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傍観者 < プレイヤー >  作者: YoShiKa
■ななつめ 侵攻■

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46.影色の代理人












「――馬鹿言え。俺はここだ」


 飛び上がってきた相手に表情はない。

 まるで、能面のような感じだ。感情が全く浮かんでいない。

 すぐ傍から向けられる声も淡々とはしているけど。

 相手が少しでも笑っていれば、ヒューノットとは似ていないと判断したかもしれない。

 いや、ニヤニヤしていたら、それはそれで怖いから却下だ。

 同じ高さの鉄骨に飛び移ってきた相手を避けて、ヒューノットは更に上を目指す。

 もう怖いとか、そんなことを言っている場合ではなくなって来た。


「で、でも、そっくりじゃん!」


 髪は長いものの、それを除けばシルエットもほぼ同じ。双子かと思うくらいに似た顔立ちだ。

 何なら鏡かと思えるほどに、似すぎている。

 時には相手の動きを見下ろしながらも、鉄骨を踏み台にして更に上を目指すヒューノットは呆れたような目を向けてきた。


「類似している事と同一である事は別だ」


 どうやら、相手を"ヒューノット"と呼んでしまったことが気に入らないらしい。

 言い分は正しい。正しいけど。

 本当にトリハダが立つくらいに驚いたのだから、そこはわかって欲しい。

 それに、だ。


「だったら、アレは何なの……」


 上を目指す私たちを、ひたすらに追いかけて来ているアレ。

 不安定に周囲を照らしては消える光の中に浮かび上がる姿は、いっそ不気味なほどだ。

 ヒューノットでないのなら、誰だというのだろう。

 やがて鉄塔の天辺に到達すると、ヒューノットは一旦動きを止めた。

 横抱きにされたままの私は、しがみつく腕が痺れ始めて来たけれど、もちろん手を離すはずがない。

 反して、強い横風が吹き荒ぶ中でもヒューノットは安定して立ったままだ。足腰どうなってんだ。


「見た事はないが、俺の――」


 言葉の途中、駆け上がって来た相手を思いきり蹴り飛ばした。

 どうなったのか。よく見えなかったけど、相手は両腕でヒューノットの蹴りを受け止めたようだ。


「――"器"かもしれんな」


 器と呼ばれたソレは蹴られた勢いでバランスを崩して鉄塔の中央から落下した。

 しかし、身体はほどなくして、数本ほど下の鉄骨へと降り立つ。

 蹴りが入った瞬間にはものすごい音がしていたけど、骨が折れた様子などはない。

 というか、痛覚なんてあるのだろうか。


「ヒューノットの器……」


 つまり、彼を模した人形のことだろう。

 言い方を変えられると、いまいちピンと来ないけど。

 ツェーレくんが案内してくれた部屋には、色んな人形があった。

 あの中に、ヒューノットの人形があったかどうか。それは定かではない。

 でも、私もしっかりすべての人形の顔を確認したわけじゃないし。って。


「いや、なんで器が動いてるの!? あれって、心が入ればって話じゃなかったっ?」


 少なくとも、ルーフさんはそんなことを言っていたような気がする。

 思わず大声を上げてしまった私に向けられる視線は、何というか、冷たい。


「――俺が知るか」


 確かにそうだ。そうだけども。

 軽くパニックだ。どうなっているのか、さっぱりわからない。

 カツンッと硬い音がして視線を向けると、器――もといヒューノットモドキが駆け上がってくるところだった。

 その姿が、またフラッシュのような強い光に照らし出される。


「行くぞ」

「え、行くってどこ――にっ!?」


 問い掛けの途中で、ヒューノットが駆け出した。

