61.混沌の器
純白の景色が一瞬にして取り払われ、ひと瞬きの間に景色が一変していた。
消えてしまった白の果てから、唐突に現われたのは学校の廊下だ。
一直線に前へと伸びた廊下。
私の右手側にはずらりと窓が並び、そこから僅かな斜陽が差し込んでいる。
「……嘘」
レーツェルさんの姿はない。
代わりのように立っていたのは、ヒューノットの――"器"だった。
少しずつ、差し込む光が薄くなっていく。
非常灯だけが取り残された薄暗い廊下の先を、黒い外套を纏った長身が塞いでいる。
濃紫色の髪。青い瞳。そして、その顔。
髪さえ長くなければ、あまりにもヒューノットそのものだ。
類似と同一は違うなんて、ヒューノットは言っていたけど。
でも、そっくりすぎて怖い。
ほとんど、同じだ。同じ顔をしていて、髪や目の色も同じ。
今のところ、ヒューノットモドキは動く気配がない。
だけど、私は半歩ばかり後ずさった。
当たり前だけど、刺激はしたくない。だけど、離れたくて仕方がなかった。
一歩、二歩。少しずつ後ずさる。それでも、モドキは動かない。
「……っ」
あのまま、動かないでいてくれるだろうか。
本当に廊下を塞いでいるだけで、こっちから近付かなければ動かないと思っていいのか。
そうしているうちに、窓から入り込んでいた光が呆気なく途切れてしまった。
急激に暗さが増した廊下で、静かに佇むモドキの姿は何とも不気味だ。
動くわけでもなくて、何か言ってくるわけでもない。
いや、そもそも、モドキは声を出したことがないような気がする。
ヒューノットの器だから、だろうか。
あくまで器が動いているだけで、特に思考とか、そういうのはないのかもしれない。
「……うぅ」
緊張感で、お腹のあたりが痛い。
正確にいうと、気持ち悪さがある。吐き気がする一歩手前だ。
シュリやヒューノットでも苦戦していた相手なのに、私ひとりでどうにかできるはずがない。
いや、せめてヒューノットがいれば対抗はできるだろうけど、とにかく今は無理だ。
モドキが塞いでいる方向にあるのは、さっきの図書室だ。
そこが重要なのか、偶然なのか、何か意味があるのか。まったく、ちっとも、わからない。
「……」
全くもってこう着状態だ。
前に進めないのは当たり前として、逃げたら追いかけられそうで怖い。
そもそも、あんなバケモノじみた相手に背を向けるだけの勇気がなかった。
もう半歩だけ、後ずさる。
この距離だと逃げたところで、すぐさま追いつかれてしまいそうだ。
まあ、そこそこ離れていたとしても逃げ切れる自信なんてないけど。
逃げるとしても、どこに行けばいいのだろうか。
運動場に出たとして、校舎内を逃げ回ったとして、どちらにしても良い結果が出るとは思えない。
レーツェルさんの狙いは何なのだろう。
モドキをここに配置することに、何の意味があるのだろう。
意味が、あるはずだ。
絶対に意味があるはず。
私の頭じゃ、どんなに考えてもわからないかもしれないけど。
「……はぁ」
すごくこもった溜息が出た。
どうして、こういう肝心なときにヒューノットはいないのか。
いつだってそうだ。
どうして、いなくなってしまうのだろう。
ちょっとした苛立ちと不安が、背筋を震わせてくる。
何かないかとポケットに手を入れると、固い感触が返って来た。
取り出してみると、歪な白い石だった。
役に立つ、だろうか。いや、立ちそうにない。
私の持ち物といえば、シュリから預かったネックレスと白い石がふたつ。
あとはスマートフォンくらいか。
うう、戦力ゼロすぎる。
やっぱり立ち向かうよりは、逃げる方がまだ現実的だ。
パーカーのポケットに夢なんて入っていない。
そんなことを考えていたときだ。
「……ッ」
固い足音がひとつだけ響いた。
視線を前に向け直すと、モドキが足を踏み出しているところだった。
カツン、ともうひとつ。
カツン、と更に、もうひとつ。
少しずつ距離を詰めてくる。
音がひとつ響く度に背が震えた。
体温が一気に引き上げられる。
背中にカイロでも押し付けられたかのように、じわじわと熱が増す。
「――ッ」
だめだ。無理だ。選ぶべき選択肢もない。
何度目かの足音が聞こえたところで、私は一気に駆け出した。
