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傍観者 < プレイヤー >  作者: YoShiKa
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34.リフレイン











 身体の周囲を荒い風が通り抜けていく。

 吹き荒れる風の轟音は、鼓膜にとってもなかなか不愉快だ。

 私達は、広々としたホールの天井付近へと飛び出したらしい。正面には巨大なステンドグラスが見えている。

 ふわりと、身体を包む浮遊感。不安定な足元の感覚には慣れられなくて、ついシュリにしがみついてしまった。


「――――あっ」


 風の音が唐突に止まり、まるで風船のようにゆっくりと降りていく途中、ホールを覆う薄青の壁が剥き出しになっている事に気が付いた。壁が崩れているわけではない。あの、人の形をした"何か"達が、床に下りている所為だ。

 声を上げたから、だろう。シュリが私に視線を向けて来た、ような気がする。仮面でわかりにくいけど。


「おかしいところでもあったのかい?」

「あれが、……前は、壁にあったから……」


 人の形をしている灰色のそれらを、どう呼べば良いのか。

 ふわふわと高度を下げていくにつれて、少しずつ迫ってくるヒトガタ達の姿はとても生々しい。相変わらず、まるで生身の人間がいるかのように見えてしまう。

 ヒトガタ達は壁に並んでいた身体が剥がれ落ちてしまったかのように幾体も折り重なっていて、腕や脚など身体の一部しか見えていないようなモノもある。まるで、不要になったから捨てたような、そんな印象だ。マネキンのようにも見えないこともないけど、やっぱり人間のような精巧さがあって気持ちが悪かった。

 この夥しい量のヒトガタ自体も、それが山を成している光景も、まず滅多に見られるものではない。そもそも、見たいものですらない。さすがに見たことはないけど、まるで死体が積み上げられているみたいだ。

 静かに降り立った床に敷かれている絨毯は、やっぱり色褪せた赤色をしている。

 やっと自力で立ったけど、まだ全身に浮遊感が残っていて嫌な感じだ。特に足元なんて、すごくふわふわしていて落ち着かない。


「……」


 落ち着かない理由は、他にもある。

 あまりにも、静かだ。しんと静まり返っていて、まるで元々ここには人がいないかのようだ。

 確かにこのホールに見合うだけの人数が住んでいるわけではないけど、それにしても静か過ぎるような気がする。降りて来た瞬間を除いて風の音はおろか、小鳥の囀りひとつ聞こえては来ない。ステンドグラスに色付けられた光だけが、ただ淡々と差し込んで床を照らし出している。

 色褪せた絨毯や打ち捨てられたかのようなヒトガタ達の姿も相俟って、まるで廃墟のようにも見えてしまう。

 ステンドグラスが割れていないということは、まだ"アレ"は起きていない。はず、だ。そう思いたい。


「さあ、行こうか」


 私の脚が感覚を取り戻した頃、シュリはゆったりとした動作で歩き出した。二歩ほど進んで振り返ると、シュリは私を待ってくれる。ヒューノットのように置いて行かなくて、ツェーレくんのようにずっと先に行って待っているわけでもない。仮面越しの表情は分かりにくいけど、傍にいてくれるという意味では一番近い。


「うん。でも、どこに?」


 どこに行けば、ヒューノットに会えるのだろう。

 いや、ヒューノットだけではない。ツェーレくんも、レーツェルさんも、だ。

 ズボンの後ろポケットに入れたスマホを布越しに触って確かめてから、ひとまずシュリの隣まで行く。


「――悪いね、ヤヨイ。今の私では、到底"案内人"を名乗る事は出来ない。此処から先は、全てが未知でね。新たに生まれたルートとその結果を確認する為に行くようなものだ。無論、彼を見つける事が優先事項ではあるけれどね。とにかく、この場所に関しては明確な答えを用意する事が出来ない。そして正直に言うと、繰り返した事のない未来は久し振りでね。だから、どうか――この先は、案内人のシュリュッセル・フリューゲルではなく、せいぜい仮面をつけた猫がうろついていると思ってくれないかい」


 そんな無茶な。

 ていうか、そもそも仮面をつけた猫ってなんだよ。


「……まあ、うん。シュリにも知らないことがある、ってことで……」


 要約すると、そういうことだろう。

 とにかく、今はヒューノットを見つけることが先決だ。

 彼が自分の判断で離れたのなら、まあ、ルーフさんの時もそうだったから全く有り得ない話でもない。ただ、そうではない場合が厄介だ。そんなことがあるのかはわからないけど、シュリの言うことを鵜呑みにするのなら――というか、するしかないんだけど――今まで起きたことのない状況になっている。それなら、前例のないことが起きる可能性は幾らでもある。

