47.タナトス
月明かりを遮って浮かび上がったシルエットは、まさしく異形のバケモノでしかなかった。
獣じみた吼え声が轟く中、柱の上から宙へと躍り出たソレが口を開いて襲い掛かった相手は――シュリだ。
根元まで裂けたように大きく開いた口の中には、尖った牙が乱雑に生えている。
その牙から間一髪のところで逃れたシュリが床を転がれば、黒いローブの裾がふわりと広がった。
片手で地面を弾いて一息のうちに立ち上がったシュリが、腕を大きく回して弓を振るう。
弧を描いた弓は一瞬のうちに姿を消し、その手には再び剣が舞い戻った。
「――クソがっ!」
声を荒げたのは、ヒューノットだ。
バケモノと対峙しているシュリのもとへと向かうモドキを引き倒し、空いた手を高く持ち上げて叩き込む。
篭手に包まれた拳が下ろされた直後、足元のコンクリートにヒビが入って破片が飛び散った。
どんな力だ、と思っている間に、その拳は二度三度と連続してモドキに叩き込まれていく。
見た感じは、暴行事件としか言いようがない。
シュリから預かった銀の鳥篭。
これが現状で役に立つことはなさそうだ。銀の鎖を首に引っ掛けて、ひとまず両手を自由にしておく。
まあ、本当にひとまずといった感じでしかないんだけど。
「シュリュッセル、寄越せ!」
モドキの頭を鷲づかみにして床に叩きつけたヒューノットが声を上げると、シュリは視線を向けないままに片腕を振るった。
フラッシュのような一瞬の光が生まれ、そして消えた直後には、シュリのものよりも長くて幅の広い剣がヒューノットの手元に渡る。
噛み付こうとするバケモノの一撃を、後方に跳ぶ事で回避したシュリは、漆黒の人物が動いたと同時に弾かれたように駆け出した。
シュリと入れ替わりに、ヒューノットがバケモノの前へと飛び出す。
そして、彼を狙おうとした漆黒の人物へとシュリが剣を叩き込む。しかし、相変わらずの状態だ。
漆黒の人物は何度攻撃を受けたところで、裂けた部分や刺さった部分が光って元に戻ってしまう。体力を消耗している様子もない。
シュリにはモドキが、ヒューノットには漆黒の人物が見えていない様子も相変わらずだ。
バケモノだけを、ふたりが共通して認識しているらしい。私にだけ全部が見えていても意味がない。
どうすればいいのかと思ったけど、焦るばかりで特に何も良い案は浮かばなかった。
でも、どうにかしないと先に進めない。
戦況として防戦一方というわけではないけど、ふたりの一撃が相手に効いているようには見えないからだ。
いや、そうでもないのか。
ヒューノットに頭を叩きつけられたモドキは、今のところ動けなくなっている。
それなら、問題は漆黒の人物。
肉体がないというか、実体がないというべきか。とにかく、物理的な反撃を受け止めている様子すらない。
一応は攻撃がモロに入っているモドキよりも、ずっと面倒くさい相手だ。
「――チッ」
ヒューノットの舌打ちが聞こえた。
視線を転じると、バケモノの輪郭が黒く歪んで――いや、違う。モヤのようなものが滲み出ている。
ヒューノットが斬り付けた部分なのだろうか。まるで煙を切ったかのように、身体の一部だけが歪んで消えて、そして再び戻る。クソ、お前もか。
バケモノも漆黒の人物も、反撃が意味を成している様子がない。
モドキは物理的な一撃が効いているだけ、まだ少しマシといった感じだ。
しかし、どちらにしても、無尽蔵な体力で迫って来るのなら、厄介であることには何ら変わりがない。
「オイッ! 埒が明かないぞ!」
本当にヒューノットの言う通りだ。
このままでは、どうにもならない。敵の数も、とうとう増えてしまった。
むしろ、ただただ不利になっている。
向こうは三体。こっちはふたり。私では役に立てないどころか、むしろ邪魔になってしまう。
歯痒くて、焦る気持ちばかりが前に出る。
「そう言われてもねっ」
横薙ぎに剣を振るったシュリは、やや疲労している様子だ。僅かに肩を上下させている。
剣先で切り裂かれた漆黒の人物は、やっぱり少しバランスを崩した程度で、すぐに光と共に再生してしまう。
