37.ノイズ
視界を覆っていた黒い布は、激しく降り続けていたガラスの音がなくなった数秒後に動いた。
衣擦れの音を立てて布が引き上げられたことで視界が明るくなる中、向こう側へと視線を投げる。
すると、ちょうど、レーツェルさんがツェーレくんの顔を覗き込んでいるところだった。
――いや、そうじゃない。頭の位置は、もっと深い。顔は、更に近い。まるで、口付けているかのような距離だ。ツェーレくんの四肢は力なく投げ出されたまま、全く動きがない。
レーツェルさんの長い金髪が無造作に落ちて床に触れている。彼女の身体を真下から包み込むようにして上がっている炎は、その肌を焼くこともなければ布を焦がすことすらない。揺らめきながら立ち昇る炎は、大きくなっていくばかりだ。
それは、たったひと瞬き。時間にすれば、数秒にも満たない一瞬のこと。
あまりの光景に呆然としていると、両肩に手が置かれて一気に引っ張り起こされた。荒々しさに驚く間もない。今度は腕を引っ張られ、半ば強引に立たされる。その直後にヒューノットを見上げると、被っていたフードを乱雑な仕草で取り払うところだった。彼がガラスのシャワーから身を守ることが出来たのは、分厚い外套のおかげだったようだ。
少しでも足を動かせば、散乱した無数のガラス片を踏んでしまう。靴裏で無機質な音を立てて割れた破片は、もうすっかり粉々だ。
一度は静寂を取り戻したホール内に、再び咆哮が響き渡る。それは方々から幾度も繰り返され、どんどん重なっていく。視線を走らせば、その咆哮の主は燃え盛るヒトガタ達だと知れた。
頭部が割れたモノも、四肢を失ってのたうち回るしかない頭部も、崩れ落ちた体勢のままで動けないモノも、どのような形であれ、例え裂けていたとしても口が残っているモノ達は、すべてがすべて、狂ったように獣じみた声を上げている。
ヒトガタから発生して燃え盛る炎は勢いを増すばかりで、ヒトガタ達の表層を焼き落とし始めていた。くすんだ灰や燃えカスが散り、色鮮やかなガラス片の中へと紛れ込んでいく。
責め立てられているような気分になる。激しい、怒りの咆哮だ。
ヒューノットとシュリが蹴散らしたヒトガタ達は、正常な形を保ったモノはいない。しかし、動けないままに激しく暴れている。赤黒い火の粉が散れば、まるで血液が散っている様子に錯覚してしまう。
「――シュリュッセル!」
獣達の荒々しい鳴き声の中で、まるで噛み付くような怒鳴り声が響き渡る。
ハッとして視線を走らせた。けれど、周囲にシュリの姿はない。ついさっきまで、レーツェルさんの傍にいたのに。あちらこちらで立ち上がっている火柱の中にも、姿は見えない。ホールのどこを見回しても、シュリの姿は当たらなかった。一面、大量のガラスが散らばり、火達磨になったヒトガタ達が転がっていて、挙句の果てにはこの大音量の咆哮だ。見渡しても見回しても、シュリの姿が見えなくて意味もなく焦ってしまう。
あちらこちらで上がる声は、濁っているようで鋭いようで、まるで全身を包むかのようにホール中に響き渡っている。
「おい、聞くな」
今度は、ヒューノットの低い声が落ちて来る。見上げると、大きな手に再び両肩を掴まれた。力加減がめちゃくちゃで、指先が食い込んで痛い。その表情は、いつも通りに不機嫌そうだ。でも、それだけじゃない。焦っている。
「耳を塞いでいろ」
言葉を放つと同時に手が離された。
言われた通りに両手で耳を塞いでみたけど、少しマシになるといった程度で聞こえて来る咆哮は途切れない。
こんな音、ずっと聞いていたら気が狂いそうだ。
ヒューノットはレーツェルさんにもツェーレくんにも興味はないかのようで、ひたすらに視線を巡らせてシュリを探している。しかし、どこにもいない。倒れているわけでもなければ、火柱のどれかに飲み込まれた様子でもなさそうだ。たった一瞬の出来事だった。何が起きたのかなんて、全く分からない。
「ヒューノット……」
名前を小さく呼ぶと、舌打ちを返された。ヒューノットが、苛立っているのではなくて焦っている。こんな様子は、今まで見たことがない。シュリがそう言ったからなのか、それとも違う理由なのか。とにかく私の傍を離れることもできなくて、どうすればいいのか分からない様子だ。私も同じ状態だ。いや、ヒューノットよりも、もっと混乱している。どうすればいい。私は、何をすればいいのか。選択肢が提示されなくて、何ができるのかも分からない。
数秒後、ホール内に哄笑が散り始めた。
