59.疑惑の芽
どうしても、プッペお嬢様の泣き叫ぶ声を聞いてはいられなかった。
無我夢中で扉に飛び込んだせいで、三日月の色なんて見てもいない。
とにかく、あの場から離れたかった。
ヒューノットが悪いわけじゃない。
だけど、ヒューノットを責めるわけでもないプッペお嬢様があまりにも可哀想だった。
あんなの、あんまりだ。
「――っはぁ……」
無意識のうちに胸で留めていた呼吸を再開する。
思わず、溜息のようになってしまった。
扉さえ閉じてしまえば、響き渡っていた泣き声は少しずつ遠ざかっていく。
それでも、耳の奥に残っている感じがした。
バクバクと心臓が激しく音を立てている。痛いくらいに、うるさい。
前屈みになっていた姿勢を戻しながら、胸に手を当ててゆっくりと深呼吸をする。
どうにか、落ち着かせようとするけれど、なかなかすぐには落ち着かない。
「……あれ?」
顔を上げると、そこはお月様の部屋ではなかった。
てっきり戻って来たものだと思っていたけど、違っていたらしい。
後ろを振り返ると、扉は当然のように姿を消していた。面倒くさい仕様だ。
何にしても、扉を探さないと戻れない。いや、さっきは扉の方から来たけど。
「……」
どこ、だろうか。
左右にずらりと並んでいる建物は、全て裏側を見せている。
裏路地というか。そんな感じの場所だ。
私が立っているのは、ちょうど路地が終わった突き当たり。
場所はわからない。たぶん、来たことのない場所だ。
まあ、ぼんやりしていても仕方がない。
細長く狭まった空を見上げると、憎たらしいほどの快晴だ。
狭い路地を明るい方へと歩いていく。
すると、路地の外から人の声が聞こえて来た。
少し警戒しながら、壁に身を寄せて路地から顔を出す。
「……んん?」
最初に見えたのは、大きな噴水だ。
子ども達が笑い声を上げながら、噴水の近くを駆け抜けていく。
ベンチに座っているのは、杖を握ったおじいさん。
大きな木の近くで立ち話をしている女の人たち。
林檎の入った木箱を運んでいる人。行き先は、噴水脇の出店のようだ。
それぞれが思い思いに過ごしている。
どこ、だろう。
考えながら、そーっと路地から抜け出ると、赤ん坊を抱いた女の人に挨拶された。
ビクッと肩が跳ね上がる。
「こっ、こんにちは……」
びっくりして頭を下げた私を見て、笑みを浮かべたその人は赤ん坊を揺らしながら道を進んでいった。
ご機嫌な様子の赤ん坊は、きゃっきゃっと手を揺らして空を撫でている。
「……」
路地を振り返るけど、これといっておかしなものはない。
そして周囲にも、何も変なところはない。
いや、何だろう。
見たことがあるような、そんな気はする。
白い石が敷き詰められた道は、とにかく活気に溢れていた。
人がたくさんいて、さっきまで洋館で見ていた光景が嘘のように感じられる。
どこなのか。
考えてみたけど、どこなのかはわからない。
見たことがある気はするけど、それだって定かではないわけだし、自信もなかった。
「……あっ」
噴水の傍まで歩いてみると、そこが十字路の中心になっていることに気がついた。
まるい円を描く噴水を中心に円状に広がる白い石。太い道以外は、等間隔で植えられた木々が輪郭を作り上げている。
真っ直ぐに白い石畳が伸びる道は、四方向。
視線を巡らせると、白い道は少しずつ大きさが違っていた。
一番太い道を辿って広場から出て木々を越えると、似たような形の建物が整然と並んでいる。
見えたのは、暖かな色合いのレンガ。足元だけは白い石だけど、建物はみんなレンガで出来ているようだ。
こっちが、メインストリートの扱いでいいのだろう。たぶん。
高い位置に干された洗濯物。窓辺に飾られた花や植え込み。立ち並ぶ店。行き交う人々。
混雑して歩きにくいというほどではない。焼きたてパンの、いい匂いが鼻を掠めた。
店先に並べられた色鮮やかな果物。