 巨大なステンドグラスの下をくぐって廊下に出た。


 その時だ。

 まるで廊下の床を踏んだことを合図にしたかのように、何かが割れるような音がけたたましく響き渡った。


「――ッ!」


 振り返ったと同時にシュリの腕に抱き寄せられて距離が詰まる。

 半ば、しがみつくようにして身を寄せた。

 バラバラと散っているのは、ガラスだった。

 赤。青。黄。緑。紫。単色だけではなくて、グラデーションを描いている破片も散らばっていく。弾けたように空中へと散った破片たちの動きが、奇妙なまでに遅く見えた。息をひとつ飲む間に、落下速度が本来の時間に追いついて耳障りな激しい音を立てながら絨毯の上に破片が降り注ぐ。落ちた破片のうち、大きなものは跳ね上がって更にバラバラになってしまう。差し込む光の量が一気に増えて、途端に目が痛いほどになった。瞬く間にホール中に飛び散った破片が虚しい音を立てて転がる。

 目を細めたとき、シュリの手に目元を覆われた。


「――見なくて良い。……さあ、行こう。ヤヨイ。進むしかない」


 落ちて来たシュリの声は落ち着いている。

 ただ、いつものような、淡々と朗読しているだけといった調子はない。まるで、搾り出すかのような声だった。

 目隠しをされたまま、くるりと向きを変えさせられた。身体を寄せ合うように距離を詰めたまま、数秒ほど廊下を進んだところで、視界が解放される。しかし、肩を抱く手は離れない。

 ホールを振り返る勇気は、なかった。

 背後では、何かがまだ音を立てているようだ。広いホールを満たした音は反響を繰り返していて、なかなか落ち着いてはくれない。

 シュリを見上げても、仮面で表情はわからない。ただ、前を見据えている。廊下を進む足取りに迷いなどあるはずもない。何せ、ここは一本道。中庭のような、あの部屋に通じる以外には何もない。


「知りたいかい? それなら、説明をしておこうか」


 不意にそんな言葉を投げかけられて、私は受け取り損ねた気分になった。

 確かに知りたいことは山ほどある。でも、それらすべてを受け止められるかどうかは、また別の話だ。

 しかし、シュリを見上げる私の表情が、何かを知りたがっているように見えたのかもしれない。実際、私はあのホールの出来事が気になっていた。ただ、返事だけができない。


「――この世界がバッドエンドを繰り返している事は、分かっているね?」

「なんとなく……」

「同じ事が、この場所でも起きているのさ」

「それって……」


 それは。

 つまり。

 ツェーレくんの言っていた、あの言葉が示していた真実だろうか。

 長い廊下の先を見つめて、ほんの少しだけ喉を鳴らした。喉を下る水分は僅かで、何の慰めにもならない。


「――そう。ツェーレは、此処で死んでしまうのさ」


 シュリの言葉に、背筋がぞくりと震えた。

 それじゃ、あの時、私がホールで見た光景がそれだということだろうか。


 ――僕は、ここからは出られない。あなたの傍に、在り続けることはできないのです。あねうえが、そのようには望まないから――


 ツェーレくんの声が、あの言葉が、頭の中に響き渡って蘇る。

 外で光る何かを拾っていたあの子が、駆け回るようにして案内してくれたあの子が。

 彼が、本を返せない理由。

 まるで、喉が詰まってしまったかのように息苦しい。気道を落ちる空気が冷たくて、そして苦く感じられる。


「ツェーレは決して、この場所から、祈りの丘から出る事は出来ない。彼は繰り返している。幼い頃から長じて、姉の手に掛かるまで。その僅かな時間を、永遠のように繰り返しているのさ。彼らはふたりでひとつ。片方を失えば、片方も無事ではいられない。ツェーレの死はレーツェルに崩壊を与え、やがて彼らの世界は途切れて終わる。パターンが違うだけで結果は同じ。それが、今までの結末さ」

「――どうしてレーツェルさんがッ!」


 気が付いたら、声を荒げていた。

 シュリの黒衣を掴んで、足を止めると同時に引っ張ってしまう。

 どうして。どうして、レーツェルさんがツェーレくんを死なせなければならないのだろう。ツェーレくんはあんなにも、お姉ちゃんが大好きなのに。彼はあんなにも、慕っているというのに。

