表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
傍観者 < プレイヤー >  作者: YoShiKa
■むっつめ 選択■

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/77

36.アンサンブル


















「――黙れ」





 レーツェルさんに向かって声を投げたのは、ヒューノットだった。

 怒りの滲む低い声。

 背を向けられている今、その表情は窺えない。しかし、相当怒っているであろうことは眺めているだけでも分かった。

 その一方で、裏切り者呼ばわりを受けた当人であるシュリは、特に何を言うでもない。今はただ、沈黙だけを返している。


「あら。何か、間違いでもありまして?」


 レーツェルさんは、大袈裟に肩を竦めてみせた。

 一見すると優しげにも見える微笑を浮かべてはいるが、やはりその目は笑っていない。

 私は、あのチクハグな感じがどうにも苦手だ。

 肩を下ろした彼女は、ゆったりとした動作で両腕を広げてみせた。


「――間違ってなどいないでしょう? シュリュッセル・フリューゲル。翼を抱いた鍵の番人。星を引き留める為の門番。災厄を飲み込んだ世界の案内人。境界の守り人。あなたをどのように呼んだところで、本質に変わりなどありませんわ。幾ら言葉で飾り立てても、あなたは貴婦人には決してなれませんもの。あなたの本性は、醜くおぞましい化け物ですわ」


 整った顔立ちがじわじわと怒りに歪む。

 荒々しいほどの嫌悪感。湧き上がる苛立ち。滲む出す怒り。

 まるで積年の恨みが募ったかのように、彼女はただシュリを睨みつけている。

 私達の前に立っているヒューノットのことも、シュリの傍らに立つ私のことも、視界に入ってはいても意識には入れていないかのようだ。


「……いい加減にしろ。黙れ」


 再び、ヒューノットの低い声が落ちた。

 そして、やっぱりシュリは何も言わない。

 ユーベルの時もそうだった気がする。シュリは罵倒に等しい言葉を前にして、否定も肯定もしない。

 もしかして、反論の余地がないのだろうか。認めてしまっているのだろうか。

 私は問いかけさえ投げられないまま、その横顔を見上げていることしかできない。


「あら。あなたは、いつも庇いますのね。よほど、鍵の番人が大切だとお見受けしますわ。……けれど、少し考えれば分かる事でしてよ。この世界を閉じ込めたのは、一体、どこの、誰なのか。境界の鍵を隠したのは、誰なのか。――ねえ、ヒューノット。あなたもそう、とても苦しいでしょう? あなたは、私と同じ。大切な人を失い続けていて、胸が張り裂けそうで、それなのに叫ぶ声ひとつ持ち合わせてはいない。……何か、違って?」


 ホールには、レーツェルさんだけの声が響く。まるで演説のようだ。

 外野の声など、彼女には届かない。彼女はただ、自分の言葉を放つことにだけ熱心になっている。

 話に聞き入れば飲まれてしまいそうなほど、レーツェルさんの独壇場になっているように思えた。

 対してシュリは沈黙、ヒューノットは苛立ちを返す。

 それでも、レーツェルさんは聞く耳など持ってはいないようだ。

 そもそも会話をする気などないのだろう。

 辛うじてヒューノットに言葉は向けているものの、それ自体も会話が成り立っているとは言い難い。

 そんなことを思っている間に、レーツェルさんの視線が私に転じられた。思わず肩が跳ね上がる。


「――ねえ。どうかお聞きになって、傍観者。そして、よくごらんになって。苦痛の終焉を繰り返すばかりの私達に、救いというものがあるだなんて、本当にお思いでして? この世界からあまねく終幕を奪い取り、永遠を作り出した事がすべての始まり。元凶は、――シュリュッセル・フリューゲル。あなたに他なりませんわ」


