35.カウント
「ツェーレくん……」
彼の名前を紡ぐ声がひどく震えた。
自分で聞いていても、みっともないくらいだ。
情けないほどに余裕がない。
「ヤヨイ」
言い訳をする暇もなければ、事情を説明する余地もない。
ツェーレくんに名前を呼ばれると、途端に足を引いてしまった。
理由はわからない。いや、怖かったのだと思う。私は、反射的に逃げようとしてしまった。
ツェーレくんから、逃げようとしたんだ。
彼の声は、もう幼い頃の響きを宿してはいない。それなら、さっきの声は何だったのだろう。
一体、何が、私にそう伝えたのだろう。どれが今の話で、どれが過去の出来事なのか。曖昧になってしまう。
「どうして、戻って来てしまったのですか」
噴水から出る水音ばかりが響く中で、彼の声はとてもクリアに届く。
「どうして、連れて来てしまったのですか」
その言葉に、ハッとした。
見上げた先――シュリは、ただ静かにツェーレくんを見据えている。
仮面の裏に隠された表情は、やっぱり全く読めない。ただ、その口許は、笑ってはいなかった。
一拍分だけの間をを置いてから、ツェーレくんが近付いて来る。
歩み寄って来たというよりも、詰め寄って来たという方が近い。そんな印象だ。
しかし、彼は私達のすぐ脇を通り過ぎて、廊下へと続く入り口の方へと向かった。そして足を止めたと同時に、振り返る。
「……行って。行ってください。はやく――あねうえが気付く前に、ここから出てください」
振り返った彼は、ひと瞬きのうちに幼い姿になっていた。
驚いた次の瞬間には、背の高い青年の姿に戻っている。
ひと瞬き程度の、僅かな時間。一体、その瞬間に何が起きたというのか。どういうことなのかもわからないままで、私はシュリの隣から離れられない。
ツェーレくんは、どこか焦れたような様子ですらある。
早くここから出て欲しいのだろう。彼の表情に焦りの色が見え始めると、私まで気持ちが急いてくる。
しかし、シュリは違った。
「――君。ヒューノットを何処に隠したのかな?」
シュリの声は、あくまで落ち着いている。
予想だにしなかった問い掛けに、私は慌てて傍らを見上げた。
仮面をつけた顔は、ツェーレくんに向いたままだ。
怒っているようには見えない。責めている声にも聞こえはしなかった。
「隠していません」
対するツェーレくんの声には、僅かに緊張が滲んでいる。
焦燥感か。後ろめたいことを隠しているせいなのか。私には、わからない。
ただ、シュリは何かを感じ取ったらしく、「それは嘘だね」とすぐさま言い放った。
あまりにも決め付けたような言い方に、つい眉を寄せてしまう。しかし、シュリのことだ。考えあってのことだろう。
シュリが、ゆったりと緩やかに首を振る。そうすると、黒衣の上で細いチェーンが緩やかに揺れた。
鳥篭の中に入った心臓。矢が突き立てられたそれが、乾いた音を立てている。
「隠してなんて、いません」
「繰り返しても同じ事さ。君は、嘘を吐いている。姉君に強いられた訳でもない。それは、きっと君の独断によるものだ。君が君自身の行いを正す為に操っている言葉だろう。――ヤヨイを、守りたいが為に。間違っているかな?」
「……」
否定を繰り返したツェーレくんは、シュリの問いに沈黙を返した。
どういう話なのか。流れが読めないまま、ただふたりを眺めていることしかできない。
ヒューノットを隠すことで私が守られる。その流れも繋がりも、全く理解することができなかった。むしろ、ヒューノットがいないと私は丸腰同然だ。戦う術もないし、場合によってはここから出ることすらままならない。安全地帯であればまだしも、そういうわけでもないのだから、やはりヒューノットは必要だ。
