50.エゴ
フェルト生地で作られた木々が立ち並ぶ森を抜ければ、当然ながらフェルトの街が姿を見せた。
わらわらと近付いて来る人形たちに向かって、説明をするグラオさん。
そして、全く気にした様子もなく家へと歩いていくゲルブさん。
何とも対照的だ。
もっとも、ふたり揃ってズンズンと進んでいるのだから、動き自体は同じだけど。
ゲルブさんに抱えられているシュリは、静かなままだ。
「――あっ」
スライム状の、黒い何か。
モドキが噛み付いたあたりに付着していたそれらが、少しずつ千切れて浮かび始めていた。
それは、やっぱりゲルブさんのフェルト生地を汚すこともない。
分離する様は、まるでオイルタイマーだ。あれは、下に落ちてしまうけど。
離れた黒い液体が宙に溶けるように消えていく。
黒色のそれがなくなったシュリの肌は、綺麗なものだ。
傷があるわけでもなく、血がついている様子もない。
まだ黒いローブに同化している液体もあるようだけど。
それらも、少しずつ宙に浮かんでは消えている。
群がってくる人形たちの山を抜ける間に、わかったことがある。
フェルト人形たちにも、シュリは「かぎのひと」と呼ばれていた。
ということは、シュリが鍵を飲み込む前からの知り合いではないという感じだろうか。
不思議な気もしたが、鍵に関わる前は世界のすべてを知る必要がなかったかもしれない。
そう考えると、特筆して不可思議なことでもないような気がする。
「さて、かぎのひとには、ここでやすんでもらおう。さあ、げるぶ。ていちょうにたのむよ」
「わかっている」
ひときわ大きなフェルトの家は、彼ら兄弟のおうちだ。
中に入って一番奥にある扉を超えると、彼らサイズというべきか。かなりラージなベッドが置かれている。
ゲルブさんは、言われた通りに丁重にシュリをベッドに寝かせてくれた。
たぶん、わざわざグラオさんに言われなくても、そうしてくれただろう。そういう性格な気がして来た。
「すみません。ありがとうございます」
眠るシュリの傍らに立って、その手に触れてみた。
細い指先は、ひんやりと冷たい。
掌まで辿って触れてみたけど、あまり変わらない。
元々体温が低そうなイメージではあったけど、すっかり冷えてしまっていた。
「いや、いやいや。やよいちゃん、いいのだよ。これはね、ぼくらがするべきことなんだ。そうだろう? げるぶ」
「ああ。もちろん、そうだ」
「と、いうわけだよ。やよいちゃん。われわれにまかせたまえ。われわれはね、けっしてやくそくをやぶったりしないのだから」
この場においては頼もしい限りではあるけど、どうして彼らの役割になるのだろう。
ゲルブさんも、約束を違えないと言い切っていた。
疑問ではあるけど、助けてもらえたのだから今は何でもいい。
ゆっくりとシュリに視線を戻す。
薄く開いた唇は、確かに息をしているようだ。少し、安心する。
口許にかざしていた手を引いて、それから仮面の縁に指を伸ばした。
「……」
手を離せと。
ヒューノットから低い声で咎められた瞬間を思い出して腕を引いた。
こうして、眠るシュリを見つめるのは二度目だ。きっと、あってはならないことのはず。
あのときは、レーツェルさんのせいだった。
いや、今回だって、彼女が関わっている可能性は十分にある。むしろ、濃厚だ。
シュリが眠っている間に、境界は乱れてしまうだろう。
きっと、レーツェルさんの思うツボだ。
「……あの」
気が付けば、三人揃ってシュリを眺めている状態になっていた。
こんなの、さすがのシュリでも起きるに起きられない。
おずおずと顔を上げると、ゲルブさんが身を引いて壁に寄りかかり、グラオさんが首を傾げた。
「代理人、って何ですか?」
そう問いかけると、ふたりは顔を見合わせた。
いや、私もその言葉自体を説明して欲しいわけでもない。
改めて、ふたりへと向き直ると、シュリに背を向ける形になった。
「かげのことだよ、やよいちゃん。ときどき、はなれてあるいてしまうことがあってね。われわれ、こびとはそんなことはないのだがね」
「だいじんには、まれにあることだ」
小人にはない。
つまり、ゲルブさんやグラオさんは大丈夫なのか。
対峙したときにゲルブさんが余裕だったのは、それがあるからか。言ってくれよ。
「そう、そうだとも。げるぶのいうとおりだよ。すがたかたちは、きまっていない。だいりにんは、かげだからね」
「決まっていない?」
どういうことだ。