 シュリの腕が微かに動いた。

 だけど、その腕は守るように、制するように、私の方へと伸びただけに過ぎない。

 返す言葉はなく、応じる声もない。

 仮面越しに視線を向けたまま、その口許は引き結ばれている。

 それはまるで、まるで、何かに耐えているかのようにも見えた。


「ああ、ああっ、なんておぞましい。ああ、なんて浅ましい。ああっ、なんて愚かしい。この世界を、私達を、"救う"ですって? ――勘違いも甚だしい。理を壊したのは、あなたではありませんか。刻むべき時を失って、彷徨う事しか出来ない世界の、鍵まで飲み込んだ。……さぞ、愉快だった事でしょう。私達の不幸を、嘆きを、痛みを、あなたはただ静かに眺めているだけ――まるで、高みの見物ですわ。本当に……良い、ご身分ですこと」


 レーツェルさんの言葉は続く。

 彼女は延々と、ただシュリを責めるばかりだ。

 そして、シュリはその言葉を静かに受け止めるばかりで何も反論を返そうとはしない。

 吐き捨てるような調子で言葉を放ったレーツェルさんは、ヒューノットにも視線を向けた。

 きっと、ヒューノットの方も睨むように見つめ返していることだろう。


「――シュリ……」


 周囲に沈黙が落ちたとき、無意識のうちに名前を口にした。

 呼んだ、というわけでもない。どうすれば良いのかわからなくなって、つい、だ。気持ちとしては、迷子の子どもに近い。

 幼稚な部分が前に出て、申し訳なさと情けなさが胸に広がる。

 声から少し遅れて視線を持ち上げると、シュリは声ではなくて視線の方に反応を示して顔を向けて来た。


「……そうだね」


 シュリは緩やかに頷きを返してから、レーツェルさんに顔を向け直した。

 その横顔からは、感情なんて読み取れない。

 しかし、どこか平静を装おうとしているように思えた。

 本当は溢れ出る感情があるのに、それを押し込めようとしている。そんな気がした。

 

「彼女の言う通りさ」

「シュリュッセル!」


 シュリが肯定の言葉を口にした瞬間、ヒューノットが声を上げた。

 咎めるような怒鳴り声に、私の方が身を竦めてしまう。


「――いいんだよ、ヒューノット」


 シュリは穏やかに首を振った。その声は、とても落ち着いている。


「世界の滅亡を受け入れなかった私は、理を軽視した愚か者に他ならない。私は世界に、君達に、苦痛と絶望を強いている。やり直す為だけにね。それでいて繰り返し続けた選択の果てに、新たな未来が生まれては死んでいく。生まれた未来がふさわしいとは限らない所為だ。そこに希望が宿っているのか否かさえ、定かではない。幾度も招いた選択の導き手が、幾度も放棄しては立ち去っていく。失敗だったと詰られるのなら、そうだね。まさしく、私の"選択"は失敗に傾いていたのだろう」


 シュリの声が落ちていく。

 ゆったりと、静かに、ただ空間に満ちる。

 威圧的に場を支配していた、レーツェルさんの声とは少し違う。

 まるで歌うように、物語を紡ぐように、願いを捧げるように、シュリの声が響く。

 私がただそう感じるだけかもしれなくて、本当はとても冷淡に響いているのかもしれない。

 それでも、私にとって、シュリの声は耳に心地良かった。


「だから、私はいかなる言葉も甘んじて受け入れよう。言葉に付随する、どのような感情も。それが、代償だからね」


 今度はレーツェルさんの腕がぴくりと動いた。

 いや、揺れたという方が正しい。刺激を受けて耐え切れなくなったかのようだ。

 ずっと浮かべられていた笑顔が僅かに強張って見える。

 彼女は苛立ったのだろう。きっと、そうだ。彼女はずっと、シュリを攻撃している。

 責め立てて詰って、罵倒しているに等しい。

 それなのにシュリはそれを嫌がるどころか、受け入れると言い放ったのだ。

 ヒューノットは、背を向けたまま振り返らない。きっと、レーツェルさんを警戒しているのだろう。彼はずっと、シュリを守っている。


「……」


 そうだ。

 ヒューノットは、ずっとシュリを守っているんだ。

 私は、そのついでというか、まあ、そんなところだろう。

 ヒトガタ達に突進していた彼が、急に戻ってきた意味が見えた気がする。

 その理由までは、まだわからないけど。

 とにかく――シュリは、選択の導き手として傍観者を呼んでいる。そして、それを少なくともレーツェルさんはヒューノットと同じように認識しているということはわかった。ヒューノットが認識しているのは、意味がわかる。でも、レーツェルさんはどうしてだろう。

