58.不穏な幻
さっき見たものが、かつての傍観者が選んだ結末だったとしたら。
だとしたら。
プッペお嬢様は、一体どうなってしまうのだろう。
廊下を駆け抜けて幅の広い階段を上がり、二階の廊下をひたすらに駆け抜ける。
さっき、ヒューノットに私の声は届いていなかった。
そもそも、見えているようにも思えない。
なら、私が今こうして見ているのは、やっぱり過去の光景かもしれない。
転びそうになりながら、プッペお嬢様の部屋を目指す。
部屋の前へと辿り着いて、すぐに扉を開いた。
「……っ」
扉を開いた真正面にある大きな両開きの窓。
ガラスはすべて割れていて、窓枠に僅かな破片と痕跡が留まっている。
きちんと両脇にまとめられていたカーテンは引き裂かれて、カーテンレールごと半ばまで外れて落ちていた。
窓から少し離れた位置にあるベッドは、真ん中が大きく陥没している。いや、折れている、というべきか。
壁に沿って並んでいた棚は引き倒されて、折れた枠や天板などの残骸が周囲に転がっている。
そして、その棚やソファを満たしていたフェルト人形たちが床に散乱していた。
人形たちは手足が千切れていたり腹の中身が出ていたり、ひどく汚れていたりして無事なものは少ない。
「…………」
ベッド上に置かれていたぬいぐるみ。
クマと、ネコ。
ルーフさんが作ってくれたのだと、プッペお嬢様が嬉しそうに見せてくれたものだ。
どちらも首や腕、そして腹が引き裂かれて無残な姿を晒している。
この部屋には、もう、原型を留めているモノはほとんど残っていない。
まるで、徹底的に破壊したかのようだ。
形あるものすべてを憎んでいるかのように、部屋中を荒らし回った後のように見えた。
ひどく散らかった室内にいたのは、ルーフさんだ。
いや、彼だけじゃない。その腕には、小さな身体が抱かれている。
中央で割れたベッドの手前に、ルーフさんは座り込んでいた。
「……プッペちゃん」
私は、扉を開いたまま、中に入ることさえもできずに立ち尽くしていた。
自分の声が、まるで他人の声のように聞こえる。
インクにも似た黒色の液体と生々しい赤色に塗れたルーフさんは、嗚咽を漏らしながら小さな身体を抱き締めていた。
どこかで見た光景だ――と、思った。どこか、どこだったか。
記憶違いなのか、ただの現実逃避なのか。それさえ、わからない。
壁や棚の残骸に散った赤色が、乾かずに少しずつ垂れ落ちている。
『――嫌だ……』
ルーフさんが声を出した。
それは、静まり返った寂しい室内に、ただただ虚しく響いていく。
『……こんな、……こんなことが、ああ、お嬢様……』
嘆きの声は静かに、嗚咽と共に落ちた。
割れた窓から入った風が、ゆらりと彼の髪を散らす。
ゆっくりと傍らを向いた横顔が見えた。
髪の間から覗いたその横顔に、恐ろしく裂けた口も暗闇に浮かぶ眼球もない。
そこにあったのは、ただ優しい彼の顔だった。
輪郭さえも黒く染まったバケモノなんて、どこにもいない。
彼の頬を流れ落ちる涙が、肌に飛び散った黒い液体を流していく。
『……私は、私は守りたくて、なのに、こんな、あなたが、あなたがいないのに、私は……私が、こんな、……この手で、あなたを、そんな……ああ、お嬢様。お願いです、どうか、どうか……お願いですから、どうかお声を。どうか、呼んで、お願いです。お願いですから、目を……』
ルーフさんの震える手が床を這う。
そして散らばった人形を越えて、ゆっくりと手指が伸びていく。
彼の指先が辿り着いたのは、冷たく光を反射した透明な何か。
『――――ルーフッ!』
廊下から声が聞こえた瞬間、肩が大きく跳ね上がった。
驚いて振り返った私をすり抜けて、勢いよく部屋に飛び込んだのはヒューノットだ。
荒々しい呼吸を繰り返して肩を上下させている。そんな姿、私は見たことがない。
ハッとして視線を前に戻したときには、もう、ルーフさんは崩れ落ちるところだった。
小さな身体を――プッペお嬢様をその腕に抱いたまま、ゆっくりと後ろ向きに倒れていく。
周囲に飛び散った赤は、ひどく濃い色をしていた。
私の位置からでは、ヒューノットの表情は見えない。
ヒューノットの身体が立ちふさがって、ルーフさんたちの様子もわからない。
「――!」
緊張によって固まった喉が音を立てたとき、けたたましい音が背後に響き渡った。
