53.最良の采
何だ、それは。どういうことだ。
顔を上げるよりも早く、ヒューノットに腰あたりを掴まれた。
掴まれたというか、腕を回されたというのが正しいか。とにかく捕まえられた。
そして、まるで荷物のように放り出された先は、ゲルブさんの腕だった。
ぼすっと受け止められて、顔からフェルト生地に埋まる。ちょっとチクチクしてるけど、柔らかい。
「案内してくれ」
「もちろんだとも。はしるからついておいで。さあ、さっそくいこう。げるぶ、たのんだよ」
「ああ、いそぐぞ」
言うが早いか。ゲルブさんは片手でグラオさんを抱えるなり、頭上へと放り投げた。
何なんだ一体。放り投げが今どき男子のトレンドなのか。
ゲルブさんは、あっという間に肩車状態になったグラオさんを確認したあと、私を見下ろしてから駆け出した。
すごくデジャブ。
色んな意味でデジャブ。
「――って、はぁっ!?」
投げられたことに対する遅れすぎた抗議の声は、当然ながら届かなかった。
ハッとして見れば、猛烈な勢いで駆け出したゲルブさんの隣あたりにヒューノットがいる。
そして前に視線を向け直すと、ゲルブさんに弾き飛ばされた木々が道を開けていくのが見えた。
ヒューノットは、勢いよく地面で跳ねて戻って来た木々を避けながら真っ直ぐに走っている。
全くもって、色んな意味で置いてけぼりだ。
荒々しい勢いで森を駆け抜けていくゲルブさんはすごいけど、一度体験したからまだ良い。
驚くところは、この動きに平然とついて来ているヒューノットだ。
背の高さも随分違うというのに、身軽さで乗り越えられるものなのだろうか。
まあ、体型の感じとしては、追いかけっこをしたらゲルブさんよりヒューノットが勝ちそうなのは確かだけど。
それと、イメージと現実共に最下位がグラオさんといったところだ。私は除外。
「――地面が空ってどういう意味ですかっ?」
とにかく、ゲルブさんに肩車状態のグラオさんに聞いてみた。
張り上げた声は確かに届いたらしく、グラオさんが私を見下ろして来る。
「ふむふむ。それはね、やよいちゃん。せつめいすると、きっといみがわからなくなってしまうものだよ」
「それはそれで、どういう意味ですかッ!?」
なぞなぞか。
反射的に声を返すと、ヒューノットがちらりとこちらを見た。
物言いたげではあるけど、何も言わずにすぐに前を向く。
そうだよ。ヒューノットはこうだ。さっきみたいに饒舌なヒューノットはヒューノットじゃない。
「ふるぼけたりんかくが、いよいよそげおちたということだとも。そうだろう、げるぶ」
「ひゃくぶんはいっけんにしかずだ」
「そうだとも。げるぶのいうとおりだ。やよいちゃん、みればわかるというものだよ」
「は、はぁ……わかりました」
確かに、言葉で説明されたところで意味不明だった。
年長者の言うことは、できるだけ聞いておくべきだ。いや、まあ、そもそもグラオさんたちがいくつなのか知らないけど。
だけど、街を管理しているとくらいなのだから、ある程度は大人ということでいいはずだ。たぶん。
プッペお嬢様だって、彼らはえらい人だと言っていた。ような気がする。
それにしても、ゲルブさんってグラオさんにとって、なかなか万能な弟なんだな。
高速の移動手段にもなるし、合いの手も入れてくれるし、仲良しにもほどがある。
ぐんぐんと周囲の景色が後ろへと遠ざかる。
同じような木々が並んでいると思っていたけど、奥に進むにつれてフェルトの木は古くなっているようだ。
成長とか、するのだろうか。いやいや、そんなまさか。
「――げるぶ!」
「わかっている」
急にグラオさんが声を上げた。
直後に返事をするゲルブさんの声には、特にこれといった変化はない。
何だろうかとゲルブさんに向いたままで身を捩る。前を見れば、何もない。
「はっ!?」
突き出した形の崖になっているようだ。
ゲルブさんはその崖目掛けて走りこみ、そして勢いを保ったままで宙へと躍り出る。
数秒だけど、完全に浮いた。絶対に浮いた。
反射的に目を閉じて、ゲルブさんの身体に顔をうずめる。
そんなことをしたところで、怖いものは怖い。ヒューノットの様子を見る余裕はなかった。
耳元で風の唸る音が聞こえて、どうしようもなく身が竦む。
「――ッ!」
ドシンッと、揺れる。どこかに着地した、らしい。
振動が一気に伝わって来て、それが消えるよりも先に再び駆け出す音と震えに見舞われる。
全身どころか、内臓ごと上下左右に揺らされている気分だ。
もしも乗り物酔いする人だったら、確実にグロッキーになっていると思う。
