濃紫の髪。
それは確かに、ヒューノットの姿をしていた。
「……なんでっ」
だけど、違う。
深い紫の髪が、長い。
「お前じゃなくてッ……」
私はヒューノットを呼んだのに。
意味がわからなくて、思わず声を上げた私の前にシュリが進み出た。
そして、いつ手にしたのか。銀色の剣を構えて、外套の主――ヒューノットモドキに、突きつける。
今はモドキの姿がきちんと見えているようだ。あのときとは、違う。
ただ、ヒューノットの姿は、どこにもない。
私が戸惑っていると、シュリは事もなげに「やっぱりね」と肩を竦めた。
「やっぱりって……」
どういうことだ。
シュリは、こうなることを予測していたのか。
何が起きているのか。わからない。
ヒューノットの"器"がいるということは、本物のヒューノットはどうなってしまったのか。
まさか、とは思うけど。
有り得ない、とは思うけど。
あのヒューノットが、負けるはずない、とは思うけど。
だけど、さっきは少し劣勢だったようには見えた。
「――ヤヨイ。よく聞いてくれるかい?」
落ちかけていた視線を持ち上げる。
シュリは、私を背に庇ったまま、振り返りはしない。
「早々にヒューノットと合流しなければならない。彼を呼んで欲しいんだ」
「で、でもっ」
呼んだ結果、目の前に現われたのはモドキの方だ。
モドキは、シュリから数十歩ほど離れた場所に立っている。
いつ飛び掛ってくるかもわからない。
「言っただろう? 彼は、……ヒューノットはまだ、選択肢から完全に解放されてはいない」
「そ、それはいいけどっ、じゃ、じゃあっ、どうしたらいいのっ?」
「すまないね、ヤヨイ。私からは、君に――傍観者に指示する事など出来ないんだ」
つまり、自分で考えろっていうことか。
そんな無茶な。
ずり、と音がする。
モドキが草の上で僅かに靴裏を滑らせ、少しだけ体勢を低くしていた。
今にも駆け出しそうな、あるいは飛び掛りそうな、そんな様子だ。
シュリは、剣を突きつけた姿勢のまま動かない。
「――さて。君の相手は私だよ。姿見は大人しく真実を映していれば良いのに、これではまるで人形劇だ。手繰る糸の先に誰がいるのか。興味はあるが、生憎と追求するだけの時間はなさそうだね。君に喉があれば話は別だが、まさか声まで彼から奪ってはいないだろう? いずれにしても、姿見としてはあまりにもやりすぎだ」
シュリはモドキを、姿見だと言い切った。
もしあれが鏡だというのなら、そっくりなのは見た目だけなのか。
だけど、あんなにもよく似ているのに、髪だけが違う。むしろ、不自然だ。
考えていると、シュリが肩越しに振り返った。
その口許に、ふっと笑みが浮かんだ。
「……シュリッ」
シュリが私を見ていたタイミングで、モドキが駆け出した。
たかだか、数十歩程度の距離しかない。
ふたりの間に開いていた空間は、一気に狭くなった。
瞬き程度の、あまりにも一瞬の出来事だ。
「――っ、ヒューノット!」
モドキが腕を大きく掲げる。
長い指の先では、鋭い爪が空気を裂いていた。
全身がぐっと強張って、一瞬で走った緊張のせいで背中が異様に熱くなる。
痛いくらいに、心臓が暴れ始めた。
「ヒューノット! ヒューノット助けてっ、早く来てヒューノットっ!」
また、だ。
これでは、ただの繰り返し。
また、シュリがモドキにやられてしまう。
ふとヒューノットの言葉が頭を過ぎった。
シュリは、やり直せない。シュリだけは、無理だと。
どうか助けてくれ、探してくれと、懇願する声も覚えている。
私は、両手で耳を塞ぎながら、ひたすらに声を張り上げた。
前を向くシュリの黒髪が揺れる。
その手が握る剣の先は、動かない。
いや、ほんの少しだけ震えていた。
モドキの腕だけが大きく動く。
不自然なまでに、すべての動きがスローモーションのようにゆっくりと見えた。
斜めに、振り下ろされる腕。
耳に届くのは、空気を裂いた音。
「――っ!」
咄嗟に顔を背けた直後、周囲に響き渡ったのは金属音だった。
耳に痛いくらいに大きく、そして鋭く響いた耳障りな音。
頭の奥までキーンと音の余韻が残る。
それは、本当に一瞬だったのだろう。
「ヒューノット!」
顔を上げた瞬間、目に飛び込んできたのはモドキの一撃を受け止めたヒューノットの後姿だ。
押し退けられたらしいシュリの傍に駆け寄ると、その手元に剣はなかった。
銀の剣を握っているのは、ヒューノット。
「え、えっ、い、いつのまに、ヒューノット……」
「うるさい。何度も呼ぶな。煩わしい」
「えぇぇ……」
ヒューノットは相変わらずだった。
金属同士の擦れる、何とか嫌な音が響いた直後、モドキが大きく跳ね上がって距離を取る。
