63.適量の毒
下には行くな。何かあれば呼べ――
ヒューノットの声が、頭の中に響き渡る。
その言葉を二度、三度と繰り返したあと、めいっぱいの力でツェーレくんを押し遣った。
「――ご、ごめん。そっちには行けないっ」
思い切って言葉を放つと、ツェーレくんは意外そうな顔をした。
そして、ゆっくりと目を細めていく。ひと瞬きの間に、彼は微笑んでいた。
「……っ」
これは、誰なのだろう。
確かにツェーレくんの声だ。
だけど、"あれ"は果たしてツェーレくんなのだろうか。
ぞくりと、背が震えた。
ゲルブさんは、"みめにまどわされてはならない"と言っていた。
それは影の、代理人のことだったけど。
もしかしたら――そんな思考ごと切り離すように、静かに手が離される。
彼の腕から解放されると、身体が浮く心地がした。
離された手で、何とか手すりに掴まる。
そこにあるかどうかは、見えていないけど。硬い感触を握り締めて、足を踏み出した。
この場所が、画廊から降りた先にあった場所と同じなら。
シュリの幻影を見たときみたいに、ルーフさんの姿を見たのなら。
この下に繋がっているのは、ツェーレくんと出会った場所――つまり、レーツェルさんがいた場所。
祈りの丘の、はずだ。そうなったら、繰り返すだけかもしれない。
一旦戻れという意味なのかどうか、わからないけど。
でも、今はヒューノットの言ったとおりに、上を目指した方がいいはず、だ。きっと。
上か下か。
選択肢なんて、掲げられなかったけど。
ヒューノットを信じて、上を選ぶしかない。
「……わっ!」
ぐるん、と。
再び上下が入れ替わる。
真後ろに倒れかけて、間一髪のところで手すりにしがみついた。
本当に上下が逆になったのか。それは、わからない。
ただ、感覚だけの問題だ。
硬い何かの上に尻餅をついたけど、見下ろしても何の上に乗っているのかはわからなかった。
手すりを握り締めた手に、ぐっと力を込める。
だけど、だめだ。足元が揺らいで、立ち上がることができない。
揺れはどんどんひどくなっているようだ。
さすがに身の危険を感じ始めたとき、真上から光が降り注いだ。
ハッとして顔を上げれば、頭上の夜空にぽっかりと丸い穴が開いていた。
その穴は、マンホールくらいのサイズから一気に広がって――見えたのは、猫を模した仮面。
「――シュリ!」
黒いローブに白シャツ姿。銀と金のブレスレット。
何の迷いも躊躇もなく、足場も何もない空間へと飛び降りて来たのはシュリだった。
風に煽られたようにめくれ上がったローブの中にあるシンプルな服も、細い身体も何ら変わりがない。
「やあ、ヤヨイ。遅くなってしまったようだ。すまないね」
目には見えないけど、掴まっている感じからして手すりの位置。
そんな場所に平然と着地したシュリがそっと差し出してきた手に、すぐさま腕を伸ばした。
シュリの首元からは、ネックレスが下がっていない。私が、持っているからだ。
だから、というわけではないけど。
きっとホンモノのシュリだ。そう思いたい。
「シュリ、身体は? 大丈夫なの?」
「勿論だとも。この通りさ。みっともないところを見せてばかりで、情けない限りだ。挙句に長らく眠っていてね。そろそろ名誉挽回といかなければ――それに彼らが動けない以上は、私が動くべきところでもあるしね。適材適所さ。あちらの相手は一先ず、彼に任せよう。今は迷い子の探索が必要だ。煌くうちに捕獲しておかなければ、自由気ままに歩きかねない。あとは、君に新たな道筋を鮮明にしてもらえると助かるかな」
何というか。普段通りのシュリだ。
細い手指に触れた瞬間、手を強く握られる。
そして、ぐいっと引っ張り上げられたかと思えば、空中に放り出された。
一瞬ひやっとしたものの、すぐに抱き止めてくれた。
いや、そもそも人を投げるなよ。アンタはヒューノットか。
「――さて、空の嘆きは聞き飽きた。ヤヨイ、一気に行くよ。掴まっていて」
耳元に囁きを落としたシュリは、私が頷くまで待ってから膝を折った。
手すりを蹴って舞い上がり、次に何もない空中を蹴って、更に上を目指す。
シュリには何か、見えているのだろうか。
私には、さっぱりだけど。
ぐんぐんと穴が近付いて来る中、ふと真下に視線を向けると黒い何かが蠢いていた。
「……うわ……っ」
ぐるりと星空が広がっているせいで、地面とも呼べない下層。
そこに広がる黒は、モドキに噛み付かれたシュリを飲み込もうとしたモノと似ている。