狂ったように笑い始めたのはレーツェルさんだ。動かなくなってしまったツェーレくんの傍らに膝を付いた状態で、彼女は天井を見上げる姿勢で笑っている。
「残念でしたわね、ヒューノット。ねえ? とても、とてもとても、そう。とても、残念なことでしてよ。お気の毒様。うふふふ、あはははっ、ねえ、そうでしょう? ヒューノット。可哀想に、ああ、本当に惨めで哀れな方々ですわ。無防備な害意の内側で永遠に救いを求めて彷徨い続けるのでしょう? ヒューノット。そうするしかありませんもの。番人の傍らで犬のように侍っていれば、他の方法などありませんわね。そうでしょうね。ねえ、ヒューノット。気まぐれで無責任な傍観者の手に、救いなどありはしませんわ。傍観者に如何程の価値もない事を、あなたは知っているはずでしてよ。慙愧に耐えないでしょうね。あなたは知っていて、それなのに悉く再演するばかりの操り人形に甘んじて――――あははっ、あはっ、あははははっ、良い気味ですわ!」
笑う彼女は、本当に壊れているように見えた。
レーツェルさんは私達に背を向けたまま、ツェーレくんの傍から離れようとはしない。
幾度も幾度も、ヒューノットに投げかけられた言葉は、やはり会話を求める為のものではなさそうだ。ただひたすらに、自分の中にある感情を放っているだけ。そもそもとして、会話を成立させようという気など彼女には最初からない。
「俺は――」
ヒューノットが口を開いた。
「――お前とは違う」
低い声で紡がれた言葉が、滑るように落ちていく。
レーツェルさんとは対照的に、感情を腹の底に押し込めて堪えているかのようだ。
ふと、彼がシュリに怒鳴りつけていた場面を思い出した。ルーフさんの、一件があった時だ。シュリがエラーだと言い放った出来事。あの時、ヒューノットは確かに嘆いていて、ルーフさんの件に関しては明らかにシュリを責めていた。その時は単純に、ルーフさんのことを繰り返さなければならない現実を嫌がってのものだと思っていたけど。
不意に手首を握られた。あっ、と声を出す間に引っ張られる。駆け出したヒューノットに引き摺られる形で、完全に割れてしまったステンドグラスの方へと走っていく。廊下に繋がっている部分にもガラスの破片が散らばっている様子が見えた。
「あははっ、あはっ、あはははッ……――――いいえ、等しくてよ」
崩壊した咆哮の中、背後から聞こえたのはその言葉だけだった。
振り返ることは出来ないまま、ヒューノットに引っ張られて足を動かす。フェルトの森で走り回った時と似ているけど、あの時よりも更に強引だ。足が縺れそうになる。
廊下は、ホールと繋がっている部分に少しガラス片が飛び散っていたことを除けば、特にこれといった異変も見当たらない。
背後から響き渡る咆哮も、長い廊下を駆け抜けていくにつれて遠くなる。追いかけて来る気配はなかった。
突然の疾走で息はすぐに上がる。普段の動きを思えば、多少は合わせてくれているのかもしれないけど、ヒューノットの速度についていけない。
「ヒッ、ヒューノットっ、ちょっ、待っ、待って、どこに……っ」
どこにいくの。
そんな短い問い掛けすら、乱れた息の合間ではきちんと言葉にならない。
長い廊下はこれといった異変もなく、ただ真っ直ぐに続いている。走るうち、次第に見えてきたのは、噴水のある場所へと繋がる長方形の入り口だ。そのあたりも、これといって異常な様子は見受けられない。
「――シュリュッセルだ」
「えっ?」
「あいつを探す。いや、探してくれ。此処からは出ていない。必ず、いるはずだ」
ヒューノットの声が終わるかどうかのところで、廊下を通り抜けて中庭の部屋に入り込む。
そこには誰もいなかった。噴水の水音が響いているだけで、ホールの騒音とは全くの別世界。誰の姿も見えていない。誰の声も聞こえていない。しかし、ヒューノットは私の手を離すなり、シュリの名前を呼んだ。しかし誰からの返事もないと分かれば、すぐに私の方へと振り返った。
「――此処にいるはずなんだ。探してくれ」
「で、でも、誰も……」
中庭には、誰もいない。いや、だって、返事がない。
確かに、相手が隠れようと思って身を潜めていたら分からないかもしれないけど。シュリがそんなことをする意味なんてないだろう。私がまごついていると、苛立った様子のヒューノットは花壇を避けて奥へと駆けていってしまった。彼が背の高い木の向こう側に行ってしまうと、その姿が見えなくなる。しかし、すぐに噴水の向こう側にちらりと姿が見えた。
そうだ。こんな場所。隠れようとする意図がなければ、探して分からないはずがない。
