60.苛烈な棘
傍観者が正しいかどうか。
問い掛ける声はともかく、その瞳を見ていると、責められているような気持ちになる。
「……正しいか、って」
傍観者が、その選択が、正しいのか正しくないのか。
そんなこと、わかるはずがない。
正解がないことなのに、何が正しいのかなんて。
「おわかりいただけませんでしたか」
答えに窮している私の戸惑いなんて、全く気にした様子もない。
レーツェルさんは、ただ淡々と言葉を紡いだ。
「"あれ"をごらんになっても、まだおわかりいただけないとは思いませんけれど」
冷たい風が私たちの間をすり抜けた。
風に乗った雪が散らばって、周囲の純白に溶けていく。
周囲一面を染める白。
遠くに立ち並ぶ木々に囲まれた場所。
ここは、ツェーレくんと初めて会った場所、かもしれない。
森なんて、どこも似たような景色だから、なんとなく、だけど。
「……正しいかどうか。それは、わからない、ですけど」
本当にそうだ。
何が正しくて、何が間違っているのか。
誰が正しくて、誰が間違っているのか。
空の崩落を見届けられなかったシュリが、間違っていたのかどうか。
約束を果たせなかったヒューノットが、間違っているのかどうか。
星を返せなくなったツェーレくんが、間違っているのかどうか。
理想の王様を追い求めるレーツェルさんが、間違っているのかどうか。
あるいは、ユーベルが間違っているのかもしれない。
ひょっとしたら、全員が間違えてしまったのかもしれない。
正直なところ、私には判断できなかった。
「……」
わからない、けど。
少なくともヒューノットは、今までに何度も傍観者の誤った選択を繰り返してきたのだろう。
ルーフさんやプッペお嬢様のことも、そして、あの街のことも、バッドエンドのひとつ。
それは確かだろう、とは思う。
私は、どんな表情を浮かべたのだろうか。
レーツェルさんは、どこか満足げに口許の笑みを深めた。
「わからない。そう、わかりませんのね。――では、もう一度ごらんになって、よくお考えくださいな」
柔らかそうな笑み。
反して、笑っていない瞳。
レーツェルさんは、静かに片手を持ち上げた。
細い指先が、まるでシルクを撫でるような優雅な仕草で宙をなぞる。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! 待って、ください!」
慌てて放った制止の声に、レーツェルさんはゆったりと腕を止めた。
雪の白に埋もれてしまいそうな、白い肌。純白のワンピース。
動きによって揺らいだ金の髪が白い布の上に落ちて、ゆったりと僅かに跳ねる。
やっぱり――さっきまでの光景は、レーツェルさんが見せていたらしい。
もう一度、というのだから、そういうことだろう。
レーツェルさんが欲しがっている答えはわかっている。
傍観者は、間違っている――そう聞きたいのだろう。
元々、レーツェルさんは傍観者を嫌っている。
そうでなくとも、気に入らないシュリの決断を受けて招かれた傍観者を気に入るはずもない。気がする。
「……何が、したいんですか?」
もう一度――は、見たくない。
できれば、もう二度と見たくなかった。
あんなにも辛そうなヒューノットも、彼の目に映るあの光景も、だ。
なるべく視線を外さないように、視界の中心にレーツェルさんの姿を入れる。
まさか、認めさせて終わり、なんてことはないだろう。
私に"傍観者は、間違っている"と言わせて、思わせて、どうするつもりなのか。
レーツェルさんは数秒だけ沈黙したあと、緩やかに肩を竦めた。
「それは、私の台詞でしてよ。傍観者は、どうなさるおつもりで?」
質問に対して、質問が返された。
マナー違反じゃないか。
まるで、私が意図を探ろうとしていることを拒むかのようだ。
「まだ、選択を繰り返すおつもりでいらっしゃいますの?」
責められている気分になる言い方だ。
選択はせずに沈黙しろ――そう言うくらいなのだから、相当気に入らないのだろう。
「それとも、彼を選択肢から解放するおつもりでいらっしゃいますの?」
続いた言葉は、少し予想外だった。
シュリと同じことを言ったから、だ。
正確には、シュリは"ヒューノットが選択肢から解放されつつある"と言っただけではあるけど。
シュリとレーツェルさんが、全く同じ意図でそう言っているとは考えにくい。
「……どういう、意味……ですか?」
妙な緊張感で喉が渇く。
問い掛けるだけの声さえも震える。
「言葉通りの意味でしかありませんわ」
やっとの思いで問いを搾り出したというのに、レーツェルさんは素っ気ない。
優しそうな笑みを浮かべておいて、この扱いだ。
「あなたは、彼についてどのように思っていらっしゃいますの?」
「ヒューノットのことを……?」
どのように――なんて言われても。