そしてヒューノットは、改めて剣を構え直した。
外套はやっぱり汚れていて、髪も乱れた状態だ。
顔は見えていないけど、きっと、ケガも治っていない。
「……シュリュッセル。お前もお前だ。わざと、避けなかったな」
私に向けるよりも、少し優しく聞こえる声がシュリを呼ぶ。
シュリは白い草の上に尻餅をついた体勢のまま、やれやれとばかりに肩を竦めた。
「――さてね。どうだろう」
「ふざけやがって」
「正しい道筋ならば、選ぶ方が適切だろう?」
「クソが」
シュリは、悪びれた様子もなく小さく笑った。
わざとかどうか、それはわからないけど。
でも、シュリが自分で動きを留めていたのだろうと、そっちならわかる。
剣先が少し震えていたのは、きっとそのせいだ。
まあ、私は私で、そう見えたような気がする、というだけで、実際にどうだったかの自信はない。
ヒューノットは返答に対して苛立ったようだけど、呆れの方が強い様子だ。
「……シュリ、大丈夫だった?」
「問題ないよ。ありがとう」
立ち上がるシュリの腰に手を添えると、細くてびっくりした。
これでヒューノットに突き飛ばされたのなら、確かに勝ち目もなさそうだ。
私の肩にやんわりと触れたシュリが、少し大股にヒューノットへと近付いていく。
留まれと言われたような気がして、私はその場から動けなかった。
「――ヒューノット」
「分かっている」
「なら、話は早い。ここは一旦引くべきところだよ。それも分かっている筈だ」
「……同意しかねる」
「ヒューノット」
何だか、ヒューノットの様子が変だ。
いや、普段からあんな感じではあるけど、シュリに対して首を振るなんて珍しい。
シュリはゆっくりと肩を竦めて「説明できる理由はあるのかな?」と問いを向けた。
妙な緊迫感を伴う沈黙が落ちる。
さっきよりも随分と離れた位置にいるモドキは、こちらの様子を窺っているようだ。
もちろん、ヒューノットもシュリもモドキを視界から外そうとはしていない。
「――俺は」
静かに、ヒューノットが声を落とす。
低い声は小さいけど、鮮明に言葉を形作る。
「……成り代わってやるつもりなどない」
そう言い放った直後、ヒューノットは剣先で宙を払って駆け出した。
あっという間に、ヒューノットとモドキの距離が詰まる。
ヒューノットが振り下ろした剣を、モドキの篭手が受け止めた。
耳障りな音が、風の中に紛れて響き渡る。
「……まったく。変わらないな」
片手を腰に当てたシュリは、ゆっくりと息を吐きながら肩を竦めた。
どうやら、あれ以上に止める気はないらしい。
「――あっ!」
モドキが繰り出した一撃がヒューノットの頬を殴打した。
痛々しい殴打音がして、思わず声を上げてしまう。
ヒューノットは、仰け反った背をすぐに戻すと、体勢を低く取って斜め下からモドキの腕をなぎ払った。
モドキの腕が飛んだ――ように見えたが、違った。びっくりした。篭手が弾け飛んだようだ。
弾かれた篭手は宙を飛んだが、落下することもなく消えてしまった。
まるでシャボン玉が弾けるような、そんな、呆気なさだ。
こうして見ていると劣勢だとは思えない。
だが、ヒューノットの方は手負いの状態だ。
なけなしの力を振り絞っているわけでないのなら、いいけれど。
「シュリ」
傍らのシュリを呼ぶと、静かに頷かれた。
「大丈夫だよ、ヤヨイ。ヒューノットは、君の剣。そして盾だ。君がいる限り、彼は基本的に負けはしない筈だよ。君自身がそのように望まなければね」
「そ、そうかもしれないけどさ……」
もう少し心配してあげてほしい。
確かに、さすがの私でも、ヒューノットに負けろなんて思ったことはない。
とはいえ、不確定要素がたっぷりで、シュリでさえも把握できない未来が生まれつつあるのが今だ。
今までの前提が、ずっと続くとも思えない。
そんなこと、シュリの方がわかっているはずなのに。
「彼自身が引かないというのなら、戦ってもらうよりほかにないのさ」
シュリは、やっぱり止める気なんてないようだ。
確かにあの状態のヒューノットを、どうやって止めるのかという話でもあるけど。
だけど、ここまで平然と、これでもかと落ち着いているのもどうなのか。
いや、慌てたからといって、どうしようもないのもわかるけど。
すごく、もやもやしてしまう。
「でも、でも、こう、何かさ」
「何か?」
「力を貸してあげてよっ」
我ながら無茶振りだとは思う。
だけど、私自身が何もできない歯がゆさもあった。
「私が、かい?」
猫を模した仮面が、ゆっくりと傾く。
その向こう側にあるはずの表情は、やっぱり窺えない。