エプロン姿の女性が、それを手に取って吟味している。
店の人と話すその横顔は、とても穏やかそうだ。ポニーテールの金髪が揺れている。
足元で紙袋を抱いている小さな男の子も金の髪。お手伝いをしているのだろうか。
少し視線をずらすと、ジュースを売る男の人が見えた。
お客さんは、姉妹らしい女の子ふたり。手を繋いでいて、微笑ましい。
こっちは、ふたり揃ってふわふわの赤髪だ。
お姉さんっぽい子は、白色のブラウスとピンクのスカートが可愛らしい。
妹さんらしい子は、黒のワンピースでとんがり帽子姿。魔女の仮装みたいで、可愛い。
みんな、顔立ちも髪色もザ・外国人さんという感じだ。いや、こっちだと、私が外国人か。
金髪と茶髪が多いのかな。ちらほらと赤い髪の人もいる。
そういえば、広場で最初に見た赤ん坊の髪は薄紫色だった。お母さんらしい女の人は、金というか白っぽい髪だったかな。
「……」
何にしても、日本人っぽい人なんてひとりもいない。
路地裏のときは、あっちに戻ったのかと思ったけど、全然そんなことはなさそうだ。
麦わら帽子の男の子が駆け抜けていく。そして、追いかけるりはお兄ちゃんっぽい子。
コーヒーの匂いがして視線を向けると、ちょうどドアを開いてお客さんを見送る姿が見えた。
手を振ってお客さんを見送っていた口ひげのおじさんは、私にも手を振って来た。すごくフレンドリーだ。
「……すごいなぁ」
何だろう。
まるで、お手本のようだ。
幸せを表現するなら、こんな光景になるだろうと思わせるような。
平穏というものを形にするのなら、こんな日常になるのだろうと感じさせるような。
何というか、映画のワンシーンのようだ。
ゴミ箱は中身が溢れ返っているわけでもない。
肩を並べた子どもたちは、みんな仲が良さそうだ。
連れ立って歩いている恋人や夫婦らしい人たちもいる。
人混み特有の、どこかせかせかした雰囲気や苛立った様子も全く見られない。
動物の姿はないけど。まあ、街中にいる動物なんて犬か猫、カラスかスズメか、それくらいだろう。
立ち並ぶ店たちを越えて、広場に背を向けて道を進む。
建物自体は同じような形だけど、屋根の色にはバリエーションがあるらしい。
落ち着いた青系統から、華やかな赤系統まで様々だ。
建物が疎らになって視界が広がって来た頃、前に視線を顔を向けると白い塀が見えてきた。
白く塗られたレンガらしい。
ラクガキがされているわけでもなく、どこかが欠けているわけでもない。
綺麗に積み上げられたレンガの塀。
「……?」
まさか。
そんなこと。
少し足早に近付いて行く。レンガの塀には、扉があった。
木製。少し古びているけど、汚くはなっていない。きちんと管理されている感じがする。
「……ここって」
チュートリアルで来た、場所、ではないのか。
確か、ここをシュリと通った気がする。いや、通らされたというか。
そこまでハッキリと覚えていないけど、あのときだって白いレンガの塀に木製の扉だった。
いや、同じ場所。なのか。でも、だって、だけど、あのとき見たのは。
あんなにも真っ白な場所と、今のこの場所が結びつかない。
結びつかないというか。
同じだけど、違うような気がするというか。
何だろう。違和感。
この扉があのときの扉なら、あちら側には平原が広がっているはずだ。
シュリがいつも待機している場所。
最初に通る場所であり、すべての場所に繋がっていると説明された平原。
「――ッ!」
扉に触れようと手を伸ばした瞬間、轟々とうなりを上げて風が巻き起こった。
眼前の扉が激しく軋んで音を立てる。
まるで向こう側から激しく叩かれているかのようだ。
木々や板の軋む音や何かが弾ける音、そして転ぶ音が続く。
目が痛いくらいの突風だ。耐え切れずに目を閉じると、急に足元から一気に寒くなった。
ぞくりと背が震えるほどの寒さが、急速に這い上がって来る。