そもそも、ツェーレくんがヒューノットに何か仕掛けるところすら想像もできない。
「ツェーレ。沈黙は雄弁なる肯定だ。君は君自身の為であれば、姉君が望まない結末を選択する子ではない事は、私でも知っているとも。かつての君であれば、姉君に追従していたはずだ」
「……」
「ヤヨイが君を変えた。違うかい?」
ツェーレくんが沈黙を貫く今、シュリの声だけが周囲に落ちる。その声は穏やかで、まるで諭すかのような響きだ。
朗々と台詞を口にしているときとは、また違う印象を抱かせる。
俯いてしまったツェーレくんは眉を寄せながら口許を歪めた。端正な顔に感情が滲む。
やがて彼は、胸元に手を上げ、シャツを乱して握り締めた。その手指は、ひどく震えている。
まるで、苦しさのあまりに胸を掻きむしっているかのようですらあった。
血も出ていないというのに、妙に痛々しさがある。
「――僕は、」
ゆっくりと声を出したツェーレくんの姿が、またひとつ瞬いた直後に変わっていた。
丸みを帯びた幼い頬のラインが、緩やかに落ちた髪に隠されていく。
眉間に皺を寄せながらシャツを握り込む手は、あまりにも小さくて頼りない。
今にも泣き出してしまいそうな様子に、こちらの胸が痛くなるような錯覚すら起こる。
小さな男の子をいじめているような気分だ。
椅子に座って静かに眠っていた人形と、何かを堪えて顔を歪ませている彼。今、こうして眺めていると、まったく似ていないようにも思えた。
「――――ぼく、は。……ヤヨイを、助けたいんだ。ヤヨイは、ぼくらの未来だから」
名前を呼ばれる度に鼓動が跳ね上がる。
だって、私はそんな大それたことをした覚えがない。
さっき見た過去の光景の中ですら、私は何も成し遂げていなかった。
彼らが求めてくる内容が、ひどく重い。
私は彼に、何をしたのだろう。そして、何をしなかったのだろう。私はあの子に、何をしてあげられたのだろう。
覚えてはいない、記憶の中にない光景の果てで、何が起きたのか。
私は、知りもしない。
それでも、ツェーレくんは言葉を続ける。
「ぼくらでは、見つけることさえできなかった先を、ヤヨイは開いてくれる。この世界に、――必要だ」
燃えるような赤い瞳が、熟れた林檎のような艶やかな瞳が、冷たく光る紅玉のような双眸が、瞼が持ち上がる間に少しずつ見えてくる。彼が視線を投げた先は、私ではなかった。その視線を追いかけてシュリを見上げた直後、今度はシュリの視線を追いかけて彼に目を向け直した。すると、ツェーレくんの姿は、再び青年のものに戻っていた。
線の細い儚げな青年の姿は、絵画の一場面であるかのようで現実味がない。
風すらないというのに、僅かに揺らぐ金の髪は触れると溶けて壊れてしまいそうな感じがした。
布を握り締めていた白い指先が離れていく。
ほっそりとした手が示すのは、ホールへと繋がる廊下だ。
「――失うわけには、いかないのです。僕も、あなたもそうでしょう。失えない。彼女も、あなたも、……僕らに、未来の可能性を示してくれる。これは僕のエゴです。あねうえの望みでは、ない。……これは僕からのお願いです。どうか、行ってください。僕らのために。どうか、忘れてください。僕らのために。お願いです」
身体を退かせて廊下へのルートを示した彼は、懸命に感情を堪えている様子だ。
私の知らない"私"が導く未来には、彼が繰り返したものとは違う可能性があるのだろうか。
彼は、それを望んでいるのだろうか。彼は、ツェーレくんは。
「……」
最初からそうだった。
彼は、逃げて欲しいと言っていた。ずっと、最初からだ。