結構強いタイプの私ですら、もう既に胃のあたりが気持ち悪い。
「やよいちゃん、やよいちゃん。どうだい、だいじょうぶかな? げるぶ、あまりはげしくするものではないよ」
「だ、大丈夫です……」
「いやいや、こわかったろう。すまなかったね。ほら、げるぶ。おんなのこは、ていねいにあつかわなければ。しんしとはいえないな」
この場合、悪いのはゲルブさんではないような気がする。
気遣い自体は嬉しいけど、肝心なところでズレている気がしてならない。
そんなグラオさんの声を聞きながら、ゆっくりと目を開いた。
顔を持ち上げると、ゲルブさんと目が合う。
「うむ。すこしゆらしすぎたか。もうしわけない」
「や、いいんです。早く着いてくれたら、もうそれで……」
本当に心底さっさと到着して欲しい。
前にシュリと運ばれていた時は前を向く形で抱っこされていたけど、今回は本当に向き合っている形で良かった。
崖あたりなんて、絶叫どころの話ではない。崖は飛ぶものじゃない。もちろん、落ちるものでもないけど。
「つくぞ」
ゲルブさんが言葉を落とした数秒後、少しずつスピードが緩やかになる。
急ブレーキをしなかったのも、わざわざ一言を掛けてくれたのも、気遣いだろう。
でもそれは、贅沢を言うなら崖を飛ぶ前にして欲しかった。
いや、一言あったからといって、いいですよ崖どんどん飛んでくださいねーなんてテンションにはならないけど。
やがてゲルブさんが立ち止まると、数秒ほどしてから地面にそっと降ろされた。
良かった。足裏に硬い感触がある。自分の脚で立ってる。確かな安定感がある。あるある、大丈夫。
こんなにも地面が恋しいなんて初めてだ。
土でも撫でたい気分になったけど、そこはぐっと堪える。さすがに、そこまでしたらおかしい人になってしまう。
視線を後ろに向けると、ちょうどグラオさんが肩車から降ろされるところだった。
「……あれ」
ヒューノットはどこだ。
と、思ったそのとき、数歩ほど離れた位置に真上からヒューノットが飛び降りて来た。
思わず真上を見たけど、空しかない。
高い木や丘みたいな場所もないし、当然ながら、そもそも飛び降りる為の台がない。どこから来たんだよ。
「……」
深く考えないことにした。
「やよいちゃん、そらではないよ。こちらだ。こちらにそらがあるのだとも、みてごらん」
矛盾した言葉を掛けられてグラオさんを見ると、少し離れた位置を指し示している。
視線を転じると、そこには丸い水たまりがあちらこちらに点々と散らばっていた。
水たまりのサイズは大小さまざまで、小さなものは野球ボールくらいで大きなものはマンホールくらいか。
青く澄んだものから濁った色や黒色も混ざってるけど、泥が紛れているのだろうか。
空ってどういうことだ。困惑していると、ヒューノットが進み出た。
「成る程な」
何が、どうなるほどなのか。どう納得したのか。
その背を追い掛けて、ヒューノットの斜め後ろあたりから水たまりを覗き込む。
「――あっ」
いや、水たまり、ではない。
丸いそれは確かに一見すると、ただ空を映し込んでいる水たまりに見えたけど、そうじゃない。
中に広がっているのは水でも泥でもなくて、街並みだ。真上から見下ろす形で、遠くに街が広がっている。
ビルのような背の高い建物もいくつか見えていて、"こちら側"ではないと知れた。
隣にある別の水たまり――もとい、穴を覗き込む。
濁っているように思ったのは、夜景が映し出されて暗く見えた所為だった。
どの穴を覗き込んでも、まるで雲の上から見下ろしているような光景が広がっている。
地面が空になっているというのは、こういう意味だったのか。
点々と開いた穴の向こうには、色んな空がある。見渡す限り、中には夕暮れ空もあるようだ。
同じ場所の光景ではなさそうだし、時間帯もバラバラだし、どうなっているのかは理解できない。
「ヒューノット。これって……」
顔を上げて声を掛けると、ヒューノットも視線を向けて来た。
「知らん」
ですよね。
こんな現象は、きっとヒューノットも見たことがないのだろう。
素っ気ない返事にも慣れてきた。頷きを返してから、近い位置の穴を覗く。
肌をなぞる風は、穴から出て来ている分もあるようだ。
確かに、こんなものを見たら、慌てて報告しようとするのも無理はない。
「かぎのひとに、かんけいがあるのではないかとおもってね。ひゅーのっとくん、どうだろう?」
「無関係とは言い難い」
「やはり、そうなるね。さて、どうしようか」
