62.正常な星
「――ツェーレくん!」
呼び返してみたけど、姿は見えない。
そこで気がついた。
渡り廊下に気を取られていたけど、ここは校舎ではなさそうだ。
教室がないどころか、フロア全体がぶち抜きになっている。
そして中央には、大きな螺旋階段。それが上へ、そして下へと伸びている。
階段しかないような広いフロアに、隠れられるような場所はない。
でも、聞き間違えだとは思えなかった。さっき呼んできたのは、ツェーレくんのはずだ。
声の感じからすると、小さい頃のツェーレくんだと思う。
ここにあるのは本当に階段だけで、渡り廊下に繋がる面以外はすべて壁で覆われている。
螺旋階段を除けば、本当に何もない。がらんとした空間だ。
「――わっ」
ツェーレくんが階下にいる可能性を考えて足を踏み出した瞬間、立っていられないほどの激しい揺れに襲われた。
バランスを崩して転びそうになりながら、何とか膝をつく。思い切り体重が乗って、ちょっとどころではなく痛い。
更に身を屈めて、四つん這いになったあたりで、やっとその場に留まることができた。
遠くで、何か大きなモノが割れるような崩れるような、そんな音が響いている。
何の音だとも言いがたい。聞いたことのない音だ。何なら、地響きにも似ている。
見上げた天井も三面を囲む壁自体も、それぞれに大きく揺らいでいるようだ。
次こそ本当に地震かと思ったけど、唯一壁のない場所に視線を向ければ揺れの正体はすぐにわかった。
ついさっき、私が通って来たばかりの渡り廊下が吹き飛んでいる。
「……は?」
うん。吹っ飛んでる。
どう見たって、なくなっている。そこにあるのは、壁のない間抜けな穴だけだ。
渡り廊下は、建物に繋がっていた部分から根こそぎ奪い取られたらしい。
辛うじて、繋いであったのだろうな、と思える部分が残っている。
こんなにも簡単に呆気なく、まるで枝でも折るかのように引き千切られるものなのだろうか。
四つん這いの状態から壁に手をついて立ち上がり、渡り廊下があった方へ近付こうと足を踏み出した。
「――ッ!」
そのタイミングで、ものすごい勢いで何かが飛び込んできた。
今度は一体何なんだと、両腕で顔をガードしながら後ろに下がる。
黒いそれは、階段を囲む手すりや柵を巻き込んで壊したあと、一番奥の壁へとぶつかって止まった。
数秒だけ、その姿が見えなくなる。
瓦礫と共に上がった粉塵のせいだ。何だあれ。
「……ヒューノットっ!?」
ぶっ飛ばされて来たのは、ヒューノットだった。
それなりの距離を飛ばされたというのに、割れた壁や手すりの破片と共にすぐさま立ち上がっている。
タフすぎる。でも、無傷というわけではなさそうだ。
肩で息をしているうえに、顔には殴られた痕跡がある。
身体の方は、わからない。
ヒューノットは、全体的に露出が少ない上に外套で身体のラインもほとんど見えない。
腕や脚は大丈夫なのか。どうなっているのか。何が起きているのか。
声を上げた私に応じるかのように、ヒューノットは片手を軽く持ち上げた。
「……屋上に行けと言っただろ」
汚れた外套を軽く払い、足元の瓦礫を蹴りながら進んでくる様子はいつも通りだ。
手の甲で鼻のあたりを拭ったヒューノットは、小さな血の塊を吐き出した。
もう片方の手には、きちんと剣が握られている。
だけど、剣の方だって全くの無事とはいえそうにない。
随分と刃こぼれしている上に、赤黒い何かで汚れている。
液体とも固体ともいえない何か。
何か。何、というか。何なのかは、ちょっと、考えないようにしよう。
「階段がなくて……」
「……ない?」
「う、うん。壁になってた」
「……そうか」
「どうしよう。あ、それと、それとさ。ツェーレくんの声が聞こえたんだけど」
近寄ろうとしたけど、片手で制されてしまった。
ヒューノットがぶつかった壁は随分と派手に割れている。
しかし、穴は開いてはいない。せいぜい表面が剥がれたという感じだ。
表面と言い切るには、瓦礫はかなり分厚いけど。コンクリートブロックでも積み上げたのかと思うくらいだ。
「……ツェーレだと?」
ヒューノットは眉間に皺を寄せた。
殴られたと思わしき頬や切れた唇、鼻血の痕跡が残る鼻筋が痛々しい。
モドキの方は、もっとすごいことになっているだろう。そのはずだ。