もはや姿を認識できないヒューノットが襲われないように、足止めを繰り返しているだけになっている。
自分の姿が見えていない相手ばかりを狙うのは、戦力の分散が目的なのだろうか。
確かに、シュリもヒューノットも、互いに相手を庇っていて動きにくそうだ。
ヒューノットがすべての敵を認識できてさえいれば、話は別だろうけど。
「そもそも、何が狙いなのかさえ――」
その時、一度はシュリから距離を取った漆黒の人物が、急に向きを変えた。
先ほどまでは執拗にヒューノットを狙っていたというのに、今度はシュリに向かっていく。
言葉を途切れさせたシュリは、剣を構え直して迎え撃つ姿勢を取ったが――その背後に立ったのは、モドキだった。
いつの間に動き始めていたのか。私には、わからなかった。
真後ろからモドキが腕を振り下ろす。拳は、ちょうど、シュリの後頭部に当たったように見えた。
突然の衝撃に膝を付く様子が、スローモーションのように見えた。次の瞬間、崩れ落ちたシュリの腹部に漆黒の人物が蹴りを叩き込む。
細い身体が呆気なく弾き飛ばされ、手から離れた細身の剣が激しい音を立てて床を滑った。
「――っ、シュリ!」
「シュリュッセル……ッ!」
私とヒューノットの声が重なる。
シュリは数秒ほどで頭を持ち上げたけど、モドキと漆黒の人物が動く方がずっと速い。
ちょうど、ヒューノットがシュリの方へと余所見をしていたそのタイミング。行く手を阻むかのように、人の頭部さえも包み込めそうなほど大きな手が宙を薙いだ。
大きく鋭利な爪が彼の肩に当たって、宙に鮮血を散らしながら右から左へと抜けていく。
顔を歪めたヒューノットは、片脚を後ろに引いて身を低くすると、バケモノの腹部あたりへと飛び込んだ。
人と大差がないサイズの胴体を貫いた剣が、バケモノの背中側から飛び出す。
手ごたえは、あったようだ。ヒューノットは両脚で踏ん張りながら、剣を横へと押し遣って払う。
直後、バケモノの胴体が真っ二つに裂け、上下に分かれた身体が崩れ落ちる。
血に似た黒い液体が周囲に飛び散る中、ヒューノットはすぐさま身を翻してシュリのもとへと向かう。
その足元を、何かしなるものが払った。
よくよく見れば、それは倒れたバケモノの下半分から生えている尻尾だ。長くて太い、まるで恐竜のような尻尾。
表面には棘のようなものまで生えていて、ヒューノットの脚にまとわりついている。
それは胴体と違って、いくら切りつけても黒い煙が立ち上がるばかりで解けてくれない。
片脚を絡め取られたヒューノットは立ち上がるどころか、動くこと自体が難しくなっている。
「――シュリュッセル! シュリュッセル、逃げろッ!」
棘が肉に食い込んでいるようで、脚を抜こうとしても抜けない。
ヒューノットが激しく抵抗する度に、生々しい赤い液体が飛び散る。
それでも、彼が叫んだのはシュリの名前だった。
シュリは片腕で腹部を押さえながら漆黒の人物が繰り出す蹴りを避けてはいるものの、動きが見えていないモドキからの一撃はモロに入ってしまっている。
見えない一撃によろけたシュリが、顔あたりに叩き込まれた漆黒の人物からの蹴りを腕で塞いだ直後、モドキが再び背後に立った。
「――シュリッ、後ろッ!」
飛び出したい気持ちと、怖くて震える身体が噛み合わない。
これじゃ、本当に傍観者だ。
こんな状況なのに、ただ見ていることしかできない。
ヒューノットと似た顔を持つモドキの口が、左右に裂けて広がる。粘性の糸を引くそれは、口というよりも裂け目に近い。
「ひっ……!」
シュリを背後から羽交い絞めにしたモドキが、その右肩から首の辺りまでを覆うように噛み付いた瞬間、全身に寒気が走った。
大きく仰け反って喉を晒したシュリの口からは、今までに聞いたことのない声が上がる。
悲鳴とも絶叫ともつかない、異様な声だ。
大きく跳ね上がった右腕が激しく痙攣している。シュリの左手がモドキの頭を押し遣ろうとするけど、全く効果がない。
挙句にモドキが噛み付いた部分からは黒煙が立ち上がり、黒々としたスライムのようなものがシュリの肌を這い始めた。
