48.イデア
息を飲むだけで精一杯だった。悲鳴を上げるような暇さえもない。
大きく裂けたバケモノの口。その奥が見えた瞬間、シュリをキツく抱き締めて目を閉じた。
食べられるのだと思った直後、顔に勢いよく飛沫がかかる。
水にも似ていて、それなのに生暖かい液体が垂れ落ちていく感覚に、ぞくりと背が震えた。
「――選択しろ」
近い位置から声が聞こえて目を開くと、ヒューノットがいた。
閉じかけたバケモノの口に、肩ごと右腕を突き入れている。
辛うじて私に、そしてシュリにも届かなかった牙。
乱雑に並んだ鋭利なそれが、ヒューノットの腕どころか首筋にも食い込んでいる。
足元に広がっている黒々とした液体の中から、生えるように出て来ていたバケモノの頭部。
それは、確かにシュリを私ごと飲み込もうとしていたはずだ。
「……っあ」
顔を顰めているヒューノットの名前を呼ぼうとしたのに、声とも音ともつかない何かが漏れただけだった。
助けを求めたから、だろうか。
私の声に従った結果なのかもしれない。
震える腕に力が篭る。シュリはまだ、起きてはくれない。
ヒューノットは血まみれの腕でバケモノの上顎を支え、踏みつける形で下顎を開かせている。
真っ直ぐに私達へと向かっていた口は、まだ開いたまま。
荒々しく呼吸を繰り返しているヒューノットから、目が離せない。
私には、何もできないのに。
「おい、やめろッ。"俺ではない"」
ヒューノットの声に、ハッと我に返る。
ただ、言葉の意味がわからない。
私は何を選べばいいのだろう。何を選べば、正解なのか。
喉の奥が震えて、言葉どころか声自体がうまく出て来ない。
「……っ、聞け。シュリュッセルを、選べ」
苦しげな呼吸の中で、言葉だけが浮き上がって明確に聞こえる。
「おい、選べと言っているッ。選択しろ、俺ではない。シュリュッセルを――」
言葉の途中で、バケモノの上顎がガクンッと大きく下がった。
ヒューノットが牙を剥くように口許を歪め、ぐっと歯を食い縛る。
私の位置からは、右腕が殆ど見えなくなってしまう。
バケモノは、ヒューノットの腕を噛み千切ろうとしているのかもしれない。
「シュリュッセルを選べ!」
「で、でもっ」
怒鳴り声を上げたヒューノットに対して、私はどうすればいいのかわからないままだ。
このままでは、ヒューノットが負けてしまう。バケモノにやられて、それで。
また繰り返すからいいと、そういう意味だろう。
ヒューノットは繰り返せる。でも、シュリは違う。
「――頼むからッ……」
黒い衣が吸った液体が足元に落ちる。
ぽたぽたと雫になって落ちていく液体の色を、直視することができない。
そうしている間にも、シュリの身体は少しずつ沈んでいく。
この下に落ちてしまったら、どこに行くというのか。
モドキの身体から流れ出している黒々とした液体は、相変わらず不気味な音を立てている。
迷って視線を彷徨わせていると、ヒューノットの後ろ側に黒い人影が見えた。
黒色のフードを被った人物。
目元は見えないものの――漆黒の人物だと思ったのに、"それ"には顔があった。
いや、違う。漆黒だけだったはずなのに、顔が出来上がっている。
ほんの薄らと笑う。その口許に見覚えがある気がして、背筋がぞっとした。
ヒューノットが背後を窺うように視線を飛ばしたが、たった一瞬のことだ。
「……っ」
ヒューノットの歪んだ唇の端から、赤黒い液体が垂れ落ちた。
それは顎先を伝って、幾重にも滴っていく。
彼の真後ろに、漆黒の人物が近付く。足音はひとつ、ふたつ。少しずつ、距離が詰まる。
きっと、名前を呼んではいけないんだ。
どうしてなのか、理由なんてわからない。
ただ漠然と、彼が自分の名前を呼ばせないようにしているのだと感じただけだ。
青い瞳が、真っ直ぐに私を見る。
「選んでくれ。どうか。頼む。選んでくれ――――失いたくない」
眉を寄せた表情は苦しげで、ひどく悲しそうにも見えた。
いつもは鋭いだけの、睨みつけているような青色の双眸が細くなる。
