49.アルケー
「ご不安かとは思いますが――"ヒューノットさんが戻るまでは、お守り致します"と、お約束致しましたので」
確かにそうは言われたけど、それはプッペお嬢様がいたからだったはずだ。
さも、当たり前のように言い放たれてしまった。
あのときも、ヒューノットから直接頼まれたというわけでもない。
今回だってそうだ。それなのに。
再び前を向いたルーフさんは、チアバトンのように棒をくるりと回して構え直した。
「ヒューノットさんのように戦う事は難しいのですが、退ける程度の事は可能です」
それも、一度は聞いた言葉だ。
困惑している私をよそに、ゲルブさんは大きな頷きを返した。
「――わかった。まかせよう」
「ちょ、ちょっとストップ! だめですよ、そんなっ! あいつ、すごく強いんだから!」
強いというべきか、ややこしいというべきか。
とにかく、あのヒューノットでさえも苦戦していた相手だ。
ルーフさんに任せるなんて、あまりにも無謀すぎる。
それに、もしものことがあったら、どうするというのか。
プッペお嬢様に顔向けできない。
「だが、ほかにほうほうがない」
ゲルブさんの言い分は尤もだ。
私ひとりではシュリを運べない。
ルーフさんでは、私とシュリのふたりを庇って走ることは難しいだろう。
そもそも、シュリを抱えられるかどうかも怪しい。
ゲルブさんに、"代理人"の足止めができるのか。それも、わからない。
「――ヤヨイさん」
ひたすらにうろたえていると、前方から声が届いた。
はっとして顔を上げる。
ルーフさんは、手馴れた様子で棒を円筒形の器に差し込んでいる。
そして、器ごと揺らしてから、すぐに取り出した。
「ヒューノットさんと私の仲が良いのか。気にしていらっしゃいましたね」
陶器の入れ物には、液体が入っていたようだ。
ゆっくりと取り出された棒は水を含んでいて、先端からぽたぽたと滴り落ちている。
「それは、やはりヒューノットさんのお答えを聞かなければとは、思うのですが……」
ルーフさんは背を向けたまま、ゆっくりと棒を掲げた。
「彼は、私の大切な人を守る手助けをしてくださいました」
ドーム越しに代理人へと棒を突きつける仕草をしたルーフさんが振り返る。
戦うとか戦わないとか、そんな話とは、まるで無縁としか思えない。
彼は、あまりにも人畜無害そうな青年だ。
がっしりとしたヒューノットとは違って、ほそっこい身体はどうしても頼りない。
「私はその恩に報いたいのです。どうか、その機会を与えてください」
再び前を向いたルーフさんが、濡れた棒を素早く横に振る。
棒からぶわっと飛び出して来たのは、大量のシャボン玉だった。
何度も棒が振るわれる度に空中へとシャボン玉たちが放たれる様子は、ちょっとしたマジックのようでもある。
私たちを覆っている大きなシャボン玉の表面に小さな――それでも掌サイズのシャボン玉が、いくつもくっつく。
数秒後、ドーム大になっている方がパンッと弾けた。
そして、まるでその音を合図にしたかのように、ゲルブさんが駆け出す。
周囲を飛び交うのは、私の拳ほどもあるシャボン玉たちだ。
十や二十、いや、もっとあるだろうか。
「ルーフさん!」
後ろを振り返ろうにも、ゲルブさんが大きすぎて見えない。
剣と弓で対抗できなかった相手に、石けん水と棒で立ち向かうなんて無茶すぎる。
私が声を上げると、ゲルブさんが腕を揺らした。
「――だいじょうぶだ。だいりにんは、やくわりをこえられない」
「ど、どういう意味ですかっ?」
「かれは、うみだすものだからだ」
またそれだ。
「つまりっ、どういう意味ですか!」
ストレートに聞いてみた。
ゲルブさんは、少しだけ笑ったようだ。
「だいりにんは、あくまでだいりにん。かげだ。ほんたいと、ことなるかたちになることはない」
勢いよく走る間にも、シャボン玉たちはついて来る。
風に流されもせず、割れる様子もない。
ふよふよと、ゲルブさんの速度に合わせて漂っている。
「たたかわざるものに、やいばはむけられない」
「ひゅーのっとくんとは、まもりかたがちがうということだとも」
「そうだ。あんじることはない」
「はっ!? グラオさんッ!?」
どこからともなく声が落ちて来たから、驚いて周囲を見回した。
しかし、グラオさんの姿は見えない。
ハッとして顔を上げると、ゲルブさんに肩車状態になっていた。
そりゃ、ゲルブさんは異様に大きいけど、それでもあんたお兄ちゃんでしょ。
もしかして、さっきゲルブさんが腕を揺らしたのは、上に乗られたせいだったのだろうか。
「やあやあ、やよいちゃん。あちらはじゅんちょうだ。しごくじゅんちょうだったとも。こちらも、もんだいなかったようだね?」
「とうぜんだ」
「さすがは、げるぶだ。ぼくのおとうとは、すばらしい。ほこらしくてならないよ。さて、かれがあしどめをしてくれているうちに、あんぜんなところへいかなくては」
「もちろんだ」