つるりとした床に足を取られそうになりながら、真っ直ぐに廊下を走る。
途中で階段を通り過ぎたけど、上階を目指したところで救いはない気がした。
それに、階段で追い詰められたら本当に逃げ場がない。
やっぱり、外を目指す方がいい気がした。
正面に見えた鉄製の扉に飛びついたけど、施錠されているようでビクともしない。
内側からカギをかけるタイプではないのか、どうなのか。
確認している暇なんてなかった。
後ろから少しずつ追い掛けて来る足音から距離を取る為に、再び廊下を駆け出す。
教室に飛び込む気にはなれない。息を殺して隠れていられる気がしなかった。
角を曲がる。また階段が見えた。廊下の壁に大きな鏡が置かれている。
トイレの前を通り抜け、用途のわからない部屋の前を通り過ぎ、壁に嵌め込まれた掲示板を横切った。
「……なんでっ」
さっきあったはずの、下駄箱が見えてこない。下足室がない。外に通じる扉がない。
なんで。どうして。一度はそこから外に出られたのに、どこにもない。
似たような景色が通り過ぎる。
走っても走っても正面玄関すら見えては来ない。
ここは一階なのに、外に出るための場所も扉もなかった。いったい、どこから出入りするんだよ。
廊下にずらりと並ぶ教室は沈黙したまま。誰かがいる気配も音もない。
非常灯だけに照らされた廊下は暗い。
階段の前を通り過ぎ、大きな鏡を横切る。どんなに走っても足音はついて来る。
トイレの前を駆け抜けて、見たことがある掲示板を横切って、何だろう。
同じ場所を、ぐるぐると回り続けているように思えて来た。
鉄製の扉はもう見えてこない。
渡り廊下だとか、そういうところに繋がっていたのだろうか。
どこに繋がっていたとしても、開かない扉なんて壁と同じだ。何の意味もない。
いくつめかの階段を通り過ぎる。
防火扉は階段を覆うこともなく収納されたままだ。
非常口を示す案内板が見えたけど、そちらは完全に行き止まりになっている。
転びそうになりながら、延々と廊下を走っていく。
電気がつけられていない教室内は暗く、すべての窓と扉が閉ざされていた。
廊下の壁際に設けられた手洗い場。ネットに入れられて引っ掛けられた石けんが落ちている。
走っても走っても、だめだ。何も思い浮かばないし、逃げ切れる方法も出て来ないし、体力だけがなくなっていく。
非常ベルを抱えた赤い扉。煌々と存在を主張するランプの残像だけが目に残る。
息切れがして、脚が痛くなってきて、ついでに膝も太腿も張り詰めてきた。
だけど、さすがに立ち止まるのは怖い。
廊下に響く足音は、走る私と追ってくるモドキのふたり分。
距離が縮まっているようには思えないけど、ずっとついて来ている。心臓に悪い。
「げほっ、はっ……はぁっ、あーっ……や、やばい……」
息切れどころか、咳き込んでしまった。
思わず漏らした声も掠れてしまう。
どんなに走っても、モドキは離れてくれない。
それどころか、外にも出られない。
どうなっているんだ。どういうことなんだよ。
だめだ。もう無理だ。だんだんと膝がおかしくなって来た。致命的に運動不足だ。
今になって、そんなことを嘆いたところで意味がないことくらいわかっている。
ヒューノットはどこに行ってしまったの。
最初に見かけた、あの小さな影は何だったの。
どうして、モドキはついてくるの。何がしたいの。
「はっ、ひ、ひゅ、ヒューノットー!」
もう無理だった。
情けなく息切れしながら、廊下の天井を見上げて声を放つ。
屋上から消えたヒューノットが、私を置き去りにしたことに意味があるのなら呼ばない方がいいとは思う。
レーツェルさんの目的というか狙いがヒューノットにあるのなら、やっぱり呼ばない方がいいだろう。
だけど、もうだめだ。限界だ。
これ以上、走るのは無理だ。
もう一度呼ぼうとしたところで、何かにつまづいて思いっきり転んでしまった。
右膝から崩れ落ちて手をついたものの、そのまま肘を打ち付けて廊下に崩れ落ちる。
「はぁ、はぁっ、はっ、ちょっ、むり、まって……っ」
一度止まってしまうと、再び動ける気がしなかった。
打ち付けた場所や床に擦り付けてしまった部分が傷む。
何度も咳き込んで、それからやっと息ができるようになる。
