33.猫の仮面
白い石に囲まれた噴水。
その中央から噴き出ている水が到達している位置は、それほど高いわけでもない。
ツェーレくんが落とした重たい何か。ジャラジャラと、鎖のようなものが石と擦れるような音がしている。
きらきらと光って落ちていった銀色。それは、最初に彼を見たときに、あの小さな手が触れていた色とよく似ていた。ゲルブさんが飲み込んだもので、そしてルーフさんの瞳に宿っていたもの――銀色のあれは、星だ。少なくとも、星と呼ばれているもの。
カメラを通して画面越しに見る景色の中では、水の中に落とされたすべてを把握することはできない。距離を詰めるべきか、どうするべきか。そこにはいないと分かっているのに、佇む彼の傍に行くことは憚られた。
泣いているかのような、横顔だ。まるで、感情を堪えているかのように見える。
呼べば、声は届くのだろうか。
手を伸ばしたら、触れることができるのだろうか。
「……」
まさか。そんなことをしたところで、もし、できたとして。どのように声を掛ければ良いのかもわからない。
その場に留まったまま、カメラを噴水の方へと向ける。
きらきらと水の上を流れて巡る銀の色に視線を落とすと、それが少しずつ浮き始めていることに気が付いた。
差し込む光の中で、水から浮かび上がっている。まるで湯気のように、ゆらゆらと少しずつ空気に溶け込んでいるようだ。銀色の粒はゆっくりと立ち上り、ツェーレくんの周囲を包み始めている。大きなものは、まるで蛍のようにも見えた。ガラスの天井から差し込む光の中で、淡い光の帯を纏い始める彼は、まるで絵画のようでもある。
噴水の底で何かが転がる。僅かな音は、よくよく聞けば金属が放っているような音だ。
ツェーレくんの長くて形の整った指先が宙をなぞるようにして、星屑の帯を掻き乱す。すらりとした腕が伸びて、水から浮き上がって来た銀色を緩やかに誘導していく。ゆったりと少しずつ光が彼を包んでいく様子は、まるで羽衣を肩に羽織っていくようにも見える。きらきらと、銀色が瞬く。空気中で瞬く銀色と、銀色が作り上げた光の帯。小さな星屑の集まりとでもいうのだろうか。
「――っ……」
ぼんやりと見入ってたところで、ツェーレくんがこちらを向いた。
綺麗に整った線が結ぶ輪郭に、小さく揺れた金色の髪がさらさらと落ちていく。
長い睫毛の向こうにある深紅の瞳は、とても特徴的だ。たおやかさに心臓が跳ねる。
そこにいるけれど、そこにはいない。彼に、私が見えているはずはない、のに。真っ直ぐに見据えられているような気がして、動くことさえままならない。
光の帯を纏って立っている彼の顔立ちは、あの人形と全く何の違いもない。どことなく生白い肌。生気が薄く感じられるところさえも似通っていて、僅かな不気味さと触れてはいけないような神聖さが混在していて、どのように見れば良いのかわからなくなってしまう。
やがて、その唇が薄らと開いて――
「――……ヤヨイ」
唐突に聞こえて来た声は、後ろからだ。
慌てて身体ごと振り返ると、そこにはツェーレくんが立っていた。
噴水の方を見ても、誰もいない。スマホは握り締めた状態のままで、持ち上げることすらできずにいた。
肉眼で見えているこっちのツェーレくんは、幻ではない。そのはずだ。
「……ツェーレくん」
名前を紡ぐ声が、少し震えた。
彼は一体、何者なのか。喉奥が強張る。口の中さえも乾いてしまって、貼り付くような感じだ。
眼前に立つ彼も、画面越しの彼と同様。どこか茫洋としていて、何だか覇気が薄い。光の中で佇む姿には現実味がなくて、絵画を見ているような感じですらある。あまりにも印象的な赤い双眸さえ、淡い金色の向こう側に半ばほど隠れてしまっていて曖昧になってしまうほどだ。
ツェーレくんは私の手元をちらりと見たあと、ゆったりとした動作で顔を持ち上げた。さらさらと、髪が揺れ動く。
「あの本を、返してくださったのですね。ありがとうございます」
そう言った彼は、僅かばかりに目を細くした。その淡い微笑みに、思わず手指の先から力が抜けそうになる。
危うく落としかけたスマホをズボンのポケットに戻したあと、改めてツェーレくんへと視線を向けた。
本の件がわかっているということは、言葉を交わした最後のツェーレくんで間違いない。はず、だ。レーツェルさんに連れて行かれる前の彼なのか。その後なのか。
あまりにも鼓動がうるさくて、まるで耳の奥に心臓があるかのようだ。
私は返事の声すら出せないまま、ただ何度か、小さく頷いた。