そうだ。アイツらはシュリを狙っていたんだ。ヒューノットじゃない。
シュリを食べてしまえば、アイツらは、こちら側の世界に干渉できる。きっと、それが目的だ。
本当の目的は"鍵"の方かもしれないけど、そんなことはどうでも良い。
「……っ」
アイツらの狙いは、シュリ――私は、意を決して駆け出した。
向かう先は、シュリが落とした細身の剣だ。とにかく、他には何も武器がない。
扱い方なんてわからないけど、その辺の石よりは、ずっといいだろう。
それに、ポケットに入れている白い石が役に立つとは思えない。
離れた位置にいるヒューノットの姿を視界の端に納めながら、シュリの剣を持ち上げた。
重みがずしりと腕に圧し掛かるけど、両手なら持てないほどではない。
「……っ、シュリにさわらないで!」
シュリの髪を乱暴に掴んで顔を持ち上げようとしている漆黒の人物。その背に、思い切り剣を叩きつけた。
本当にただ、ぶつけるような形で腕を振るっただけだ。
叩きつけた剣の先は確かに身体に当たったように見えたのに、手ごたえも反動もない。
眩い光が散って、裂けたように見えた部分が戻るだけ。
もう一度、同じように剣を叩きつけたけど、やっぱり結果は同じ。全く、何の手ごたえもない。
それどころか、漆黒の人物は私の存在なんて歯牙にも掛けていない。まるで、いないかのような扱いだ。
剣で叩いても切りつけても、結果は同じ。そもそも、シュリが何度やっても同じだった。同じやり方じゃ、同じ結果しか出せない。
傷をつけるどころか、動きを制止することさえもやっと。それも数秒しか続かない。
触れられるのに、触れられない。これじゃだめだ。他に何か。何か――武器。そうだ。"武器"。
「……ヒューノット!」
ヒューノットは、プレイヤーの"剣"であり"盾"。そして"手足"。
選択肢を提示する存在であり、選択を遂行する存在。
シュリは言っていた。選択して先を示すこと。それが、"傍観者"に求められた役割だ。
ヒトガタと戦っていた時、ヒューノットは"選択しろ。許可を与えろ"と言った――それが、ヒューノットが行動するために必要なことだとしたら――。
「――コイツを倒して! "コレ"を見て!」
叫びながら視線を転じると、立ち上がれないままになっているヒューノットが剣を高く掲げた様が目に入った。
「……っ」
掲げられた剣が落とされたのは、ヒューノット自身の脚だった。膝あたり、だろうか。
思わず、視線を逸らしてしまう。
そうでなくとも、距離があるせいでよく見えないけど、目を向ける勇気はなかった。
何度も何度も、ひたすら振り落とす音が響き渡る。
風を切る音の前後に、硬いとも柔らかいともつかない音が続く。
音が途切れたタイミングで視線を戻すと、バケモノの尻尾に絡め取られた片脚を捨てたヒューノットが剣を支えにして片脚で立ち上がっていた。
おびただしい量の血が足元に広がっている様子は、遠目からでもよくわかる。
反射的に片手で口を覆ってしまうほど、あまりにひどい光景だ。
肩を激しく上下させて荒い呼吸を繰り返していたヒューノットは、一度天を仰いでから歯を食い縛った。
そして、空いた手で、斬り捨てた片膝のあたりを強く叩く。
すると、濃い紫色の火柱が片方の足元から立ち上り、唸る音を立てながら彼の片脚を飲み込んでいった。
まるで炎が脚の代わりになったかのようだ。でも、まだ、ヒューノットは動けない。
だが、幸いにも、バケモノの方も動けなくなっている。
胴体が上下に分かれたせいだ。蠢いている尻尾は見えるけど、その場で暴れて這い回っているだけに過ぎない。
重たい剣を握り直していると、漆黒の人物が腕を持ち上げた。
「……やめてッ!」
黒い頭部を剣でぶん殴った。
すると、ガキンッと嫌な音がして腕に反動が返って来る。
痺れにも似た細かな震えが手首あたりまで来て、剣を落としそうになるくらいだ。
何か、液体が垂れ落ちてくる。
剣の刃先から柄へ、そして手元へと伝って来たそれは、まるで墨汁のように黒い。
恐る恐る顔を持ち上げると、漆黒の首あたりだろうか。剣が刺さっているように見えた。