深呼吸をして、荒れた呼吸を整えながら廊下の床を睨む。
痛いのか苦しいのかも、よくわからない。
とにかく、ずっと走り続けたせいで全身が辛い。
喉が渇いて張り付いていて、それも気持ちが悪かった。
バクバクと激しく暴れ狂う心臓がうるさい。
床についた手がじっとりと汗ばんでいる。
息を整える間、その手をじっと見つめていた。
その視界に誰かの靴先が入り込んだ。
「……はっ、はぁあ、ちょっと、遅いよ。もう、ヒューノット――」
ああ、やっとだ。
そう思って顔を上げたところで、あれだけ熱かった全身が凍りついた。
私を見下ろしていたのは、確かにヒューノットの顔だ。
しかし、その肩口から下がる濃紫の髪は長い。
後ろばかり気にしていたのに、いつの間に前に来たのか。
感情が覗けない、冷たい青色の瞳が私を見下ろしている。
表情は、ない。
全くの無表情だ。
まるで、初めて会ったときのヒューノットのような、いや、それよりもずっと。
「――――ひッ!」
黒い外套が揺らいで腕を伸ばされ、反射的に顔を伏せて目を閉じたその瞬間。
耳を劈くような激しい音と共に荒々しい風が吹き荒れた。
慌てて目を開いてみれば、周囲にガラスの破片が散らばっていて、すぐ傍に黒い外套が見えた。
「ヒューノット!」
私を背に庇う形で立っているのは、今度こそ間違いなくヒューノットだ。
濃紫の髪が短い。それだけじゃない。モドキが、廊下の先に吹っ飛ばされている。
ハッとして横を見ると、ガラスどころか窓が窓枠ごと吹っ飛んでいた。
しかも、ひとつじゃない。
ずらりと並んだ窓のうち、四つがなくなって大きな長方形の穴になっている。
私の真横にある窓だけは無事だけど、そんなものに当たっていたらひとたまりもない。
ていうか、確実に死んでいた。殺す気か。
「……遅くなった」
低い声が向けられて、少しだけ肩から力が抜ける。
本当だよ、と言い返そうとしたけど、安堵の息が漏れる方が早かった。
殴られたのか、蹴り飛ばされたのか。
とにかく、廊下の先に吹っ飛ばされていたモドキが起き上がる。
私は床に転んだ姿勢のまま、まだ動けなかった。
モドキには、痛覚とかないのだろうか。なさそうだ。
「……ヒューノット?」
よくよく見ると、ヒューノットの外套はひどく汚れていた。
砂埃だろうか。泥のような汚れもある。
それに、外套の裾は擦り切れていて、随分とボロボロだ。
いったい、どこで何をしていたのだろう。
後姿を眺めているだけでも、違和感があった。
しかし、問うように名前を口にしても、ヒューノットは振り返ってくれない。
「……外には出るな」
「え?」
「上に向かえ。屋上だ。そこにいろ」
向けられる声は、とても淡々としている。
ヒューノットに愛想がないのは、いつものことだ。
そして、言葉が少ないのも普段と変わりない。
「行け」
「で、でも」
再びの別行動に、不安があることは確かだ。
それに、ヒューノットの様子が少しおかしいようにも見える。
「行け。今は、庇う余裕がない」
そう言われると、言い返せない。
当然、私はお荷物だ。
自分で自分の身も守れないし、だからといって補助だってできないし、打つ手なし。
本当は、さっきまでどこに行っていたのかとか、レーツェルさんのことだとか。
言いたいことも聞きたいことも、山ほどある。
だけど、今はひとまず言うことを聞いた方がよさそうだ。
私はお利口さんではないけど、ただのおばかさんでもない。つもり、だ。
「何かあれば呼べ」
「わ、わかった」
ゆっくりと立ち上がると、モドキが少し動いた。
やめてほしい。怖い。
少しビクついてしまった。
しかし、モドキはさすがにヒューノットを無視できないようだ。
少し横に移動した程度で、それ以上は動かない。
ヒューノットが片腕で示した階段を見遣り、一息置いてから駆け出した。
足元に散らばったガラスを踏むと、ギギッと擦れる耳障りな音がする。
「――お前の狙いは俺だろ。あいつは、傍観者だ」
階段へと向かう途中、一度だけヒューノットを振り返った。
背を向けたまま、顔は見えない。
ゆっくりと、剣を構える動作だけが視界に入った。
「俺の器らしく、俺に集中しろ――」
廊下に響く声を背に、階段を駆け上がる。