知ればわかるから、だから逃げて欲しいのだと。その意味を、私が理解できなかっただけの話だ。
彼の望みは一貫している。少なくとも、私の前では矛盾を吐いてはいない。
私を、ここから逃したいのだと、彼は何度も繰り返している。
それでも、私は戻ってきた。
ヒューノットが見つからないからだ。
もしも、ツェーレくんが彼を隠しているのだとすれば、その理由を知りたかった。
物言いたげにしている私に気が付いたのだろう。ツェーレくんが、こちらを見遣る。
「……ヒューノットは、あちらに。彼は今も、あなたを守り続けています。彼の役目は戦うこと。剣であり、そして盾であること。彼は役割を果たし続けている。彼を連れて、行ってください。あねうえが、来る前に――――」
――ギシ、と。足元が軋むような音がした。
ハッとして視線を向けた直後、激しい風が周囲に吹き荒れる。真下から、そして真上から。轟々と鳴り響く暴風が全身を包んだ。それはまるで、嵐の中に放り込まれたかのようだ。自力で立っていることがやっと。いいや、その場に留まっているのかどうかも、わからない。逃げることもできなければ、隠れるだけの余裕さえなかった。足を踏み出すことさえ、ままならなかった。落下しているときとは、また違う。だが、激しすぎる風のせいで、まともに目を開いておくことすらできない。突然の事態に声を上げることさえできないまま。不意に足元がぐらりと揺れて、後ろに倒れ込んだ。
「――!」
すとんと尻餅をついた直後、まるで最初から何もなかったかのように風は消えて音も止んだ。
いつの間にか、無意識のうちに顔や頭あたりを庇っていた腕が、強張って動いてくれない。
お尻の下にある感触は、硬い石のものではなくて布のように少し柔らかい。
音は、しない。
人の気配すら、なかった。
シュリは、ツェーレくんは、どうなったのだろう。
静けさの中で目を閉じていると、おかしくなってしまいそうだ。不安と恐怖が、ぐるりと腹の底を巡る。
胸の奥では心臓が暴れ回っていた。その音が、耳の奥で、頭の中で、鳴り響いているかのようですらある。
「……シュリ? ツェーレくん……?」
何が起こったのか。
呼びかけても、返事はなかった。
大きな物音はしない。かといって、声も聞こえては来ない。
恐る恐る目を開くと、そこは噴水がある中庭ではなくて――ステンドグラスの欠片が飛び散ったホールだった。
「……うっ」
ホールの中央あたりでは、灰色のヒトガタ達が何かに群がっている。
時折、弾かれて飛び散っていくのは身体だけではなくて、腕や脚などのパーツだ。身体ごと引き倒されているのではなくて、取れてしまった四肢や指、何かよくわからない部位まで転がっている。
倒れ込む音。何かが当たる音。殴打音。折れるような音。荒々しい音が一気に鼓膜を刺激する。
まるで、唐突に大音量で映画の音を聞かされているかのようだ。倒れたヒトガタに目がいく。
それは人間のように血が出るわけでこそなかったが、人形だというにはあまりにも生々しい。
しかし、取れてしまった部位の断面は、まるで泥や土塊のようだ。灰色の砂のようなものが、ぼろぼろと散り、絨毯の上に転がっている。
「……ッ」
狂ったように一点へと集中するヒトガタ達は、まるでゴミに群がるハエのような、落ちた甘味に連なるアリのような、それこそ"たかっている"という言葉そのものを体現しているかのような有様だ。
ヒトガタ達の中央に、誰かがいると気が付いたのは、数十秒ほど眺めた後のことだった。