ツェーレくんのような小さな子なら、その気がなくても花壇や木の裏に隠れてしまうかもしれないけど。
「――……」
ツェーレくんで思い出した。噴水だ。
慌てて駆け寄ってみたけど、そこにあるのは白い噴水と水だけ。特に変わった様子もない。
ほどなくして、中庭を一周して来たヒューノットが戻って来た。
「ね、ねえ、もしかして、他の場所にいるんじゃ……」
別の場所を探そうと提案しかけた時、背後で何かが水に落下した。
小さい、何か。
慌てて振り返ると、噴水の底に敷き詰められた石と何かが擦れるような音がしている。少し重たそうな何かの音。流れる水の中に、ジャラジャラと異音が混じっているようだ。
恐る恐る噴水を覗き込んでみたけど、そこには何もなかった。
「何だ」
苛立った様子のヒューノットが声を掛けてくる。
彼が苛々しているのは、基本的にいつものことではあった。
でも、今は普段よりも割り増しだ。シュリが心配なのだろう。確かに、この状況下では私だって心配だ。私に何かが出来るかどうかは、棚上げしておくしかないけど。
「えっと、……何か、音がするの。けど、何もなくて――」
正直に白状しながら振り返ると、ヒューノットはひどい顔をしていた。
シンプルに苛立っている顔もただ怒っている顔も見たことがあったけど、そのどちらとも違う。
眉間に皺を寄せながら感情を堪えている。その中には、明らかな焦りが見えた。さっきまでよりも、ずっとわかりやすい。
ひどく余裕のなさそうなヒューノットの表情に、一瞬ぎょっとしてしまう。
「だ、大丈夫だよ。シュリって、ほら、なんやかんやで強いし……」
ヒューノットのあまりの様子に、思わず宥めようとしてしまった。
だって、シュリはヒューノットとそれなりには対等に渡り合えているように見えた。ヒトガタ達に対しても、決して劣勢ではなかった、と思う。むしろ、許可を得る前のヒューノットの方が、ずっとボロボロだったくらいだ。体力的な差があるようで、シュリの方が先に息切れはしていたけど。
「……違う」
「な、何が……?」
「あいつは、俺ともお前とも違う――あいつだけは、戻れない。だから、……探してくれ。頼む、見つけてくれ」
まるで懇願のような声を向けられて、私は途方に暮れた。
だって、私にはその為の有効な手段がない。どうすればいいのかなんて、ヒューノットが分からないのなら、私なんてもっと分からない。むしろ、知恵を借りたい。助けて欲しいくらいだ。シュリの居場所なんて、推測することさえ出来ない。ヒューノットに出来ないことで、私に出来ることなんて、何があるというのだろう。
無意識のうちに後ずさると、噴水の縁にお尻が当たった。正確には、ポケットに入れたままになっているスマホにぶつかって硬い音を立てた。噴水。音。ツェーレくん。ふと思い当たることがあって、スマホを取り出してみる。ヒューノットは少し怪訝そうにはしたけど、何を言うでもなかった。
カメラモードを起動させながら、噴水に向き直る。しかし、カメラを翳して覗き込んでみても、画面にはツェーレくんの姿なんて映り込まない。あの時に聞いた音と、よく似ているように思ったのに違ったようだ。こうなると、やっぱりヒントはない。
そう思いながら、ゆっくりとスマホを下げたとき、思わず息を飲んだ。
「――……ヒューノット」
カメラ越しの画面を見せようと、少しだけ腕を横にずらした。
噴水の中で、水に揺らされて異質な音を立てているモノの正体。水底で無造作に広がった鎖の先には銀の鳥篭が繋がっていて、その中には矢の貫通した心臓が転がっている。
ヒューノットはすぐに噴水を直接覗き込んだ。私も斜め後ろから視線を落とす。しかし、そこには何もなかった。
「どういうことだ」
「わ、わかんない……」
ここに映し出されている光景が、過去のことなのか未来のことなのか。それとも、繰り返された出来事なのか。あるいは、起こるはずだった、または起こってしまった話なのか。生憎と、私には検討もつかない。それこそ、シュリに解説してもらわないと、理解の糸口さえ曖昧だ。その肝心のシュリがいない今は、もはやお手上げに近い。現状でわかっていることは、噴水の中に転がっているモノがシュリのモノだということだけだ。どう見たって、間違いようがない。
顔を上げたヒューノットは「見せろ」と言うなり、私の手からスマホを奪い取った。
画面越しには、確かにそこにある。少し高くなってしまった画面を眺めながら、このあたりかと思う位置に手を伸ばしてみる。すると、カメラ越しに私の手が画面の中に映り込んだ。
あれ。映り込んだ?
