42.星の残滓
「災厄が"こちら側"に在るならば、"あちら側"は安全だと考えていい筈だ。奴らは、――"鍵"を持ってはいない」
戻って来たヒューノットの、第一声はそれ。
煙を上げている星を握り潰す片手は、苛立ちの為か緊張の為か少し震えていた。
あれが力を込めているせいならまだしも、熱さで、とかだったら、きっと笑いどころだと思う。
とにかく、ヒューノットはルーフさんたちを帰らせたいようだった。
そして、シュリもそれはわかっていたらしい。特に何を言うでもなかった。
「……ねえ。どうして、あんな言い方したの?」
「何の話だ」
世界の境界を開閉できるのは、鍵を飲み込んだシュリだけ。
シュリに連れられて帰っていくプッペお嬢様とルーフさんを見送ったあと、私とヒューノットはふたりでベランダにいた。
理由はない。ヒューノットが、立ち去らなかっただけとも言う。
私は軽く身を乗り出して外を眺めている状態で、ヒューノットは窓に背を向けて凭れ掛かっている。
シュリが開いた小さな穴は、もうすっかり閉じてしまって跡形もない。
斜陽の溶ける空を階段のように上がっていく様子に、ちょっとヒヤヒヤしたけど。そんなの杞憂だ。
もう少しくらい、目立たない方法で帰れないものかとは確かに思った。
「とぼけるなら、別にいいんだけどね」
橙色に染まって流れていく雲を眺めつつ、ちょっと不貞腐れたような声を出してしまった。
悪意があるように聞こえたわけではない。ただ何となく、引っ掛かりがあっただけだ。
レーツェルさんがこっちの世界に来る為に、一時的とはいえシュリを隠してしまったことから察するに"鍵"とは、やっぱりシュリそのものを示しているに違いない。
それをわざわざ、ああいう言い方をしたのはどうしてなのか。
まあ、当人に聞いても答えてくれないのなら、正解なんて永遠にわからない。
「何の話だか分からん」
お、わざわざ言い返した。これはひょっとして、ちょっとは自覚があるのではないか。
とは思ったけど、私はそんなところをいちいちつつくような小さい女ではない。
今回は寛大な心で見逃してやろう。
姿勢を戻して振り返ると、ヒューノットは腕組みをしたまま、じっと空を見つめている。
視線の先を追いかけてみるものの、何があるというわけでもない。
強いて言うのなら、シュリたちが消えた穴があったあたり、だろうか。
向き直ると、ヒューノットはまだ星の欠片を握っているように見えた。
しかし、もう音もなければ煙もない。
それがあるということは、落とし主――もとい、ユーベルもこっちに来ているという解釈でいいのだろうか。
「帰らせちゃって、良かったの?」
「シュリュッセルは戻る」
「そうじゃなくて……ルーフさんとか、ほら、あっちは今のところガラ空きというか、そんな感じだし……」
「こちら側よりは安全だろ。第一、あいつに何ができる」
あんたが留守を任せた人ですよ!