 鉄骨の端へと駆け抜けていく――かと思いきや、急に土台を踏み切って宙に飛び出していく。

 視界が真っ白に染まったのは、光のせいだろう。

 私は叫ぶことさえできないまま、ヒューノットにしがみつくだけで精一杯だ。

 光の中へ飛び込んだというべきか。それとも、光の方がこちらを包み込んで来たというべきか。

 とにかく、目なんか開けてはいられない。

 ふわりと。浮遊感に襲われる。

 全身が内臓ごと一気に浮き上がる感覚。一瞬の無重力。そして落下。

 落ちる瞬間には、しがみついていた手がずるりと外れてしまった。


「ひっ、ちょ……っ!」


 慌てて声を上げて腕を伸ばしたけど、指先には何も引っ掛からない。

 瞼を持ち上げたタイミングで、目に刺さるような強い光が真正面からやって来た。

 反射的に両手で顔を覆うと、再び重力が戻って来る。

 身体の重みを感じたのは、抱き止められたとわかったときだ。再び横抱きの状態にされて、ほんの少しだけ安堵する。

 感覚的には、たぶん境界の割れ目だか亀裂だか、その中に入ったのだろう。

 強く閉じた瞼の裏にまで、白い光が入り込んで来る。

 目がやられて、どうにかならないものかと不安になるほどだ。


「ヒューノット、今どうなって――」


 問いを投げようとした途中で気がついた。

 ヒューノットにしては、手が小さい。そして腕も細い。

 何だったら、触り心地も違う。肩幅だって違う。

 明らかにヒューノットではない。思わずぎょっとして手を持ち上げた。


「――やあ、すまないね。ヒューノットではなくて」


 よく知った声が聞こえて来たものだから、学習もせずに目を開いてしまった。

 そこにあったのは強烈な光ではなくて、猫を模した仮面。

 薄らと微笑を浮かべている口許を見てから、私に触れている手を見た。


「……し、しゅり……」

「シュリュッセル・フリューゲルさ」

「し、しってます……」


 これは、私の知っているシュリだと思っていいのだろうか。

 さっきみたいな、幻想、じゃなくて、過去のシュリなのだろうか。

 それとも、もしかして、さっきのヒューノットモドキみたいな、そんな感じなのだろうか。

 ぐるぐると思考を巡らせるけど、頭の中で正解を導き出せる類の話ではない。


「さっき、プッペお嬢様たちを送ったシュリですかっ?」


 ひとまずストレートに聞いてみる。

 すると、シュリは小さく笑って「戻るのが遅れてしまったね。すまない」と言った。

 正解だ。いや、まあ、そりゃそうなんだろうけど。変な疑心暗鬼に陥っていた。


「――さあ、降りるよ。気をつけて」


 ふわり、と。

 真下から風が巻き起こった。

 全身を包んで真上へと抜ける風に逆らって、重力に引っ張られるがままに落ちていく。

 よくよく見れば、周囲は暗い。でも、暗がりの中でも私とシュリの姿は鮮明に見えていて、何だか不思議な感じだ。

 トンネルをくぐり抜けるように、足元に広がった穴を通り抜ければ、すぐに着地の振動が伝わった。

 体重の差なのか何なのか。

 シュリの着地は、ヒューノットよりも静かで重みが少ない。身体に伝わって来る衝撃もほとんどなかった。


「あ、あれ……?」


 シュリによって丁寧に下ろされながら、周囲を見回す。

 近くにヒューノットの姿はない。

 ついでに、あのモドキの姿もなかった。

 しかも、降りた先は外ではなくて、どこか知らないビルのような場所だ。

 建設中なのか解体中なのか。壁はほとんどなくて、柱だけが規則的に並んでいる。

 ワンフロアがぶち抜きになっているような感じで体育館を連想させる。いや、もっと広いのかな。そもそも、体育館の真ん中に柱なんて立ってないけど。

 壁も柱も床もコンクリートがむき出しで、高い天井には細い鉄の棒みたいなものが格子状に組まれている。何だろう、あれ。