だって、あんなにハッキリ見えていた。
というか、何だったら、私にはシュリと似たような姿に見えていたくらいだ。
眉を寄せていると、ゲルブさんが「そうだ」と頷いてくれた。
「ひとのかたちにみえていることは、きょうつうしている。だが、どのようにみえるかは、にんしきしたものによる」
「やよいちゃんとおなじようにみえることもあれば、ちがうすがたにみえることもあるのだよ。それはね、こじんさのようなもので、すがたそのものには、たいしたいみがないんだ」
「みめにまどわされてはならない」
「そう、そう。そうだとも。げるぶのいうとおりだよ」
ふたりで仲良く説明してくれて、わかりやすい。
それにしても、見る人によって姿が変わるのなら、それはそれでややこしい気がしてならない。
「ゲルブさん。代理人は、役割を超えられないって言ってましたよね?」
「いった」
「戦わざる者に、刃は向けられないって」
「そうだ」
「ルーフさんは戦う人ではないから、代理人も戦えないってことですか?」
「ああ」
ゲルブさんの返答は最低限だ。
シンプルでいいんだけど、どう聞けばいいのか迷う。
グラオさんにも、ちらりと視線を向けてみた。
「じゃあ、ヒューノットは戦う人だから、攻撃して来るってことでいいですか?」
その上で、攻撃が効いてなかったわけだから、戦う術を持つ者は"代理人"に勝てないのではないか。
そして、戦う術を持たない者だけが残るというか。
「それは……それは、すこしちがうね。やよいちゃん。だいりにんは、あくまでだいりにんだ。かげがうごくには、ほんたいがうごいてくれなければならないというのは、わかるね?」
「え、あ、はい。それは、わかりますけど……」
「かげは、ほんたいのうごきをこえられないというのも、わかってくれるね?」
「あー、えっと、はい」
グラオさんの説明が、いきなり回りくどい。
足して二で割った方がちょうどよさそうなところも、何となくだけど、やっぱりシュリとヒューノットっぽい。
「たたかえないものを、おそうことはない」
ゲルブさんが割り込んで来た。
「そう、そうなのだよ。なぜなら、そのすべをもたないあいてだからだとも。ほんたいのやくわりを、つまり、ほんたいのうごきをこえられない。ほんたいが、やったことのないことは、かげにはできないということだよ」
「ぎゃくもしかりだ」
「げるぶのいうとおりだとも。たたかえるものは、こうげきもぼうぎょも、かのうだ。たたかうことを、えらぶことができるのだから、とうぜんだとも」
戦う術を持っていれば、戦うことを選択できる。
別に普通のことだ。
グラオさんが言うとおり、当然としか言いようがない。
戦う術がない者は、逃げるか守るか降伏するか。選択肢は、それくらいしか思いつかない。
「たたかえるものには、おそいかかることができる」
「……影も、戦うことを選べる……から?」
「そうだとも。かげは、やくわりをこえられない。だが、やくわりのはんちゅうであれば、それはかげのりょういきだ」
「で、でも、本体を襲ってどうするんですか?」
この場合の本体は、別に影の持ち主である必要はないのだろう。
ゲルブさんが"代理人"だと呼んだのは、漆黒の人物だった。
あれが複数人いるというのなら話は別だけど、その可能性は今のところ排除したい。
だって、話がこんがらがってくる。
漆黒の人物は、ヒューノットにもシュリにも襲い掛かっていた。
あれ。でも、私の攻撃は効いたパターンと効いてないパターンがあったな。どういうことだろう。
「どうするのか?」
「どうするだって?」
ゲルブさんとグラオさんの声が重なった。
そして、ふたりは揃って互いの顔を見遣る。
私は、そんなにもおかしなことを言ったのだろうか。
困惑していると、ふたりは同じタイミングで私を見た。
「ほしょくする」
「はっ!?」
「こらこら、げるぶ。ことばがすぎるじゃないか。いいかたがあるだろう?」
「のっとるためのしゅだんだ」
「そうだとも」
「ちょ、えっ?」
どちらにしても、衝撃的だ。
思わず声が裏返ってしまうくらいには、びっくりした。
「のっとるというべきかね、いれかわるというべきかね。かげとほんたいは、おもてとうら。それを、ぎゃくてんさせようとするのだよ」
「まれにある」
「ごくごくまれにね。そうそう、ひんぱんなことではないのだよ」
頻繁にあったら困る話だ。
それじゃ単純に、鍵を持つシュリを手に入れようとか、邪魔なヒューノットを排除しようということではないのか。