シュリの意識がない事と、この現象に関係がありそうなのは確かにそうだ。
何せ、鍵であるシュリの意識がない。
シュリの言う"境界"っていうモノが、いまいちわからないけど。
でも、ふたつの世界を繋ぐ扉みたいなものが、壊れかかっているのだとすれば意味は通じる。
「げるぶ。ひとまず、まちのこたちには、もりにはちかづかないようにつたえようか」
「それがいい」
「このままでは、あまりにもきけんだからね。けっして、ちかづかないようにしてもらわなくては」
グラオさんの言う通りだ。
私たちでもマンホール大の穴だったら、うっかり落ちてしまう可能性がある。
人形たちなんて、この一番小さな穴でも危ういくらいだろう。
「厄介だな……」
そう言いながら屈み込んだヒューノットを振り返ると、不機嫌そうに眉を寄せていた。
いや、不機嫌というか。考えごとをしているといった感じかな。
じっと穴を見つめて、眉を寄せている。
だんだんわかってきた。
何というか、ヒューノットって表情作るの下手なんだな。
「ヒューノット、どうする?」
ここで考えあぐねていても、どうしようもない。
有効な手立てが何も思い浮かばないのなら、尚のことそうだ。
じっと見つめていると、ヒューノットは急に目を細めた。
「行くか、行かないか――は、問う必要もなさそうだな」
ヒューノットの声は、いつも通りだ。
ただ、何だろう。笑った、のかな。
一瞬だけ、現状を思えば場違いに穏やかな目を向けられたような気がする。
前言撤回。やっぱり、まだわからないことだらけだ。
行くか行かないか。
それを前に聞かれたのは、いつだったか。
確か、ベランダにいたときだ。自分で決めろと言われた。
久し振りに選択肢を突き付けられて、あのときは少しだけ、ほんの少しだけ戸惑ったけど。
空で星の光が弾ける中で、私は確かに自分で決めた。決めて、ヒューノットに対して言い切ったんだ。
「――うん、行くよ。連れてって」
私には、やりたいことがある。
やらなくちゃいけないと、そう思うほどの責任感はない。義務感だってない。
でも、やっぱり気になっていることがある。
このままで終わって、他の人に委ねて――それじゃ、あまりにも気持ち悪い。
「なら、星を探せ」
「星?」
「そうだ――悪いが、お前たちも探してくれ。時間がない。星が散る空を見つけろ」
頼んでいるんだか、命令しているんだか。
まあ、しおらしいヒューノットは見たくないから、別にいいんだけど。
グラオさんたちに声を飛ばすヒューノットから視線を外して、ひとつずつ穴を覗き込む。
星が弾けるときは、とても眩しいからわかる。でも、落ちるだけじゃわからないかもしれない。
それに、真昼間の景色に溶け込まれたら、すぐには見分けがつかない可能性だってある。
「おい、落ちるなよ」
低い声で注意された。
わかってるよと言いたかったけど、万が一のときには助けて欲しいから黙って頷くだけにする。
グラオさんたちも、口々に何かを言って探しに散った。
まあ、あのサイズだったら、マンホール大でも落ちそうにないから心配しなくていいだろう。
急にガバッと開いたら、それはもう完全にお手上げだけど。
そう思いながら、サッカボールサイズの穴を覗き込んだときだ。
「――ッ!」
まるで、打ち上げ花火のような光が穴の中で弾け飛ぶ。
白とも金ともつかない色の光が四方八方に飛び散って、そしてゆっくりと落ちながら消えていく。
きらきらと煌いて落ちていく様子は、花火の残滓にも似ていて、割れたガラスが降り注ぐようでもある。
顔を上げて呼びかけようとした次の瞬間、視界の端でゲルブさんが大きく仰け反った。
覗き込んでいたらしい穴から、青白い光が弾けて飛び散る。こちら側に飛び出して来たそれは、まるで火花だ。
「げるぶ!」
思わず言葉を失っていると、グラオさんが全力疾走でゲルブさんのもとへと駆け寄る。
火傷でもしたのではないかと思ったけど、大丈夫だったらしい。間一髪だ。
周囲に散っている火花は、音を立てながら背の低い草を枯らしている。
「……燃えてない」
この光は何なのか。
草は燃え上がるでもなく、単に焦げたような色をしながら萎れていくばかりだ。
直後には、ヒューノットの真後ろにある穴から真っ赤な光が縦に吹き上がった。
間欠泉のように高く上った赤い光は、すぐに薄れて消えてしまう。
「……これ以上は危険だな」
あっさりと言い放ったヒューノットは、とても落ち着いているように見える。
確かに焦ったところで、どうしようもないけど。
