38.カルテット
胸の奥が痛むように感じるほど、ぐっと力を込めて息を飲んだ。
どこからともなく、短い悲鳴が上がる。
足元の地面がなくなる感覚は、今までにも経験したことがあるものだ。
思い出したくはないけど。そして、別に歓迎したくもない。
床に開いた暗がりの中へ、身体の重みごと一気に引っ張り込まれる。まるで絨毯共々、穴へと吸い込まれるかのような有様だ。
すぐ傍に見えた意識のないシュリの身体を、半ば強引に引っ張り寄せて抱き締めた。
呼んでも揺すっても、目を開くどころかぴくりともしない。
だらりと垂れ下がった四肢に力が入る様子はなく、支えていないと頭すらガクンと後ろへ落ちてしまう。
そうしているうち、あっという間に穴の中へと落ちた。いや、ここが穴なのかどうかもわからない。
視線を持ち上げると、床だったらしい場所が頭上でバラバラと崩れている様子が見えた。さっきは天井に大きな穴が開いていたけど、今度は足元というわけだ。暗闇に飲み込まれるようにして、周囲が一瞬にして黒に染まる。しかし、不思議と真っ暗ではない。
抱き締めたシュリの顔も自分の体も明確に見えていた。黒は光を吸収してしまうらしいけど、いやいや、それにしても、何だここは。
感情としてはひどく焦っているけど、そして混乱している部分だって、もちろんあるけれど。でも、どこか冷静な部分が、まだ私の中に残っていることは幸いだった。
私たちの他にも、フェルト人形たちが一緒になって落ちていく様子が、はっきりと視界に入っている。
プッペお嬢様のものと思わしき声が聞こえて視線を投げた時、足元の方から強い風が吹き荒れた。目を細くしながら、シュリを更に強く抱き締める。
荒々しい風に逆らう形で急速に落下していく。それは、ほんの数秒だけだった。
「――――ッ!」
急に視界が開けた。
ぼふんっと何かにぶつかって、跳ね上がった拍子にシュリから手を離してしまう。挙句、その勢いのままで床に落ちた。
顔から着地したせいでひどく痛い。両腕に力を込めて、何とか四つん這いになった。
顔を上げると、打ち付けた鼻先や顎がジンジンと痛む。ふと、そこで違和感を覚えたけど、それよりも――降り注ぐ黒色の粉のような、薄い板のような、異質な物体に気が付いて全身が強張った。
それらは床に辿り着く前に消えてしまう。そこで、ふと思い至った。
「……え?」
床を見て、そして壁を見て、正面を見る。すぐ前にあるのは、パソコンだった。壁もカーテンもデスクも、すべて見慣れたもの。モニターには何も映されてはいない。
ここが自分の部屋であるということを理解したのは、数秒ほど遅れてのことだった。
見えている光景を、現実のものとして受け入れられない。いや、いやいや、待ってくれ。本当に追いつかない。帰ってきたということなのか。それとも、これすら幻想なのか。
混乱を来たした頭では、冷静な思考など続けられない。いや、でも、そうだ。私はさっき、確かに"痛かった"。
立ち上がろうとしたところで、外からもガラガラと崩れる音が届いた。
急いで立ち上がり、窓に飛びつく。何が起きているのか、全くわからない。
誰だったらわかるのだろう。
シュリに決まっているけど、とにかく、とにかくなんだ。どうなっているんだ。
引いたままになっているカーテンを脇に押し退けて窓ガラスを開けば、幾つもの穴が開いた空が目に飛び込んできた。穴からは、黒い何かが落ちては、モヤのように薄れて消えていく。
夕暮れの空にぽっかりと口を開いた穴は、ひとつやふたつではなかった。幾つもの穴から、ボロボロと零れ落ちていくものも黒色の塊だけに留まらない。あの、灰色のヒトガタ達も落ちている。
窓から身を乗り出して周囲を眺めてみれば、どこもかしこもおかしなことになっていた。空に穴が開いていることもそうだけど、それだけではない。
道を行く人々は、誰も空になど視線を向けていなかった。まるで、気が付いていないかのような、全く見えていないかのような、そんな有様だ。
崩れていく空の一部が落ちていく中で、地上では平然と日常が広がっている。あまりのアンバランスさに、自分がおかしくなってしまったのかと思うほどだ。