声を漏らした数秒後、周囲が一気に明るくなった。
星が散りばめられた空間から抜け出たからだ。
高い位置まで舞い上がったシュリは、私を抱えたまま、ゆっくりと静かに床へと降りていく。
まるで翼でもあるかのようだけど、当然ながらシュリの背中には何もない。
「君が留まっていてくれて良かったよ、ヤヨイ。落ちてしまったら、掬い上げられなかったかもしれないからね」
「……お、落ちる、っていうのは……あの、黒い?」
「そうだとも。あれに飲み込まれるのは、お勧めしないね」
「で、でしょうね!」
そんな危なっかしいもん、気軽にお勧めされて堪るかという気分だ。
しかし、それならやっぱり、さっきのツェーレくんはニセモノだったということなのだろうか。
ニセモノ、というか。
ひょっとしたら、本当に"影の代理人"だったのかもしれない。
代理人の姿は一定ではないとか何とか、グラオさんたちだって言っていたし。
シュリに下ろされて床に立つと、やっとひと心地ついたという感じだ。
「……ここって」
足元一面に敷き詰められているのは、毛足の長い赤色の絨毯だ。
真上には、豪勢なシャンデリアがきらきらと光っている。
体育館のような広いホール内には、何も置かれてはいない。
がらんとしていて、ひどく寂しい。
壁際には、不規則な間隔で絵が掛けられている。
「――画廊、ギャラリー、展示室、コレクションルーム。主な呼び方としては、そんなものかな。好きに呼んでくれて構わないよ」
「そ、そうじゃなくて……」
「ライブラリーと呼んだ人もいたにはいたけれど、そうだね。当たらずとも遠からずといった感じかな。実質とは異なるかもしれないが、本質的な部分では重なるとも言えるからね」
「いや、だから……」
それってどう違うんだよ。
うう、シュリが久し振りすぎて会話ができない。
何だよ。つまり、その、どういうことなんだよ。
あきらめて、周囲に視線を巡らせた。
前に来たときには、ホール内にも絵が展示されていた。
だけど、今は壁面だけに限られている。
手が届かないような高い位置にまで絵があって、すごく見えにくい。
「……ここはね、ヤヨイ。今まで、この世界が繰り返して来た歴史が保管されている場所なんだ。実のところ、ミュージアムといった方が正しいかもしれないね」
それが聞きたかったんです。
近い方の壁に寄って絵を眺めていると、シュリは隣に立った。
見上げれば、本当にすらりと背の高い人だとわかる。
「……バッドエンドも、だよね?」
「そうさ」
シュリの肯定がシンプルになった。
ひょっとして、説明する為の台詞が用意されていないのかもしれない。
ということは、ここはやっぱり、今までのプレイヤーが辿り着いていないルートだということか。
ずっと視線を向けていたせいだろう。
シュリはこちらを見て、ほんの薄く口元で笑った。
「この場所には、あらゆる歴史が眠っている。世界が開かれる前の事も、君達《傍観者》が選んだルートの先も、繰り返された選択の全ても、ずっと記録されている。世界の記憶そのものさ。私や、ヒューノットのようにね。いつまでも、覚えている。リセットされたところで、消える事などなくてね。上から覆い隠したところで、なかった事になんてできはしないんだ」
ゆっくりと、シュリの声が周囲に響いて消えていく。
世界が開かれる前――プレイヤーが来る前のことも、ここには展示されているらしい。
それなら、ふたりの男の子が描かれていたアレは、過去のシーンということでいいようだ。
きっと、ヒューノットとルーフさんだ。
今、私たちの前にある絵には、草原に突き立てられた銀色の剣が描かれている。
これは、ヒューノットやシュリが使っている剣で間違いないだろう。
「……この、ナンバーって、何か意味があるの?」
絵画ひとつひとつにつけられたナンバープレート。
ヒューノットは、きちんと答えてくれなかったけど。
シュリなら、知っているはずだ。
視線を向け直すと、シュリは緩やかに肩を竦めた。
「勿論、意味はあるとも。しかし、ナンバーと絵自体の間には便宜上の関係しか成立はしていなくてね。ナンバー自体に含まれた意味合いが必ずしも、その絵に固定された価値を持たせるものではないのだよ」
「……つまり?」
「絵画の価値は変動するという事さ。ナンバー別に管理したところで、絵と絵の間に差はないという事だね。一時的なものに過ぎない」
アンタは美術商か。
価値が変動するって、どういうことだ。