ヒューノットは足早にグラオさんたちに近付いていくと、火花が散った穴をちらりと一瞥したあとで周囲を見回した。
「助かった。街に戻ってくれ」
「ひゅーのっとくんたちは、どうするつもりだい?」
「俺達は境を越える。ルーフは残して来た。シュリュッセルを頼む。もし、目が覚めたら、この状況を伝えて欲しい」
「もちろんだ、うけたまわったとも」
深く頷いたグラオさんも、街に戻れば、やるべきことがたくさんあるだろう。
シュリュッセルのことを任せてもいいものかと思わないでもないけど、でも、連れていくわけにもいかない。
そのことは、きっとヒューノットの方が悩んでいるはずだ。
「しかしね、ひゅーのっとくん」
「何だ」
「やよいちゃんを、あまりあぶないめにあわせないでほしいな」
予想外の言葉に、私の方がびっくりしてしまう。
危ない目といえば、確かに色々危なかったけど。
でも、ヒューノットはどっちかといえば、守ってくれる方だ。投げたりするけど。さっきも投げられましたけど。
「……ああ」
ヒューノットの返事は素っ気ない。
とはいえ、いつも通りとも言える。
ゲルブさんがグラオさんを肩車し始めて思ったけど、もしかして、あれがデフォなのだろうか。
「きをつけろ」
「そうだとも、げるぶのいうとおりだよ。ふたりとも、きをつけて」
「はい。ありがとうございます。あの、シュリを、よろしくお願いします」
「もちろんだとも、そうだろう。げるぶ」
「ああ、まかされた」
シュリもそうだけど、ルーフさんもそうだ。
できるだけ、安全を確保しておいて欲しい。
手を振ってくるグラオさんに手を振り返していると、ゲルブさんは突然駆け出した。
あの崖は、どうやって帰るのだろうかと気にはなったけど、あっという間にその姿は見えなくなる。
見えないけど、木々が思いっきり揺れているおかげで場所はわかる、といった感じだ。荒々しい。
「お前は何か見つけたのか」
「え、あ、えっと……」
どの穴だっけか。
確か、一番近いところにあった穴だ。
それらしい穴を覗き込むと、真下の街に降り注ぐ光の粒が見えた。
「ここ、白っぽいような光が散ったの。星かは、わからないけど……」
でも、雑草を萎れさせた火花や間欠泉のような赤い光の柱よりは、まだ星に近いような気がする。
とはいえ、そもそも星ってものは、そんなことにはならないはずなんだけど。
「……なら、お前に賭けよう」
「はい?」
「今のところ、お前が最も正解に近いはずだ」
「は? え? それって、プレイヤーだから?」
プレイヤー代表だから、という意味なのか。
戸惑っていると、ヒューノットは緩やかに首を振って私の手を掴んだ。
手首を掴む手は少しゴツゴツしていて硬い。
掌は大きくて、指は長い。
「――お前は、俺達の知らない道を示した唯一の傍観者だ」
ユーベルが言っていたような、選択肢を選ばないというやつか。
あるいは、シュリが言っていた、ヒューノットを選択肢から解放するという話か。
いや、そもそも、ユーベルが出て来たあたりから、そうだったのかな。
選択肢の向こう側――と、シュリは表現していたっけ。随分と前の話のように思えてしまう。
「……うん。だから、えっと、正解に近いってこと?」
「今のところはな」
いや、それにしても、そんな全幅の信頼を寄せられたって困る。
ツェーレくんのことに関しては、何度も失敗しているだけに辛い。
肝心のシュリがあの状態だと、セーブがどうのなんて話はないにも等しいし、どうすればいいのかわからない。
「だから――」
ゆっくりと腕を引かれる。
ヒューノットの方へ引き寄せられたかと思えば、次にはあっさりと横抱きにされた。
まさか――と、思う間もない。
前へと踏み出すヒューノットの動きには、迷いも何もなかった。
「――お前の選択に従おう」
光が飛び散って落ちた、サッカーボールサイズの穴。
ヒューノットが足を踏み入れたと同時に、小さかった穴が裂けたように大きく広がった。
一瞬にして地面に広がった穴は、まるで口を大きく開いたようにも見える。
水面の波紋が遠ざかるにつれて大きくなるように、穴がぐんと広がっていく。
極々気軽に階段を下るかのような、当然と言わんばかりの足取りで穴の中へと入って――そして、一気に落ちた。
森の景色は一瞬にして遠ざかり、代わりに真上にはただの空が広がる。
すべてが、瞬きをする程度の一瞬すぎる出来事だ。
空に開いた穴の向こう側には、まだ森の景色が見えているけど、そんなのどうだっていい。
「選んでないけどねっ!?」
精一杯の抵抗だった。