数秒ほど呆気に取られたあとで、ハッとした。
「――シュリ!」
私たちはちょうど、ベッドの上に落ちたらしい。天井に開いた穴からバラバラと崩れ落ちて来る細かな黒い瓦礫の中、シュリはベッドに倒れた状態になっていた。
慌てて駆け寄って瓦礫を払うと、それらはあっさりと色を失って消えていく。伏せていた身体を引っ張り上げて、仰向けにして呼吸を確認する。心許ないくらいに微かだけど、息はある。
しかし、意識は手放したままだ。無造作に投げ出された手も脚も、全く動かない。その胸元に、あの銀の鳥篭はない。
仰向けにしたシュリをベッドに寝かせ直して、ついでに落ちて来た黒い物体を払う。触れた感触もほとんどなかった。まるで小雨のように降り注ぐけど、触れてしまえば雪のように消えていく。
シュリの頬に触ってみたけど、反応はなかった。手を握ってみるけど、僅かに動く気配もない。
「……最悪の状況だ」
顔を上げると、天井に開いた黒い穴からヒューノットが降りて来るのが見えた。彼はベッドではなく、床の方へと着地する。落下というよりも、降下といった感じだ。
一瞬大きく広がった外套が、ゆっくりと降りてその背を覆う。
「さいあく……」
ヒューノットの言葉を、思わず繰り返した。シュリは、まだぐったりと力尽きたままだ。確かに、呼吸はしている。でも、意識は戻らない。
境界が乱れてしまったのは、やっぱりシュリがこんな状態になっている所為だろう。レーツェルさんが何かをしたに違いない。いや、あるいはツェーレくんか。そちらの可能性は、あんまり考えたくはないけど。
「……ああ。想定し得る中で最もな」
中途半端に脇へと退けたカーテンが、薄く開いた窓から入り込む風によって頼りなく揺れている。窓の外に視線を投げていたヒューノットは舌打ちをしてから、こちらへと顔を向けて来た。その表情は険しい。
「境界の楔を失えば、いずれ、全てが雪崩れ込む。そうなれば、干渉も時間の問題だ」
大股に歩いて戻ってきたヒューノットは、ベッドの傍らに膝をついた。そして、片腕を伸ばしてシュリの頬に触れる。まるで温度を確かめるかのように掌を押し付ける動きは、どこか恐々としていた。壊れ物を扱うような手つきだ。ヒトガタを殴り飛ばし、ツェーレくんに掴みかかり、宙を裂くように剣を振るっていた腕とは思えない。繊細な仕草で、大きな手がシュリの白い肌をさする。
「それって、どういう……」
問い掛ける声が震えてしまう。
ヒューノットは、少し乱れた髪の合間から視線を向けたあと、ゆっくりと腕を引いて姿勢を直した。
そして、外套を翻しながら窓へと近付いていく。
「俺達の世界が――」
ヒューノットの大きな手が窓ガラスに掛かる。
「――お前の世界と重なる」
大きく開かれた窓の外では、夕暮れに染まっていた空に無数の穴が次々と生まれている。まるで、空に黒い墨を散らせたかのようだ。点々と口を開いた暗がり。黒いシミが少しずつ大きくなっていくように、広がった穴が互いに繋がりながら空を覆う。
夕暮れの明るさだけがそのままで、見た目と空気の違いに理解が追いつかない。しかし、道を行く人々は相変わらずだ。異変など意識にも入っていない様子で、斜陽に染まる中を歩いている。
吹き荒れた風に濃紫色の髪が散らされて揺れ動いた。
ヒューノット越しに見える景色には、全く現実味がない。まるで、映画のワンシーンだ。日常が侵食されていくというのに、外の人間は誰も認識していない。
漆黒に染まった空から、燃えカスのような黒い何かがボロボロと落ちていく。風に揺らされたそれらは、やはり道路や屋根に積もることもなく消えているようだ。
世界と世界が重なる。その意味がうまく飲み込めなくて、もう一度問いかけようとした時、ヒューノットが急に窓枠を乗り越えた。その姿はあっという間に見えなくなってしまう。それなりの高さがあるというのに、全く何の迷いもなかった。いや、待って。どういうことだ。急いで窓から顔を出すと、塀の上に立っている姿が見えた。何かを探すように周囲を見渡したあと、そのまま塀を駆けていく。落ちるどころか、すぐさま近くの屋根に飛び上がり、更に走っていってしまう。身軽すぎる。