 ともかく、周囲に人の気配はなかった。


「ヒューノットは……?」


 視線をシュリに戻すと、やっぱりこういう場所に似合わない人だと改めて思った。

 そんな場合ではないんだけど。


「見つけた時には、君だけでね。私にも分からないんだ。ただ――」


 仮面越しの視線が周囲を巡る。

 月明かりだろうか。それとも、外灯などの光なのだろうか。

 ガラスがハマっていない窓らしい四角い穴から差し込む薄い光のおかげで、真っ暗闇にはなっていない。

 視線を戻すと、シュリの胸元で心臓を捕らえた鳥篭が揺れていた。


「――妨害されているのかもしれないね。私も、抜け出すまでに時間が掛かったくらいだ」

「妨害、って……やっぱり、レーツェルさん……?」

「さてね。分からない。だが、彼女であろうとも別の者であろうとも、可笑しな話だ。私から鍵は奪われていないというのに」


 確かにそうだ。ヒューノットも、『奴らは、"鍵"を持ってはいない』って言い方をしていた。

 境界が引っ掻き回されているだけではなくて、境界の鍵を持つシュリが妨害されるなんて。

 そんなこと、有り得るのだろうか。

 というよりも、有り得て良いのだろうか。

 すごく、不安になってきた。


「大丈夫だよ」


 表情に出ていたのだろうか。

 シュリは私を見るなり、小さく頷いた。


「君は私が守るから」

「で、でもシュリは……」


 今までなら、その言葉で少し安心したかもしれない。

 でも、シュリだけは繰り返せないと聞いた今では、安易に頼ろうという気にもなれなかった。

 死ぬだけだと、そう告げたヒューノットの声が頭に響く。

 だからといって、私には自分の身を守るだけの術もなければ、戦う方法もない。

 ましてや、シュリを守ることなんて、できそうにない。

 こんなことじゃ、まるで本当に"繰り返し"だ。

 ユーベルの落とした星がシュリに当たったときと同じ。

 奇しくも、ヒューノットとはぐれている状況さえ共通している。とても、嫌な感じだ。


「――ヤヨイ」


 シュリの落ち着いた声は、抵抗なく意識の中へと滑り込む。

 思考を途切れさせられても、不快感はない。

 顔を覗き込んできたシュリは、指の背で頬をなぞるように撫でた。

 柔らかくて、優しい触れ方だ。


「大丈夫さ。どうか、怖がらないで。言っただろう? 君の存在を残す為に私は在る。誰にも、君を傷付けさせはしないとも」


 シュリの声は、とても不思議だ。

 どうしてなのか。胸の奥が温かくなる心地がする。

 安心するというか。何というのか。

 包み込まれるような、そんな感覚だ。

 不安感が少し小さくなったような気がして、ほんの少しだけ気分が楽になる。

 でも、気になることはそれだけじゃない。


「……シュリも」

「うん?」

「シュリも、傷付かないって約束してよ」


 燃え盛る星の破片に焦がされる姿も青い炎に肌が焼け落とされる瞬間も、もう見たくはない。

 私を庇ってくれたシュリが苦痛に耐える様子を眺めるだけ。いや、傷を負った姿を直視することさえもできなかった。

 難しいことを言っているとはわかる。

 私だって怖いけど、やっぱり、代わりにシュリが傷付いても良いとまでは開き直れない。


「――勿論だとも。善処しよう。君がそう望むのなら尚更だ。それに……ヒューノットからも言われているからね」

「ヒューノット?」

「そうさ。彼もあれで、君の事をよく考えてくれているよ」


 ちょっと、どうだろう。にわかには信じられない。

 いや、何も考えていないとまでは言わないし、守ってくれているのは確かだし、そこは感謝しているけど。

 この場合だとヒューノットは、シュリを心配して言ったんじゃないかな。

 何を言ったのかは知らないけど、何だろうか。ヒューノットの心配は、いまいち伝わってそうにない。