「……ヒューノット、ちょっと傾けて」
「あ?」
「いいから、もう少しこっちに向けて。あ、そうじゃなくて、噴水を映したままで、私に画面だけ傾けながら見せて」
「……」
「いや、そうじゃなくって、画面はこっちに向けて……に、睨まないでよ……見えるようにしてくれたらいいからさ……」
指示を重ねるごとにヒューノットの目つきが鋭くなって来た。
いや、いやいや。怖くない。怖いけど、別に殴って来るわけでもないし。大丈夫だ。と、思いたい。ヒューノット、もともと目つきが悪いし。とにかく、今はこちらだ。
怪訝そうにしているヒューノットにスマホを委ねて、画面を見ながら再び噴水に手を伸ばした。
あれが過去とか未来とかパラレルワールドとか、どういう場面を映しているのかは分からないけど、でも、今こうしている私の手が入り込むのなら、チャンスはあるかもしれない。荒唐無稽な話だ。でも、今は僅かな可能性にでも賭けてみるより他にない。
ヒューノットが差し出してくれているスマホの画面を覗き込みながら、少しずつ両手を水に差し入れた。
冷たい水が指の隙間を抜けていく。探り探りに手首まで濡らして指先を動かした。すると、何かが引っ掛かったような感触が伝わる。目視では、そこには何もない。でも、画面の方では鎖に繋がれた銀の鳥篭に指が触れていた。
「……」
一瞬ばかりちらりと、何かが起きたら嫌だな、とは思ったけど。
かぶりを振ってから目を閉じて、ひと呼吸。それから、一思いに水から引き上げた。ジャラリ、と。濡れた鎖が足元に水を落としていく。恐る恐る瞼を持ち上げていくと、私の手には確かに銀の鳥篭があった。その中には、心臓を模したオブジェも入っている。驚いた様子のヒューノットが私の手元を覗き込んだ時だ。
ふっと、まるで照明が落とされたかのように周囲が暗くなる。この場所を覆う天井はガラス張りなのに、一体何がどうなったのかと。思う暇さえもなかった。
「――ッ!」
弾かれたように天井を見上げた瞬間、ガラスを突き破った何かが落下して来た。降り注ぐガラスの雨は、まるでさっきの繰り返し。まるでスローモーションのように、ゆっくりと視界の状況が進む。身体は強張って動かない。瞬きの一瞬さえ、ひどく長い。そう感じていたというのに、ヒューノットの腕が緩やかなスピードを加速させた。
強い力で引き寄せられた瞬間、見上げていた落下物の速度が唐突に上がる。一気に迫って来たと思ったひと瞬きのあと、ヒューノットは私を抱えて壁際へと駆け寄った。あまりにも一瞬の出来事。いや、そんな表現では追いつかないくらいにあっという間だった。ガラス片と共に、落下地点にあった噴水を縁取っていた白い石が飛び散っていく。ちょうど、石像の真上に落下したらしい金色の何かは、噴出した水を浴びながらうずくまっている。飛び散ったガラスの音。砕けた石が転がる音に、激しい水の音が重なる。身を強張らせていた私は、ヒューノットの身体越しに視線を向けることしかできない。もし、あのままさっきの場所にいたら、今頃は絶対に無事ではなかったはずだ。
少し距離のある出入り口の方にまで、拳大の石が転がっている。あれを見る限り、落下に巻き込まれていたら、怪我なんてレベルでは済まなかっただろう。
「……なに、あれ……」
お礼を言おうと思ってヒューノットを見上げたとき、蝙蝠のような羽が目に飛び込んで来た。片方は縮んでいて、もう片方は広がり切っている。金色の鬣のようなものが見えている。身体はライオンのようだ。けれど、その背中には、銀色の棘のようにも見える大きな突起物が規則的に並んでいて、それは太い尻尾の方にも続いている。まるで、恐竜の尻尾だ。まるで、ライオンの身体に羽と尻尾だけが付け加えられたかのようにも見える。ただ、ライオンのサイズではなくて、象に近いというか。異様に大きい。