「……どうしよう……」
取り残された私は、自分の部屋だというのに落ち着かない。こんな状況でまったりできるほど、図太い神経なんて持ち合わせていなかった。そんなの当たり前だ。
天井を見ると、あの不気味な穴は消えていた。残されたのは、私とシュリだけだ。いつの間にか足元に落としてしまっていた銀の鳥篭を拾い上げた。中には、矢の刺さった心臓がきちんと入っている。それをシュリの傍に置いたところで、スマホをヒューノットに預けたままだったことを思い出した。別に、今すぐ必要ではないけど。
それにしても、あんなに急いで彼は一体どこへ行ってしまったのだろう。何かを探していたようだったけど、何も言わずに行くなんて、本当にヒューノットは相変わらずだ。せめて、一言くらいは残して欲しい。想定し得る中で最も最悪な状況だというのなら、尚更だ。
こんな状態のシュリをひとりには出来ないのだから、追いかける事だって無理だ。まあ、そもそも、あっちでも私は戦力外なのに、こっちでどうにか出来るとも思えないけど。ああ、あっちとかこっちとか、あっちの世界とかこっちの世界とか、そんなことを言われても混乱しか出て来ないよ。
風に揺れるカーテンに斜陽が溶けていく。床に落ちたオレンジ色の光を視界の端に入れながら、シュリの仮面に触れてみる。それでも、身じろぎの気配すらない。今のシュリは、無防備そのものだ。猫を模した仮面は、冷たくて硬い。仮面と肌の境界線に指先を落とした時、窓の方で軋む音がした。
「――手を離せ」
びくっと、肩が跳ね上がる。
手を離しながら振り返ると、そこにはヒューノットがいた。窮屈そうに長身を屈めて窓枠をくぐっている最中だ。片腕は窓の外。一足先に室内へ入れているもう片方の腕には、プッペお嬢様を抱いている。
「ヤヨイー!」
床へと解放されたプッペお嬢様が、勢いよく駆け寄ってきた。
両腕を広げて胸で受け止めると、むぎゅっと抱きついてくる。ああ、無事で良かった。あのとき、悲鳴が聞こえたような気がしたけど、とにかく無事なら何よりだ。もう一度、視線を持ち上げる。すると、ヒューノットがルーフさんを引っ張り上げるところだった。いや、言ってくれたら玄関くらい教えるのに。ルーフさんはヒューノットよりも、ずっと苦労して窓から入って来た。というか、ヒューノットはふたりを連れて、この高さを登って来たのだろうか。とんだゴリラ野郎だよ。
「プッペちゃん、怖くなかった? だいじょうぶ?」
「うん! だいじょーぶ! ルーフといっしょだったもん!」
元気いっぱいに返事をしてくれたプッペお嬢様は、笑顔を向けてくれた。この子の中で、ルーフさんがどれだけ大きな割合なのか、よくわかる。よしよしと頭を撫でると、嬉しそうに甘えてきた。とにかく可愛い。そんなことをしていると、ルーフさんを窓の傍に残したままでヒューノットがベッドまで近付いて来た。目当ては私ではなくて、シュリの方だ。プッペお嬢様を抱き締めたまま、視線だけで様子を窺う。彼は意識がないことだけを確認したようで、今度は特に触れようともしなかった。
「おい、ルーフ。ここにいろ。女子どもはまとめるに限る」
「ヒューノットさんは、如何されますか?」
「俺は外へ。様子を見て来る。任せるぞ、いいな」
「いや、いやいや、待って!」
ヒューノットとルーフさんの会話がどんどん進んでいく上に、再びヒューノットが窓に向かい始めたあたりで声を上げた。勝手に人をまとめるなよ。あと、話も勝手にまとめるなよ。
制止の声を上げた私に向いた視線は三つ。ヒューノットの怪訝そうな目が一番痛い。
「ま、待ってよ。何かあったら、どうすればいいの。シュリは、こんな状態だし、プッペお嬢様もいるのに……」
このままでは、現状で唯一の戦力と分断される訳だ。そんなの不安すぎる。
何かがあった時、私ひとりでは対処なんて出来そうにない。せめてシュリの意識があれば、話は別だろうけど。今のところは、それも見込めない。自分の身を守れるかどうかも曖昧な私に、よくも三人とか託せるな。