まるで大きな冷凍庫に入り込んだ感じだ。
冷え切った空気が急激に肺を満たして、息苦しさが込み上げる。
耳や鼻、指の先、とにかく末端から熱が失われていく。
吹き荒ぶ風は強くて、肌に当たるとひどく痛い。
キツい風が当たる痛さなのか。それとも、冷たさによる痛さなのか。それさえも、わからない。
雨か雪か。細かな粒が降り注いで、全身の冷えが更に増す。
足の先から頭まで包み込んだ唐突な冷気に耐え切れず、数歩ほど後ずさったところで転んだ。
とにかく逃げないと。そうは思うのに、身体が動かない。そもそも、目を開けることすらできなかった。
打ち付けたお尻が痛い。
「……」
不意に音が途切れた。
風も、嘘のように消えている。
本当に周りからは何も聞こえて来ない。
せいぜい、自分の呼吸音と心臓の音くらいだ。
違う場所に飛ばされたのだろうか。だとしても、今さら驚きはないけど。
顔を覆っていた腕を下ろして、恐る恐る目を開く。
すると、目の前に転がっている鉢植えが見えた。枯れた花とこぼれた土に雪が降り積もっている。
木製の扉は閉じられたままだ。
振り返ると、家々の屋根にも道や植木にも、たっぷりの雪が落ちていた。
大通りを行き交っていた人たちの姿は、ない。
街は一瞬にして静寂に満ちていた。まるで、さっきまでの光景が幻だったかのようだ。
静まり返った街。白く染まった光景。
見れば見るほど、思い出すのはシュリと来たときのことだ。
さっきまでは、あんなに色鮮やかだったのにひたすら白い。
雪が積もっていることを除いても、木々も建物の壁や屋根も白一色になっている。
一面に白色が広がる中で、黒ばかりを纏うシュリの姿だけが妙に浮いて見えたことを思い出す。
だけど、今は私ひとりきりだ。
不気味なほどに静かで、本当に他には誰の姿も見当たらない。
あの女の子たちは、どうなったのだろう。赤ん坊を抱いた人は。追いかけっこをしていた子は。
震える脚に力を込めて何とか一歩だけ踏み出したけど、それ以上は前に進めなかった。
背後で、扉の開く音がしたからだ。
心臓がバクバクと激しく音を立てる中、何とか意を決して振り返る。
「――……ヒューノット」
最初に視線が向いたのは、特徴的な濃紫の髪。
スス、だろうか。頬や服も汚れているけど、間違いなくヒューノットだ。
どこにいたのだろう。何か、焦げたようなニオイが漂って来る。でも、怪我をしている様子はない。
肩を上下させながら、真っ直ぐに私――いいや、私の向こう側に広がる景色を凝視している。
このヒューノットもきっと、過去の姿なのだろう。
つまり、私の姿は見えず、そして声も聞こえないはずだ。
ヒューノットは数秒だけその場に佇んだあと、大股で歩き出した。
そして、手当たり次第に家々の扉を開き、中を覗き込み始める。
まるで何かを、誰かを探しているかのようだ。
しかし、誰もいない。
誰ひとりとして、ここにはいない。
声どころか、何の音もしなかった。
ヒューノットが扉を開閉させ、転がった鉢を蹴り飛ばし、強引に鍵を壊す音だけが虚しく響き渡る。
誰を探しているのだろう。
いや、誰でもいいのかもしれない。
とにかく人が残ってはいないかと、探しているようにも見える。
私はその場に立ち尽くしたまま、少しずつ離れていくヒューノットを眺めることしかできない。
白く染まってから確信を持ったけれど、確かにここはシュリと共にチュートリアルで訪れた場所だ。
そして、噴水の向こう側。開けた場所の地下で、ヒューノットに会った。
あそこが彼の家なのか。それはわからない。でも、少なくともヒューノットはこの街に縁がある。
さっき広がっていた光景が、この街の持つ本来の姿なのだとしたら。
ヒューノットは、あの平穏が失われた街の地下で、ただずっと傍観者を待っていたことになる。
いつ来るのかもわからない。
そして、正解を選ぶかどうかもわからない。