 ゆっくりと、シュリが腕を下ろした。

 私を庇うように、あるいは制するようにしていた腕が離れていく。

 そのまま歩き出したシュリは、ヒューノットの傍らに立ち、更に前へと踏み出した。

 ヒューノットが苛立ちを含んで名前を呼ぶ。

 しかし、シュリは大丈夫だと言わんばかりに、右腕を軽く持ち上げただけだった。

 私だけがヒューノットの背に守られたまま、シュリはとうとうレーツェルさんの数歩手前まで歩み寄っていく。腕を伸ばせば届くかもしれない。そんな距離で、やっとその足は止まる。


「――悪いね、レーツェル。私は後悔などしていないんだ。何度繰り返しても、幾度やり直す事になったとしてもね。私は、終焉を静観している事すら出来ない愚か者だから。無数に枝分かれした可能性の先に僅かでも存続の未来があるのなら、枝先に溢れた果実の全てを落としてでも、唯一を手に入れるつもりさ。その為に契約を交わしたのだからね。ここで、諦める訳にはいかない。辿り着くまで、幾度でも――――」


「――――幾度でも、私たちを引き裂くおつもり?」


 シュリの声に被せて、レーツェルさんが言葉を放った。

 彼女は、もう笑ってはいない。見せ掛けの笑顔すら放棄していた。

 表情の見えないシュリと対峙している彼女は、底知れない怒りを湛えているように見える。


「私たちが、その未来を望みまして? 私が、彼女が、あの子が、我々が、あなたに、そのように望んだとお思いで? それだけの力があなたに、それほどの権限があなたに、あると思っていらっしゃるのかしら? ――なんて、……なんて、傲慢なの」


 レーツェルさんが一歩、シュリに近付いた。

 途端にヒューノットが飛び出しそうになる。

 しかし、寸前のところで耐えているようだ。

 引き裂かれる。レーツェルさんから、前に一度だけ聞いた言葉だ。レーツェルさんとツェーレくん。ふたりを引き裂くのかと。

 そんなことを言われたけど、あの時は全く意味が分からなかった。

 今も分からないことだらけだ。彼女。あの子。我々。それぞれが誰を示しているのか。


「……っ、くだらない。実にくだらない。本当に、くだらない。戯言ですわ。あなたの言葉など、その全てが単なる妄言ではありませんか。幾度も道化を繰り返して、ねえ、ごらんになって。その結果が――この、有様ですわ。挙句、私の忠告を、あなた方はただ踏み躙っただけ」


 ぞわりと、肌に妙な感覚を覚えた。


 全身に震えが走る。総毛立つような、異質な感覚が肌を舐めた。

 違和感の原因は、ホール一帯に飛び散った灰色のヒトガタ達。気が付いたときには、ヒューノットとシュリによって砕かれたそれらが、一気に燃え上がった。青白い火。そして、赤黒い炎。ぐらりと揺らめいた炎に合わせて、灰色の粉が飛び散っている。あちらこちらで立ち上がる火柱に、前に立つヒューノットとの距離を無意識のうちに詰めてしまった。

 忠告。ああ、そうだ。忠告。今更のように思い出して、背が震えた。

 初めてここに来たとき、ツェーレくんが言っていたのに。私は、またそれをスルーしていた。

 幼い子の、子どもの、単なる言い間違いだと思っていた。

 自分にとって、都合の良いように、思い込んでいたに過ぎない。

 レーツェルさんのたおやかな腕がシュリへと伸ばされる。

 その指先がシュリに届く前に、彼女の足元から青白い火が勢いよく立ち上がった。真下から風を受けるように金色の髪が揺れる中、シュリの髪や衣も風を受けたかのように揺らぐ。散っていく火の粉は熱そうに見えるのに、ふたりとも熱を受けた様子はない。

