55.足音の先
振り返った先には、誰もいなかった。
確かに聞こえたはずの声は、もう既になくなっていて、欠片も残ってはいない。
無意識のうちに止めていた呼吸を再開させ、ゆっくりと空気を吸い込む。
喉を冷やした空気が肺を静めていく心地に少しだけ安堵した。
そっと耳を澄ませても、声は聞こえて来ない。
書架は沈黙を守ったまま立ち並んでいて、壁を埋める本たちだって静寂の邪魔などしない。
静まり返った室内には、私以外の息遣いひとつ落ちてはいなかった。
こちら側が現実で、あちら側がゲームの世界。
空の穴から降りて来たここは、"あちら側"なのか"こちら側"なのか。
考えながら、少しずつ視線を下げていく。すると、赤い絨毯の上に石が見えた。
あまりにも不自然に転がっているのは、白色の歪な石だ。
「……」
ゴクリと、喉が鳴った。
ゆっくりと石に近付いて、周囲を気にしながら屈み込む。
触れた手に返る感触は、当然ながら冷たくて硬い。
パーカーのポケットに外側から触れると、そこにも硬い感触がある。
取り出して見比べると、ふたつの石はどこまでもよく似ていた。
大きさは、少し違う。ような、気がする。何となく。
形は、確かにそっくりだ。
表面は少しざらついて、それなのにつるりとしていて、触り心地としては、まあ、うん。石、という感じ。
「……石……」
自分の語彙力のなさに、緊張感も何もなく、げんなりとした。
拾った石も元々ある石と同じポケットに入れて、周囲を見回してみる。
でも、やっぱり人の気配はない。誰もいないというか、いたとしてもわからない。
あまりにも周囲一面が書架だらけで、本棚の国ですって言われても驚かないくらいだ。
驚かないけど、確実に移住はできない。したくない。
一応は周りを気にしながら立ち上がったけど、やっぱり誰もいない。
いない、というのもどうなのか。
さっきは確かに声が聞こえたのに、確かに呼ばれたというのに、いないはずがない。
呼ぼうか。どうしようか。
迷いながら、テーブルを振り返る。
テーブル上に置かれたままの本。
見間違えようもない。ツェーレくんと入った本の部屋だ。
こんなにもそっくりで、全く違う部屋なはずがない。
学校と、祈りの丘――教会か。あの場所が、どうして繋がっているのか。それは、わからない。
テーブルへと近付いて、本の表紙を見下ろした。
「……あれ?」
読める。
前に見た時は全く知らない言語だった。だから、グラオさんたちにお願いしたんだ。
正確には、頼ろうとしたら、いきなり日本語になっていたわけだけど。
――素敵な王様の作り方。
表紙には、そう綴られている。
グラオさんたちは、あの姉弟だけが王様を作ることができると言っていた。
そして同時に、それはとても恐ろしいことだとも。
レーツェルさんはツェーレくんの器を作ってまで、弟を"理想の王様"にしようとしている。
いまいち、時系列が謎だ。
――レーツェルは、この世界に"統率者"を生み出そうとしている
シュリは確かにそう言った。
統率者っていうのは、つまり理想の王様のことで、地上で生まれた神様だ。
レーツェルさんが結局は何がしたいのか。
世界を乗り換えようとしている――乗っ取り、か。シュリの話だと、そうだった。
でも、それはあくまで手段だ。その先に目的がある。
どうして、バッドエンドを繰り返す世界を捨てる必要があるのか、だ。
バッドエンドなんて誰だって嫌だろうけど、嫌だから、なんてシンプルな理由だけではない、はず、だし。
――星を落とす大罪人を裁く為でもあり
――自分達の世界を元に戻す為でもあり
――祈りを捧げて繋ぎ止めていた全てを守る為でもある
それを聞いたとき、最初はユーベルのことだと思った。
でも、シュリはユーベルを"災厄"と呼んでいて、レーツェルさんを"罪人"と呼ぶ。
だったら、"大罪人"っていうのは、誰のことを示しているのだろう。聞けば良かった。
――星を奪われた世界が壊れ始めてしまったように、あの姉弟も歯車が狂ってしまった
そうだ。だから、空から星を落としたユーベルのせいだと思ったんだ。