と、言いたかったけど、言わなかった。
空の色が夜になっていく。追い遣られつつある夕暮れ色は、空の端に辛うじて引っ掛かったような状態だ。
ベランダに差し込む光も、少しずつ色を変えている。
ヒューノットの濃紫色の髪が斜陽を受ける様を見つめていると、目が合った。
「あのさ、ヒューノットは……何がハッピーエンドだと思うの?」
シュリは、世界の終焉を阻止したいようだった。
レーツェルさんは、理想の王様が地上を統治することが最良だと考えているらしい。
ルーフさんはプッペお嬢様を守りたくて、プッペお嬢様はママに帰って来て欲しがっている。
みんなの願いは、それなりにバラバラだ。何が最善で、何が最良なのか。
「……そんなものはない」
真っ向から否定された。
そりゃ、確かにみんなが納得するようなハッピーエンドはないだろう、とは、確かに思うけど。
だからって、そこまで完全否定しなくてもいいのではないか。
ここまでこじれたら、ちょっとやそっとのハッピーエンドでは納得しないのかもしれないし。
ヒューノットは僅かに口の端を歪ませてから、感情を押し込めるかのようにゆっくりと息を逃した。
「すべての願いを叶えようがないだろ」
ヒューノットの声に、投げやりな調子はなかった。
ただ、どこか諦めたかのような、どこか疲れたかのような、そんな調子ではある。
可能性が枝分かれした先で、永遠のように何度もバッドエンドを繰り返す。そんなの、私には想像もできない。
ヒューノットも、そしてシュリも、どんな気持ちだったのか。
でも。
「……そうかもしれないけど」
それでは、シュリが何の為に、と思ってしまう。
あんなにも責められて、平原で待ち続けて、あるのかどうかもわからない未来を探している。
「お前は気にしなくていい」
ヒューノットの青い瞳が細くなる。
いつもの鋭い、睨みつけるようなものではない。
まるで微笑むような、そんな風に見えた。
「どのようになったところで、お前の責任ではない」
風が流れてヒューノットの前髪が乱れた。
その間に、普段と同じ、どこか冷めたような目つきが戻って来る。
「私は傍観者だから、責任を感じなくてもいいってこと?」
一度外れた視線が、再び戻って来る。
言い返されることが予想外だったらしい。
「……無理だよ、そんなの」
そんなの、あまりにも勝手すぎる。
転がるように広がった可能性だったとはいえ、元々の選択は私がしたんだ。
そして、選択肢にないことを選んで、用意されていたルートから外したのも私なのに。
例え、それが何も役にも立っていなかったとしても、だ。
少なくとも、ツェーレくんは必要だと言っていた。
「私も、やりたいことがあるし……」
ヒューノットは、とうとう沈黙してしまった。
さっきまで言葉のキャッチボールが続いていた方が珍しい。
というか、あんまり睨まれると怖い。
いや、まあ、ヒューノットって、もともと目つきが鋭い方ではあるけど。
それにしても、というか。何というか。
「……」
「……」
うう、いきなりの沈黙が辛い。
さっきまできちんと会話が続いていただけに、無視されているようで辛さが増してしまう。こんなのいじめだ。
ちらりと見た空の夕焼けは既に消えていて、周囲はすっかり暗くなっている。
いつまでもベランダにいるのは不自然だけど、ヒューノットは急にふらっとどこかに行ってしまいそうだし。
私と窓の間で、なんとなく押し留めているような形だ。
ヒューノットが動き始めれば、私では追いかけようもない上に制止すらできないわけだけど。
今はまだ、大人しくしてくれている。
「現時点においては、お前が傍観者のトップだ」
「……え?」
いきなりの言葉に間抜けな声を出してしまった。
しかし、ヒューノットは私を見ていない。
足元に視線を落としたまま、言葉を続ける。
「お前の選択や行動によって先が決まる。プレイヤーとしてのイニシアティブは、お前にあるという事だ」
「……えっと、他のぼうかん――プレイヤーか。その人たちには決定権とかはない、ってこと?」
「お前が死ねば、別のプレイヤーに移ると思え」
「は、はは……」
笑えない。
ゲーム世界でならまだしも、こちら側は現実世界だ。
何かあったら、ダイレクトにダメージが来ると思っていいだろう。
いや、いいだろうっていうか、だってこっちが現実だ。あっちの世界でもさすがに死んだことはないけど、こっちだとシャレにならない。死ぬどころの話じゃない。ケガも無理だ。
