57.代替の空
本来あるべきだった正しい在り方。
ヒューノットは、何を言っていたのだろう。
問い掛けたくても、その場には既に誰もいない。
「……正しくない」
過去の"私"は、確かにそう言っていた。
だけど、私自身はそれを全く覚えていない。
セーブしなかったから、なのか。
シュリと会えていないから、なのか。
でも、記録どころか私の記憶にさえも残っていないなんて、そんなのさすがにおかしい。
何がどうなっているのか。全くわからない。
確かめようにも、やっぱり誰もいない。
そもそも、誰に聞けば正解がわかるのか。それすら、わからない。
ツェーレくんは、ヒューノットを止めようとしていたように見えた。
私を助けようとしたのかもしれない。
「……」
だめだ、一旦ちょっと落ち着こう。
焦ったところで仕方がない。気持ちは急いてしまうけど、だからこそ、冷静にならないとだめだ。
もしも、ヒューノットがまた独断で行動したのだとしたら。
ルーフさんのときのように、シュリが咎めるはずだけど。
でも、ツェーレくんがここから逃がしてくれたあと、シュリは言っていた。
――ヒューノットの姿がないようだね。これはイレギュラーだ。
そうだ。あのとき、既にヒューノットと別行動になっていたことそのものがおかしかったんだ。
――残念な知らせがあってね。
――君たちの事を私から探ろうと思ったのだが、どうやら干渉が出来なくなっている。
――本来であれば、こちら側から把握できる筈のところまで、綺麗に隠されてしまっているという事さ。
――これは、実に厄介だ。
あのときは気が付かなかった。
シュリは"隠されてしまっている"と言っていたのに。
誰が、隠したのか。
何を、隠したのか。
まさか、ヒューノットがそんなことをしないだろうとは思うけど。
でも、ルーフさんの結末を拒んだみたいに、全く有り得ない話じゃない。
シュリはあれを、エラーだと呼んだ。
ヒューノットがシュリを大切に思っていることは確かだろう。
でも、絶対に逆らわないわけではない、ということも事実だ。
心臓がバクバクと、うるさく跳ね上がる。
痛いくらいに騒ぐ胸を押さえて、ぐるりと周囲を見回した。
やっぱり、誰もいない。
「……」
私は相変わらず天井に立っている。
そして、私から見て真上に位置する廊下には誰もいない。
過去なのか未来なのか、それとも確かに現在なのか。正解なんて、何もわからない。
ヒューノットは、どこにツェーレくんを連れて行こうとしたのか。
いや、場所なんて今はどうでもいい。
ツェーレくんに、何をしようとしたのか。
「ああ、もうっ!」
考えたって仕方がなかった。
私の中にない答えを、私ひとりで見つけられるはずもない。
声を上げて足元の天井を蹴り、大きく踏み出して噴水のある中庭へと進む。
無駄に大きな入り口だとは思ったけど、天井からだとその方が入りやすい。
まさか、そんなことを想定して設計されているとは思えないけど。
扉のない入り口の向こう側には、ガラスの蓋を被せた箱庭のような場所が広がる。
中央には白い煉瓦で造られた噴水。そして、その中心に白い石の彫像。
「……うっわ」
そうだった。忘れていた。
ガラス張りの天井を見下ろして、ちょっと、いや、だいぶ、ためらってしまう。
ここって、天井がなかなかの高さなのだ。
つまり、入り口から進もうとすれば、その高さ分だけ降りないといけない。
挙句にドーム型になっているから、むやみな高さもとい深さがある。
デザイン性の高い段差を乗り越えて、一旦そこで立ち止まった。
天井一面を覆うガラスたちを区切る細い枠。あそこに立てば、どうにかなるだろうか。
いや、そもそも高さをクリアできない気がする。
どうしよう。既に詰んだ。
だからといって、ここから書庫や植物の部屋に戻ったところでどうしようもない気がする。
せいぜい、レーツェルさんに助けを求めるくらいだ。
だけど、助けてくれそうにもないし、助けて欲しくもないし、つまり詰んだ。
ひとりでひたすらに悩んでいると、不意に音が聞こえて来た。
反響するように広がった音は、やはり頭上――床の方から聞こえている。
視線を巡らせてみると、噴水のところに小さな姿が見えた。