私を庇うようにして屈み込んでいたヒューノットが、ゆっくりと肩越しに背後を振り返った。天井からパラパラと散る小さな残骸が、高く噴き上がった水によって弾かれていく中、彼は何も言わずに金色の落下物を見つめている。
「――馬鹿な」
低い声を漏らしたヒューノットは、急に立ち上がるなり、私を抱えた状態のままで駆け出した。
今度は噴水の方には近付かず、壁沿いに走って廊下へと飛び出していく。さっき走って来たばかりの廊下を、ステンドグラスがあったホールへと逆戻りだ。片腕でヒューノットに掴まったまま、空いた手で濡れたままになっている銀の鳥篭を胸に寄せるようにして握る。
「ヒューノット! どういうことなの、わかるのっ?」
問いかけても、返事はない。
「ヒューノットってば!」
再び声を上げると、ヒューノットは舌打ちを返した。
そして、廊下を半ばまで進んだところで急に立ち止まって私を降ろしてくる。
「あれは化け物だ」
「そ、それはわかるけど」
「此処にはいない筈の、化け物が来た」
廊下には異変がない。
中庭とホール。ふたつの異常に挟まれて、それでも廊下には変な部分など見当たらない。
ヒューノットは周囲を見回したあとで再び私を見た。彼の深い青色の双眸は、いつも多くは語らない。
胸騒ぎがする。明らかな異変が起きているんだ。ここではなくて、この場所全体に。
「本来であれば、入り込めない異物が混入している」
「……つまり……?」
「境界が乱れているということだ」
周囲は静まり返っていて、ホールの方からも中庭の方からも誰かが来る様子はない。そういえば、あのいくつも重なって響いていた咆哮さえなくなっていた。
境界が乱れている。
ヒューノットの言葉を頭の中で繰り返す。つまり、それはつまり。ふと思い出したのは、レーツェルさんがシュリに言った言葉だ。翼を抱いた鍵の番人。星を引き留める為の門番。災厄を飲み込んだ世界の案内人。境界の守り人――そうだ。境界の。
思い至った瞬間、ぞわりと肌が震えた。
「シュリに何かあったのっ?」
「……その可能性が高い」
歯噛みするように沈黙してから低い声を放ったヒューノットは、言い終わった直後に駆け出した。
廊下を真っ直ぐに、ホールへと向かっていく。私の手を引いていた時とは全く違って、物凄いスピードだ。まず、踏み出す歩幅からして全く違う。
「ヒューノット!」
慌てて名前を呼んだけど、彼が振り返ることはなかった。
呼んだ直後、私も追いかける形で駆け出すけど、ヒューノットはあっという間にホールの方へと姿を消してしまう。
一直線に伸びる廊下を走りながら、背後を振り返る。中庭の化け物が来るのではないかと思ったけど、やっぱり何もない。もし、今何かが来てしまったら、私では太刀打ちができない。
鎖に下げられた銀の鳥篭。心臓に突き刺さった矢。それが何を意味するのかは分からない。ただ、私はそれを握り締めたままで走ることしか出来なかった。
廊下にまで飛び散ったガラス片が見えてくる。ステンドグラスの破片だ。ホールの中に飛び込む頃には完全に息切れしていた。膝に手をついて、背を丸めながら呼吸を繰り返す。もう無理、声なんて出せない。
バクバクと激しく脈打つ鼓動を感じながら顔を持ち上げると、ホールの中央あたりにヒューノットの姿が見えた。黒い外套を翻して、襲い掛かってきていたヒトガタを蹴り倒した彼はこちらを振り返ることもなく、ヒトガタとは違う人物に向かって駆け出していく。
息を整える暇もなく、彼の後を追う。群がるヒトガタ達は、私には気が付いてもいないようだ。いや、そもそも眼中にないのかもしれない。ある程度まで距離を詰めたところで、ヒューノットと対峙している人物が誰なのか気が付いた。
「――……っ」