だけど、何だろう。少しずつわかって来ると、そうじゃない気がして来る。
いや、元々からしてシュリは一度も「ユーベルのせいだ」とは言ってない。
ユーベルが"星を落とし始める前まで"は、あの姉弟がきちんと"役割を果たしていた"というだけの話だ。
そこに、直接の関係があるとは言われなかった。だけど、そこまでこっちが考えないとダメかな。
言わなかったのか、言えなかったのか。シュリの説明はないと困るけど、基本的にすごくややこしい。
レーツェルさんがどうしてバッドエンドを回避したいのか。
それがわからないと、そもそも止められないような気がする。
傍観者のせいで、シュリのせいで、バッドエンドが繰り返されていると怒っていたけど。
苦痛の終焉を繰り返すだけだと、そう言っていたけど。
なら、レーツェルさんにとっての救いっていうのは何だろう。
レーツェルさんが、統率者を必要とする理由。裁く相手っていうのは。
「――――っ」
テーブル上の本に手を伸ばしたとき、視界の端に白い腕が入り込んだ。
反射的に腕を引っ込めて視線を向ける。
「……あっ」
まるでお手本みたいな金色の髪に碧眼。そして、光が透けるような白い肌。
おっとりとした穏やかそうな垂れ目。白いワンピースに身を包んでいる。
そこに立っていたのは、レーツェルさんだった。
だけど、少し、いや、かなり若い。若いというか、幼い。
推定して十歳くらいだろうか。本を手に取ったその手――いいや、身体は薄らと透き通っている。
本を胸に抱いた彼女は、周囲を見回してから歩き出した。私のことは、見えていないようだ。
「……」
あのとき、植物園で見た光景が脳裏を過ぎる。
十代前半か半ばくらいのレーツェルさんと、五歳くらいのツェーレくん。
双子であるはずのふたりは、いつもそれぞれ違う年齢で現われる。
ああ、いや。"わかりやすく"言えば双子だ――とシュリは言っていた。
――彼らは、ふたりでひとつ。
――同じ星のもとに生まれ落ちたふたりは、始まりから違う位置に立っているのさ。
――重なっているようでいて、実は隣り合っている。同一のようで正反対。
――傍らにいるようで前にいて、そして後ろにいる。
シュリの言葉を思い出してみるものの、聞いた話以上の収穫がない。
もっと頭を使えばいいのかもしれないけど、言い回しが厄介だ。
――彼らは、互いに相手がいなければ、そもそもとして成立しない。彼らは互いを必要とし合っていて、補い合ってもいる。互いの不足を埋め合い、過剰を削ぎ落とし合う対の存在だ。
互い同士でバランスを取り合っているという解釈でいいのだろうか。
それなら、きっと互いに釣り合うようにしている部分は年齢だけではない、はず。
あのとき、植物園では椅子に腰掛けたレーツェルさんが本を広げて、ツェーレくんに見せながら読み聞かせていた。
過去の幻だと思っていたけど、これもそうなのだろうか。
歩き出した彼女のあとを追う。やっぱり、私には気が付いていないようだ。
小さな彼女は本を抱いたまま、書架の間を縫うように進んでいく。
音はしない。
足音も衣擦れの音も何もない。
やっぱり、幻だか、そういう類なのだろう。
「――あっ」
いくつかの書架を通り過ぎたとき、急に駆け出された。
小さいけど、その唐突な動きに対して、すぐには対応できない。
あっという間に書架の陰に入り込んでしまい、見えなくなってしまう。
慌てて追いかけると、少し離れた位置にある書架の向こう側に白いワンピースの裾が微かに見えた。
ひらりと翻った白色は、すぐにまた見えなくなる。
白いワンピースが消えた書架を曲がったとき、急に開けた場所に出た。
一瞬ばかりわからなかったけど、テーブルが見えて息を飲む。
私は、テーブルセットから扉の方へと向かったはずだ。
それなのに、またテーブルの場所まで戻って来た。
どういう意味なのかを理解するよりも先に、視界が別の情報を拾った。
テーブルには、赤い本が置かれている。
ただ置かれているわけじゃない。開かれていた。
そして、一脚の椅子にツェーレくんが座っている。五歳くらい、だろうか。
傍らには、十歳くらいのレーツェルさんが立っていた。