灰色の頭部が蠢き並ぶ中で、濃紫色をした髪がちらちらと覗く。灰色の中で唯一、黒一色の外套が翻った。傍らのヒトガタを払い除け、時には殴りつけ、何か棒のようなものを大きく振るってはいるが、あまりにも多勢に無勢。弾いても飛ばしても、十どころか、二十、いや三十でさえも数が足りないほどのヒトガタが彼に群がり続けている。弾かれて倒れたヒトガタのうち、パーツがバラバラになってしまっても動くことができる個体は、幾度も狂ったように人だかりを作り続けていく。
それは、異様な光景だった。
大量のヒトガタ達が、中央の人物を押し潰そうとしているかのようにも見える。
単純な腕力の差か。実際に痛々しい形相を晒しているのはヒトガタ達の方だが、ヒトガタの数が多すぎて集団による一方的な暴力であるかのように感じられてしまう。
「――……ヒューノット!」
四肢がバラバラに弾けて飛んで、ようやく動けなくなったヒトガタも胴体だけで、或いは頭部だけで暴れている。壊れたように激しく振動していて、気持ちが悪い。まるで断末魔を上げているかのように、大きく開かれた口は今にも裂けそうだ。
しかし――私が声を上げたその瞬間、ひとつの肉塊のようにヒューノットを飲み込もうとしているようにも見えたヒトガタ達の塊が静まる。すべてが動きを止めてしまい、中央にいたヒューノットだけが振り返った。
「……クソが」
低い声を漏らした彼は、固まったヒトガタ達を蹴り上げて散らしながら、こちらへと駆け寄ってくる。
途中、頭部を踏む瞬間すらあったけど、私は目が離せなかった。彼が手にしていた棒は、どうやらヒトガタの欠けた脚だったらしい。放り出されたそれが、乾いた音を立てて床に落ちて転がっていく。
ヒトガタ達は折り重なるようにして、ヒューノットがいた地点に向かって腕を伸ばした姿勢で固まっている。
床に倒れてしまったヒトガタも、片腕や片脚を失くしたヒトガタも、大体全てが同じような形だ。
ヒューノットが近付いて来るにつれ、短い濃紫の髪が乱れ、頬や額に細かな傷が出来上がっている様が見えた。
薄い裂傷が幾つも肌に走り、殴られたと思わしき部分が腫れ上がっている。唇の端も切れていた。額から垂れ落ちた血の痕跡が、こめかみから輪郭のラインを伝って残っている。黒い外套も裾が裂けてボロボロになっていて、大きな手の先にあった鋭く長い爪も折れて割れて、そして削れて、指によって長さが変わってしまっていた。
息は荒く、肩が激しく上下している。腕にも引っ掻かれた痕跡が無数に走っていて、爪痕が何度も重なった部分には血が滲み、更に深い傷になっているところは完全に皮膚が裂けてしまっていた。
「……っ」
私が息を飲むと、ヒューノットは鼻を鳴らして、ヒトガタ達を掻き分けていた腕を下ろした。
そうすれば、黒色の長い外套が降りて彼の身体の大半を覆い隠してしまう。
「ふん。漸く目を覚ましたか。まあ、いい。俺に命令しろ」
「えっ、な、なに、めいれい?」
言っていることの半分も頭に入らない。
ようやくというのは、何を示しているのか。まるで、私が気を失っていたかのようだ。
さっきからずっとそうだ。話がまとまらなくて気持ちが悪い。
「おい。指示を出せ。俺が戦う為の選択をしろ」
「せ、選択って言われても……」
「許可を与えろ。それだけでいい」
命令や指示や許可を求めているような人物の口調ではなかった。
ヒューノットは苛立ちを、全く隠そうとはしていない。
「――早くしろ。時間がない」
外套を翻して背を向けたヒューノットは、やっぱり説明なんてしてくれそうにもなかった。しかし、確かにそうだ。迷ったり疑問を口にしたり、彼を疑ったりするような余裕なんてなさそうだ。まるで一時停止状態だったヒトガタ達の顔がこちらを向いている。ぞわりと、肌が粟立った。下手なホラーよりも、断然怖い。