つまり、結局のところ、どうなんだよ。まとめて、きちんと説明して欲しい。
私があまりにも、わかりませんと言わんばかりの顔をしていたのだろう。
シュリは小さく笑って、壁際の絵画を見上げた。
「例えば、君は夜明けから始まる一日の流れをシンプルに説明するとして、どのように表現するのかな?」
「え? なに、よあけ? えーっと……朝昼晩、とか、かな?」
いきなりすぎて、ついていけない。
まあ、いきなりではなかったとしても、ついていけないんだけど。
「そうだね。その三つに分けたとしよう。では、その三つの間には常に適用される優先順位や明確な優劣は存在するかな?」
「いや、そんなこと……あっ」
「その並びによって与えられた順番自体に、意味なんてないだろう?」
「入れ替わっても支障はない、ってこと?」
「そうだとも」
シュリはゆっくりと頷きを返してくれた。
おお、わかったような気がする。いや、わかった。絶対にわかった。あ。いや、たぶん。
絵そのものに順番は存在する。その順番を示しているのが、プレートのナンバーだ。
だけど、それは今この瞬間の並び順であるというだけで、場合によっては入れ替わることもあるらしい。
確かに同じ選択肢から枝分かれして別のルートができたのなら、その先の結果が新しく入り込むことになる。
1番と2番の間に新しい絵が入って、2番だった絵が3番になることだってあるわけだ。
今のこの瞬間に、その絵がそのナンバーであるということを示しているだけ。なんてまわりくどいんだ。
ともかく、やっと辿り着いた。この答えまで長かった。
「なるほどね、うん。やっとわかってきたかも、ありがとう」
「それは良かった。何よりだ。疑問は抱えている間に膨れ上がってしまうものだからね。解決できるなら、しておいた方が良い」
何だかんだで、シュリは優しい。
言っている内容は、わかりにくいけど。言い回しは全然、全く、ちっとも、易しくはないけど。
ていうか、誰のせいで疑問が疑問を呼んでいるのか考えて欲しい。
そう考えていくと、大して優しくもないな。不器用なのかもしれない。
ただ、ふと気がついた。
ここにある絵の中に、クレヨンで描かれたものが見当たらない。
今までのバッドエンドは、確かにクレヨンで描かれていた、はず。
いや、プレイヤーが関わったバッドエンドは、だけど。
「どうして、絵なんだろう……」
写真でも文字でも、それこそ幻で再現とか、何でもいいはずなのに。
どうして、絵画の形なのだろうか。
まあ、確かにゲームって、クリア後にライブラリー解放とかあるけど。
それだけだとは、思えない。
「描き変える事ができるからだろうね」
「え?」
「絵は上塗りする事ができる。後から、修正が可能だという事さ。或いは、改変かな。生憎と、我々にその術はないけどね」
修繕ならまだしも、修正ときた。
絵描きさんが泣いてキレそうな気がする。
「――あっ」
順々に見ていたところで、高い位置に見覚えのない絵があることに気がついた。
いや、絵としては見たことがないだけで、光景自体は知っている。
その絵は、前に来たときには飾られていなかった。
薄暗い廊下。奥にひとり。手前にひとり。
背を向けている手前の人物は、きっと私だ。
自分の服装を見下ろして、それからもう一度絵画を見る。やっぱり、私だと思う。
暗がりの中、廊下の奥に立っているのは、きっとモドキだ。
長い髪。黒い外套。仁王立ちをしている姿。
それらがひとつの場面として、ここに追加されている。
「……さっきは、あの場所にいたのかい?」
シュリが、そっと小声で問い掛けてきた。
眠っていたと言っていたのだから、わからなかったのかもしれない。
それか、前のように感知できなくなっているのかも。
視線を向けると、シュリは緩やかに首を傾げた。
「……うん。さっき、っていうか。しばらくね。レーツェルさんにも……あっ、あれ」
言いかけて、もうひとつ別の絵に気がついた。
雪景色の中に佇む、長い金髪の女性。その身に纏うのは、純白のワンピース。
いつもは喪服のような黒いワンピース姿の彼女が、あのときだけは違った。
「レーツェル?」
シュリは静かに問い掛けて来る。でも、私の目は絵の光景に釘付けだ。
あのとき、見せられた光景が脳裏を過ぎる。
ヒューノットが繰り返したバッドエンド。きっと、あれでもまだ、一部だろう。
「……レーツェルさんが、言ったの」
プレイヤーの選択に従って、ルーフさんを手に掛けるルート。
選択の果て、プッペお嬢様を傷付けたルーフさんが死んでしまうルート。