ヒューノットが負けるとは思えない。思いたくもない。
「姿を見たのか」
ヒューノットの青い瞳が周囲に視線を走らせた。
当然ながら、ここには私とヒューノットしかいない。
隠れる場所なんて、どう考えてもないのだから疑う余地もないだろう。
「ううん、姿は見てない、けど……」
けど。だけど。
確かに声は聞こえたのだ。
ツェーレくんは、確かに私を呼んだ。
あの声が、今のものなのか昔のものなのか。それは、わからないけど。
あんなものを見せられたあとでは、余計に区別がつかない。
だけど、確かに呼んでいた。あの子が、ここにいるかもしれない。
「……捨て置け。構っている暇はない」
とはいえ、ヒューノットはあまり頓着していないようだ。
当然といえば、まあ、当然だろうとは思う。
「お前は屋上を目指せ」
だから、その屋上には行けないんだってば。
そう言おうとしたけど、壁の縁に手をついて外を覗き始めたから黙った。
外では薄灰色の煙が、もうもうと風に流されている。
あれがどこから放たれているのか、何がどうなっているのか。
私には、全くわからない。
いい加減にそろそろ、誰かきちんと説明して欲しい。私でもわかるように。なるべく簡潔に。
「屋上って言っても……」
この長い螺旋階段を上がれ、ということなのか。
ちらりと視線を向けてみるが、天井を突き破るようにして伸びる階段の行き先は不明だ。
そもそも、行き先なんてあるのだろうか。それさえも、怪しい。
「……とにかく上を目指せ」
ヒューノットは頑なにそう言い放つと、渡り廊下の僅かな痕跡に片足を乗せた。
そして、私を振り返る。
「……いいか。下には行くな。何かあれば呼べ」
ヒューノットの鋭い眼差しは相変わらずだ。
その声も口調も、普段と何も変わらない。
ただ、いつもよりは少し、いや、随分と念を押してくる。
理由を言ってくれないのは、まあ、いつも通りだけど。
「う、うん。わかった。わかった、けど」
前を向いたヒューノットは、もう振り返らない。
真っ直ぐにどこかを睨みつけている。
その横顔をまじまじと見るのは、初めてのような気がした。
少し乱れた濃紫の髪。細かく擦れた傷の残る頬。
彼が戦っているとき、私はいつも後ろにいたから。
「……何だ」
視線ではなく声が寄越された。
外から吹き込む風が、短い髪と外套を揺らして音を立てる。
壁際に立つ私のもとに、強い風はほとんど届かない。
肝心なときに、ヒューノットはいつもいないと思っていたけど。
いなかったのは。
「いや、その、き、気をつけてね」
肝心なとき、傍にいないのは私の方かもしれない。
何を言えばいいのかわからなくて、変に言葉が詰まってしまった。
ヒューノットは、笑ったのだろうか。
ほんの僅かだけ、ほんの少しだけ、鼻を鳴らした。
「お前の方がな」
それだけを言い残して、ヒューノットは宙へと躍り出た。
彼が足場代わりにした部分が、音を立てて崩れる。
音を合図に、私は螺旋階段へと走った。
そして、ヒューノットがぶつかって壊した部分を避けて階段へと飛び込む。
手すりに手を置いてから一拍。
疲労の溜まった膝に力を込めて、階段を駆け上がる。
とにかく、上だ。下に行ってはいけない。
それだけを頭の中で繰り返す。
手伝えないのなら、せめて足手まといにはなりたくなかった。
「――ッ、なっ」
螺旋階段を上がって天井部分を越えた瞬間、頭上に広がっていたのは暗闇だった。
いや、違う。暗闇、ではない。
そうだ。星空だ。淡い光を纏う星が、あちらこちらに散っている。
とはいえ、満天の空というほどではない。
都会の明るい夜空でもなければ、プラネタリウムのような都合の良い星空でもない。
星に彩られた空の色は、ほんのり青が入っているとわかるような黒色。
どこで見たのだろう。
その空には、見覚えがあった。
どんな空でも同じ空だといえば、確かにそう。
だから、見覚えがあったとしても、記憶違いか思い過ごしだろうと思えるけど。
この空は、この空だけは違う。
「……」
一歩踏み出した靴裏が踏んだのは、空中だった。
しかし、しっかりと硬い感触が返っている。床とは言えない。だって、見えないから。
周囲を見回すと、壁も見えなかった。
あるのかもしれないけど、見ていないのならないのと大差ない。