満身創痍に見えたヒューノットの息は、既に落ち着いている。私の方が、うまく酸素を吸えていない有様だ。
一呼吸。そのあとに、ヒトガタ達が一斉に動き出す。狙いはヒューノットなのか、それとも私か。蠢き、進路を奪い合い、身体が欠けようとも落ちようとも構わずに突き進むヒトガタ達は、確かに生き物には思えない。
「――た、」
声が裏返った。
許可を与えようにも、何と言えばいいのかわからない。
「――戦って、ヒューノット!」
単純な言葉だけが口から飛び出していく。
それと殆ど同時にヒューノットは駆け出した。床を蹴って、絨毯の前を真っ直ぐに走っていく。大きく振るった腕が、最も近くにいたヒトガタの首あたりにぶつかった。首が不自然に折り曲がったヒトガタは、頭部の重みに耐え切れなかったように崩れ落ちていく。倒れ込んで来た胴体を押し遣って、次に迫って来ていたヒトガタにぶつけて押し倒したヒューノットは、重なったふたつの身体を踏みつけて高く跳び上がった。三体目は空中からのひと蹴りで弾かれ、一体目と同じように頭部が転がって動けなくなる。それは、息を飲む間の出来事だ。数秒程度で、四体目まで辿り着く。ヒューノットは、着地間際に五体目の頭部に腕を叩き落とした。背後から迫った別の二体を脚で薙ぎ払う。
膝を曲げて着地したあとは低い体勢を保ったままで、群がるヒトガタの数体の脚を払う。膝から下が崩れたモノ、脚自体が欠けてしまったモノ。弾かれたヒトガタ同士がぶつかって、灰色の土塊が飛ぶ。細かな塵が光の中で舞い散った。
ヒューノットの動きは、まるで流れるかのようだ。
さっきまでの、ただ振り払うばかりに見えていた動きとはまるで違う。
あの一言で何が変わったのかは全くわからないけど、傍観者の声は彼に何らかの影響を与えるのだろう。
「――ひっ!?」
ヒューノットを見ていたせいで、気がつかなかった。
急に足首を掴まれ、慌てて見下ろした先には上半身だけになったヒトガタがいた。
首の後ろあたりが抉られていて、頭部を持ち上げることすらできていない。それでも、そのヒトガタは私の足首を捉えて離そうとはしなかった。焦って振り払うと、脆くなっていたらしい五指が飛ぶ。もう嫌だ。生き物だろうが、そうではなかろうが、人の形をしたものがどんどん壊れていくところなんて、好んで見たいはずがない。
指がなくなったおかげで解放されたけど、せいぜい後ずさることしかできなかった。何か。せめて、武器になるようなものはないか。周囲を見回したとき、背後から迫ってきたヒトガタが見えた。
「――ヤヨイ」
横から伸ばされた腕に腰を抱かれて、ぐいっと強い力で引き寄せられる。
直後には、ついさっきまですぐそこに迫っていたはずのヒトガタが足元に崩れ落ちていた。
「シュリ!」
一瞬すぎてわけがわからなかったけど、とにかくシュリが助けてくれたらしい。
けど、腰の手は早く外して欲しい。恥ずかしい。
シュリは私の腰に片腕を回したまま、剣を横薙ぎに振るう。飛び散った灰色の土と倒れ込んだ音で、私の死角にいたらしいヒトガタが払われたのだと知る。
「――シュリュッセル! 馬鹿がッ。何故、お前が……ッ!」
ヒトガタ達を薙ぎ倒しながらこっちを見たヒューノットが、怒鳴るような声を上げた。
苛立ちが増したらしい彼の一撃によって弾かれた一体のヒトガタが、背後にいた数体を巻き込んで転倒した挙句、足蹴にされて部位を踏み潰される。少し目を離している間に、ヒューノットの周囲には灰色に染まった土の山が出来つつあった。
「君には必要だろう?」
ヒューノットの怒号程度にシュリは怯まない。
それどころか、当然のような響きで言葉を返して剣を放り投げる。