一部が赤く汚れた濃紫の髪が触れて、彼の頬に幾筋もの赤い線を描く。
ひと呼吸の間。
響き続けていた靴音が止まったタイミングで、バケモノの口が勢いよく閉じた。
「――――ひっ」
顔を背ける寸前、上顎と下顎が隙間もなく"完全に"重なった。
そして、押し潰される音が耳に入り込む。柔らかいものも硬いものも、一緒になって潰される音だ。
耳障りな音が響いているものの、その中に声は何ひとつとして混ざらない。
ただ、反射的に目を閉じた私の身体に、顔に、頭に、大量の液体が降り注いだ。
嗚咽と嘔気が同時に込み上げる。頬を伝って唇から入り込んだ液体は、鉄の味がした。次いで、涙が頬を伝う。
「シュリ――ッ」
声を出すと、急に床の感触がなくなった。
身体が浮く感覚と共に、シュリの身体と引き離される。
ふわりと離れそうになった細い身体を抱き寄せて、両腕に渾身の力を込めた。
肩が外れそうなほどに痛い。腕どころか、背中にまで引き攣るような震えと痛みが走る。
胴体も四肢も、外側へと引っ張られているかのようだ。上下も左右もわからないまま、ただ落ちる。
いや、落ちているのかどうかさえも、明確ではない。
引っ張られたと思う間に、肌の表面を鋭く引っ掻かれているような痛みが走った。
裂けるのではないかと錯覚してしまうほどに、強い力で爪を立てられた感じだ。
頬も首筋も、手の甲も手首も腕も、膝や脛や太腿にも、引っ掻く痛みの直後に熱が引き起こされる。
血が出ているような感じはない。ただただ、意味もなく痛いだけだ。
喉奥から悲鳴じみた声が漏れたとき、瞼を下ろしている視界が一気に明るくなった。
ハッとして目を開くと周囲を満たしていた暗がりが、トンネルから抜けた瞬間のように一瞬にして背後へと遠ざかる。
「え……っ」
座り込んでいたのは、スクランブル交差点の真ん中。
シュリの頭を肩あたりに押し付けて抱き締めたまま、人々の雑踏の中に取り残されていた。
派手な看板や信号の、色を纏った光が落ちている。青に赤、緑に白、黄色に紺。ぎらついた街の明かりだ。
耳に届くのは行き交う人々の靴音。そして、エンジン音。どこからか垂れ流されている音楽、笑い声に話し声。
自転車の高いブレーキ音、衣擦れや金属の擦れる音、クラクション音、通り過ぎる電車の音。
大量の雑多な音や光に満たされた光景は知っているはずなのに、知らない場所のように感じられる。
ここは、どこだろう。いや、何が起きたのか。
着地の衝撃なんてものは、全くなかった。
荒れたアスファルトの上にいる私は、黒い液体の中に座り込んでいた時と同じ姿勢になっている。
街中を行き交う人々は私たちの姿なんて見えていないかのようだ。
隣にいる人と喋っていたり笑ったり、スマートフォンを眺めていたり、無心で前を見つめたままであったり、あるいは音楽を聴きながら、ただひたすらに通り過ぎていく。
単なる無関心では、ない。こんな場所にいるというのに、邪魔だと疎む視線すらもない。
ここにいる誰ひとりとして、私たちのことを認識していない様子だ。
周囲一面をぐるりと見回しても目が合う人どころか、こちらを見ている人すらいない。
行き交う人の波に取り残されたまま、座り込んでいる私はきっと滑稽だ。
それなのに、誰も見ていない。往来の中央にいるというのに、ぶつかって来る人すらいないなんて異常だ。
「……!」
足早に通り過ぎていく人の流れは途切れない。
信号機が青から赤へ移り変わり、車が動き出しても私は動けないままだ。
すぐ傍を走っていく車やバイクでさえも、私たちを認識しているようには思えない。
赤。青。点滅。黄色。
信号機の放つ光が足元のアスファルトを染めている。
ほどなく、再び人の波が押し寄せたときだ。
入れ替わり立ち代り、あちらこちらへと流れていく頭が並ぶ高さから、ひとつ飛び抜けたものが見えた。
黒に茶色、白髪、帽子、背の高い人や低い人。雑音と共に流れていく人々の動きに反して、"それ"はこちらを向いている。
「――シュリ、起きて、起きてよっ」