さらさらと落ちる黒髪が、風で乱れる。
「そ、そうだよ。シュリが、シュリ以外にいないし――」
わざわざそんな聞き方をするシュリに、少しの違和感があった。
小首を傾げたままのシュリの口許が、ほんの小さく笑う。
「――シュリが助けて!」
私が声を上げた瞬間、シュリは片腕を高く掲げた。
黒いローブから伸びた手には、淡い光が集まっている。
よくよく見れば、その白とも黄色とも言いにくい光は剣の形になりつつあった。
随分と遠い位置にいるヒューノットにも、その光、そして声は届いたらしい。
彼もまた、応じるように空いた片腕を持ち上げる。
シュリが天に投げ上げた光の剣は、まるでバトンのように回転して弾けた。
目に痛いくらいの光が弾けて消えた直後、ヒューノットの手元に光が現われる。
銀と光の剣を手にしたヒューノットは、両腕を交差させて剣先を交えた。
その直後に飛び掛ったモドキが、眩い光と共に弾き飛ばされる。
周囲の草を散らしながら地面を滑ったモドキの髪が大きく揺らぐ。
垂れ下がったモドキの両腕から、血のようなモノが滴り落ちる。
腕を持ち上げようとしたモドキの身体が、唐突にバランスを崩して後ろに下がった。
大きく跳ね上がったのは左腕。
ハッとして視線を戻せば、シュリはいつの間にか弓を構えていた。
モドキを見れば、左の肩に弓矢が突き刺さっている。
「オイッ、余計な事を――」
ヒューノットが声を上げると、モドキはシュリを見た。
無表情の中で、目だけが大きく見開かれている。
まるで、ツクリモノのようだ。硝子玉がはめ込まれているような、いや、そんなきれいなものじゃない。
濁った青が、まっすぐにシュリを見ている。
私に向いているわけではないというのに、ゾッと背が震えた。
「――チッ!」
舌打ちをしたヒューノットが、真っ直ぐにモドキのもとへと走っていく。
そうすれば、モドキの視線が彼へと戻った。
最初に動いたのは、右手に握られた銀の剣。
なぎ払うように振るわれた剣から逃れて飛び上がったモドキは、ヒューノットの頭上を舞った。
風を受けた外套が大きく膨れ上がり、その下に隠された身体が晒される。
そこには、真っ黒の身体があった。
輪郭こそあるものの、塗り潰されたような黒が広がる。
「……あっ」
風でめくれ上がった外套の下。
まるで平面のように錯覚するほど、深い黒を纏う身体。
ちょうど、その胸元。心臓に位置する場所に、何か光るものが見えた。
だけど、それはあまりにも一瞬で、それにこの距離では何なのかはまではわからない。
そこでハッとした。
銀色のような、白のような。何か光る物体。丸とも四角ともいえない、形のわからないもの。
「――……星っ」
間違いない。グラオさんの口の中にあったモノと、同じだ。
そう思った直後、宙を引き裂いた弓矢がモドキの鎖骨あたりを貫いた。
衝撃を受け止めたかのように、モドキの頭がぐらりと不自然に揺れる。
まるで、首の据わっていない赤ん坊――いや、人形のように見えた。
「ヒューノット!」
「分かっている!」
着地までの間にもうひとつの矢が、再びモドキの左肩に突き刺さった。
シュリの声が響き、ヒューノットの声が続く。
高い位置から勢いよく落下していくモドキは、まっすぐにヒューノットを見ている。
銀の剣を構え直したヒューノットは、もう片方の腕を大きく後ろへと伸ばした。
何をするのかと思った一瞬の間、ひと瞬きの直後にはモドキの左肩に光の剣が突き刺さっていた。
「――っ」
ヒューノットが剣を投げたのだと気がついたと同時、シュリの胸に抱きすくめられた。
激しい破裂音と共に、目が潰れるかと思うほどの強い光に包まれる。
反射的に目を閉じたものの、身体で遮られなかった僅かな光が瞼の裏に焼きついた。
チカチカと、光の残像が瞬く。
シュリの手が後ろ頭に触れたかと思えば、身体の隙間を更に埋めるように強く抱き締められた。
モドキが持っている姿は、ヒューノットとそっくりだ。
ヒューノットは、アレを自分の器かもしれないと言った。
器。身代わり。移し身。シュリは、姿見と呼んだ。
もし、アレがヒューノットの器なのなら、星を入れるだけ、なのか。
完全間近、ということになるかもしれない。
ルーフさんは、心を入れると言った。
彼は、それを恐ろしいとも言っていたけれど。
レーツェルさんは、そうじゃない。
手探りにシュリのローブを掴んで、しがみつく。
光は、まだ消えない。
何も見えないけど、シュリはここにいる。
今はそれだけだ。
――"祈りの星を溶かし込めば、器は完全として生まれ変わる"
頭の中で声が響いたような気がした。