 猫を模した仮面の向こう側にある表情はわからない。

 ただシュリは、私を見つめ返すばかりだ。手を振り払おうともしない。


「……彼女は、統率者を作り上げようとしたんだよ。この世界が世界を救う手立てを生み出せないと知った時、彼女は摂理を曲げる事さえ厭わずに地上で唯一星に触れる事が出来る弟を使って、世界を救う事の出来る存在を作り出そうとしたのさ。それはさながら、神の行いだよ。神を作り出す事が出来るのは神。彼女は理想を作り上げ、この世界に安寧を齎そうとした。――しかし、結果は弟を喪っただけに過ぎない。彼女は星に祈りを捧げる事は出来たが、星に触れる事など出来なかったからね。星の後継者が失われた事で、器は不完全なものに成り果ててしまったという訳さ」


 無意識のうちに、黒衣を掴む手指に力が入った。

 レーツェルさんはツェーレくんを王様に――統率者にしようとした。完全になる為に、器を使おうとしたんだ。そこには祈りの星と魂を溶かし込む筈だった。でも、統率者になれる筈のツェーレくんこそが、星を注ぎ込める唯一の存在。作り手も器の役も、ツェーレくんにしかできなかった。そう言ってしまえば、簡単だ。最初から成り立つはずがない。けれど、レーツェルさんはそれをやり遂げようとした。弟を、ツェーレくんを、守りたいが為に。

 あんまりだ。

 これでは、あんまりすぎる。

 ツェーレくんは死ぬ為だけに生きて、繰り返し続けているというのか。そんなの、ひどすぎる。

 言葉が出なくて何も言えない私は、ただ、黒衣を握り締めた。


「……レーツェルが"統率者"を生み出そうとしたのは、星を落とした大罪人を裁く為でもあり、世界を元に戻す為でもあり、祈りによって繋ぎ止めていた全てを守る為でもあった。彼女は守りたかったのさ。……最初はね」


 シュリの言葉が、どこまで正しいのかはわからない。

 確かにレーツェルさんはツェーレくんを守りたいと言っていた。

 でも、私には守る方法の為としてツェーレくんを犠牲にする選択肢なんて、掲げたところで選べないとしか思えない。彼女はどうして決断する事が出来たのか。ツェーレくんを守りたいのに、ツェーレくんを道具にするような形で、どうやって救うというのか。

 どうして。

 どうして。

 どうして、ツェーレくんは彼女に殺されないといけないのか。

 ツェーレくんは、まるで分かっているようだった。殺される為だけに生きているようだ。

 私のエゴかもしれないけど。でも、あんまりだ。そんなの。どうして。ツェーレくんが。


「――ヤヨイ」


 黒衣を掴んで震えているだけの手に、シュリの細い指先が重なった。

 ふっと思考が途切れる。顔を持ち上げると目が合ったような気がした。


「大丈夫だよ、ヤヨイ。君は新たなルートを作り出した。それはつまり、未来が広がったという事さ。今までのリプレイではなく、新たな可能性が開けたという事だ。別のパターンが生まれたのなら彼を救う方法も、未来の為の道筋も出て来るかもしれない。……さあ、その為にもヒューノットを見つけ出そう」


 ゆるゆると、手から力が抜ける。

 何かが引っ掛かっていた。思い出せないまま、頭の底に残っているものがある。シュリは、知っているのだろうか。

 黒衣から手指が離れると、シュリに背を押された。その動きに誘われるようにして歩き出す。

 もし、私だったら。大切な存在を守る為に、その大切な人そのものを犠牲にするようなことなんて出来ない。どうして、レーツェルさんは。どうして、なぜ。繰り返し考えたところで、答えなんて出るはずもない。

 私は彼女ではないし、彼女の立場にはなれない。

 彼女の思いを完全に理解することはできないのだから、自分だったら、なんて考えること自体が無意味だ。そんなの、蚊帳の外だから言えることでもあるわけだし。


「……?」


 中庭の入り口を通り過ぎて噴水の手前まで辿り着いたとき、シュリが不意に足を止めた。

 足元に落としていた視線を持ち上げると、シュリは真っ直ぐに前を向いている。

 その視線を追いかけて前方に顔を向けたとき、思わず目を見開いてしまった。

 噴水の前にいるのは、"私"だった。いや、その身体は少し薄くなっていて、お化けのようだ。だから、あれは過去の私だろう。傍らにはヒューノットがいるけど、身体の透け具合は同じ。そして、"私たち"の前にはツェーレくんとレーツェルさん。

 ツェーレくんが"私"に触れる。あれは確か、逃げるように言われた瞬間だったか。傍から見ているだけなのに、妙な緊張感があった。確か、この直後、私は書庫に戻されるんだ。