 不意にシュリが背後を振り返った。

 つられて私も視線を向けるけれど、別に誰かがいるわけでもない。

 シュリの動きに合わせて鳥篭を繋ぐ鎖が揺れ、小さな音を立てた。


「……シュリ?」


 太い柱が立ち並んでいるとはいえ、ワンフロアはほぼぶち抜き。

 こんなところに人が来たら、すぐにわかるはずだ。音だって届くだろう。

 何をじっと見つめているのか。

 問いかけるように名前を呼ぶと、仮面に隠れた顔がこちらを向いた。


「――差し当たっての問題は、この場所だね」

「場所? あー、うん。どこだろうね?」


 駅前に建設中とか解体中とか、そういうビルはあっただろうか。

 いや、さすがにあれば気がつくような気がする。まあ、私の生活圏から出たというのなら、わからないけど。


「"どちら"でもないかもしれないよ」

「……はい?」


 何だか不吉なことを言われたような気がする。

 いやいや、そんな。ゲームの中でもなくて現実世界でもないのなら、それは境界の中だと思っているんだけど。

 そもそもとして、その前提がおかしいのだろうか。

 困惑気味に眉を寄せていると、シュリが四角く切り取られた枠へと近付いた。

 私はそれを勝手に窓だと思っていたんだけど、違うのかな。

 相当大きな窓だったのか。大人が三人ほどは並べるほどに幅が広い。高さも、天井近くまである。


「――ほらね」


 示されるがままに外を見ると、周囲には同じようにビルが立ち並んでいる。

 ビル街だろうか。道路を見ようと視線を落としたところで、やっと違和感に気がついた。

 この建物には、脚がない。いや、脚というのだろうか。何というか。下が、ない。

 霧がかかっているようにも見えるけど、宙に浮いている状態になっている。

 真下を見る為に身を乗り出した姿勢のままで固まっていると、後ろから肩に触れられた。

 慌てて体を引っ込めながらシュリを見上げる。


「ほらねって! どっちにいるのかなんて、シュリだったらわかるはずじゃないのっ?」


 何がどうなっているのか。

 慌てついでに疑問をぶつけると、シュリは緩く肩を竦めた。


「妨害されているかもしれないと言っただろう?」

「あれってそういう意味だったの!?」


 てっきり、行き来を邪魔されているのかと思った。

 シュリは饒舌だけど、微妙に言葉が足りない。いや、まあ、そんなの今更だけど。

 それにしても、こうなってくるとヒューノットがいないという状況に危機感しかない。本当にもう、肝心なときにいつもいない。

 ヒーローは遅れてやって来るものだけど、ヒューノットは別にヒーローでも何でもないし。

 こうやって変に翻弄されるのは、そろそろ疲れて来た。くそ、来るなら来いという感じ。何が狙いなのか、何が目的なのか。本当にさっぱりだ。

 ああ、いや、目的はハッキリしているのか。世界を乗っ取るとか、そういう。ハッキリしているんだか、大雑把なのか微妙だけど。

 ちょっと苛立ちを覚え始めたあたりで、外から激しい風が入り込んできた。

 思わず目を閉じる程度には、いきなりの突風だ。すぐ傍で、シュリのローブが荒く揺れる音がする。

 そう思った直後、急に身体が引っ張られた。


「――わっ!」


 強引に窓から引き離されて、転びそうになる。

 脚が縺れたあたりで、シュリに抱きすくめられているのだと気がついた。

 ゆっくりと窓から距離を取っている、ようだ。後ろに引き摺られる感覚。


「さっそくお出ましのようだよ」


 その言葉に目を開くと、さっきまで外を覗いていた大きな四角の中に人の姿が見えた。

 外からの光を遮って立っているその人の顔は、逆光になっていてよく見えない。

 長い髪に長い衣。服は、何だろう。マントみたいな、いや、違う。シュリのように、ローブを着ている感じだ。