"それ"は、灰色の肌をしている。
おびただしい人々が蠢く雑踏の中でも、はっきりとわかる――ヒトガタだ。
慌ててシュリを揺さぶってみるけど、やっぱり反応はない。
だめだ。私だけじゃ、シュリを運べない。
かといって、置いて逃げるわけにもいかない。
間違えたのだろうか。
私は、間違ってしまったのかもしれない。
シュリはヒューノットの傍にいろと言っていた。その方が安全だからだと。
もしかして、ヒューノットの言葉を無視するべきだったのかもしれない。
「……っ」
ヒトガタの顔に嵌った硝子のような目が、こちらを向いている。
表情のないマネキンのような"それ"に対しても、周囲は何も反応も示してはいない。
シュリのことはともかく、周りの人たちは私のことも認識できていないようだ。助けを求めたって意味がない。
少しずつ、ヒトガタとの距離が縮まる。
ヒトガタのことが見えていないのはわかるけど、どうして私のことを誰も見ていないのか。
ハッとしたのは、近付いて来るヒトガタが人々の隙間を縫うように歩いていると気が付いたときだった。
――"どちら"でもないかもしれないよ
シュリの言葉が脳裏を過ぎる。
本当にそうだとしたら、ここはまるきり本当の現実世界ではなくて、よく似た境界線の空間だ。
現実世界を模しただけの、別物。
もし、シュリが間違っていたとしても、今の状況としては、私の立場は"あちら側"だ。
誰ひとり、振り返らないことが証拠になる。
「それ以上、近付かないで!」
首から下げていた鎖ごと銀製の鳥籠を握り締め、ヒトガタに向かって声を飛ばした。
何が正解かは、わからない。
わからないけど、何もしないままではどうにもならないことくらい、理解できる。
矢が突き刺さった心臓の入った鳥篭。
いつもはシュリがずっと、離さずに持っているもの。
それを突きつけるようにしながら、シュリの身体を片腕で強く抱き締める。
だけど、だめだ。ヒトガタは一瞬止まったように見えたけど、ほどなくして歩みを再開した。
シュリに言われていた通りに投げてやろうかと思ったときだ。上から何かが降って来た。
ちょうど、信号が切り替わって、雑踏が途切れた場所へと落ちたのは――
「――グラオさん!」
ずんぐりむっくりの体型。
シャツにズボン。灰色の髪。
間違えようもない。後姿だけど、フェルト人形の身体はそのままだ。
力士を連想させるくらいに大きいけど、サイズ感がおかしいのは一度見て慣れている。
「やあやあ、やよいちゃん。ここは、ぼくにまかせなさい」
「で、でもっ」
「おんなのこをおそおうなんて、しんしてきではないね。そういうやからは、われわれのてきだとも」
「い、いや、あのっ」
予想外すぎる人物の登場に困惑しかない。
人物と言って良いかどうかさえも、判断がつかないくらいだ。
それに、グラオさんが強いとは、とても思えない。
私たちとヒトガタの間に立ってくれていると、確かに盾のような、むしろ壁のような、そんな感じはするけど。
「げるぶ! やよいちゃんと、かぎのひとを!」
グラオさんの声が響き渡る。ゲルブさんはどこにいるのかと思ったときには、大きな腕に抱き上げられた。
腕の太さは、丸太どころではない。丸めた体操マットにも似ている。もっと柔らかいけど。
シュリ共々私のことも抱き上げたのは、当然ながらゲルブさんだ。
傍らを通り過ぎたトラックよりも背が高い。ついでに横幅も大きい。
私ひとりの身体くらいなら、掌にすっぽりと覆われてしまいそうだ。
「ひゅーのっとくんがくるまで、おまもりしなくてはならないよ。われわれは、ねんちょうしゃなのだからね」
「ちょっ、ちょっと待ってっ、グラオさ――」
言葉を言い切るよりも先に、ゲルブさんが走り出してしまった。
群集の波程度はものともせず、真っ直ぐに大通りを駆け抜けていく。
見上げた信号機や標識が激しく揺れていて、振動が勘違いではないのだとわかる。
ズシンズシンと走る度に発生する音と上下の揺れ。振り落とされないかと不安になるほどに激しい。