「――え?」


 ツェーレくんが"私"の耳元で何事か囁いた。刹那、ヒューノットが彼の腕を払い除けてから、"私"の肩を押し遣る。肩を押された"私"は、真後ろに転んで尻餅をついたようだ。あれ。何だこれ。こんなの知らない。

 ヒューノットが眉間に皺を寄せて何かを言う。怒鳴っているようにも見えた。しかし、肝心の声は聞こえて来ない。

 わけがわからなくなってシュリを見上げると、何か考え込んでいるような表情を浮かべていた。

 幻の"私"が立ち上がろうとしたところで、彼らの姿は掻き消えてしまう。最初から何もなかったかのように、噴水のある光景だけが取り残される。

 シュリにも同じ光景が見えていたのだろうか。


「……シュリ、今の」

「ああ、ヒューノットは君を守ろうとしたようだったね」


 そうかな。ツェーレくんに突っかかったようにしか見えなかったけど。

 いや、それ以前にあんなシーンは知らない。私が次に目を開いたときには、書庫にいたはずだ。


「あんなヒューノット知らない……」


 彼は何を言っていたのだろう。

 私の呟きを受け止めたシュリは、また少しだけ思案げにした。


「ヤヨイ。君がループ地点に引き戻される前にいた場所については、記憶に残っているかい? 覚えているのなら、その場所へ私も連れて行って欲しい」


 唐突な質問に、ちょっと固まってしまった。

 どこ、だっけ。そうだ。噴水前でツェーレくんを見ていられなくて目を閉じたとき。ヒトガタ達が迫ってきて、思わず目を閉じたとき。それと、後ろから目を覆われたときだ。そのあとで、あの書庫に戻されていた。ここからなら、ガラスの部屋が一番近い。いや、距離感としては微妙かもしれないけど。


「うん。確か、あっちだったと思う」


 あの場所は苦手だ。

 何となくシュリの袖あたりを掴んで引っ張った。

 我ながら幼稚なことをしてしまったと思ったけど、シュリは別に笑いもしなければ揶揄も向けはしない。

 噴水を横切って進む。その間、中庭にぐるりと視線を巡らせてはみたけど、誰もいないようだ。ヒューノットは何を言っていたのだろう。すごく気になる。扉のない出入り口をくぐり、階段を降りた先で細い廊下に入り込む。廊下に出て、すぐ左側にある扉を視線で示した。正面の扉も、右の扉もきちんと閉じている。ただ、ガラスの部屋に通じる左側の扉だけが薄く開いていた。

 怪しいことこの上なくて、開く気にはなれない。そんな私の気分など関係ないとばかり、シュリは扉に近付くなりゆっくりと押し開いた。

 扉が音を立てて動き、シュリの手から離れても勝手に開いていく。その動き自体はデジャヴだ。

 ひとりでに開いた扉の向こうには、大量の花と葉、それらに囲まれたガラス製の箱、それらの上には光が溢れている。そして、――ヒューノットがいた。


「……っ!」


 思わず息を飲んだ。

 幻想というべきか。過去の、というべきか。"私"とヒューノットが何かを話している。ヒューノットは壁に凭れ掛かっていて、"私"は入り口付近に立っている状態だ。

 私は扉から身を引いて、廊下を後ずさった。シュリも、私と動きを合わせてくれる。しかし、シュリは私を見ていない。真っ直ぐに、ガラスの部屋を見つめたままだ。

 "私"が、花で満たされた部屋の中を覗き込む。そうだ。あのとき、ヒューノットを探したんだ。しかし、ヒューノットはいなくなっていた。少なくとも、あのときは。

 "私"が再び廊下に出る。すると、その直後にガラスの部屋から人影が出て来た。ヒューノット、ではない。それは、レーツェルさんだ。"私"の背後に彼女が立つ。そして、ゆったりと腕を伸ばした。真後ろから、レーツェルさんが"私"の目を覆う。そして彼女か何事か囁いたとき、向かいの扉からツェーレくんが飛び出して来た。何かを言いながら、慌てた様子で"私"の腕を引っ張るツェーレくんは、幼い頃の姿をしている。"私"が前のめりになった所為で、レーツェルさんの手が目元から外れた。

 こんな光景を、私は知らない。

 何かを叫んだレーツェルさんは、細い片腕を振り上げた。膝をついた"私"がツェーレくんを庇うように抱き締めた次の瞬間、ヒューノットがレーツェルさんの手首を掴んでガラスの部屋へと引きずり込んだ。その間、僅か十数秒。あっという間の出来事だ。

 ツェーレくんが何かを叫ぶ。"私"の腕から離れた小さな身体は、部屋から飛び出して来たレーツェルさんに抱えられた。彼女は一目散に奥の部屋へと向かい、ガラスの部屋から出て来たヒューノットは、廊下にへたりこんでいる"私"に何かを言い放ってから奥の部屋へと駆けていく。