実際は、どうだか分からない。
ぼたぼたと落ちて来る液体が、妙に生暖かくて気持ち悪い。吐き気がしそうだ。
身体が震えてどうしようもない。怖くて恐ろしくて、とにかく嫌な感覚がする。
腕から肘、身体、そして脚へと震えが広がった。
「――シュリュッセル! ヤヨイ!」
ダンッと、床を踏む力強い音が声と共に響いた。
はっとして視線を向ける。
すると、轟々と音を立てて燃え上がった紫色の炎が切断した部分だけではなくて床まで伸びていた。
それは、まるで脚の形をなぞるかのようだ。
踏み出そうとするヒューノットの身体を支えている。更に続けて一歩を出すうち、炎の中に本物の脚が見え始めた。
周囲には炎の残骸だけが散り、あっけなく消えていく。
足首を挫いたように、どこか動きにぎこちなさは残るものの、そんなことを気にする様子なんてあるはずもない。
駆け寄って来たヒューノットは、まず最初に漆黒の人物へと掴み掛かった。その頭部を鷲づかみにして、一気に引き倒す。
さっきまでとは違う。明らかに見えている様子だ。
漆黒の人物が引き倒された拍子に、首のあたりに食い込んで止まっていた剣が抜けた。
黒い液体が周囲に飛び散る。
そして、取り落とした剣が、硬い床の上で耳障りな音を立てて跳ねた。
「下がれ!」
ヒューノットの勢いに押されて、何歩か後ずさる。
漆黒の人物から手を離れた手が今度はモドキへと伸びた。
シュリは意識がないのかもしれない。声を出すどころか、動く気配がなかった。
だらりと垂れ下がった右腕の先。力なく半開きになった掌から、無防備に伸びる手指が床に触れている。
腕の大半は黒々としたモノに覆われていて、どうなっているのかはわからない。
「――ッ!」
ビシャッ、と。
放物線を描いて宙を掻き切ったヒューノットの腕に合わせて、真っ赤な液体が飛び散った。
黒と赤。それぞれの液体が、床の上で混ざり合う。水のようではなく、かといって粘性が高いというほどでもない。
シュリに噛み付いていた口を真後ろに引き裂かれたモドキが崩れ落ちる中、漆黒の人物はゆらりと立ち上がった。
床に崩れ落ちたシュリの傍から離れないまま、ヒューノットの目が漆黒の人物へと向く。
モドキはダメージを受けている様子があるけれど、漆黒の人物はそのあたりが全くわからない。
呻き声ひとつ上げもせず、沈黙したままだ。
その頭から、そして顔から、ぼたぼたと黒い何かが落ちていく。
それは液体でもあり、何か固形物のようでもあって、何だろうか。泥のようにも思えて来た。
首が折れてしまったかのように、不自然に頭部が傾いている。
びしゃびしゃと音を立てて黒い液体が落ち続けていて、中には石のように硬いものや、それこそ肉のように柔らかいものも混ざっているようだ。
吐くかもしれないと、手で口を覆う。
別にニオイがあるわけじゃない。ただ、あまりにも生々しい。
その時だ。
何もないように見えていた顔の一部に何かが見えた。
まるで外壁が崩れ落ちたことで中身が覗いたかのような――ぽっかりと、開いた穴。
目だ。
真っ黒の中、目だけが浮かんでいる。まるで皮膚と筋肉が剥がれて、眼球だけが露出したような有様だ。
黒目に値する部分が赤い。深紅。それが、音もなく動いている。いいや、蠢いている。見たくもないというのに、視線が外せない。
「――おい、離れろッ!」
声が響き渡ったと同時か。
けたたましい音を立ててヒューノットが弾き飛ばされた。
視界の端に入り込んだのは、まるで恐竜のような太い尻尾。
いくつかに分かれている尻尾のひとつは、ついさっきヒューノットが捨てたばかりの脚をまだ抱え込んでいる。
「ヒューノット!」
声を上げたとき、尻尾には胴体が一部分までしかついていないことに気が付いた。
尻尾と、脚。腰までの胴体。そこから上は、黒い煙が立ち上がっていて何も見えない。
弾かれたヒューノットは激突した柱ごと倒れ込んでいたけど、崩れ落ちた瓦礫の中から立ち上がろうとする姿が見えた。
胴体を真っ二つにされたバケモノが動くなんて、全くの想定外だ。