 しかし、レーツェルさんは次第に顔を歪め始めていた。シュリの胸倉を掴むようにして、――いいや、どこか縋るようにして、布地を握っている。どうして、と。声もなく、その唇が動く。


「――……シュリュッセル・フリューゲル。世界は、……ねえ、世界はどうなりましたか。シュリュッセル・フリューゲル。ほら、ごらんなさい。この世界は、ずっと、ずっと、ずっと……崩壊の一途を、繰り返しているだけに過ぎないではありませんか。そうでしょう? あの兄弟も、ずっと失い続けるばかりではありませんか。ああ、ヒューノット。ヒューノットも。あなたも、幾度、ねえ、幾度、友人を手に掛けましたか。穏やかな彼の喉を、掻き切った感触。ねえ、ねえ、覚えているのでしょう? 幾度、友人が幼子を殺める様子を見ましたか。ああ、……ああっ、まるで悪夢ですわ。悪夢。そう、紛いものの救済を受けた結果、この有様ですわ。あなたが、あなたさえ、その選択をしなければ!」


 あれほど演説じみた調子で響き渡っていたレーツェルさんの声は、今や嘆きに満ちていた。そして、次第に震えが止まらなくなっていく。泣いているかのように声が震えている。

 彼女の両手が、何度もシュリの胸元に叩き付けられる。黒い布地を引っ張り乱し、幾度も幾度も叩いた。

 その度に、シュリの身体は揺れてぐらついて、あまり強く叩き続けると倒れてしまいそうに見えるほどだ。

 ヒューノットが僅かに足を動かした。数秒もすれば飛び出そうな様子は、背中を眺めているだけでも分かる。


「お聞きなさい。……世界が、我々が、私たちが、必要としているのは無責任な傍観者による救済ではありません。正統なる星を受け継いだ統率者こそ、私たちの救いではありませんこと? ねえ、ねえ、そうでしょう? 災厄が星を落とし続ける限り、私たちに安寧など訪れるはずがないのに、それなのに――ッ!」