真上に放られた剣は一瞬でその姿を消し、次の瞬間にはヒューノットの手元へと渡っていた。
「――ふざけやがって!」
剣を握り締めたヒューノットは、手前にいたヒトガタの頭部を掴んで床に叩きつけた後で駆け戻って来る。
群がっているヒトガタを引き連れて来るものだから、私は思わず身を強張らせてしまった。ヒューノットが何をそんなに苛々しているのかはわからないけど、とにかく、シュリの登場によって苛立ちが増したらしいことだけはわかる。振り向きざまに数体のヒトガタに剣を叩きつけたヒューノットの背後で灰色の塊が崩れ落ちていく。数拍の後に、彼はこちらを睨んで来た。
ヒューノットが数歩手前まで戻ってきたとき、シュリが片足を軸にしてくるりと向きを変えた。ふたりが背中合わせに、私はシュリの傍らに立つ形だ。
腰に回された細腕に触れてみたけど、やっぱり離してもらえない。
「ヒューノット。あまり、ヤヨイから離れないで欲しいな」
「黙れ。その話はもう済んだはずだ」
ふたりがそれぞれにヒトガタを振り払い、薙ぎ倒し、足元に伏せさせていく。
私の位置からはヒューノットの動きは見えないけど、さっきまでの様子を考えれば鬼に金棒。剣を持てば、更に強そうな気がした。そもそも、ヒューノットの身体能力自体は凄まじい。あまり、きちんと戦っている場面というものは見ていないけど。大体の場合において、彼と誰かの戦闘シーンは一方通行だ。
シュリの方は、私を抱えている所為で片腕しか自由が利かないというのに、あっさりと腕を振るっては襲い掛かって来たヒトガタを払い除けていく。視線を向けると、どこから取り出した太い杖のようなものを握っていた。使い方としては鈍器だ。私を片腕に抱いて庇ったままでは、戦いにくいだろうに余裕そうにしている。
「――お前こそ、俺から離れるな。何があっても知らんぞ」
「それは、また。とても熱烈な言葉だね。照れてしまうよ」
「ほざいてろ……!」
雑談のような調子で言葉を交わす余裕綽々なふたりの間で、私は恐々と身を縮めるばかりだ。
いや、ヒューノットの方は怒鳴りつけていて、全然全くこれっぽちも余裕は感じられない。
シュリの方は、本気なのか冗談なのかもわからない。
襲い来るヒトガタ達は、もはやふたりになされるがままに壊れていくだけになりつつあった。
飛び散った灰色の砂が降りかかり、ふたりの黒い衣を汚していく。
「――ヤヨイ」
ぐいっと更に引き寄せられて、ちょっとびっくりした。
直後には、シュリが耳元に顔を寄せてくる。髪が乱れて、くすぐったい。あと、恥ずかしい。
「君も、ヒューノットから離れないように。彼と私を比較するならば、彼の傍にいる方が安全だからね。何かが起きた時は、私よりも彼の方に行くこと。いいね?」
「は、はい……」
気持ちとしては、ヒューノットよりもシュリの傍にいたいけれど。
でも、そういう言い方をするということは、それがシュリの判断だということだろう。ヒューノットは特に何も言っては来ない。否定もしないのだから、まあ、たぶん、合っているんだと思う。
シュリの細腕が振るう杖が空気を裂き、迫って来たヒトガタへと鋭い一撃を叩き込む。どこから出て来るんだ、その力。
気がつけば、あれだけ溢れ返っていたはずのヒトガタ達も、動いているのはほんの一握りだ。
大半が床に伏せていて、その殆どが既に痙攣すらしていない。僅かに動いている個体も、立ち上がることはできないほどに欠損している。随分とヒトガタの数が減ってきたからだろう。シュリがゆっくりと腕を離してくれた。私も、シュリの腕から手を離す。
「――しかし、まったく。数が多いね」
私の傍らに留まったまま、シュリは更に杖を振る。