とにかく、シュリから預かった銀製の首飾りを落とさずに済んで良かった。
首から鎖を外していたら、失くしていたかもしれない。
三日月の扉を超えた先で会ったときのゲラブさんは、のっしのっしと歩いていたから、走るイメージがなかった。
さっきまでいた場所が、あっという間に遠ざかる。
周囲の光景が流れていく様子は、まるで車にでも乗っているかのようだ。
「ひゅーのっとは、どこだ」
問いが落ちてきた。
ゲルブさんの声は相変わらず、かなりの低音だ。
一瞬ばかり唸ったのかと勘違いしてしまうくらいに聞き取りにくい。
「このようなときに」
「ヒューノットは悪くないんですっ、今回は!」
むしろ、庇ってくれた。
いつ戻って来れるのだろう。
回復には、どのくらい時間が掛かるのか。そのあたりは、全くわからない。
シュリが起きていれば、教えてくれるだろうけど。
いや、もしかしたら、そういう処理もシュリがしていたのかもしれない。
ゲルブさんの顔を見上げようとしたけど、どんと丸みを帯びたお腹の向こう側にあって見えにくかった。
「ふむ……ならば、とがめはなしだ」
咎めとは。
お仕置きされるヒューノットなんて、あまりにも見たくなさすぎる。
「――どけ」
ゲルブさんの低い声が、更に低く重たくなった。
私達を抱いていない方の腕が、唐突に大きく広げられる。
ヒトガタがいる――と思った途端に、太い腕による荒々しいラリアットが決まった。
なぎ倒されたヒトガタの四肢がバラバラになったところで、後ろを振り返るのはやめておく。
改めて見上げたけど、ゲルブさんの表情はわかりにくい。
ついヒューノットと比較してしまうけど、やっぱり飛んだり跳ねたりは難しいのだろう。
ゲルブさんは、ひたすらに走っていく。
「やつらは、ふえている」
ゲルブさんの腕に身を委ねたまま、シュリを抱き締めて周囲を見回す。
見えている範囲は広くない。ほとんど、ゲルブさんの身体で見えないくらいだ。
でも、道を行き交う人々の中に、ちらほらと紛れ込んでいるヒトガタの姿は見えた。
"やつら"というのは、ヒトガタを示すと解釈していいだろう。
増加しているのかどうか、それはわからないけど。
でも、レーツェルさんが本当に"こちら側"を乗っ取る気でいるのなら、増えていてもおかしくない。
「それでどうする」
「え?」
「いまから、どうするつもりだ」
大通りを駆け抜けたゲルブさんは、そのまま街の中心から離れていく。
「い、今から?」
唐突な問い掛けに、ついオウム返しをしてしまった。
しかし、ゲルブさんは気分を害した様子も見せなければ、呆れたような声も出しはしない。
「いまから、どうする。われわれは、それをてつだおう」
今から。
そうか。私が決めないといけないのか。
ヒューノットは、境界の亀裂を辿ってレーツェルさんを探し出そうとしていた。
今は、とにかくシュリを安全な場所に運ぶことが先決だと思う。
まだ意識が戻らないし、ヒューノットもそうすることを選ぶ、はず。
「ヒューノットがっ、どこにいるかとかっ、わかりますかっ?」
思い切り揺さぶられていて、声が途切れ途切れになってしまう。
「わからない」
ゲルブさんの答えは、とてもシンプルだった。
当然といえば、当然だ。
「それじゃっ、えっと、そのっ、避難したいです!」
「ひなん?」
「安全な場所に、シュリを、ああ、えっと、シ、シュリュッセルをっ、連れて行きたくて――ひぅあっ!?」
大声を上げている途中で、急にゲルブさんがジャンプした。
いや、違う。
落ちた。
「はっ、ちょっ、えぇぇぇええっ!?」
情けない声を上げる私とは対照的に、ゲルブさんはとても落ち着いている。
見上げた先には、切断された道路の断面らしいものがあった。
まるで、途中で唐突に道路が終わっているかのようだ。
よくよく見れば、立ち並ぶ建物さえも一旦途切れているとわかる。
慌てて見下ろしてみれば、足元にも道路はあった。
まるで、急に大きなジオラマが現われたかのような、現実味のなさだ。