「ルーフがいる」
ヒューノットの言葉は、短い上にとてもシンプルだ。
いや、そりゃ確かにそうだけど、そうではなくて。というか、ルーフさんを男手と見なすのは無理があるような気がする。ヒューノットとは、あまりにもタイプが違う。見るからにやさおと、いや、細身というか頼りな、いや、なんというか、まあ、うん。ええと、そう。好青年に荒事は似合わないのである。
「いざとなれば、少しは役に立つ筈だ。……すぐに戻る」
言うが早いか。ヒューノットは、あっさりと窓枠を乗り越えて再び外に出てしまった。
いや、だから玄関から出入りしてくれ。いや、今はそんなことを言っている場合でもない。身軽な調子で飛び降りたヒューノットは、何処に向かうつもりなのか。今度は窓から見下ろすこともできない。プッペお嬢様を抱き締めたままの私は、溜息を吐きたいところだったけど何とか喉の奥で堪えた。むしろ、それで精一杯だ。
ルーフさんを見ると、困ったような笑みを浮かべている。
「あの、……申し訳ありません」
「うああぁっ、いや、もう、こちらこそっ、すみません!」
ルーフさんに謝られると、私としては立つ瀬がない。
慌てて頭を下げると、プッペお嬢様がぎゅっと強めに抱き締めてきた。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ! ルーフね、かっこよくないけど、やさしいからっ!」
うう、それはいいことだけど、現状ではびっくりするくらい頼りない。
優しいだけの男はダメなんだよ。プッペお嬢様。いや、ただ強いだけで無愛想な男はもっとダメだけど。
私の頭を撫でてくれたプッペお嬢様が、ルーフさんの方へと駆け戻る。その小さな身体を、屈んで抱き締めたルーフさんは、やはりどうにも戦闘向けには思えない。
「ヤヨイさん」
失礼なことを考えているとバレてしまったのだろうか。
いきなり名前を呼ばれて、反射的に姿勢を正してしまった。
ベッドの上に座り込みながら、姿勢を正すも何もないのだけど。
「ヒューノットさんのようにはできませんので、ご不安かとは思いますが、今暫くご辛抱ください」
「いや、あの、……はい」
何かもう、すみません。
でも、まあ、確かにそうか。今まで、あの館ではプッペお嬢様を守ってきた人だ。何となくヒューノットを基準に考えていたけど、あんな飛び抜けて異様に強いヤツはひとりで十分でもある。不安ごとも心配ごとも、考え始めればキリがない。ここは、少しくらい楽観的に行こう。ネガティブになったところで、どうにもならないのだから。
あれ。でも、何が得意なんだ。守る事が得意だと言ったけど。防御力とか高いのかな。いや、全然そうは見えないけど。ああ、でも、人は見かけによらないとか言うし、もうそういうことにしておこう。
まあ、とりあえず、ヒューノットが連れて帰って来たのが、このふたりで良かった。フェルト人形たちだったら、明らかに収容人数オーバーだ。よし。しょーもないことを考えていたら、ちょっと調子が戻って来た。ような、気がする。まあ、事態はちっとも好転なんてしてないんだけど。
「あの……ルーフさんは、あれが何かわかりますか?」
とりあえず、窓の外を示して問いかけてみた。
空に開いた穴。穴同士がじわじわと広がって繋がっていて、空の殆どが黒色に染まっている。そのせいで、穴というよりも、まるで巨大な亀裂が空に走っているような有様だ。空が分断されている。
私の問いに対して、ルーフさんは少し困ったように眉を下げて首を振った。
「いいえ、詳しくは……」
まあ、そうだろう。
少なくとも、彼はヒューノットやシュリのようなポジションではないだろうし、事情をよく知っているとは思えない。
納得して頷いていると、ルーフさんは「しかし」と続けた。それは、予想外だ。
「災厄が動き出したと、ヒューノットさんはそのように表現していました」
「動き出した?」