 何が、起こっているというのか。

 私は無意識のうちに、シュリの黒衣を掴んでいた。

 ここにいるのは、誰なのか。私は何を見て、そして忘れているのだろうか。

 ヒューノットが走っていった方へと視線を向ける。すると、奥の扉が半開きになっていた。この光景には見覚えがある。半分ほど開いた扉の傍に落ちたランプをヒューノットが踏みつけて中へと駆け込む。ランプのガラス部分は、割れてしまった。

 その光景は、目を閉じる前に見たものだった、はずだ。


「シュリ……シュリにも、見えた?」


 ひと瞬きのうちに、すべてが嘘だったかのように彼らは跡形もなく消えてしまった。

 噴水前のときと、同じだ。それは、今の光景が幻であるせいなのか、どう、なのか。

 シュリを見上げると、猫を模した仮面はこちらを向いていた。


「ああ、見えたとも。やはり、ヒューノットは君を守ろうとしていたようだ」


 確かに。そう、らしい。

 けれど、私はそれを覚えていない。

 今、見たことが過去の再現なのだとすれば、私は書庫になど引き戻されていない。

 いや、私の体験自体は引き戻されているのだけど。どうなっているのか、ちっとも理解できなかった。

 ヒューノットは、何を言っていたのだろう。姿と声、どちらかしか届かないことがもどかしい。


「……あと、一回」


 ぽつりと、無意識のうちに声が出た。

 そうだ。もうひとつ。書庫に戻された瞬間がある。

 皮肉にも、それはさっき、シュリが見るなと言った光景だ。


「……もう一回、あるんだけど……」


 正直に言うと、私もあまり見たくない。いや、できれば、もう一度なんて見たくない。

 迷うように視線が彷徨う。

 すると、黒衣を握る私の手をシュリが柔らかく撫でた。


「無理はしなくていいんだよ、ヤヨイ」


 シュリの声は優しい。

 でも、そんなのずるい。

 だって、ヒューノットの行方を知る為には手がかりが必要だ。

 今のところ、唯一ヒントになりそうなものがそれなのに。

 怖いからだめだとか、見たくないから嫌だとか、そんなこと言えるはずもない。


「……シュリがいたら、たぶん大丈夫だよ」


 ずるい、なんて。

 シュリのせいにする私の方が、よほどずるい。

 ついて来たいと言ったのは、私の方だ。シュリは別に、悪くない。

 触れていたシュリの手を握って、下りて来たばかりの階段へと向かう。

 私の記憶では順番が違う。でも、そもそもループなんてしていなかったとしたら。目を閉じた後に何かが起きていたとしたら。私の記憶の方が、間違っている可能性もある。

 いや、記憶が違うなんて、そんなのそもそもおかしな話だけど。でも、その他にどう思えばいいのか。理解のための、手札が足りない。

 視線は足元に落としたまま、シュリの手を引いて歩く。中庭の部屋に出てからも、顔は上げられなかった。

 見たくない。

 あの光景は、何度も見たいものではない。

 ヒトガタ達が壁から降りてくるだけならまだしも。


「……?」


 降りてくるだけ。

 何だろう。さっき、ヒトガタ達は全て床に降りていた。まるで、崩れ落ちてしまったかのように。なぎ払われたかのように。

 壁際に追い詰められたかのように積み上がっていたけど。あれは、何だったのだろう。

 考え事をしながら噴水の前に差し掛かった時だ。不意にシュリが足を止めた。

 自然と私の足も止まる。


「シュリ、どうし――」


 ――たの。

 そう問い掛けようとした。

 シュリを見上げようと首を動かしたところで、視界の端に人が立っていることに気が付いた。気配も音もなかったのに、当然のように立っている。それはまるで、ルーフさんとユーベルが入れ替わっていたときのような、あの瞬間にも似ていた。慌てて顔を向けると、噴水の前にはツェーレくんが立っていた。

 その背後には石像がある。

 大きくなったツェーレくんは、ただじっとこちらを見据えていた。




「――何故」



 ツェーレくんが声を出す。

 震えていて、怒っているような、悲しんでいるような、どちらともつかない声だ。

 彼の表情はとても強張っていた。





「――何故。来てしまったのですか」










 彼の赤い瞳が最初に捉えたのはシュリの方だった。

 何も答えないシュリを見上げていた私が彼を見ると、赤い双眸がこちらを向く。








「――何故。戻ったの。逃げて欲しかったのに」












 その声は、幼い彼のものだった。

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