もっと、その先に狙いがあって、そのための手段だったと考えるべきなのかもしれない。
どんどん話が複雑になっていって、私の頭でついていけるかどうか不安だ。
「そ、それじゃ、代理人がシュリを襲ったのは……」
「かぎのひとを?」
「あ、いや、直接は襲ってないですけど。えっと、ヒューノットかな……」
シュリに噛み付いたのは、モドキだった。
ヒューノットによく似た顔。最終的には随分と崩れて、似ても似つかない有様になっていたけど。
「ひゅーのっとくんにおそいかかるのは、いみがわかるとも。かれは、つよい。とてもね。つよいせんしのやくわりをえたいのは、もっともだ」
「いとをひくものがいれば、なおのことだ」
「そうだとも。つまり、ひゅーのっとくんをてにいれるようなものだからね」
それは、確かに強力だ。
今のところ、ヒューノットが一番強い。と、思う。
何せ、いわば主人公の立場だ。強くないはずがない。
もちろん、選択肢によっては敗北するけど、そんなの強いられた負けだ。
「しかし……もんだいは、かぎのひとだね」
「なぜだろうか」
「さあ、ぼくらにはわからないな。すまないね、やよいちゃん」
「いやいや、そんな。いいんです」
それがわかるということは、レーツェルさんの狙いがわかるというにも等しいはずだ。
あっさりとわかれば、苦労はない。
申し訳なさそうにされると、むしろ、こっちが謝りたくなってしまう。
「……」
とにかく、ヒューノットと合流しないと進めない。
シュリは無理に起こせないし、私ひとりでは色々と都合が悪いし、やっぱりヒューノットが必要だ。
ルーフさんのことも気になる。
足止めばかりされていて、全く前に進めていないのも気掛かりだ。
こうしている間にも、レーツェルさんは着々と事を進行させているだろう。
「やよいちゃん」
「はい?」
急に話しかけられて、ちょっとびっくりしてしまった。
顔を上げれば、手招きをしているグラオさんが見える。
「えっと、何ですか?」
近付いて行くと、入ってきた扉とは別の扉を開かれた。
そちらも寝室になっているようで、シュリが寝ているベッドよりも更に大きなベッドが置かれている。
たぶん、あっちのベッドがグラオさん用で、こっちはゲルブさん用なのだろう。
「やよいちゃんも、すこしやすんだほうがいい」
「え、あ、でも」
「あまりにもつかれているとね、ひろうかんに、じぶんではきがつかないものだとも。そうだろう、げるぶ」
「そのとおりだ」
促されて、少し戸惑ってしまう。
でも、さすがは紳士。強引に引っ張り込んだり、後ろから突き飛ばしたりはして来ない。
誰かさんとは違う。
「さあさあ、おやすみ。めをとじて、よこになるだけでもこうかてきだとも。ひゅーのっとくんが来るまで、われわれがまもるとちかおう。あんしんして、やすみなさい」
三度も促されて、もう断りにくくなってしまった。
お礼だけ口にして、隣の寝室に足を踏み入れる。
「おやすみ、やよいちゃん。なにかあれば、えんりょなくよんでおくれ。われわれは、りびんぐにいるからね」
「ほんでもよむか」
「それは、よいかんがえだよ。げるぶ。そうしよう」
ふたりは、相変わらずの調子で会話を交わしながら、そっと扉を閉じた。
残された私は、少し落ち着かない。
だからといって、ここで立っても仕方がない。
触れたベッドはふかふかとしていて、触り心地が良い上に温かさがある。
枕も同じだ。もこもこと、柔らかい。
うつ伏せに転がると、脚が一番疲れていることに気が付いた。
自分で走っていたわけでもないのに、変な感じだ。
そして、次に腕がだるい。重たい疲労感があった。
「……ヒューノットが来るまで」
意識しないうちに、ぽつりと呟きが落ちる。
私の声を拾う人はいない。
ヒューノットは、繰り返せると言っていた。
そして、シュリはそれができない。
激痛だっただろうに、脚を捨ててでも駆けつけようとしたヒューノットを思い出す。
シュリの姿が見えなくなって、ひどく焦っていた姿。
ルーフさんのことで、シュリに怒鳴り声を上げていた姿。
シュリを詰ったレーツェルさんに対して、苛立っていた姿。
「……」
失いたくない――そう言った時の、表情が思い浮かぶ。
ヒューノット。
いつになったら、戻って来るの。
瞼を下ろすと、意識はゆるゆると眠りに傾いていく。
睡魔の手招きに抗えないまま、ほどなくして思考は途切れた。