何だそれ。どういう意味だろう。というか、そういう話をルーフさんにはして、私にはしないってどうなの。ヒューノットはルーフさん推しなの。まあ、そうだろうなという気はしてたけど。そんなの今更ではあるけど。
しかし、災厄か。その言葉が示すのは、ユーベルだ。
少なくとも、シュリは彼女について、そういう表現を使っていた。ヒューノットも同じ表現をするとは限らないけど、共通の表現であったとしても別におかしくはない。
「他に何か言ってました?」
「いえ、特には……」
「うーん。そうですか」
まあ、ヒューノットって、そこまで饒舌なタイプでもないもんね。雑談で口を滑らせるような感じは一切ない。ルーフさんの言葉に頷きを返して、意識のないシュリへと視線を落とした。何だろう。ヒューノットは主人公だから、なのか。割と知り合いが多いような気がする。ルーフさんとは、昔からの友達らしいし。プッペお嬢様とも、何度か会っているみたいだし、いや、それはルーフさんのついでか。レーツェルさんも、多少は何かありそうだった。ツェーレくんとも面識があったし。あれ、それだと、どうしてグラオさんたちとは、面識がなかったんだろう。繰り返しているのなら、フェルトの街にだって何度も行っているはずだ。あれ、そもそもルーフさんたちは、繰り返している自覚がないんだっけか。だったら、何度か会っているというのは、選択肢が発生する前までの話なのだろうか。んんー、こんがらがって来た。
「……」
災厄が動き出した。
その表現が、そのままユーベルのことに繋がるのだとすれば、ユーベルとレーツェルさんは何らかの関係があると考えていいのかもしれない。ツェーレくんは、どちらかというと巻き込まれた側のような気がする。もしもユーベルが出て来るのなら、それこそ因縁はヒューノットよりもシュリの方にあるように思えるけど、どうなのだろう。
いや、他にも気になるところはたくさんある。あるけど、ここにいるメンバーでは解決できそうにない。せめて、ヒューノットがいないと話にならない気がする。一番いいのは、シュリがきちんと教えてくれることだけど、今はそれも望み薄だ。
もう一度、窓の方を見たところでヒューノットの姿が見えた。え、ちょっと待って。なんで上から来たの。
「――何だ」
窓の上部に片手を引っ掛けて、器用に窓枠を踏むこともなく室内へと入り込んだヒューノットはすぐに眉を寄せた。
私が物言いたげにしていたのだろう。いや、そりゃするよ。なんで、下から登って来るんじゃなくて、降りて来たんだよ。屋上から突入して来る特殊部隊かお前。思っていた以上に早く帰ってきたことより、帰り方が気になってしまうだろ。
「なんでもないです……」
しかし、そんなツッコミを本人に叩き付ける勇気はなかった。なるべくなら、機嫌を損ねたくない。常から、不機嫌そうにしているとはいえ、現状では頼る相手は彼しかいない。生殺与奪の権を握られている気分だ。
大股でベッドまでの距離を詰めてきたヒューノットは、意識のないシュリを覗き込んだあとで吐息を漏らしながら肩を竦めた。
「現状では、こちら側に干渉していない。だが、時間の問題だ。早急に対策を練る必要がある」
「ええと、つまり……?」
「お前以外、こちら側の人間が俺達を認識していない」
それはわかる。
外を見ていても、他の人達は空の異変には全く気がついていない。そもそも、空があれだけ穴だらけになっているというのに、建物や道路を照らす斜陽が全然遮られていなかった。
世界と世界が重なると、ヒューノットは表現したけど、具体的なところを知りたいのだけど。
「それと、こいつが煩い」
考え事をしている最中でスマホを投げられた。
慌ててキャッチすると、確かにものすごい通知の数が表示されている。それも、ほとんどがSNSとニュース関連だけど。
ひとまず、スマホはポケットに突っ込んでおいた。
「ねえ、ヒューノット」
「何だ」
「世界が重なるっていうのは、どういう意味?」
もうこうなったら、あっちがゲームの世界だなんて話はそもそも本当ではなかったのだろう。