「……ひっ」


 音もなく、床に降り立ったその人に顔はない。

 顔が真っ黒に塗り潰されているかのようだ。本当に、ない。

 仮面を被っているという様子もない。本当に、顔がある筈の部分が黒一色になっている。

 あれも、のっぺらぼうというのだろうか。輪郭はある。しかし顔に凹凸はない。手足もきちんとあるのに、顔だけがなかった。

 ぽっかりと穴が開いているようにも見えて来た。背がぞわりと震える。怖いというより、気持ち悪い。グロテスクな虫を見たときのような不快感だ。

 ビクついていると、シュリが耳元に唇を寄せて来た。


「……ヤヨイ。左斜め後ろ。あちらに壁があるだろう? あの裏に隠れておいで。何かあったらコレを投げるんだ。いいね?」


 ちらりと視線を向けると、確かに一角だけ壁が突き出している部分がある。

 視線を戻すと、目の前に心臓の入った鳥篭が差し出された。銀色のそれは、いつもシュリが首から提げているものだ。

 投げたら、一体どうなるのか。わからなかったけど、頷く以外の選択肢が見当たらない。

 それを受け取ると同時に肩を抱かれ、くるりと身体を反転させられた。そして、促すように背を押される。

 私が走り出したのと、シュリが身構えたのは殆ど同じタイミングだった。


「――おっと、君の相手は私だよ」


 背後でシュリの声がする。

 必死に脚を動かして駆け込んだのは、柱に囲まれてL字型に壁が作られている場所だ。角に身体を滑り込ませて、胸元に銀の鳥篭を抱いて屈み込む。

 呼吸はそんなに上がってはいないけど、心臓がうるさい。耳の奥にあるのかと思うくらいに、バクバクと激しく音が響いている。

 ひと息の間が開いて、何か硬いものがぶつかる音がした。金属だろうか。弾けるような音も重なる。壁に遮られていて、状況はわからない。

 私が出て行ってもシュリの邪魔になるだけだ。それはわかる。わかってる。

 でも、何か。何かひとつくらい、できることはないのだろうか。

 周囲に視線を巡らせても、武器になりそうなものはない。そりゃそうだ。あったとしても、扱えるものだとも限らない。

 考えてみるけれど、やっぱり何も浮かばない。


「……えっ?」


 弾けた音のあとで、バラバラと散るような音がした。

 全身が跳ね上がって、すぐに腹の底が気持ち悪くなる。緊張感でお腹がやられるタイプではないけど、そういう場合でもない。

 音から少し遅れて、何かが視界に入った。床の上を転がっているモノ。何だろうか。ビー玉くらいのサイズの玉だ。

 大量に転がった玉を眺めていると、唐突にパンッと大きく弾けて強い光を放った。光が消えた直後、床からは白い煙が細く上がる。爆竹のような調子で、連鎖的に弾けた玉は熱を帯びているようだ。

 ぎゅっと身体を小さくして破裂音の中を耐える。

 数秒か、数分ほどか。音が消えてしばらくしてから、そっと顔を上げると、玉のほとんどは弾けて潰れ、白い煙だけが室内を漂っていた。


「……」


 何の音もしない。ホラーモノだったら、ここは決して覗いてはいけないところだ。自分で死にますとフラグを立てにいくようなもの。

 だけど、この不気味な静寂を沈黙だけで耐えられる気はしなかった。

 そーっと静かに立ち上がり、壁に背を寄せたまま横歩きに移動して盾になっている壁の端から周囲を窺う。フロア一面に漂う白い煙のせいで視界が悪い。

 壁に押し付けた背が妙に緊張している。胸の奥からも背中からも、心臓の音が聞こえて来るような錯覚を覚えるほどだ。


「――う、お……ッ!?」


 よくよく耳を澄ませていると、いきなり足元が大きくグラついた。地震かと思うくらいの大きな揺れだ。

 思わず屈み込んで膝をついた。右手には銀の鳥篭を握り締めたまま、左手を床に置いてバランスを取りながら揺れに耐える。足元に視線を落としていると、周囲が急に明るくなった。