傍らに寄ってくるヒトガタなんて、まるで木の葉のように散らしたヒューノットが殴りかかったのはツェーレくんだ。思わず、息を飲んでしまう。短かった金の髪は長くなっていて、レーツェルさんに近い。ヒューノットの鋭い拳の一撃を、腕で受け止めていなしている。ツェーレくんの身体が纏うのは、赤黒く染まった炎だ。腕は指先から黒く染まっていて、炭化しているかのようにも見える。けど、そうではない。腕どころか脚も背も腰も、炎の中に溶けているようだ。輪郭が滲んで曖昧になっていて、黒いモヤと同化しつつあったルーフさんを連想させる。違うのは、頭部と手がまだ人の姿を保っていることくらいだ。炎に包まれているというよりは、彼の身体が炎になっていくかのような。
「――美しいでしょう?」
「ひっ」
背後から急に声を掛けられて悲鳴を上げてしまった。
飛び退いてから後ろを振り返ると、そこにはレーツェルさんが立っていた。喪服のような黒いワンピースが、ゆらゆらと炎の中で揺れている。熱は、全く感じない。
レーツェルさんは、私を見てはいなかった。
その瞳は、真っ直ぐに――ツェーレくんを見つめている。
「星の成れの果て。燃え尽きた星の子が地上に降りて、うふふ、ねえ、素敵だと思いませんこと? うふふ、ふふふ、ねえ、なんて美しいのでしょう」
うっとりと彼を見つめている瞳に、理性的なものなんて感じられない。笑わない瞳よりも薄く持ち上がった口角が形作る笑みは、異様な威圧感を私に与えるばかりだ。彼女が美しいと言い放ったツェーレくんの姿に視線を転じる。あれの、一体どこが美しいというのか。光を透かしていた金色の髪はくすんでしまい、白皙の肌は赤黒い火の黒い部分と同じ色になっている。ヒューノットと互角に渡り合えるほどに動きは鋭いけれど、その表情はどこか虚ろだ。
レーツェルさんに視線を向け直す。でも、やはり目は合わない。
「――ねえ、傍観者。あの子は、正統なる星の後継者ですわ。あの子だけが、この地上に落ちた星を救うことができましてよ。星の後継者にして救世主ですの。私の弟は、特別でしてよ。誰にも成せなかった事を、あの子だけが行なえますもの。空の寵愛を受けるべき存在ではありませんか。だというのに――」
ツェーレくんとは対照的な、青い瞳が向けられる。
いや、視線だけは向けられているというのに、まるで私を見ていない瞳だ。
喉奥が熱くなる。唾ひとつ飲み込めないままの私は、知らず知らずのうちに息を忘れていた。はっと飲み込んだ空気は、冷たいようで熱くもあった。感覚が、分からなくなってしまう。
「――裏切りの報いでしてよ。仕方ありませんわ。あの子が、余計な事をあなたから受け取ってしまったから。あの子は、理想の王様でしたのに。あの子が番人を庇うせいですわ。あなたが、あの子を奪うから。番人が、あの子を奪う所為。私とツェーレを引き裂いて、それなのに。ねえ、何もかも、あなた方が――」
「……シュリはどこなの」
レーツェルさんの言葉に被せて、声を出した。
これ以上は、聞いていられない。
レーツェルさんは、弟であるツェーレくんを統率者にしたかった。でも、彼が言うことを聞かなくなったから、星を詰め込んだ。そういうことだろう。星に侵されたルーフさんと、似たような形になりつつあることが、きっとその証拠だ。ゲルブさんは星を飲み込んだ時に巨大化して凶暴になったけど、姿自体に変化はなかった。あれは、たぶん、フェルト人形だからだろう。
「シュリは、どこ?」
沈黙して私を見つめるレーツェルさんに、もう一度問いかける声は震えていた。
笑みを引っ込めた彼女の顔は、まるで人形のようだ。整ってはいるけど、生き物らしくはない。妙に、精巧な人形のようで少し怖い。数秒ほど見つめ合う時間ができた。数歩の距離を詰める勇気はない。
やがて、レーツェルさんは薄く微笑んだ。それは、いっそ震えが走るほど優しく見えた。
「――安心してくださって構いませんわ、傍観者。番人がいらっしゃらなくても、直にお帰りいただけますから。あなたは、あなたの居場所へどうぞ」