ひとりかふたりか。シュリはそう言った。
どちらにしても死ぬのなら同じだ、なんて。私には、到底そうは思えない。
「正しいと、思うのか、って」
結局、ルーフさんと戦わない選択肢も戦う選択肢も繰り返された。
あれが何度目だったのかは、わからない。
ただ、戦わない選択をしたあとに、ルーフさんを追いかけたヒューノットは廊下で彼を。
それは、ふたりを失うよりもひとりを失った方がいいなんて、単純な話ではないはずだ。
ヒューノットは、守りたかったんだと思う。
ルーフさんのことを救いたくて、でも、その術がなくて。
だから、ルーフさんが守りたいプッペお嬢様を守ったんだ。
「ヒューノットに、許可を与えろって。それで、解放しろって……」
あれは、辛うじてエラー扱いにはならなかったのだろう。
その場では"戦わない"という選択に、プレイヤーの意思に従ったのだから。
「……成る程ね」
シュリの声は冷静だ。
いや、少なくとも、私には冷静そうに聞こえた。
「それが、彼女の狙いという事か」
「……どういうこと?」
隣に視線を向けると、今度はシュリが絵画を見つめていた。
いや、仮面のせいでどこを見ているのか、正確には把握できない。
だけど、真っ直ぐに前を見つめているように思えた。
「前に言った事があっただろう? 彼は、この世界の代表だ。そして、君は唯一無二。選択の権利を持っている君の手となり足となり、時には剣となり盾ともなる存在が彼だ。君を守る為の鎧にも、君の望みを叶える為の手段にも成り得る」
「う、うん。それは、聞いたけど……ヒューノットは、選択から解放されそうなんだよね?」
「そうだとも。しかし、まだ不完全ではあるがね」
それも、確かに聞いた話だ。
だからレーツェルさんは、私に話を持ちかけたんだと思う。
ヒューノットを引き込もうとしても、彼の行動には制限が付きまとうのだから。
「彼にとって、君は定めそのもの――だった。君の選択こそが、彼の全てだったのだからね。それが、少しずつ変わり始めている。彼は自らの意思で動きつつあるが、それこそ君が望んで選んだ事であれば、決してエラーにはならない。自由の代償が何なのか、やはりまだ分からないがね。ともあれ、君は確かにこの世界を変えつつある」
「うん、えっと、それも聞いたよ」
だから、つまりどういうことなのか。
戸惑っていると、シュリは静かに天井を見上げた。
釣られて視線を向けるけど、そこには大きなシャンデリアがあるだけだ。
「レーツェルは、君達の世界を取り込もうとしている。他ならぬツェーレの為にね。彼女は、傍観者をひどく嫌っていたが――彼女が目的を達成する為には、傍観者が必要不可欠だという事さ。皮肉な話だね」
不意に手を引っ張られた。
シュリに手を引かれて、ゆっくりと歩き出す。
ふたり分の足音でさえも、絨毯が吸収して周囲には響かない。
「ちょ、ちょっと、それって、どういうこと?」
わかるように言って欲しい。
レーツェルさんが世界を乗っ取ろうとしているのは、わかる。
こっちの世界に、ツェーレくんが生き残るルートがないから。
ヒューノットが選択肢から解放されつつあるのも、なんとなくわかる。
私は確かに、ヒューノットが自由に動ければいいと思っているから。
ヒューノットを解放するために、傍観者が必要だというところまでは理解できるけど。
斜め前を歩くシュリの表情は、仮面を除いたとしても全く窺えない。
「――欠けたピースが揃ったという事さ。そして、その事実に彼女は気付いてしまった。……とんだ思い違いだ。彼女の狙いは、最初から君だ」
「わ、私?」
「より正確に言うのなら、君と私、そしてヒューノットだね」
扉へと近付いていく。
背が高くて両開きになっている大きなその扉は、見たことがないような気がした。
重たげな印象だったけど、シュリが片腕を振るえば軋む音を立てながらも、あっさりと開き始める。
扉がふたつに割れたとき、中からひどい熱が漏れ出た。
思わず後ずさりかけたけど、シュリの手がそれを許してくれない。
「――君は選択を放棄し、或いは入れ替え、そして増やした。そのおかげで、選択肢から枝分かれしたルートの先には、新たな未来が創られ始めている」
大きく開かれた扉の向こう側。
そこでは、クレヨンで描かれた絵が、大量に燃え上がっている。
「――……未来は、あまりにも未知数だ」
そして、燃え盛る絵たちの中には、フェルトの人形やぬいぐるみも紛れ込んでいた。