あれは、聞いたことがある。あれは。あれは、鳴き声だ。さっき聞いたばかりの、獣の咆哮。
脚が固まって動かない。
何とか顔だけを動かして廊下を見ると、モヤと煙を纏った黒い"ソレ"にヒューノットが剣を突き立てているところだった。
剣先が何度も何度も、黒いモヤを引き裂いて周囲に液体を飛び散らせていく。
その度に"ソレ"は、鼓膜が破れそうな程に大きな声を上げて暴れ狂った。
鋭い爪が急を裂いて、廊下の壁や床を傷付ける。
絶叫と咆哮が廊下に満ちる中でも、ヒューノットは動きを止めない。
何度も何度も、"ソレ"の――"彼"の背に、剣を振り下ろし続ける。
周囲に飛び散る黒い液体。肉の裂ける生々しい音と、液体の落ちる音や飛び散る音が続く。
黒々とした液体が付着したヒューノットの肌が、ピッと裂けて赤い血が噴き出した。
それでも、ヒューノットはやめない。
狂ったように暴れる"彼"を片腕で押さえつけて片膝を乗せ、次第に真上から剣を振り下ろす形になっていく。
絶叫じみた咆哮が響き渡り、そこに様々な音が混ざり込み続ける。
「ヒューノット……」
"彼"の黒い頭部を押さえ込んで剣を振り落とすヒューノットは、歯を食い縛っていた。
見開かれた青い瞳からは、止め処なく涙が溢れている。
それが黒い液体を少し流しても、上塗りするように液体が噴き出て周囲を、そしてヒューノットを汚す。
剣先に引っ掛かっていた黒いヘドロのようなものが、ヒューノットの荒い動きによって床に散った。
ぐちゃっと壁に叩きつけられたそれは、壁に黒い痕跡を残しながらずるずると落ちていく。
「ヒューノット!」
とうとう"彼"が動かなくなっても、ヒューノットは剣を止めはしなかった。
馬乗りになった状態で、汚れた剣を激しく振り下ろしては再び振り上げる。
濃紫の髪まで黒々と染まっているというのに、ヒューノットは動きを止めない。
私の声は、届かない。
「ヒューノットっ!」
止まって。
もういいから。
「ヒューノットってばッ!」
止まって欲しかった。
だけど、ヒューノットは壊れたように剣を振り下ろし続ける。
止まって欲しいのに、私の声は届いてくれない。
途中から咆哮に混ざっていたのは、ヒューノットの泣き声だった。
咆哮が消えてしまったあとも、泣き叫ぶ声が廊下に響き渡って消えてくれない。
――"戦わない"と選択した場合、ヒューノットは彼を取り逃がす事になる。
――そうなれば、彼は大切なお嬢様を手に掛けてしまうのさ。
シュリから聞いた言葉が、声を伴って頭の中に響いた。
異形と化したルーフさんは、プッペお嬢様を襲う。
ヒューノットは戦わないという選択を受けて、それでも"彼"を止めに来たんだ。
彼が大切にしている存在を、"彼"自身に傷付けさせない為に。
何かが落ちる音がして顔を上げると、剣を手放したヒューノットが肩を震わせながらうずくまっていた。
「……どうして」
ふたり失うか、ひとり失うか。たったそれだけのことだと、シュリは言っていた。
結末がひとつしかない。それなら、何故、選択させるのかと、ヒューノットは言っていた。
何故、覆らないのか。どうして、助けられないのか。
そうだ。そうなんだ。
ふたりなのか、ひとりなのか。ただ、それだけで、失うことそのものは変わらない。
「……これじゃ」
まるで、レーツェルさんと同じだ。
何を選んでも、ツェーレくんを失う結果が変わらないのなら。
覚えていて繰り返すことは、あまりにも残酷な仕打ちだと、彼女は言った。
忘れることを許されず、悪夢を見るために眠るだけだと。
ヒューノットだって、同じだ。何度もルーフさんを失って、それでも選択に従う以外に方法がない。
「……」
室内に視線を向けると、もうルーフさんたちの姿はなかった。
がらんとした部屋の中は、ただ荒れたままだ。
バッドエンド。
シュリに通された美術館のような、あの場所で見た絵画と同じ。
ヒューノットは、クレヨンで描かれた方を"傍観者が見届けたバッドエンド"だと言った。
あのときは、そりゃ傍観者が見届けていないバッドエンドなんてないだろって思ったけど。
傍観者の知らないところにだって、バッドエンドは存在している。
選択し終わった後や、そもそも選択の関わっていない部分、傍観者に見えていないところ。いくらでもあった。
それを、今まさに思い知った感じだ。