白いシャツに金色の髪。遠目でも彼だろうとわかる、サスペンダー姿。
「ツェーレくん!」
思わず声を上げたけど、届かなかったようだ。
金色の小さな頭は、木々の間をちらちらと駆け抜けていく。
その姿は、廊下に繋がるものとは別の出入り口へと消えてしまう。
どうしようかと迷っていると、反対側の廊下から入って来た姿が視界の端に入った。
「……ヒューノット」
濃紫の髪。黒い外套。
上下が逆転しているせいで背の高さはわかりにくいけど、見間違えようがない。
周囲に視線を巡らせた彼は、何かを探るかのように数秒ほど動きを止めてから歩き出した。
大股ではあるけど、ゆっくりと噴水の脇を通り過ぎる。
彼の動きは、ツェーレくんを追っているように見えた。
こうなったら、考えているような暇はない。
ここで立ち止まっているだけなら、何もしないのと同じだ。
「――あーっ、もう、ケガしないよね! 大丈夫!」
根拠はない。
いや、あるにはある。シュリがそう言っていたからだ。
祈りのポーズを一瞬だけ取って、一思いにガラスの天井へと飛び込んだ。
ぐるりと身体が回る感覚。両手で頭を覆って目を閉じた。
下から上へと抜けていく風の音。
何度も何度も落下は経験してるけど、でも、やっぱり慣れるものではない。
しかし、その音が急に止まった。
でも、まだ着地の衝撃も何もない。
「……?」
わけがわからなくて目を開くと、足元に噴水が見えた。
あれ、どうなっているんだ。これは何だ。
戸惑っている間も眼球だけが動いて、視線は素早く周りを巡った。
「……ッ」
ヒューノットの青い瞳が、こちらを見ていた。
不機嫌そうに鋭くなった目ではない。
呆れを含んだ目でもない。
ひどく冷たく光る青が、無表情と共に私へと向いている。
心臓が跳ね上がったような気がしたと同時、急に落下が始まって天井に転がった。
一瞬とはいえ、上下が戻っていたから床の方に落ちるかと思ったのに、そうではなかったようだ。
驚きはしたけど、思ったよりも痛くはなかった。
これが現実世界のほうだったら、確実に大怪我をしている。救急車どころの騒ぎじゃない。
「あっ!」
そうだ、ヒューノットだ。
慌てて見上げると、その姿はもうなかった。
だけど、確かに向かった方向はわかる。
あっちにあるのは、何だったか。
上下が逆になっていて少しややこしいけど、確かあっちは。
「……お月様の部屋だ」
色の変わる月の扉がある部屋。
私がツェーレくんに押し出された場所だ。
色によって、行き先が変わる扉。ツェーレくんは確か、使っちゃいけないと言われていたはずだ。
どうして、ふたりがそこに向かったのかはわからない。
少なくとも、ヒューノットはツェーレくんを追いかけたのだろうけど。
言いつけを守らない子ではないはずだし、あの子の目的はわからない。
「……」
しかし、今の問題はここからどうやって向かうのか、だ。
ひとまず、格子状になっている細い枠に手を掛けて登ってみる。
お、案外イケそうだ。さすがは私。
ロッククライミングの経験なんてないけど、感覚だけで割りと登っていくことができる。
たぶん、これってプレイヤー補正だと思う。
いや、そんなものがあるのかどうかはわからないけど。
ていうか、そんなものがあるなら、もっと違うところを補正しろやって気がする。
そんなことを思っている間に、だんだん指が痛くなって来た。くそ、何だよもう。
ガラスが割れないことを祈りつつ、少し角度のある壁を登っていく。
扉のない出入り口は、こういうときにありがたい。
何度か足を踏み外しそうになりつつも何とか登り切り、四つん這いにも似た格好で出入り口に近付く。
ぽっかりと開いた出入り口をくぐると、真上に階段が見えた。急に暗くて、やっぱり一瞬ビビってしまう。
暗がりの中に現われた下り階段が奥へと伸びているけど、人の姿はどこにもない。
ツェーレくんと階段を降りたときには気が付かなかったけど、天井にも少し傾斜がついていた。
あのときと同じように、壁に手をつきながら進む。
やがて階段の終わりが見えてくる頃には、薄らと光が差し始めた。
天井も床も白い石で作り上げられた一室だ。