そんな質問をされても、困ってしまう。
確かに、あんまりだとは思う。
ヒューノットが言っていた通りだ。
どちらを選んでも、正解がない。
戦っても戦わなくても、ルーフさんは死んでしまう。
ヒューノットが手を掛けるか、彼自身が自ら死を選ぶか。その違いしかない。
プッペお嬢様は助かるけど、だからといってハッピーエンドではなかった。
ルーフさんがもう戻っては来ないのだと、そう知ったあの子の泣き声。
逃げなければ、耳の奥から離れなくなりそうだった。
もし、選択肢から解放されたら、ヒューノットはどんな行動を取るのだろう。
ヒューノットなら、ルーフさんを救えるのだろうか。
プッペお嬢様もルーフさんも、どちらも助かるルートを引っ張り出せるのだろうか。
「あまりにも惨めで、ひどく哀れな方ではありませんか。彼に、どのような罪があるというのでしょう」
レーツェルさんの言葉に、びくりと肩が震えた。
「ああ、罪があるのだとすれば……気まぐれで無責任な傍観者に、選択を委ねた事でしょうね」
レーツェルさんの声だけが周囲に響く。
もう風の音さえも、耳には届かない。
彼女はヒューノットを、操り人形に甘んじていると言った。
その言葉は、傍観者にとっての操り人形で、そしてシュリにとっての操り人形でもあったのかもしれない。
どちらにしたって、レーツェルさんは気に入らないわけだ。
「……」
結局のところ、傍観者がどの選択肢を選ぶかなんてどうだっていいはずだ。
本当にやらないといけないのは、"繰り返し"を止めることのはず。
"繰り返し"さえ止めれば、別のルートができあがる。
別のルートができて、それが彼らの望む方向に繋がっていけば。
「さあ、彼に許可を」
思考が遮られて落としていた視線を持ち上げると、レーツェルさんは黒い服を纏っていた。
白い肌がより一層に目立つ、喪服のような光沢のない黒。
足元まで隠す長いスカートの裾が、雪の中でひらりと揺らぐ。
たった数秒のうちに、純白が漆黒に染まっていて、少しだけ不気味な気持ちになる。
この程度のこと、今までに何度もあった。
それなのに、だ。
「彼に"許可"をお与えになって」
ゆったりとした声。
優しくて、柔らかそうな声。
だけど、どこか冷たくも感じられる。
「それが、それこそが傍観者の役割でしてよ」
風が流れる中で、彼女の声だけがくっきりと残る。
まるで鮮明さを増したかのようだ。
白の中に紛れた黒色。明確な輪郭を与えられた言葉。
それが、揺らぐこともなく向けられる。
「彼に許可を与えて、彼を解放なさい」
許可。
選択肢からの解放、ではなくて"許可"を与える。
その言い回しは、どこかで聞いた。誰から聞いたのだったか。
確か、あれは――ヒューノットからだ。
祈りの丘。あの、広いホールで。ヒトガタ達に群がれていた彼が、言い放った。
――許可を与えろ。
――それだけでいい。
あのときは、とにかくどうにかしなければと思っていた。
だから、どうしてヒューノットに許可が必要なのかなんてわからないままだ。
「そうすれば、もう怖い思いも、苦しい思いも、悲しい思いも、しなくて済みますもの」
思考の中に、レーツェルさんの声が入り込む。
すごく、邪魔だ。
やめてほしい。考えがまとまらなくなってしまう。
レーツェルさんの言うことは、確かにもっともだ。
選択肢から解放されたら、少なくともヒューノットはあのひどい選択を繰り返さなくて済む。
嘆きながらルーフさんに剣を振り落とすことも、泣き叫ぶプッペお嬢様を前にすることもない。
だから、レーツェルさんの言っていることはわかる。
だけど。
「彼の為にも、あなた自身の為にも、彼を解放しなさい」
違う。
レーツェルさんは、ヒューノットのことを自分たちと同じだと言った。
そして、ヒューノットはそれを否定していた。
レーツェルさんには、狙いがあるはずだ。彼女には、目的がある。
だけどそれは、ヒューノットを助けることじゃない。
ヒューノットのことも含まれているかもしれないけど、それだけじゃないことは確かだ。
そもそも、ヒューノットが彼女に向けた言葉は何だった。
拒否と拒絶だったような気がする。
噴水の間で話していた内容は知らないけど、"やめにしないか"とヒューノットは言っていた。
ふたりの目的は似ているのかもしれない。
だけど、手段がきっと違うんだ。
だからこれは、つまりレーツェルさんのためだ。
「彼に許可さえ差し出してくだされば、たったそれだけで終わりますわ」
黙り続けている私に対して、レーツェルさんは少しも焦れた様子さえない。
当然のことを告げているような、至極当たり前のことを言っているような、そんな調子だ。
私が頷くだろうと、確信しているのかもしれない。
喉奥が、ぐっと狭まる心地がする。