グラオさんはよく喋るけど、ゲルブさんは最低限だ。
まるで、どこかのふたりを思わせる。片方は饒舌で、片方が静か。そんなところが、よく似ている。
ズシンズシンと激しい振動の中、通り過ぎていく景色にはあまり見覚えがない。
街中だということは、さすがにわかる。看板や標識は確かに日本語だ。でも、現実味はなかった。
立ち並ぶビル、行き交う人々や車、バイクに自転車。
すべてが、まるで作りモノのように見えてしまう。
少しずつ街から離れ始めて周囲の景色が変化しても、それは同じだ。
あまりにも現実味がない。
大きな道路を延々走り、道路脇に並ぶ建物が疎らになっていく。
「あのっ、どこに行くんですか?」
安全なところ、なんて。どこにあるというのか。
ここが、"あちら側"でもなくて"こちら側"でもないとして、それでもやっぱり安全な場所なんてなさそうな気がする。
「おっと、げるぶ。まだ、やよいちゃんにせつめいはしていなかったのかな? これはこれは、しつれいした」
「いえ、それはいいんですけど……」
「ひとまずは、ひとのいないところをめざしたほうがいいとも。なぜならば、きみたちをおそったやからは、ひとのおおいばしょにいるからね」
ヒトガタのことだろう。
確かに、あいつらの目的は今までのプレイヤーを見つけることだ。
駅前だとかに現われたのも、意味はわかる。
できれば、他のプレイヤーも守りたいけど、今はそれどころじゃない。
ひとつずつ、確実にこなしていかなければならない。
「それで、こっちに向かったんですね」
周囲には、畑や田んぼといった光景が広がっている。
道路自体は新しいけど、山を切り開いて最近作ったといった感じだ。
片側二車線だが、ほとんど車は通っていない。
大きな駐車場を構えたコンビニがある程度で、その他には建物がない。
いや、遠くに趣味の悪い賑やかな外観をしたホテルは見えているけど、あんなのカウントしてやらない。
「そうだとも。それと、こちらにはとびらがあるはずだからね。さあさあ、さっさとさがしてとびこもう。げるぶ、たのんだよ」
「まかせておけ」
山の間に開かれた道路をひた走る。
路肩には軽トラが止まっていることはあるけど、人の姿はない。
外灯もほとんどなくて、人が徒歩で行き来することは想定されていない道のようだ。
大型墓地や火葬場の看板も見えて、いよいよ人里離れた感がある。
「――あっ」
不意に視線をゲルブさんの頭部よりも上に向けると、晴れ渡った夜空が見えた。
夜空の一部が口を開いているかのように、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。
ただ、そこにはあるべきものがなかった。
「星が……」
ひとつとして、星が存在していない。
何だか、いいや、間違いなく、奇妙な光景だ。
街中にいたときは気にならなかったけど、夜空に星が全くのゼロなんてことは有り得ない。
ぽつんと月だけが浮いている。空は、どことなく寂しげだ。
「ほとんどのほしがおちてしまったのかもしれないね。よくない。よくないことだよ、これは。いそぐんだ、げるぶ。すみやかにことをなすひつようがある」
「わかっている」
私の声に反応したグラオさんが声を返してくれる。
頷きを返したゲルブさんは、少しだけ速度を上げた。
揺れが更に激しさを増して気持ち悪くなりそうではあるけれど、さすがに文句は言えない。
ひとまずシュリを抱き締め直した。
ゲルブさんの腕があるのだから、別に私が支えている必要はない。
ただ、そうしたかった。意識のないシュリは、ぐったりとしたままだ。それが、とても怖い。
モドキに噛まれた部分は黒く濡れていて、そこに血が混ざっているのかどうかはわからない。
ただ、触れても手が汚れることはなく、ゲルブさんにも色は移っていないようだ。
「だいじょうぶだよ、やよいちゃん。しんぱいはいらないとも」
シュリに向けていた視線を持ち上げる。
すると、相変わらず肩車状態になっているグラオさんが私を見下ろしていた。
「ひゅーのっとくんも、じきにおいついてくれるよ。もうしばらくのしんぼうだ」
私は、とても不安そうな表情を浮かべていたのかもしれない。
笑いかけてくれるグラオさんに対して、笑みを向けたかったけど、つい眉が下がってしまう。
ヒューノットのこともそうだけど、ルーフさんのことだって気になる。
シュリだって、起きる気配がない。
私の選択が正しかったかどうかも、自信なんてなかった。
「ただ、かぎのひとは、すこしやすませてあげたほうがいいね。さあさあ、げるぶ。ちかくにとびらがあるはずだ」
「わかっている」
また速度が上がるのかと警戒したけど、そうではなかった。
安心したのも束の間。
メインの道路を外れて、森の方へと入り込み始めた。
柵をなぎ倒して進むゲルブさんの勢いは止まらない。
「あの、扉って何のことですか?」