「どういう……――――」
こと、なの。
そう聞こうとしたのに、言葉が途切れた。全身が震え上がるほどの激しい音が、天井付近から聞こえて来た所為だ。直後、大量の何かが落ちて来て反射的に両腕で頭を庇ったけど、少し離れた位置に落ちて来たのはフェルトの人形たちだ。天井を見上げると、巨大な黒い穴がぽっかりと口を開いていた。いいや、穴は穴だけど、その形は丸ではない。まるで、三本の鋭い爪で引き裂いたかのような形をしている。そして、引き裂かれたような穴から、フェルトの人形だけではなくて、木や家まで次から次へと落ちて来ていた。ひときわ大きなずんぐりむっくり人形には、覚えがある。グラオさんとゲルブさんだ。絨毯に落下した人形たちは、がやがやと大騒ぎをしている。よくよく見ると、フェルト人形たちは普通の人間くらいのサイズになっていた。つまり、もっと近付けば、あの兄弟も三日月の扉をくぐった時と同じサイズということか。グラオさんとゲルブさんは、自分たちも落ちて来たというのに、彼らを落ち着かせようとしているようだった。騒ぐ人形たちが一箇所に集まっていく。落下物は、途切れない。
続けて違う人形たちも落ちて来たけど、グラオさん達の後から落ちて来たそれは、本当にただの人形らしい。絨毯の上に転がっても、起き上がる気配はない。サイズも、掌に乗せられる程度だ。足元にも落ちて来たけど、やっぱり動かない。けど、その中にぬいぐるみが混ざっていると知ったとき、一段と大きく心臓が跳ねた。だってそれは、プッペお嬢様の部屋で見たものだ。
「――ま、待ってッ!」
大きな声を上げてしまったのは、ルーフさんとプッペお嬢様が落ちて来た時だった。
ルーフさんは、小さなプッペお嬢様をしっかりと抱き締めている。プッペお嬢様も、強くしがみついているようだ。急いで駆け出した私の背後で、レーツェルさんが笑ったような気がした。
必死に走るけど、だめだ。間に合わない。
いくら天井が高くても、私の脚がそこまで速くない。フェルト人形たちならまだしも、ルーフさんたちは落下の衝撃を緩めることなんて出来ないだろう。足がもつれてしまって転んでしまったその時、ゲルブさんが大きな身体でルーフさんとプッペお嬢様を受け止めてくれた。
「……はあ、良かった……」
完全に予想外だったけど、とにかく良かった。
ルーフさんは困った様子でゲルブさんにお礼を言っていて、プッペお嬢様は何が起きたのか分かっていない様子で戸惑っている。すると、遠くでドシンッと音がした。視線を転じれば、それが白い壁の一部であると知れる。ええ、そんなものまで。転んだ姿勢が恥ずかしくて立ち上がりながら天井を見上げると、ぽっかりと開いた穴は、まるでひとまず吐き出し終わったとばかりに排出を止めていた。ただ、壁の欠片だろうモノがパラパラと落ちて来ているだけだ。
そこでハッとして、慌ててヒューノットを探した。いくら広いとはいえ、たくさんのモノが溢れ返っているホールの中は大混雑だ。何十ものフェルト人形――いや、もう人間サイズだ。そんなフェルト人形たちがひしめいている上、フェルトの家や木なんてものまで転がっている。そちらもサイズは、到底ミニチュアなんて言えはしない。たくさんの小さなフェルト人形やぬいぐるみも足元に散乱している。フェルトの家などに押し潰された数体のヒトガタは、火を失って完全に動きを止めているようだ。後ろを振り返っても、レーツェルさんはいなかった。そんなことより、シュリだ。そして、ヒューノット。
その時、フェルト人形たちが口々にどよめいて天井を指差した。
「ヒューノット!」
薄れていく黒い爪痕から身を乗り出している人の姿――ヒューノットだ。思わず声を上げると、彼は踊るような身軽さで宙に体を投げ出した。天井は三階建てほどの高さはありそうだというのに、ヒューノットの着地は軽やかだ。