ふたりして本を覗き込んでいて、レーツェルさんが読んであげているようだ。声は、聞こえない。
ツェーレくんは不思議そうな顔をしながら、時々小さく頷いたりたまに首を傾げたりといった調子を繰り返している。
あの赤い表紙の本に書かれているのは、"素敵な王様の作り方"だ。
それを知っていると、微笑ましい光景には到底見えない。
レーツェルさんが、いつからツェーレくんを王様にしようと思ったのかはわからないけど。
「――覗き見だなんて、あまり感心致しませんわ」
背後から急に声が聞こえてきて、心臓が跳ね上がった。
勢いよく振り返る。
すると、部屋一面にあったはずの書架が消えていた。
代わりのように植物が置かれている。振り返る瞬間の、本当に僅かな時間だったのに。
景色は一変していて、図書館から植物園のようになっている。
天井から細い鎖で吊り下げられているいくつもの籠。そこから垂れ落ちる葉がついた蔦。
壁に引っ掛けられた編み籠、そして大口の瓶から溢れんばかりに花が顔を覗かせている。
四角い石が規則的に並べられた床。石と石の間には水が流れている。
「足元にお気をつけてくださいませ。くれぐれもこの子たちを踏み散らさないで」
聞いたことのある台詞が届き、ゆっくりと視線を持ち上げる。
光沢のない落ち着いた漆黒のワンピース。
透けるような白い肌。淡い金髪。
「レーツェルさん……」
バクバクと心臓が激しく暴れている。
胸の奥にあるはずなのに、まるで頭の中にあるかのようだ。
うるさいくらいに荒々しく脈動して、存在を主張している。
ごくりと喉を鳴らすと、そんな音さえも頭に響いた。
場所も、彼女も、何もかもがデジャヴだ。
さっきまでは確かに学校に、そして書庫にいたはずなのに。
意味がわからなくて、思考がぐちゃぐちゃになる。
一歩、二歩。後ずさると、背中が何かにぶつかった。
振り返ると、そこには扉がある。書架は、ひとつもない。
前を向けばレーツェルさんが立っている。
いくら視線を動かしても、景色は何も変わらなかった。
こういう場合、自分にとって"都合良く"はならないものだ。
「――ようこそ、傍観者。あなた、知りたい事があっていらしたのでしょう?」
笑みを浮かべるレーツェルさんは、本当に綺麗な人だ。
でも、その表情には底知れない恐怖感も付きまとう。
何だろうか。とても、不思議な感覚だ。
「構いませんわ。教えて差し上げましょう。お聞きになりたい事は、具体的にありまして?」
返事ができずに戸惑っていると、レーツェルさんはあっさりと頷いた。
本当に教えるつもりがあるのか。
真実を伝えるつもりがあるのか。
不安感と不信感はあるけれど、ここはいわば――彼女の庭に等しい。
あの温室というか、この植物園というか。とにかく、彼女は自らを「教会の主」と呼んだ。
それなら、ここ全体が彼女の領域だと考えても、特におかしくないはずだろう。きっと。たぶん。
どうして飛ばされたのかはわからないけど、わからないことだらけすぎて、この程度なら今更だ。
今、こうして向かい合っているレーツェルさんが本物なのか幻なのか。
あるいは、過去を見ているのかどうか。それすら、わからない。
首から提げた、銀の鳥篭に触れる。掌で握り込むには、少しだけ大きい。
籠の中に入っている銀の心臓が、乾いた音を立てて揺れた。
「……レーツェルさんの」
言葉を口にすると、喉が妙に渇いていることに気がついた。
じわじわと渇きが口の中にも広がる。
「目的、って、何ですか?」
ずっとわからなかった。
シュリから聞いても、どこか腑に落ちなかった。
状況から察するにしても、それでもやっぱりパッとしない。
レーツェルさんは、微笑を浮かべたまま目を伏せた。
足元を見つめているのか。視線の先は、辿れない。
「それは、以前にも答えた通りでしてよ。傍観者」
びくりと、腕が震えた。
レーツェルさんにとって重要なのは、相手が誰なのかではなくて、どのような役割を持っているか。
あの温室のような場所でお茶をしたときと同じだ。
ただ今は、長い睫毛に縁取られた碧眼が私を見てはいない。