「――ッ!」
グラオさんと違って、ゲルブさんの着地には重たげな音が発生した。
見た目も触り心地もフェルト生地なのに、一体何が詰まっているというのか。
「だが、だいいちは――まもること、だ」
何を言っているのかと、ゲルブさんの顔を見上げる。
すると、どこかを見つめているのだとわかった。
その視線を追いかけて、前へ顔を向ける。
「――あっ」
片側二車線の道路なのに、うるさい車も行き交う人々の姿もない。
空っぽの街中で、道路の中心に立っている人物がひとり。
長い黒髪が風に揺れている。そして足元まで覆う黒色の衣。
フードを深く被っているせいで顔のほとんどは見えていない。
間違いない。漆黒の――
「――だいりにんだ」
ゲルブさんの声に、思わず見上げる視線を向けてしまった。
漆黒の人物――もとい、代理人。
さっきまで、ヒューノットが戦っていた相手だ。
いや、最後は彼を後ろから襲った人物。
「ざんねんなことだ、だいりにん。われわれは、やくそくをたがえない」
眼前の人物に言葉を突きつけたゲルブさんと、声ひとつ発さない漆黒の代理人。
代理人だか何だかわからないけど、確実なのは"あいつに攻撃が効かない"ことだ。
シュリも、そしてヒューノットですら、傷ひとつ付けられなかった。
「だ、だめですっ、ゲルブさんッ! 逃げて!」
焦って声を上げた直後、漆黒の代理人が片腕を持ち上げた。
ゆったりと優雅な調子で揺らされた腕の先。細い手指が誘う中、淡い光が棒状になって集まっていく。
現われたのは、細身の剣。それはまるで、シュリが扱っていた剣のように見えた。
片腕で、しっかりと抱き締め直される。
そうすると、柔らかなフェルト生地に埋もれるようにして身体の大半が隠された。
だめだ。
また、同じ。
繰り返すだけになってしまう。
また、見るだけで、守られるばかりで、本当にただ傍観するだけになる。
妙な焦りが思考を乱す。
だけど、どうすれば良いのかなんてわからない。
意識のないシュリの身体を抱き締めるばかりで、他に何ができるというのか。
ゲルブさんは武器を持っていない。丸腰なだけではなくて、私とシュリを片腕で抱えている。
完全に不利だ。あまりにも分が悪い。
「げ、ゲルブさ――」
やっぱり逃げた方がいいと、声を出すよりも先に動いた。
最初に動いたのはゲルブさんだ。
真っ直ぐに、"代理人"へと向かっていく。
まさかの猪突猛進。
フェルト生地から何とか顔を出したものの、怖さに身が竦む。
距離が縮まるのは一瞬。
剣を構えた代理人の姿が見えたのも、本当にひと瞬きの短い時間だ。
「……ッ!」
反射的に目を閉じたと同時、瞼裏に届くほどの眩い閃光が炸裂した。
音はない。
振動も、熱も伝わって来ない。
何が起きたのかわからないまま、数秒ほど。
恐る恐る目を開くと、私たちはドーム状の何かに包まれていた。
まるで、シャボン玉だ。七色の光が、透き通ったドームの表面で不規則に揺らいでいる。
透き通ったドームの向こう側では、代理人が剣を構えたままで動きを止めていた。
ただ止まっているだけじゃない。臨戦態勢で、警戒を続けているように見える。
シャボン玉色のドームに隔てられて、あちらからは何もできない様子だ。
「――おふたりを連れてお逃げください」
声に誘われて、ゆっくりと視線を下げていく。
すると、ゲルブさんの前方。少し離れた位置にルーフさんが立っていた。
片手にはバトンくらいの太さの長い棒を握っていて、もう片方の手には白陶器でできた円筒形の容器を持っている。
「ルーフさん、どうして……」
意外すぎて声を出すと、ルーフさんは肩越しに振り返った。
振り返ったルーフさんの瞳は、プッペお嬢様と同じ青色――ではなくて、少し薄い。
水色のようで薄緑色にも似た色。そこに、星はもういない。
ルーフさんは、ゆったりと目を瞬いたあとで穏やかに微笑んだ。
「ご不安かとは思いますが――"ヒューノットさんが戻るまでは、お守り致します"と、お約束致しましたので」