もう一歩、探り探りに足を踏み出してみる。
すると、確かに段があるようだ。少し高い位置に足が乗った。
「……やっぱりだ」
ツェーレくんと出会う前。画廊から出た先。
あのときの、星空とよく似ている――いや、似てない。あの星空"そのもの"だ。
シュリの幻の姿と声を見た空。
もう一度、足を持ち上げて、それらしい場所に下ろしてみる。
また、一段ほど高い場所に足が乗った。螺旋階段は、続いているらしい。
頭上に視線を持ち上げても、何も見えはしなかった。
ちらちらと星が滑り落ちていくけど、それ以外の変化はない。
手すりの感触だって、一応は続いている。とにかく、進むしかなさそうだ。
ただ、階段が見えない分だけ動きは慎重になる。あのときはヒューノットがいたけど、今はいない。
今のところ頼れるのは、確かに返ってくる手すりの感触くらいだ。
それも、確実とは言えないけど。
少しずつ少しずつ、見えない階段を上がる。足元を見下ろすと、少し遠くに明るい穴が見えた。
丸っこい穴からは螺旋階段の一部が覗いている。
そこから更に離れて、随分な高さに到達した頃、視界の端でひときわ強い光が瞬いた。
「ッ……?」
光は徐々に大きくなって、目を開いていられなくなってくる。
目元に手を当てながら顔を向けると、数秒ほどして光が弾けた。
きらきらと光る粉のようなものが、周囲に散って光りながら落ちる。
私の足元より、更に下へ下へ少しずつ落ちていく。
それらを見たあとで、顔を上げた。
すると、夜空の一部が薄らと透けたようになっていて、そこに光がいくつか留まっていることに気がついた。
空に薄い穴が開いたような、その奇妙な場所はあちらこちらに点在している。
――お待ちください!
声が響き渡ると同時、薄いベールの向こう側に姿を現したのはルーフさんだった。
廊下、だろうか。どこかを走って、たくさんの花がある場所へと入り込む。
その姿自体もまた、透き通っていて、一目で幻だろうとわかる。
――どうして、何故そのような事を、どうか、どうかおやめください。
ルーフさんが話しかけている相手の姿は見えない。
ただ、彼は真剣な様子で言葉を続ける。
その瞳は、プッペお嬢様とお揃いの青。いや、薄く緑がかっている。
――そのような恐ろしい事を、どうして受け入れられましょう。
――お願いです。どうか、どうか。
――お守りしたいのです。命に代えても。そのようにお約束しました。
――ですから、どうかあの方にだけは。どうか、あの方だけは――
懇願するルーフへと白い手が伸ばされる。
白い服を着た女の人だとわかったけど、それだけだ。それ以上の姿は見えない。
ほっそりとした手指が宙をなぞったことで生まれた淡い光が大きく弾けた瞬間、ルーフさんは断末魔の声を上げた。
両手で目を押さえながら、何度も何度も叫んで、とうとうその場にうずくまってしまう。
目元を覆う指の隙間から液体が滲み出ている。
もうだめだ。こんなの見たくない。
耳の奥まで響き渡る絶叫に耐え切れず、手すりから手を離して両耳を覆ったときだった。
ガクン、と。段を踏み外した。
動いてすらいなかったのに、唐突に階段がなくなる。
目を見開くだけでせいぜいで、声すら出ない。
真下から吹き上げる風に飲み込まれそうになったところで、手すりを探して片腕を伸ばした。
「――ヤヨイ!」
触れたのは、見えない手すりの硬い感触ではなかった。
「ツェーレくん!」
私の手首を両手で握り締めていたのは、大人になったツェーレくんだ。
繋がった腕を軸にして、まるで振り子のように身体が大きく揺れる。
手首に痛みが走って肩が軋む。
無理こんなの脱臼する肩が外れて終わってしまう。
そう思った直後、ぐらりと全身が傾いた。
さっきまでは真下に落ちていく感じだったのに、その感覚が一気に変わる。
ぐるん、と。
天地が入れ替わる。
「ヤヨイ、こっちだよ。おいで」
今度は、ツェーレくんが下。
まるで高いところから、私が下ろされようとしているかのような。
思わず、ぐっと力を込めて目を閉じた。
手を引かれるがままに全身の重みが移動して、そのまま――――
――目を開かないで。聞いて。
――僕らを知れば、きっと分かる。
――だから
――逃げて
あの子の声が、聞こえた。