「おっと、せつめいぶそくだった。これはこれは、しっけい。ぼくとしたことが。もうしわけなかった。さて、とびらというのはね、やよいちゃん。"せいしきな"でいりぐちのことだよ。むりにこじあけたものを、とびらとはいわないじゃないか。それでは、あんまりにもぶれいだとも」
なるほど。
つまり、この近くに境界の扉があるという解釈でいいのだろう。
今、私たちがいる場所が"あちら側"であっても"こちら側"であっても、あるいはちょうど"狭間"であったとしても、扉は有り得る。
相手方が勝手に開いたり閉じたりしているのは、あくまで亀裂で穴であって、扉ではない。
そう言われてみれば、確かにヒューノットが追いかけようとしたのは扉の形をしたものではなかった。
いや、光のせいで正確な形なんて、わかりようもなかったけど。
そうだとしても、扉らしいシルエットではなかった。
「みつけしだい、とびこむぞ。いいな」
木々の間を抜けて斜面を駆け上がるゲルブさんは、やっぱりちっとも減速しない。
ときどき細い枝あたりは、勢いに負けて弾け飛んだり折れたりしていて、"間を抜けて"という表現には無理があるけど。
「もちろんだとも、げるぶ。くれぐれも、けがをさせないようにね。おんなのこを、きずものになんてできないだろう? まんがいちがあっては、しんしがすたるというものだ。われわれの、こけんにかかわってしまう」
「わかっている」
こくん、と。
頷いたゲルブさんが見えた直後、さっきまでその背景にあった木々が消えた。
いや、違う。ゲルブさんが大きく飛び上がったらしい。
顔ごと視線を前方に戻すけど、斜面があるだけだ。
足元を見下ろすと、川が見えた。
「ちょ、はっ、はーっ!?」
川といっても、飛び込んで良さそうな深さがあるようには見えない。
思わず声を上げたあと、慌ててシュリを抱き締めた。
駆け上がった斜面から飛び出したゲルブさんは、そのまま川に落ちていく。
もちろん、私たちも一緒だ。グラオさんは、両手でゲルブさんの頭に掴まっている。
何をするつもりなのかと、問いかけることさえできやしない。
水面がギリギリまで近付いたところで、私はぎゅっと強く目を閉じた。
「……?」
そのまま着水――しなかった。
てっきり水に飛び込むと思ったけど、水しぶきすらない。
代わりに、ドスンッと着地の音と振動に見舞われる。そちらを覚悟していなかった分だけ心臓に悪い。
「……げ、ゲルブさーん……?」
「何だ」
「い、いた……」
そりゃそうだ。
だって、私は今まさにゲルブさんの腕に抱えられているのだから。
抱き締めている感覚から判断すると、シュリもちゃんといる。
「グラオさーん……?」
返事がない。
え、待って待って。どういうこと。
慌てて目を開くと、まず見えたのはゲルブさんの身体。ずんぐりむっくりのフェルトボディ。
次にシュリの仮面が見えた。上へ上へと視線を上げていくけど、肩車状態だったグラオさんがいない。
「えっ、ちょっ、グラオさん!?」
「あちらだ」
いなくなった兄を心配する素振りをまるで見せないゲルブさん。めっちゃクール。
示された方に身体を向けてもらえれば、なるほど、よく見える。
思いっきり落ちてしまったらしいグラオさんが、草の上に転がっていた。
あれ。草原だ。
「とびこむといっただろう」
「えぇ……」
そんな。あまりにも言葉足らずだ。言いたくないけど、ヒューノットか。
飛び込むという言葉が、川に向けられているはずもない。
あの川のどこかに、扉があったということだろう。
いっそ、川自体が扉だったのかもしれない。
まあ、普通にドアを開く感じで想像していた私が悪い。この場合は私が悪い。たぶん。
「いやいや、これはこれは。はははっ、しったいしったい。やよいちゃん、そちらはへいきかな?」
転がっていたずんぐりむっくり――もといグラオさんが、もぞもぞと起き上がってまた転んだ。
何だか、仰向けになってしまった亀を連想させる。
「大丈夫です。グラオさんは……」
雑草まみれになっているけど、大丈夫なのだろうか。
「このていどなら、もんだいなどないよ。しかし、げるぶ。きみのあにが、たいそうこまっているんだ、てをかしてくれないか」
大丈夫そうどころか、色々と余裕そうだ。
ゲルブさんは、私とシュリをゆっくりと下ろしてから、兄の救出へと向かう。
足元に広がるのは、草原だ。
周囲を見回すと、森のような場所だとわかる。
シュリがいつも立っている草原ではなさそうだ。
周りには木々が立ち並んでいて、少し開けた場所ではあるけど森の中らしい。
「さてさて、ひとまずはひゅーのっとくんのまえに、かぎのひとをやすませてあげよう」
引っ張り起こされたグラオさんが近付いて来た。
よくよく見ると、周辺に生えている木はフェルト製だ。普通の木ではない。
何というか。デジャブ。
ハッとして空を見上げると、大きなバルーンが飛ばされていた。
そこに繋がれた長い幕には、こう書かれている。
"ようこそ、ふえるとのまちへ"
めっちゃデジャブ。