扉がなくて、階段から直に入り込める造りが不思議だったけど、今だとやっぱりすごくありがたい。
正方形になっている上、一応は地下だから、なのか。中庭と比べて天井は低い。
床の中央には階段のついた大きな台が見えていて、台の上には扉が――。
「――えっ?」
観音開きの扉。その片方が開かれ、中央に刻み込まれた三日月が割れた状態になっている。
薄らと光る月の色は、黄色。
扉の真上まで歩いて寄ってみたけど、周囲には誰もいない。
ツェーレくんもヒューノットも、扉の向こうに行ってしまったのだろうか。
両腕を伸ばして背伸びをしてみたけど、ちょっと背が足りない。
しかし、台になりそうなものもなかった。
いい加減、上下逆転をどうにかして欲しいけど、誰に苦情を入れたらいいのかもわからない。
その場で飛び上がってみると、手指の先が少し掠った。
何度か繰り返し飛び跳ねてみる。
絶対にすごく間抜けな姿だとは思うけど、誰かが見ているわけでもない。
何とか手の先を引っ掛けることができたものの、肩が外れるかと思った。帰ったら痩せよう。
しかし、懸垂の要領で自分の体重を引っ張り上げられるほどの腕力がない。
足先は既に天井から離れてしまっていて、すべての重みが手に、そして腕にかかる。
手首や二の腕あたりと、脇から脇腹にかけての筋肉が、みちみちと締まって来る。
筋肉が突っ張って痛い。だけど、それ以上には力が入らない。
くっそ、上下が逆にさえなってなかったら、すっと入れるのに何だよ。
ぶら下がっているだけの状態でさえも、かなりキツい。腕が痛い。肩もやばい。脱臼しそう。
この扉が壁際にあれば、こんな苦労をしなくても良かったのに。
腕に力を込めながら脚をばたつかせていたとき、ギシッと何かが軋む音がした。
「……っ?」
ぐんっと急に扉が近くなった。
もちろん、この体重を持ち上げるだけの筋力なんて私にはない。
まるで、扉の方からこっちに向かって来たかのような。
そう思った直後、何が起こったのか。見上げた先、軋んだ扉が反転して私の身体を飲み込んだ。
一瞬だけの浮遊感。直後には、身体が投げ出された。顔面から落ちてしまって、さすがに痛い。
「――いったい、何……」
何なのか。
顔を上げると、三日月の扉はなくなっていた。
手元を見れば潰れた花。慌てて身を起こすと、床一面に花が咲き乱れていた。
私が転がってしまった部分は、押し潰してしまっている。
ハッとして頭上を見ると、そこには天窓を抱えた天井があった。
上下が入れ替わった状態からは脱しているけど、何がどうなったのかはさっぱりだ。
「……ここって」
見上げた天井には、綺麗な青空が描かれていた。
青と水色のグラデーション。陰影のついた立体的な雲まで空を流れている。
そして、天窓から差し込む光がサンキャッチャーに反射して淡い色味を散らしていた。
壁が近い右側を見ると、開かれたままの扉があった。
更に、その向こう側には絨毯の敷き詰められた廊下が伸びている。
「……あ、あれ……?」
この場所には、見覚えがある。
似たような場所をふたつ知っているけど、あの天井は一箇所にしかない。
プッペお嬢様の、温室だ。
ルーフさんが大切にしている場所。
這いつくばった姿勢のまま、恐る恐る視線を巡らせる。
周囲には、芝生を模した床が広がっていた。
いや、違う。床だけじゃない。
床の緑色を塗り替えた朱色が、花々の間から覗いていた。
「……」
広い温室は、花で満たされている。
ごくりと喉奥が音を立てた。
濡れた花が視界に入り、それを辿っていけば転がった銀色のジョウロが見えた。
風ひとつない室内は静まり返ったままだ。
私の心臓の音だけが、妙にうるさい。
少しずつ視線を持ち上げていく。
温室の中には、私以外には誰もいない。
『――戦うか、戦わないか』
真後ろから声がして、慌てて振り返る。
そこには、当然のようにヒューノットが立っていた。
だけど、その青い瞳は私を見てはいない。
どこか違う場所を、見つめている。
「…………」
喉が狭まるような感覚を覚えながら、その場で立ち上がる。
そして、意を決してヒューノットの視線を辿った。
視線の先――黒々とした煙を纏い、綺麗な花々を踏み潰して立つ人物。いいや、黒いモヤの中に立つ"ソレ"。