かといって、異世界でしたとかそんなマンガみたいな話をされても飲み込めない。まあ、飲み込めないだけで、それが嘘だとは、もう既にこの段階から思えないんだけども。
ヒューノットは私の問い掛けに対して、すぐに返事はしなかった。少し考えるような仕草を見せたけど、ほどなくして、立ったままだったルーフさんに、指先で椅子を示して座るように促す。って、ちょっと待て。いや、いいんだけど待て待て。プッペお嬢様を抱っこしているルーフさんは、私を見て困ったように笑う。いいですよ、と。私も手で促すことしかできない。負けた。
「意味は言葉の通りだ」
返答は、すごくシンプルだった。というか、何なら雑だ。もっとこう、きちんと説明して欲しい。しかし、ヒューノットは、それ以上は言葉を続けずにベッドへと腰を下ろした。色々と言いたいことはあるけど、この際、ちょっと飲み込んでおこう。
そうこうしている間に、私のお腹がぐうぅうーと緊張感のない音を出した。待ってくれよ。シンプルに恥ずかしい。
「何か食え」
まさか。気を遣われたのか。
ヒューノットにそんなことを言われて、恥ずかしいやら情けないやら。お腹に手を当てたまま、固まってしまう。
「話はそれからだ。こちら側に戻って来て、空腹を思い出したんだろ。さっさと何か食え。鬱陶しい」
ヒューノットって、何か一言多いんだよね。
でも、そうだ。確かに、向こう側にいる間は空腹なんて感じなかった。食べたものも飲んだものも、きちんと味は感じていたけど。疲れはあっても、眠気はなかったし。いや、疲労感の方だって、割とすぐに解消できていたような気がする。
しかし、まあ、考えたところで仕方がない。
「じゃあ、何か食べるとして……みんなは? お腹は空いてない? 何か作ろっか?」
とはいえ、私の家ではラーメンが主食である。残念でした。
「必要ない」
ヒューノットの返事は予想通りだ。
ですよね、という感じ。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「プッペ、ヤヨイとおなじの食べたいなー」
ルーフさんの反応も特に意外性はなかった。プッペお嬢様は、ちょっと意外だ。
待って。お嬢様に食べてもらえるほど、良いものなんてないです。とは思うんだけど、買い出しに行く勇気はない。
「うーん。じゃあ、ラーメンでいいかな?」
「らあめん? らあめんって、なあに?」
「あー、うん。スープパスタみたいな感じ、かな……」
言ってから、言い方が詐欺だと気が付いた。しかし、他に言い換える先が思いつかない。
肩を竦めて立ち上がり、寄って来たプッペお嬢様をつれてキッチンへと向かう。
ちらりとシュリを振り返ってみたけど、やっぱり起きる気配がない。傍らにはヒューノットがいるし、まあ、大丈夫だろう。むしろ、私の方ができることがなさそうだ。
お米は炊いてないし、パンも切らしているけど、カップラーメンあたりはたっぷりある。よし、開き直ろう。自炊しないんだから、仕方がない。今更、ルーフさんに作ってくださいとは言えないし。
プッペお嬢様を椅子に座らせて、引っ張り出した片手鍋に水を入れてコンロにかける。何か、当たり前のことなのに、傍にプッペお嬢様がいるだけで、微妙に非日常な感じがする。いや、まあ、全然日常に戻ったとは思っていないんだけど。そうではなくて。
袋ラーメンを取り出して湯がいたあと、どんぶりにスープの粉を入れていると、プッペお嬢様が興味深そうにしていることに気が付いた。たぶん、お嬢様なだけあって、料理しているところなんて普段は見ないのだろう。そして申し訳ない。これは料理ではありません。
冷蔵庫からペットボトルを取り出して、コップにお茶を注ぐ。紅茶なんておしゃれなものは、この家にはないのである。お箸を見せてみたけど、良い反応が得られなかったので即座にフォークを渡すことにした。
いただきますと手を合わせて、プッペお嬢様と向かい合わせになってラーメンを食べる。こんな子にラーメンを食べさせるとか、悪いことをしているような気分だ。まあ、でも、たまにはそういうものを食べてもいいと思う。
「おいしい?」