その間に、下の階からものすごい音がした。何かが割れるような、砕けるような。倒れるような、潰れるような。
ひどく不安になる騒音だ。だけど、見に行ったところで加勢できる力もない。
むしろ、ヒューノットの邪魔になることだけは確かだ。
とにかく、今は屋上を目指すしかない。
ヒューノットがそう指示したってことは、何か意味があるはずだ。
それを察することができれば、いいんだけど。生憎と難しい。
「――は?」
二階部分を越えて三階に到達したときだ。
屋上に続く扉があるはずの部分には、何もなかった。
「……は?」
もう一度、声が出てしまったけど、とにかくないものはない。
三階の廊下を覗いたけど、遠くに手洗い場があって階段のすぐ脇の壁に鏡がある以外は何もない。
もう一度、階段を見上げた。
階段自体は確かに上へと伸びている。それなのに、その先はどこにも繋がっていない。
違う階段だろうかと思ったけど、もしもそうだとしても、じゃあこの壁に繋がる階段は何だという話だ。
さっきもそうだったけど、建物の中がおかしくなっているとしか思えない。
こんなちまちまとした小細工を、レーツェルさんが仕掛けて来たとは考えにくいけど。
だからといって、全く可能性がないとも思えない。他に狙いがあるのなら、手段として仕掛けたかもしれない。
「……」
どうしよう。
階段を上がって壁に触れてみるけど、どう考えてもただの壁だ。
板が置かれているわけでもない。
ひとまず三階まで戻って他の階段を探してみたものの、やっぱりあの階段だと思う。
少し歩いた先で、もうひとつの階段を見つけた。
しかし、そちらは上に向かう段がそもそも存在していない。
下の階で、ヒューノットとモドキが暴れているのだろう。
地震かと思うような振動が伝わって来る。校舎が崩れはしないだろうか。
もう一度、さっきの階段まで引き返す。
そして、廊下の壁に掛けられた鏡の前を通り、階段を上がって壁に触れた。
だめそうだ。人力で壊せる気はしない。せめて道具でもあれば、少しくらいは削れるだろうか。
「……道具って、いってもなぁ……」
無理そうだとしか思えない。
ハンマーとか、あるのだろうか。あったとして、私の力で壊せるかどうか。
考えていたところで仕方がない。とにかく、何か行動しよう。
そう決めて再び三階の廊下に戻ったとき、違和感を覚えた。
何、だろう。
「……うん?」
何か、聞こえたような気がする。
下で派手に暴れている音や振動ではなくて、もっと近いところで何か。
じっと耳を澄ませても、下の階で暴れている音が大きくて聞き取れない。
本当に大丈夫か。倒壊しないだろうな。
「――あ!」
ぐるりと廊下を見回して、左右それぞれを眺めたときだ。
階段から見て左側――ちょうど曲がり角になっている部分を、誰かが走っていった。
小さな影だったように思える。
もしかして、最初に追いかけた子、だろうか。
ちょっと迷ったものの、ひとまず廊下を歩き出した。
どうせ、何のヒントもない。閉じ込められたようなものだ。
長い廊下を越えて角を曲がると、渡り廊下が見えた。別の校舎に繋がっているようだ。
屋根はついているが、壁はない。ここで狙われたら、ちょっとどころではなく危ない気がする。
そっと壁伝いに進んで、外の様子を見る。右側に運動場が広がっている。
左側は白い、雲だか霧だかのせいで霞んでしまっていて、景色は全く見えない。
あちら側が外だ、ということでいいのだろう。
徹底的に私たちを、外と隔絶しようとしているのかもしれない。
何秒かだけ待ったあと、下の階から大きく響き渡った破壊音と共に駆け出した。
渡り廊下を越えて、向こう側の校舎へと飛び込む。
「……っはぁ、ちょ、ちょっと、はしりすぎ、だよ、もうっ……」
ここは、あちらの世界なのか。それとも、こちらの世界なのか。
体力の消耗が激しいから、たぶん、こちらの世界だと思うけど。
この不可思議な現象を思えば、だいぶ干渉されている気もした。
外から見えないように少し進んだ先で、壁に背をつけて大きな呼吸を繰り返す。
「……っ!」
そのとき、はっきりと声が聞こえた。
聞こえたなんてものじゃない。
「――――ヤヨイ!」
その声は、確かに私を呼んだ。