 レーツェルさんの片腕が離れた。

 宙を凪ぐようにして高く上がったその腕。青白い炎を纏った腕が、シュリに振り下ろされた。

 その、瞬間。


「あねうえ――もう、やめて」


 燃え盛る青く白い火と、赤黒く染まった火。重なる炎の熱と色合いに視界が揺らぐ中に、ツェーレくんの姿が見える。

 対峙しているレーツェルさんとシュリの向こう側に、ちょうどふたりの間に割り込もうとするように、彼は現われた。

 高く振り上げられた姉の細い手首を掴んだ彼は、眉を寄せながら首を振る。


「……もういい。いいよ。あねうえ、やめてください」


 激しい音を立てて高く立ち上がり火の粉を散らしていく炎。

 周囲で上がる炎にも、レーツェルさんの身体が纏う炎にも、彼は反応を示していない。

 下唇を噛み締めたレーツェルさんは、ぶるぶると震えながら拳を握り締めている。

 俯いてしまったその表情は窺えない。ほどなくして、強張って震える細い手指がシュリの黒衣からゆっくりと離れていく。

 力なく落ちた腕は、可哀想なくらいに震えている。それが悲しみによるものなのか、それとも怒りによるものなのか。

 纏う炎に肌を焼かれることもない。彼女の身体を揺らめかせている炎は何なのか。

 私には怒りの象徴のようにも、悲嘆の果てにも見える。赤黒い炎。そして青白い火。燃え盛るヒトガタ達は、その破片や欠片、崩れ落ちた四肢は、ぴくりとも動かない。


「優秀なナイト達を従えて、さぞかし気分が良い事でしょうね」


 不意に口を開いたレーツェルさんが、ツェーレくんの手を振り払う。

 その動きは、ひどく乱暴だ。

 俯いていた顔が、ゆるゆると持ち上がる。



「――しかし、それも終わりですわ」



 揺れて乱れた金髪。

 その隙間から覗く瞳は、ぞっとするほどに冷たかった。



「私から、ツェーレを奪うだなんて」




「あまりにも罪深いことですわ。傍観者――」




 パキン、と。

 何かが折れるような、割れるような、音がした。

 それと同時に、唐突に振り返ったヒューノットが私の頭に手を置いた。そして、ぐいっと力任せに押し込んで来る。

 前のめりになった私は、そのまま崩れ落ちるようにして床に膝をついた。打ち付けた膝が痛い。


 直後、高い音が周囲に響き渡る。

 視界の端でバラバラと散っていくのは、色とりどりのガラス。ステンドグラスの破片だ。

 ガラスの破片が、まるで雨のように頭上から降り注いでくる。それが、スローモーションのように見えた。床に両膝と両肘をついて蹲る形になった私の視界は、ほどなくして黒い布で遮られる。一瞬、シュリかと思った。けど、反射的にしがみついた時、あまりにも体格が良すぎると気が付いた。周囲に散乱したガラス片が、モノに当たり、そして更に砕けていく。そんな音だけが、耳に届いて来る。身を硬くした私を、まるで庇うように上から覆い被さっているのはヒューノットだ。その黒い外套を握り締めて、声も出せないままガラスの雨を受け止める。夥しい量のガラスが割れていて、まるで刃物が襲って来るような感覚だ。本当に豪雨の中にいるかのように、鋭い雫が叩き付けられていく。音が幾つも重なって、鼓膜を激しく震わせて来る。耳が痛い。まるで頭の中に直接響き渡るかのようだ。爆音が耳元で解き放たれているに等しい。頭が痛いほどの、騒音。





「――――……ッ!」





 悲鳴のような甲高い音が重なって鳴り響く。トタン屋根に打ち付ける大粒の雨のように、ガラス窓を叩く雹のように、硬質で、しかし脆いものが壊れていく音が何重にも響き渡る。

 ヒューノットの身体によって守られた空洞の中から、僅かに頭を持ち上げてシュリ達の方へと視線を投げた時――青白い火を全身に纏ったレーツェルさんが、見た目からは想像も出来ないほど激しい勢いでツェーレくんの頭を床に叩きつける瞬間が目に飛び込んで来た。喉から異質な音が出る。

 全身を激しく叩きつけられた衝撃で跳ね上がった彼の身体にも、色鮮やかなガラスの雨が降り注ぐ。



「ツェーレくん……ッ!」



 黒い外套とヒューノットの身体に遮られた視界は狭い。

 その狭い視界の中では、シュリの姿までは確認できなかった。

 何が起きたのかも分からない。レーツェルさんの、あの細腕にそんな力があるとは思えなかった。

 しかし、ツェーレくんはぴくりとも動かない。その肌に、ガラス片が突き刺さる様子は見ていられなかった。

 彼の傍らに屈み込んだレーツェルさんは、あの一瞬とはまるで別人だ。宝物を扱うかのように丁寧な仕草で、顔面から床に叩きつけられて伏せたままの身体を転がして上向かせた。

 レーツェルさんに遮られていて、ここからではツェーレくんの顔は見えない。

 けれど、力なく投げ出された四肢が、中途半端に開いて動かない手が、彼に意識がないことを知らせている。

 飛び散った細かなガラス片に赤い液体が混ざっている。




「さようなら。ツェーレ。私の愛しい子」







「次に会うときは、素敵な弟にしてあげますわ」













 七色に染まったガラスの雨が降り注ぐ中、彼女は何かを握り締めた手を持ち上げた。ほっそりとした、白い、華奢な腕。その腕が荒々しい仕草で振り下ろされる。


 何かが潰れる音がして、耐え切れずに顔を背けた。


 黒い外套が落ちて、視界の全てを覆う。









 響き渡ったのは、獣のような咆哮だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