何がどうなったのかと、フェルト人形たちが一斉にバラバラと声を上げる。しかし、ヒューノットはそちらには何も答えずに私へと近付いて来た。その腕には、シュリが抱かれている。ぐったりと力が抜けているようで、意識はないらしい。
「ツェーレを見失った」
ヒューノットの声は淡々としている。
しかし、シュリを取り戻した為か。あの、妙な焦りは滲んでいなかった。
「レーツェルさんも、いなくなっちゃったよ」
言いにくいけど、仕方ない。
気がついたら、レーツェルさんの姿はなかったのだから。
私の言葉に頷きだけを返したヒューノットは、シュリを抱え直して天井を見上げた。
釣られて視線を持ち上げると、そこにはもう穴なんてなかった。あの爪痕のような穴は、何だったのだろう。
「シュリは? 大丈夫なの?」
横抱きにされたシュリに反応はない。
ヒューノットの顔を見遣ると、首を横に振られた。
一瞬、最悪の状況かと思ってしまったけど、シュリの唇が僅かに動いたおかげで"分からない"という返答なのだと気がついた。もう、紛らわしい。
すぐ近くにルーフさんがやって来ると、ヒューノットは少し眉を寄せた。機嫌が悪いようにも見えるけど、怪訝そうにも見える。
そのすぐ後には、プッペお嬢様が私に抱きついてきた。
「ヒューノットさん」
「……お前まで来ていたのか。状況は、相当悪いようだな」
「そのようです。シュリュッセルさんは……」
「……意識がない」
待て待て。私の時より、ルーフさんと会話している時の方が優しくないか。ヒューノット。
よしよしと頭を撫でると、プッペお嬢様は嬉しそうに擦り寄ってきた。可愛い。
「びっくりしたね、大丈夫だった?」
「すっごくびっくりしたーっ! けど、ルーフもいっしょだったからねっ、へーき!」
ぎゅーっと抱きついてくるプッペお嬢様は、やっぱり不安だったのかもしれない。
ひとまず、私からもぎゅっと抱き締めておいた。ハグって安心するし、ストレス軽減になるらしいしね。
フェルト人形たちはいつの間にか大人しくなっていて、遠巻きに私たちを眺めていた。
絨毯の上にシュリを寝かせたヒューノットは、傍らに膝を付いてルーフさんと話をしている。数回ほど頷きを返していたルーフさんは、最後にシュリの首筋に触れて何かを確認してから立ち上がると、こちらに近付いて来た。プッペお嬢様の肩を軽くとんとんと叩いて知らせてあげると、彼女はすぐに顔を上げてルーフさんに抱っこを求めていく。ルーフさんがヒューノットと話をするまで待っているなんて、いじらしい。
その光景自体は微笑ましいけど、守る対象があちらこちらにあって何だか不安だ。ルーフさんは、非戦闘員っぽいし。
「かれらが、かぎのひとによくないことをしたのだね」
グラオさんが声を掛けてきた。
見上げると、やっぱりすごく大きい。
ええー、もともとこのサイズなの。そうじゃないよね。だって、だいじんって言ってたもんね。
「たぶん……」
私の答えは曖昧だ。
何がどうなっているのか。私だって、満足に理解していないのだから説明なんて出来ない。
「――おい。戦力になる者はいるか」
ヒューノットが会話に割って入って来た。
珍しいと思う暇もない。そんな、フェルト人形たちに戦うなんてことが、出来るようには思えない。
さすがにグラオさんも、即答は出来なかったようだ。
「境界が乱れている。お前達が此処に落とされた意味が、分からない訳ではないだろう。境界の守り人があのザマだ。いずれ、崩壊する。その前に――」
ぐらり、と。
足元が揺れたような気がした。
フェルト人形たちも、それぞれにざわついていく。
目を瞬かせてヒューノットを見ると、苛立った様子で舌打ちをされた。
「――――クソ。手遅れだ」
ヒューノットの声が響いた直後、大きな揺れと共に床がなくなった。