変な緊張感があって、周りの空気は冷たいのに握り締めた手の中が妙に熱い。
眼前の姿を視界から外した。
レーツェルさんは、傍観者に"選択"させようとしている。
傍観者の選択から、ヒューノットが完全に解放されていないから。
選んでしまったら、ヒューノットはその選択に従わざるを得ない。
だから、わざわざ傍観者に働きかけているんだ。
そうしなければ、ヒューノットを手に入れられないから、かもしれない。
「簡単なことでしょう?」
だとしたら、レーツェルさんの計画にはヒューノットが必要なんだ。
彼自身なのか、彼の役割なのか、戦力としてなのか。それは、わからないけど。
「この世界を変える為の許可を、彼にお渡しになって。そうすれば、彼は望みのままに動けるでしょうから」
意識の中に入り込む。
その柔らかくて優しげな声が、何だかとても嫌だ。
瞼を下ろして、ぐっと強く目を閉じる。
間違えちゃいけない。
傍観者の選択で、ヒューノットはまた"繰り返す"かもしれないんだ。
やり直せるといっても、そんなのだめだ。
それに、今はシュリもいなくて、ここがどこかもわからなくて、やり直しだってできないかもしれない。
「何も悪い事はありませんわ。そうすれば、あの子にも良い結果がもたらされるでしょうから」
お願いだから、少し黙って欲しい。
引っ張られて頷いてしまいそうで、すごく怖い。
まるで当然のような、当たり前のような、常識であるかのような、そんな調子で言ってくる。
こっちが間違っているように思わされる響きを、彼女は持っている。
善良な人を突っぱねなければならないような、奇妙な抵抗感と罪悪感。
それが狙いだとすれば、大したものだと思う。
やっぱり、好きじゃない。
強く閉じた瞼の裏で、ふたつの顔を思い浮かべた。
ヒューノットを選択肢から解放しようとしている――そう言ったときの、シュリの言葉を思い出すために思考を巡らせる。
回りくどくてわかりにくいけど、必要なことはきっと言われているはずだ。
だって、シュリは案内人。
ヒューノットが傍観者の手足であるように、シュリにだって役割があるはずなんだから。
――彼は、君の手足だ。そして、盾でもあり剣でもある。
――君を守る為の鎧にも成り得て、君の望みを叶える為の手段にも成り得る。
――そして同時に君は、彼にとって定めそのものだ。
――ヒューノットは、君に選択肢を委ねる存在であり、君に運命を託している存在でもある。
――だが、そう。ここが変わって来たのさ。ヒューノットは、君に行動の選択肢すべてを譲らなくてもよくなって来ている。
――どうしてか。それは、君が一番よく分かっている筈さ。
――君は彼に、彼自身の気持ちで動くように求めているのではないかな?
――自由を手にする為には、代償が必要だ。その代償が何であるのかは、我々の知るところではないがね。
――君は確かにこの世界を変えつつある。
「できないよ」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
ヒューノットは、確かに苦しんでいた。と、思う。
ルーフさんのことについて、シュリを責めていた。それは、確かだ。
選択肢に、ルーフさんを救う手立てがないことを嘆いていた。苦しそうで、悲しそうでもあった。
だけど。
ヒューノットが、シュリを大切にしていることだって嘘じゃない。
シュリがいなくなったとき、ヒューノットがどんな顔をしていたか。
探してくれと懇願する声やあの表情が、すべて嘘だったなんて思えない。
ヒューノットは、シュリを失いたくないと言った。自分が食べられそうになっていたのに。
それでも、シュリを選べと声を荒げたときの表情は忘れられそうにない。
自分に非があるのとシュリが言ったとき、ヒューノットはいつだって否定した。
あのふたりの間に、割り切れない何かがあることは確かだろう。
でも、だからといって、ヒューノットはシュリを傷付けたいわけではない。はず。
「できない、ですよ。そんなの」
だから、私は拒否を繰り返した。
「……ヒューノットは、望んでないですから」
少なくとも、ヒューノットはレーツェルさんと同じことを望んではいない。と思う。
レーツェルさんは、この世界もろとも捨てるつもりだ。
世界が崩壊する未来を受け入れて――だけど、そのまま終わるつもりなんてない。
「……」
責め立てられるかと思ったけど、そうではなかった。
レーツェルさんは緩やかに肩を竦めて、ゆったりと首を振る。
そして、微笑んだ。
「――そう」
レーツェルさんは、緩慢な仕草で肩を竦めた。
「残念ですわ。傍観者、せっかくあの子とお友達になってくださると思ったのに」
パチン――と、指を弾く音。
その直後、私たちを取り囲んでいた純白の景色が、まるでカーテンを引くように弾け飛んだ。