放つ声の調子はあまり変わらない。しかし、その呼吸は僅かに上がっているようだ。
ヒューノットを見れば、腕に走っていた傷などは既に薄くなっている。ポーションいらず。自然治癒というべきなのか。よくわからないけど、怪我が治っているようで良かった。
「ああ。だが、……数だけだ。デキは悪い」
「そうだね。うん、木偶ばかりで良かったよ」
少しずつ、シュリの動きが鈍くなっている。ような、気がした。
それは、あくまでヒューノットと比較すれば、の話だ。ヒューノットは全く疲れているようには見えない。
言葉を交わした直後、シュリは太い杖を放り投げた。黒い衣から伸びた手がゆったりと落ちる。木製のように見える白い杖は横向きに回転して、ついでのようにヒトガタの頭部にぶつかったあと、ヒューノットの手に収まった。まるで、ちょっとした芸だ。何せ、彼は杖の方を見てもいなかった。息が合うというべきか、ヒューノットがすごいのか。
「シュリ、大丈夫?」
ヒューノットに任せたのだろう。
そう判断して問い掛けると、シュリは口許で薄く笑った。
「大丈夫さ。ただ、それほど得意ではなくてね。ここは専門家に任せることにしよう」
なるほど。確かにシュリは案内人で、ヒューノットと比べれば戦闘は専門外だろう。
声を向けられたヒューノットは、やはり特に何か言葉を返すようなことはしない。剣と杖、それぞれを振り回してヒトガタを払い除けていく。
シュリが私の傍から離れないのは、何かあったときの為だろうとわかる。けど、ヒューノットはさっきと違って、こちらから離れようとはしない。いや、違う。シュリから離れようとしていないんだ。苛立ちながら駆け戻ってきた瞬間からずっとだ。自分からヒトガタの方には突っ込まず、あくまで寄って来るまで待って攻撃を仕掛けている。
足元に転がった頭部だけが蠢いた瞬間、ヒューノットは何の躊躇もなく思い切り踏み潰した。
欠けた四肢は動かないけど、頭部はもげても身体は動いているし、頭部自体も震えて動いている。ただ、頭部を失った場合は二度目の一撃で動かなくなっているようだ。
あまりにも呆気なく、そして当然のように倒されていくものだから、見ているだけの私の方も感覚が麻痺してしまいそうになる。
そもそも、ヒトガタは生きているわけではなさそうだし、あまり感情的にならない方が正しいのかもしれないけど。
それにしても、ヒューノットには躊躇いというものが全く見られない。
「――――!」
最後まで立っていたヒトガタを蹴り倒して杖を頭部に叩き落したあと、ヒューノットが急に顔を上げて振り返った。
杖はその場に取り残したまま、体勢を戻すと同時に駆け戻って来る。剣は握り締めたままだ。そして、私とシュリの前に滑り込むようにして立つ。その背を眺めていた数秒後、ハッとしてシュリを見上げる。すると、シュリも何かに気がついた様子でヒューノットの肩越しに遠くを眺めているようだった。
パキ、と。
乾いた何かが割れる音がして、背後に視線を向ける。
「忠告は致しましたわ」
声が聞こえてきて、ぞわりと肌が震える。
慌てて前に顔を向け直すと、そこにはレーツェルさんが立っていた。
まるでお手本のような柔らかい金色を湛えた髪が揺れる。おっとりとした穏やかさを漂わせていた碧眼は笑ってなどいない。足元まで覆い隠す長袖の、光沢のない黒色のロングワンピースは相変わらずだ。
「祈りも望みも、等しく無価値なものに成り下がったこの世界には、もう――――あなたは必要ではありませんわ」
「シュリュッセル・フリューゲル――この、裏切り者」
春色を思わせる淡く色付いた唇から、腹の底に響くような冷たい声が漏れ出た。