とりあえず、今のところは私がプレイヤー代表ということでいいのだろう。
全く嬉しくはない。
でも、他の人にも決定権があると言われるよりはマシだ。
そうなったら、きっと頼ってしまう。それに、失敗した時の逃げ道にもなってしまう。誰かのせいにすることは、とても簡単だ。
ここにきて、そんな無責任なことは、できるならしたくない。
「まあ、それはいいとして……」
全然よくはないんだけど。
ひとまず、その話は脇において置こう。
「ユーベルやレーツェルさんを止めるとして、どうすればいいの?」
それがわからないことには、行動の起こしようもない。
私としては、レーツェルさん――というよりも、ツェーレくんだ。彼を救いたい。
救いたいというのは、少し大袈裟かな。何というか。
彼の、期待に報いたいというか。ああ、やっぱり、きっと助けたいんだと思う。
プッペお嬢様にルーフさんがいるように、ツェーレくんにはレーツェルさんがいる。でも、レーツェルさんはルーフさんのように、ツェーレくんを守っているという感じはない。
私から見れば、だけど。
どちらかと言うと、弟に理想を押し付けているというような、そんな様子にすら見える。
ヒューノットは、少し考えるような仕草をしながら視線を逸らしたあと、ゆっくりと息を吐き出した。
「俺に分かるか」
「えぇ……そ、そこを何とか……」
「今までにない」
「そ、そうだろうけど……」
うう、取り付く島もない。
確かに新規ルートではあるんだろうけど、少しはヒントがないと進みにくい。
「……強いて言うのなら、あちら側に引っ張り戻す事だろう」
ヒューノットは推測で、モノを喋ることが苦手らしい。
口の端を歪めながら、これでもかと素っ気ない調子で言い放った。
「えっ、それだけじゃだめだよ」
思わず言い返すと、ぎろりと睨まれた。
ヒューノットのひと睨みは本当に怖いから、やめてほしい。
自分の目つきが悪いっていう自覚がないのかな。
もしも、目で殺せるというのなら、あのヒトガタたちくらいは目で殺せそうだ。
「いや、だめっていうか、その……」
あっちに戻すだけ――では、"こちら側"の、現実世界が助かるだけの話だ。
結局、ゲーム世界の中については、何も解決していない。
それを言いたかったけど、目が怖くて言葉が続けられなかった。
私は、別に勇猛果敢な戦士でもなければ、幸運マックスの勇者でもない。というか、怖いものは怖い。
「――そこまで、お前が気にする必要はない。お前は、自分の事だけを考えていろ」
私の考えを見透かしたかのように、ヒューノットはぴしゃりと言い放った。
勢いに押されるようにして、少しだけ体が後ろに下がる。
「で、でも……」
食い下がると、ヒューノットは眉間に皺を寄せた。
「――守りたければ、手の届く範囲にしろ。腕を広げすぎるな。身の程を知らなければ、全てを失う事になるぞ」
ヒューノットの声は低い。そして、放たれた言葉は重たく響いた。
確かに、そうだ。わかっている。ヒューノットの言っていることは正しい。
今するべきなのは、現実世界への侵食を防ぐこと。そして、それが最低ライン。せめてもの、修復だ。
それは、わかる。わかるけど。
「でも、でもっ、ヒューノット――」
でも、だけど、だって。情けなくも、それ以上の言葉が出て来ない。
更に食い下がろうとしたその時、空で何かが弾けた。一瞬、太陽が差し込んだかのように周囲が明るくなる。
慌てて背後を振り返ると、夜空にいくつもの光が飛び散っていた。
まるで打ち上げられたあとの花火のように、バラバラと光の粉が散らばって落ちていく。
それは夜色に染まった空の、あちらこちらで起きていた。ハッとして視線を更に上げると、雨が降るかのように星たちが散っている。流星群が大挙を成して一気に下ってきたかのようだ。
大きな光が弾けたように思ったけど、そうじゃない。大量の星が一気にひとつの穴から解き放たれていた。
遠く、あるいは近くの、空に開かれた大きな穴。いや、亀裂だ。そこから、噴き出すように銀や金の光を纏った星があふれ出している。
まるで大量のラメが水の上に広がるかのように、星が空へと散らばっていく。
空の一部が異様に明るくなったり、また暗さを取り戻したり、明暗が何度も繰り返されている。