 ハッとして顔を上げたけど、天井近くに開いた穴を確認した直後にはあまりに光が強くて目を閉じてしまった。

 激しい揺れの中で地割れじみた音まで聞こえて来る。ビルが倒壊するのではないかと思うくらいだ。しかし、けたたましい落下音の直後、唐突に揺れは収まった。

 目を開いたタイミングで反対側の壁に何かが叩きつけられた様子が見え、ぞっと肩が跳ね上がる。

 風に白煙が流されて少し視界が開けていく中、フロアに立っている人物の姿が見えた。


「……ヒューノット!」


 幸いというべきか。当然というべきなのか。

 壁に叩き付けられてヒビを発生させたのは、モドキの方だった。

 項垂れた頭がぐらりと落ちて、長い髪が床に広がっている。

 振り返ったヒューノットは私に気が付くなり、これでもかと怪訝そうに眉を寄せた。


「……お前。何をしている?」


 それは、こっちの台詞だけどな。

 ヒューノットにシュリのことを伝えようとしたとき、倒れ込んでいたモドキが顔を上げた。

 壁が割れるほどの衝撃だったというのに、痛がる素振りがないどころか気にもなっていない様子だ。

 低い姿勢で床を蹴ったモドキが一気に駆け出す。しかし、ヒューノットに向かったわけではなかった。予想外の動きに、ヒューノット自身、驚いた様子で顔を向ける。

 情けなくも四つん這いに似た姿勢のまま、モドキの動きを目で追う。目で追うくらいしかできない。あまりに速過ぎる。

 モドキが向かった先にいるのは――シュリだ。

 片膝を付いた姿勢から立ち上がったその背に、モドキが猛然と襲い掛かる。

 ヒューノットも弾かれたように駆け出したけど、間に合わない。大きく振り上げられたモドキの腕が、宙を裂く音を響かせた。


「――シュリュッセルっ、避けろ!」


 ヒューノットが駆け出した直後にシュリが振り返る。


「――!」


 寸前のところで、シュリが振るった剣がモドキの腕を弾いた。硬いモノ同士がぶつかったような、キィンッと高い音が響く。

 モドキは、後方へと飛んで大きく距離を取った。

 入れ替わるようにして、ヒューノットがシュリのもとへと辿り着く。

 シュリは周囲を見回すような仕草をしたあとで、ヒューノットを見た。


「何をしている、シュリュッセル」

「君こそ。役割を放り出すなんて感心しないな」

「放り出してなど――」


 眉を寄せたヒューノットが抗議を返していると、彼の背後に現われた漆黒の人物に対してシュリが剣を大きく振るった。

 剣先が引き裂いた部分が一瞬白く染まって、直後には光が弾け、破けたと思った衣ごと元に戻る。

 ヒューノットも光の方へ視線を向けたものの、不可解そうに眉間の皺を深めただけだ。

 ふたりが互いに背を預けて構えると、ヒューノットの前にはモドキ、シュリの前には漆黒の人物が立つ形になった。


「これはまた……君は、誰を連れて来たのかな?」

「知らん。お前こそ、何を相手にしている」

「さあ、知らない子さ。鍵が欲しいのかもしれないけど、あげるわけにもいかなくてね」

「当然だ。死守しろ」

「簡単に言ってくれるよね」


 シュリが小さく笑った直後、ダンッと強い音を立てて床を踏み蹴ったヒューノットが駆ける。

 しかし、モドキは迎え撃つどころか、身を翻して逃げ出した。その背に追いついたヒューノットが脚払いを仕掛けると、モドキは一瞬だけバランスを崩しはしたものの、すぐに宙返りをして再び駆け出してしまう。