「私は……この世界を、そしてツェーレを、愛しておりますの」
レーツェルさんがゆっくりと言葉を紡ぐ。
まるで子どもに言い聞かせるかのようだ。
艶めいた唇が、控えめに開いて声を落とす。
「愚かな道化を幾ら繰り返しても、崩壊の一途。ならば、咎人と謗りを受けようとも愛するものを私の手で守ろうと誓ったまで」
言葉を放ったレーツェルさんが、ゆっくりと視線を持ち上げる。
向けられた目に、まるで私の考えすべてが見透かされている気分になってしまう。
それは、あまり心地良い感覚ではない。
「何か、おかしくて?」
レーツェルさんの声に、つい身体の緊張が増す。
おかしくは、ない。
大切な誰かを守りたくて自分から動こうと思っただけ。
そう言われてしまえば、正当な理由だ。少なくとも、そうだと感じられるような言い方だ。
だけど。
「……だったら」
喉奥が震えた。
口の中が熱いような冷たいような、曖昧な感覚がする。
「どうして」
悲しげに笑う顔。
無邪気に笑う顔。
忘れてと告げた声。
逃げてと訴える声。
どうしてと問い掛けて来たあの子を。
やめてと制止しようとしたあの子を。
「ツェーレくんを、傷付けるんですか」
守りたいんじゃないんですか――と、言葉を続ける前に彼女の目が鋭さを増した。
ツェーレくんの頭を、容赦なく床に叩きつけた細腕。
無抵抗なあの子の意識がなくなるまで。何度も。
奪われたくないと言いながら、繰り返したくないと言いながら、彼女はリセットを選び続けている。
止めようとした弟の手を振り払い、"次は素敵な弟にしてあげる"と言い放ったのは彼女だ。
自分にとって都合の悪いことはなかったことにしてやり直すのなら、そんなの――同じではないのか。
レーツェルさん自身がひどく嫌っているシュリと、同じことをしている。
結果を"認めたくなくて"、やり直しを"繰り返して"いる。
「……"どうして"なのか。それを知りたくて、いらしたの?」
睨み付ける瞳が怖くて、本当は今すぐにでも逃げ出したい。
膝が震えそうになったそのとき、レーツェルさんはふっと表情を和らげた。
まるで、小さな悪戯を見つけたかのような、咎める形だけを取るかのような、そんな調子だ。
あまりにも唐突な変化で、こちらが戸惑ってしまう。
「――あの時の事を、仰っていますのね。理由は……愛しているからですわ」
淡い色味の花々に、そして青々とした葉に囲まれて、レーツェルさんは微笑んだ。
その光景はまるでひとつの絵画のようですらある。
「愛しているから、失いたくありませんの。大切に思うから、間違って欲しくない――あなたには、おわかりになるかしら?」
「体温を失った肌の感触も、渇いた唇も、硝子に等しい眼球も、虚空を掻くだけの指も、物言わぬあの子のすべてを、ご存知ないでしょう?」
「すべて、――あの子のすべては、私のものですわ」
胸の底にぞっと震えが走る。
内側から外に駆け抜けた震えは、そのまま背を抜けて頭へと上がった。
気圧されるな。
引き下がるな。
そうは思っても、話が通じそうにないレーツェルさんを前にして、冷静さが保てない。
当然、言葉など何も浮かばなかった。
間違っていると言い放つことそのものは、きっと簡単だ。
だけど、レーツェルさんにとって正しいのは。
「――――あの子は、正統な星の後継者。私の素敵な弟。理想の王様。世界を救う唯一の統治者。その未来だけが、あの子の幸せですもの」
「あの子の為になる事でしたら、私は何でもしますわ。痴れ者と罵られようとも、謗りを受けようとも構いません」
「あの子を幸せにする為ですもの。間違いは正してあげなくてはなりませんわ」
「あの子の為に」
レーツェルさんは幸福を願う。
祈りを捧げる役割を持った彼女の言葉。
それは、まるで呪いのようだ。
じわじわと頭の中に入り込む。
あの子を幸せにする為に、あの子を壊してしまうのだ。
あの子が不幸にならない為に、あの子から奪い取ってしまうのだ。
私は言葉を返すことすらできないまま、彼女を見つめるよりほかにない。
真後ろで、分厚い本を閉じるような音がした。