望んだ道が開けるとも限らない。
何度も繰り返されるバッドエンドを記憶に留めたまま、彼はここで待っている。
シュリが平原で、ただじっと待っているように。
「……」
気の遠くなるような話だ。
そして何より、気が滅入る話でもある。
最初に会ったとき、ひどく印象が悪かった。
でも、今ならなんとなくわかる。こんなことを繰り返していたら、傍観者に期待なんて持つはずがない。
冷たい眼差しも、苛立ちを含んだ振る舞いも、雑な扱いも、意味がわかってくる。
ヒューノットを追いかける気にはなれなかった。
その姿がとうとう見えなくなっても、私の足はその場に留まったままだ。
寒さと冷たさだけが、私の周囲に取り残される。
未だ、静まり返った街には誰の姿も当たらなかった。
ああやって探し続けて、誰もいないのだと知って、ヒューノットはどうするのだろう。
考えるだけで胸の奥が痛い。
これじゃ、あんまりだ。
ヒューノットが何をしたというのか。
あんまりにも、ひどい。
洋館で起きた出来事も、この場所の状態も、ヒューノットを追い詰めるばかりで救いがない。
選択肢に、ルーフさんを救う道はなかった。
本当にないのか、まだ見つかっていないのか。それは、わからない。
助ける選択肢が見つかる可能性はある。
だけど、その前にヒューノットはずっと繰り返して来たわけだ。
ヒューノットと、ルーフさん。
レーツェルさんと、ツェーレくん。
それぞれが似ているように感じられて、周囲はこんなに寒いのに目の奥が熱くなる。
――この世界を閉じ込めたのは、一体、どこの、誰なのか。境界の鍵を隠したのは、誰なのか――
そんな風に言っていたレーツェルさんの声が、頭の中で繰り返される。
彼女はヒューノットに、言っていた。"あなたは私と同じ"だと。
ヒューノットは、それを否定したけど、確かに似ているように思えて来た。
プッペお嬢様を抱き締めるルーフさんの姿。
意識のないツェーレくんを抱き締めたレーツェルさんの姿。
視覚的に重なるのは、そのふたつ。
だけど、ルーフさんには記憶が残っていない。
誰かを助けるための道を選べなくて、記憶を保ったままバッドエンドを繰り返しているのはふたり。
ヒューノットとレーツェルさんだ。
――お前とは違う。
ヒューノットは確かに否定した。
同じだと告げた彼女へと、静かに、だけど強い否定が滲んだ否定だった。
わかっている。
傍観者の選択に従わざるを得ないヒューノットと、自ら手を下したレーツェルさんが同じはずがない。
だけど、レーツェルさんの言葉がすべて間違っているとは思えなかった。
――ねえ、ヒューノット。あなたもそう、とても苦しいでしょう? あなたは、私と同じ。
――大切な人を失い続けていて、胸が張り裂けそうで、それなのに叫ぶ声ひとつ持ち合わせてはいない。
耳の奥で声が響く気がした。
感情を押し殺すように、黙れと告げたヒューノットの声。
高い声で笑い続けるレーツェルさんの、声。
「ごらんになりまして?」
真後ろから響いた声に、弾かれたように振り返る。
すると、そこにはレーツェルさんが立っていた。
金色の髪を揺らしながら、青い瞳を細くして微笑んでいる。
ゆっくりと喉に留まった空気が落ちて、静かに私の肺を満たした。
彼女が身に纏っているのは、純白のワンピースだ。
周囲は一面の雪。
私の背後にあったはずの白い塀はなくなっていて、代わりのように木々が立ち並んでいる。
まるで森の一角のようだ。
視線を巡らせてみたけど、さっきまで見えていた建物や足元の石畳もなくなっている。
当然、ヒューノットの姿もない。
レーツェルさんに視線を戻すと、彼女はやんわりと首を傾げていた。
さらさらと落ちていく金色の髪に、柔らかな光が触れている。
「それでも、傍観者が正しくて?」
真っ直ぐに向けられる青。
その瞳は、笑ってなどいなかった。