ヒューノットも、きっとそうだったのだろう。圧し掛かって来た大きなコンクリートの塊を腕で払い退ける姿を見て、駆けつけたいのに足が竦む。
既に支える天井がない柱は、ただの障害物だ。蠢いた尻尾が更にヒューノットを狙う。
床を叩けばヒビが入って石のような細かい欠片が飛び散る。そんな尻尾が、いくつもあって――そこで、ぞっとした。
上下に引き裂かれた、"もうひとつ"はどうなった。
慌てて視線を走らせるけど、どこにもない。
周囲にあるのは、口を引き裂かれて倒れたままになっているモドキと、黒い液体の中に伏せているシュリ。
「……シュリ!」
蠢くスライムのような黒い何かは、少しずつ広がっていた。
まるで、シュリの姿を飲み込もうとしているかのようだ。
足元の黒い液体は、沸騰でもしているかのようにぼこぼこと音を立てて荒れている。
いや、それだけじゃない。
まるで柔らかな泥のようだ。液体の中に、少しずつシュリの身体が沈んでいる。
一拍を置いて駆け出した私は、ぴくりとも動かないシュリの片腕を両手で握った。
ぐっと力を込めて引っ張るけど、沈んでいく速度は緩やかながらも止まらない。
まるで、液体にシュリの身体が溶かされているようにも見えて背が震えた。
一瞬ばかり戸惑ったけど、このままじゃだめだ。
液体の上に乗り、シュリの腰に腕を回して引っ張った。
黒い液体が勝手に周囲へと飛び散る。けど、触れても熱くも何ともない。
私が感じ取れないだけなのか、実際にそうなのか。判断がつかなかった。
ただ、ぼこぼこと音を立てる黒い液体の上に私もいるというのに、シュリだけが黒い液体に侵食されていく。
引っ張り上げる力が足りない。でも、ヒューノットはバケモノの尻尾と漆黒の人物に応戦しているところだ。
「待って、待ってよ!」
このままだと、シュリが黒い液体に飲み込まれてしまう。
尻を落として座り込み、正面からシュリの身体を抱き締めた。
肩にシュリの頭部を引き寄せ、脇の下に腕を回して両脚で身体を挟み込む。
私の身体が沈まないだけ、まだ幸いだ。でも、ひとりでは支え切れない。
どんなに強く抱き締めても、力強くローブを握り締めても、その細い身体は引っ張られるように少しずつ沈んでいく。
さっき、モドキに噛まれていた部分は、特に黒の侵食が激しい。蠢いている黒い何かは、細かな黒い虫の集合体のようにも見えて来て、気分が悪くなるほどだ。
ただ、足元の液体も、シュリの身体に広がっていくスライムのようなものも、私を飲み込もうとはしていない。
少しずつ沈んでいた身体が、急に下から引っ張られたような気がした。
必死になって持ち上げようとするけど、少しばかり引き上げても、すぐに沈んでしまう。
私では、せいぜい沈む速度を緩めることくらいしか出来ない。
「――シュリっ、起きてシュリ! ねえ、起きてっ、ヤバいってば、起きてよっ! ねえ!」
シュリの背を何度も叩いて声を掛けてみるけど、全く反応がないままだ。
呼べば、いつだって来てくれたシュリが、今はぴくりとも動かない。意識すら、ないままだ。それが、とても恐ろしい。
「ヒューノット! ヒューノットってば!」
バケモノ達の相手をしているヒューノットが、駆けつけられないことはわかっている。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
どうすればいい。どうすれば、ヒューノットはもっと戦えるのか。何を言えば、ヒューノットは強くなれるのか。
考えている間に、床に広がった黒い液体の一部が盛り上がったことに気が付いた。
そして、そこから"何か"がゆっくりと出て来る。
黒いモヤを纏った、ワニの頭部を思わせる輪郭。そして、大きく裂けた口。ぎょろりと動いた目玉。赤黒いソレが、シュリを見た――ように見えた。
「……ヒューノットっ、たすけて……っ!」
掠れた声を上げてシュリを抱き締めるだけで精一杯。
身体は竦んでしまって、全く動けない。
大きく開かれた口の奥。鋭い牙が乱雑に並ぶ向こう側には、黒々とした深い穴のようなものが見えた。