 ヒューノットを回避したモドキが狙うのは、漆黒の人物と対峙しているシュリだ。

 どうして、眼前のヒューノットではなくてシュリを狙うのだろう。

 そう思っている間に、シュリの前から漆黒の人物が一瞬にして姿を消した。本当に、いない。見えなくなってしまった。

 慌てて姿を探そうとしても、どこにいるのか全くわからない。


「ヒューノット!」

「シュリュッセル!」


 ふたりが声を上げたのは、ほとんど同時だ。

 唐突に姿を見せた漆黒の人物が、宙から飛び出す形でヒューノットへと剣を振り下ろした。しかし、ヒューノットの視線はそちらに向かない。

 シュリが投げるようにして片手で剣を素早く回転させる。すると、ひと瞬きの間に剣が弓へ形を変えた。どこからか取り出した矢を引き絞る一瞬の間に、モドキがシュリへと距離を詰める。

 ヒューノットが目で追ったのは、モドキの動きだけだ。漆黒の人物へと放たれた矢が宙を裂く。顔のないその頭部に矢が当たって光が弾けると、ヒューノットは一度だけ光の方を見たあと、すぐにモドキに駆け寄って顔面を蹴り上げた。


「……もしかして」


 さっきからモドキはシュリを狙っていて、漆黒の人物はヒューノットを狙っている。ふたりは辛うじて攻撃を回避しているけど、互いに自分を襲って来た相手に対して明確な反撃はできていないように思えた。

 ふたりとも、相手に視線が向いていない。

 何かできないものかと思ったけど、どうすればいいのかわからない。目で追うだけでやっとなのに、手出しできるはずがなかった。

 でも、自分以外を狙う動きを阻止しながら、襲い掛かってくる見えない相手を避けるなんて無茶苦茶だ。

 シュリから預かった銀の鳥篭を握り締めたまま、周囲に視線を走らせる。でも、やっぱり使えそうなものはない。

 塗料の入っているらしい一斗缶が見えたけど、あんなの投げられるはずもない。投げても当たるとは限らないし、シュリやヒューノットに当たったら最悪だ。

 でも、足跡が見えれば、相手の場所くらいはわかるだろうか。見えていないだけなのか、音も聞こえていないのか。カメラ越しになら見えるのか。

 ぐるぐると考えを巡らせるけど、正解には辿り着かない。


「――ッ!」


 急に視界の色が変わった。

 慌てて顔を上げると、天井の色が変わっていることに気が付いた。

 シュリの一撃が漆黒の人物に当たる度、光が炸裂していたのは視界の端に入り込んでいたから知っている。

 しかし、今度は違う。天井一面が白く染まった数秒後、急に電撃が走ったように光を伴って弾けた。

 周囲に綿のような雪のような光の雫が飛び散っていく。

 天井が完全に取り払われて、真上に空が広がった。柱だけが天に突き刺さっているような形だ。

 私が背を預けている壁は消えていない。フロアを覆う外側の壁も、四方ともすべて残っている状態だ。

 見上げた空には雲ひとつない。穴が開いているように見間違えるほど、大きな満月が夜空を飾っている。

 何度も空に穴が開いた様子を見てきたせいだ。


「……あっ」


 月明かりの中で、柱の上に乗ったシルエットが浮かび上がった。人の形にも似ている。でも、違う。頭部は大きく迫り出していて、何だろうか。ワニのように見える。被り物をしているような、そんな形だ。

 直後、耳をつんざくような咆哮が辺り一面に響き渡った。









「――……」




 空に向かって吼え声を上げた姿には、見覚えがある。

 人間の頭部を鷲づかみに出来そうなほどに巨大な黒い手。そして鋭い爪。

 逆光で見えにくいわけじゃない。暗闇に目だけが浮かんでいるような顔。裂けた口が横を向けば、向こう側の月がよく見える。



 バケモノになった、ルーフさんとよく似ていた。

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