「んー、あのね、ふしぎな味がするのっ」
「そっかぁー」
不味くて食べられないというわけではなさそうだから、まあ、ひとまずは安心だ。
プッペお嬢様の向こう側に視線を投げると、ちょうどデスクの椅子に腰掛けたルーフさんが見える。どうやら、ヒューノットと何か話しているらしい。会話の内容までは聞き取れない。
ラーメンを食べ進めながら、どうしたものかと考えてみるけど、結論なんか出るはずもなかった。
まあ、何にしても、腹が減っては戦は出来ぬというわけで、食べられるうちに食べておくしかない。
「ねえ、プッペちゃんはツェーレくんとかレーツェルさんとか、知ってるかな?」
だめもとで話を振ってみた。
「んーん! けど、お星さまの子にツェーレっているよ」
意外な返答が返ってきた。
どういうことだろう。
小首を傾げると、プッペお嬢様は笑みを浮かべた。
「おはなしにね、ツェーレって子が出てくるんだよ」
「あー、そういうことかぁ。どうして、お星様の子なの?」
「お空から来たからだよっ」
お話か。何だろう。御伽噺とか、寝物語とか。そういうものだろうか。
いずれにしても、それはあんまり、実際のツェーレくんとは関係なさそうだ。
いや、ないのかどうか。言い切るにも、自信はないけど。
「それじゃあ……理想の王様っていうのは、聞いたことある?」
「おうさま?」
プッペお嬢様は少し目を丸くした。
そして、考えるような仕草をする。
「ツェーレは、お星さまの子だから、お空の王さまになるんだよ」
おっと。何だろう。いきなり、近付いたような気がする。お空の王様というのが、ちょっとよくわからないけど。
でも、全く無関係と言い切るには難しい領域になって来た。
「お空の王様になったら、どうなるの?」
「えっとねー、王さまは一番えらいの。だから、悪いひとを追い出すんだよ」
「そうなんだ。その悪いひとって?」
「悪いナイトさんと、魔女さんだよっ」
それで、めでたしめでたしという感じなのだろうか。
言葉を交わしている間にもプッペお嬢様は、袋ラーメン一人前を食べ切ってくれた。意外だ。更には、食後の野菜ジュースも気に入ってくれたようで、本当に何より。
ごちそうさまをして、席を立つ。食器を洗いながら、とっくに日が落ちた空を窓越しに眺めてみるけど、暗くてよく見えない。ただ、何らか騒動があるというわけでもなさそうだ。外は、いつも通りに静かでしかない。
「……」
悪いナイトさん。
まさかとは思うけど、まあ、うん。違うだろう。
そもそも、プッペお嬢様が知っている話ならルーフさんも知っているだろうし、そういう繋がりがあるなら言ってくれそうな気がする。いや、どうだろう。余計なことは言わないかもしれない。どっちも有り得る。うーん。そういうのが一番困る。どっちかにして欲しい。
「ヒューノットじゃないよね?」
聞いちゃった。
「ヒューノットは、悪くないよ?」
きょとんとされてしまった。
まあ、うん。そうだよね。もし、悪いナイトだったら、そもそも関わってないか。いくらルーフさんがヒューノットの昔なじみだとはいえ、プッペお嬢様に危険が及ぶなら、きちんと守りそうなものだし。あー、でも、どうだろう。何だよ、もう。ルーフさんが未知数すぎて推測も出来ない。
「けど、つまんないの」
「そうだよねぇ」
今は緊急事態だからか。比較的きちんと会話が成り立っているけど、基本的には沈黙か無視だもの。そりゃ、プッペお嬢様からすれば、つまらないの一言だろう。ていうか、ヒューノットお前こんな小さな子にまでそんな対応なのか。普通に見損なうぞ。
プッペお嬢様を促して部屋に戻ると、ヒューノットは窓際に立っていた。外を眺めているようだけど、日が落ちた今では変化はあまりはっきりとしない。
部屋の右側へと視線を走らせたところで、椅子に座っていたルーフさんがベッドに傍らにいることに気が付いた。遅れて、シュリが起き上がっていると知って、一瞬ビクッとしてしまう。
「――……無様を晒してしまったね」
仮面越しの表情は、わからない。ただ、掠れた声だけが落ちた。