廊下に目を向けても、もうヒューノットの姿はない。消えてしまっている。
「……ヒューノット」
戦わない――そう選んで、ルーフさんがプッペお嬢様を手にかけてしまうバッドエンド。
さっきの様子だと、ヒューノットがそれを阻止するパターンもあった、ということだ。
クレヨンで描かれたバッドエンドは、今までの"傍観者"が残した世界の末路だ。
やり直しを選ばなければ、そこで選択肢は潰えてしまう。枝分かれした未来は、途切れて終わり。
傍観者の数だけエンディングが増えていくのだから、シュリはそこに希望を見出したのかもしれない。
だけど、ヒューノットはどうだろう。
レーツェルさんのように、傍観者に絶望した可能性はある。
「……」
プッペお嬢様を抱き締めるルーフさんの姿が、意識のないツェーレくんを抱き締めていたレーツェルさんと重なる。
厳密には違う。
レーツェルさんは自分で判断した上で、ツェーレくんを傷付けたのだから。
だけど、その光景はひどく似ていた。
「……ふたり失うか、ひとり失うか」
たったそれだけのこと。
シュリはそう言ったけど、失うことが確定しているのなら、選択肢の意味がない。
結局、ルーフさんを殺さなければならないのだから、殺したくないヒューノットからすれば同じだ。
プッペお嬢様を失うか、失わないか。それだけだ。
ルーフさんが死ぬことは、確定してしまっている。
抗いの術を持たない選択肢――ヒューノットは、そのことを示していたのかもしれない。
ひと瞬きのうちに、室内は元の状態に戻っていた。
私以外に人がいないせいで静かではあるけれど、ぬいぐるみも人形も元の位置に座っている。
あの温室で終わらせるか、それとも、ここで終わらせるか。
どちらにしても、ヒューノットはルーフさんを助けられない。
ルーフさんがプッペお嬢様を傷付けることを、阻止することしかできない。
室内に足を踏み入れて、さっきまでルーフさんが座り込んでいた床を見下ろした。
正気を取り戻して絶望していた横顔を思い出す。
狂ったままでいられたのなら、違ったのかもしれない。
――お前の言葉通りなら、俺を殺す選択肢を出せ。……提示してみせろッ! あいつに俺を殺させてみろ!
――もういい、もうたくさんだ! 偽りの選択肢こそ、エラーではないのかッ!
――結末がひとつしかないのなら、何故選択させようとするんだ。一体、何故だッ! 何故、覆らない!
シュリに咎められたときの、ヒューノットの怒鳴り声。
それはエラーだと言い切られた彼の、悲痛な叫びだった。
いずれにしてもルーフさんを失わなければならないのなら、正気を失っているうちに、ということだったのだろうか。
「……」
シュリは、どうして"どちらかを失うこと"を前提にしていたのだろう。
そもそも、空の崩落も世界の終焉も見届けられなくて、別のルートを探るために傍観者を招き入れたはずだ。
今までの確定を覆らせるために、何度も選択を繰り返して、新しいルートを見つけているはずなのに。
ルーフさんの瞳に星が宿ることは、どうして回避できないのだろう。
カタンと音がして顔を上げる。すると、窓の前に三日月のついた扉が姿を見せていた。
まるで、私を迎えに来たかのようだ。
実際にそうなのかどうかは、確かめようもないけど。
一歩踏み出したそのとき、視界の端に金色がちらりと入り込んだ。
視線を転じると、ぬいぐるみを抱いたプッペお嬢様がいた。
彼女が見つめている先には、ヒューノットが立っている。
ヒューノットは部屋には入らず、開かれた扉のところで足を止めていた。
『……すまない』
ヒューノットの低い声が落ちる。
それはどこか、憔悴したような響きを持っていた。
プッペお嬢様は不安そうな表情を浮かべたまま、何も返せずに俯いている。
ふたり失うか、ひとり失うか。たったそれだけだと、シュリは言った。
だけど、そんなはずがない。
ひとりだ。たったひとり。だけど、そのひとりはあまりにも大きすぎる。
ヒューノットにとっても、プッペお嬢様にとっても、ルーフさんはかけがえのない"ひとり"だ。
ただの数だけの問題じゃない。
数字にしてしまえば、たったのひとつ。ただのひとりだ。
だけど、ヒューノットとプッペお嬢様からすれば、それがすべてにも近い。
背後で大きく響き渡った泣き声から逃げるように、三日月の扉を開いた。