輪郭は鮮明ではなくて、黒い液体の中に眼球だけが浮かんでいるように見える。
異様に大きな手。猛獣じみた鋭い爪。口の裂けた、ワニのような頭部。モヤと輪郭の境目がほとんどない。黒い、姿。
ぞっと震えが走り、思わず後ずさる。すると数歩程度で、壁に背が当たった。
『そうか……』
ヒューノットが低い声を漏らした。
『……お前は、"戦う"のか』
何を言っているのか。誰に言っているのか。わからない。
壁に背を押し付けながら、視界の中で対峙するふたりを見るだけで精一杯だ。思考は、何も働かない。
どこからともなく剣を取り出したヒューノットは、足先を軽く動かして一歩を踏み出した直後に駆け出した。
まっすぐに、"ソレ"の――ルーフさんだったバケモノのもとへと足元の花を散らしながら駆ける。
揺れる濃紫の髪。はためく黒い外套。大きく揺れたフード。
スローモーションのように見えた数秒を経て、急に速度が増した。
ヒューノットの動きが、視線で追えなくなる。
「――ひっ」
周囲に大量の黒い液体が散った瞬間、私は顔を背けた。
硬いモノが砕ける音。そして柔らかいモノが、引き千切れるような音。何かが拉げるような音。潰れる音に、引き裂く音が続く。
そして、耳を劈くけたたましい咆哮が響き渡った。
聞きたくなくて、耳を塞ぎながら壁に身体を押し付ける。
まるで痛みを訴えて泣き叫ぶような鳴き声だ。
助けを求める悲痛な叫び声にも聞こえる。
その場に屈み込んで、耳を塞ぐ以外のことができない。
どれくらいの時間が経ったことだろう。
いつの間にか、何も聞こえなくなっていた。
私の鼓動だけが、耳の奥で叫ぶように鳴り響いている。いや、音なのか振動なのかさえもわからない。
両手で耳を塞いだまま、瞼を持ち上げる。
顔は向けられなかった。ただ、視線だけをゆっくりと向けていく。
最初に見えたのは、立っているヒューノットの姿だ。
その足元には、黒い何かが転がっていて、まるで燻るように黒々とした煙が薄く立ち上がっている。
「……ひ、ヒューノット……」
墨汁のような黒い液体を大量に浴びた彼は、じっと足元を見つめていた。
外套が黒いおかげで目立ちはしないけど、滴っている液体までは隠せない。
髪も顔も、すっかり濡れてしまっていた。
名前を呼んでしまったけど、やっぱり届いていないようだ。
彼は、私を見ない。
『……ルーフ』
ヒューノットの声が落ちる。
それは、ひどく震えていた。
『……なぁ』
その手が握っていたはずの剣は、もうない。
鋭い篭手も、なくなっているように見えた。
『……ルーフ』
呼びかけに応じる声は、ない。
周囲の花も黒ずんでいて、中には燃えカスのようになっているものもある。
黒い液体と煙に染まった温室は、とても静かだ。
『……すまない』
彼の声だけが落ちていく。
拾い上げる人のいない言葉が、ただ静寂の中に落ちる。
『お前を、助けたいのに』
その場に膝をついたヒューノットの両腕が伸びていく。
数秒後、焼け焦げたニオイが私の鼻先を掠めた。
嫌なニオイだ。
獣くさいような、何とも言えないニオイ。
『どうして』
黒く染まった"彼"を抱き締めたヒューノットは、震える声を漏らした。
腕の中で黒いモノがぼろぼろと崩れていく。
まるで、燃え尽きてしまったかのようだ。
『なぁ、どうして』
"彼"に触れているヒューノットの肌が、黒ずんでいく様子が見えた。
染まっているわけではなく、きっと焼け焦げているのだとわかる。
それでも、ヒューノットは"彼"を手放さない。
『なぁ……』
ヒューノットの腕が黒くなっていく。
滴り落ちる液体に黒だけではなくて、赤色も混ざり始めていた。
ふたつの色は決して交わらず、黒の上に赤が流れていく。
『……どうして、』
『どうして、お前なんだ』
『どうして――』
ひと瞬きのうちに、ふたりの姿が白く霞んだ。
だけど、それは私の目が悪いわけじゃなかった。
花々が本来の色を、そして姿を取り戻すにつれて、ふたりの姿が薄れて消えていく。
私は壁から背を離して、勢いのままに廊下へと飛び出した。
これは、かつての結果だろう。
かつての、
傍観者が残したバッドエンド。