見つめる目がチカチカと点滅の光を受けるほどのまばゆさだ。目が痛くなってきて眉を寄せたとき、ヒューノットがベランダの欄干に飛び乗った。屈む姿勢を取って、今にも跳び上がりそうな――
「――まっ、待ってヒューノット! 待って!」
間一髪のところで、黒い外套を掴むことに成功した。もしかすると、待ってくれたのかもしれない。
勢いよく引っ張ると、ものすごく迷惑そうな目を向けられてしまったけど。ヒューノットが本気を出して動けば、私では追いつきようもない。
動きを止めた彼は外套で風を受けながら私を見つめている。
冷ややかにも見える青い瞳。引き結ばれた口許。沈黙は数秒。再び眩い光が弾けた直後、ヒューノットは口を開いた。
「……行くか。行かないか」
「えっ……」
「お前が決めろ」
久し振りに差し出された"選択肢"は、義務のように紡がれていた今までのものとは違うように聞こえた。
一瞬だけ、息を飲む。
任せて、引っ込んで、素知らぬ顔ができるだろうか。
安全な場所で、怖い思いをしないまま、祈るだけで耐えられるだろうか。
"万が一"がないとは、限らない。
何も、わざわざ自分から危険なことがしたいわけじゃない。恐ろしいものが見たいわけでもない。
逃げるか逃げないか。そう聞かれたような気がして、外套を握る手が妙に汗ばむ。
「――……っ、行くよ。連れてって」
忘れて欲しいと、ツェーレくんは言った。
自分たちのために、忘れてくれと。
それでいて、同じ口で必要だとも言ってくれた。
私は、私自身が、あの子に何をして、そして何をしなかったのかを覚えていない。
それは、有り得たはずの未来の話だったのかもしれないし、もう失ってしまった選択の向こう側だったのかもしれない。
シュリは、手を貸してほしいと言っていた。
私は、もちろんだと言い返したんだ。
逃げたとしても、きっと責められることはないと思う。そもそも、逃げたとも思われないかもしれない。でも。
「やりたいことがあるからっ!」
三度目。
至近距離で花火が打ち上げられたのかと思うほどの轟音が響く中、対抗するように声を張り上げた。
別に覚悟が決まったわけじゃない。戦う術を身に着けたわけでもなく、いきなり勇気が備わったわけでもない。
不安だし怖いし、引っ込みたい気持ちがないわけじゃない。ただ、ここで放り出すことが、今から手を引くことが、たとえ誰かに許されたとしても、自分で嫌だった。
こんな気持ちになったのは、いつ振りだろう。初めてかもしれない。
思わず勢いよく叫んでしまった私に対して、ヒューノットはどこか呆れたような表情を浮かべた。
「……」
恥ずかしいから、沈黙はやめて欲しい。
掴んでいた外套から、おずおずと離した手を掴まれる。
大きくて、少し硬い手だ。シュリの手とは、全く違う。
「物好きめ」
ぐいっと腕を引っ張られた直後、あっという間に抱え上げられてしまった。
左腕をお腹あたりに回された状態で、まるでカバンのように小脇に抱えられていて、何というか、運搬方法としてはどうかと思う。
いや、ていうか、お前は人さらいか。何だこの状態。
両手でヒューノットの脇腹あたりにしがみつく。安定感はゼロだ。いや、回された太い腕の安定感はすごいけど。
折り曲げていた膝に、いや、脚全体か。力を込めたヒューノットは、欄干を蹴るようにして空中に飛び出した。
「ちょ……ッ!」
一気に全身が強張った。
急に支えが失ったような感覚。命綱も何もないのだから、確かに支えなんてない。
ヒューノットの片腕だけが、私の全体重を支えている。こわすぎた。
風を切りながら空中で方向転換をしたヒューノットは、電柱を蹴って飛び上がる。
一瞬何が起きたのかなんて、わからなかった。
気がつけば、電線よりもずっと高い位置まで来ている。今、手を離されたらおしまいだ。
祈るしかない。あと、信用するしかない。いや、うそだ。信用はしてない。こわい。
刹那だけの無重力じみた感覚のあと、いきなり重力に引き摺られる感覚。ヒューノットが動く度、それが交互にやってきて、何なら内臓がひっくり返りそうだ。
「――邪魔だ。持ってろ」
片腕が私で塞がっている所為だろう。
ヒューノットは、右手に持っていた何かを押し付けてきた。
いや、たぶん持ち帰った星だ。もう熱なんてとっくに失われていて、冷たくて硬い石の感触だけが手に伝わる。
反射的に受け取ったそれに視線を落とす。
歪な形をした、白い石。
「――……」
どこかで見たような石だった。