ツェーレくんは淡い微笑を浮かべて、ただそこにいる。天井から降りてきた光の中で。今は、あの銀色の光は纏っていない。
僅かに眉を下げたその微笑みは、どこか寂しげな印象を与えてくる。
するりと、手が差し出された。
「ヤヨイ。案内しましょう。何度も付き合わせてしまった埋め合わせを、させてください」
触れてしまえば、消えてしまいそうな。
そんな儚さを感じる白い手に触れると、存外しっかりと握り返された。
彼の手に乗せた私の手が一気に強張る感じがする。腕まで緊張してくる。
静かに手を引いて歩き出したツェーレくんの背へと、自然と視線が向いた。
「ツェーレくん、どこに……」
「あなたは、ここにいてはいけないのです。このようなところにいては、きっと心が壊れてしまいます」
私の問いに声を被せたツェーレくんは振り返らない。
真っ直ぐへと向かう方向は、知っている。
さっき使ったばかりの、お月様の部屋――三日月が描かれた扉のある一室の方向だ。
周囲を満たす花と緑。噴水の音が僅かに響く中庭を通り抜け、真っ直ぐに迷いなく歩いていく。私はそれを、斜め後ろからついて歩くことしかできない。
繋いだ手は冷たくて、それなのに柔らかい。
生きている手、だと思う。彼はこのあと、ステンドグラスのホールでどうなってしまうのだろう。
あれが確定された未来のことなのか。それとも、そもそもこうしている今自体が過去のことになっているのか。幼い彼と交わした言葉では、わからなかった。大きくなった彼も、詳細を語ろうとはしてくれない。
階段を下る間の彼は無言だった。三日月の扉が見えてきても、何も言わない。
扉の置かれた台に繋がる階段を上がったところで、やっと向き直ってくれた。
「――ありがとう、ヤヨイ。あなたはきっと覚えていないと思うけど、僕とよく遊んでくれました」
何を言い出すのかと、私は言葉を失った。
どういうことなのだろう。
私は、彼に、あの子に、何もできていないのに。
目を伏せた彼は、どこを見つめているわけでもない。その視線は、とても遠い。
「僕は、とても楽しかった。けれど、それもおしまいだ。そうしなければ、あなたまでおかしくなってしまうから。あなたが覚えていなくても、僕は忘れずに繰り返せる。あなたが忘れてしまっても、僕は何度でもあなたを案内しましょう」
「ツェーレくん、何を言って……」
本当に、何を言っているのかわからない。
どうして、そんなことを言うのだろう。
忘れてしまったと言って案内をお願いしたことは確かだ。
でも、それは一度きり。あの時は、ツェーレくんが"昨日のこと"だと言ったから、そうしたはずだ。
そんな馬鹿な。忘れているのが私の方だなんて。そんなこと。有り得ない。
繋がっている手を握り返す手指が震えて、じわじわと力がこもっていく。
「どうか、あなたはもう繰り返さないで。忘れてしまってください。それで良いのです。その方が正しい。僕は永遠を生きるから、あなたまで巻き込んではならない。それなのに、あなたを引き留めてしまった――すみません。今、このような事を言っても分かりませんよね」
忘れてください、と。
繰り返す彼の瞳が向けられる。
笑っているのに、泣いているような顔だ。
どうして、そんな表情を浮かべているのだろう。
私が、何を忘れてしまったというのだろうか。
「……どういう、ことなの」
震える声が問いを紡ぐ。
まるで私の声ではないかのような、あまりにも動揺に震えていて、みっともない響きが落ちた。
ツェーレくんが、ゆっくりと手を離していく。
繋いだ手がするりと抜けていく感覚は、もう何度も経験している。
思わず、その細い手を掴んだ。両手で繋ぎ止めるように握って、ぐっと引っ張る。それは、無意識だった。
「ツェーレくん……」
「行ってください、ヤヨイ。これは、僕からのお願いです」
視界の端で扉が開かれ始めた。
触れてもいないというのに、三日月の扉は勝手にどんどん口を開く。
向こう側は夜空。三日月が何色だったのか。それは、わからなかった。
ツェーレくんは私を見つめたまま、強引に手を振り解こうともしない。
「待って、待ってよ。ツェーレくんは、……何を言っているの」
「忘れてください」
「そんなの、無理だよ」
何が彼に、こんな表情を浮かべさせているのだろう。
それがもし、私のせいだったとしたら。何かが引っ掛かって、胸が痛い。
今の私には分からないことを、どうして彼は知っているのか。彼は、何を知っていて、私は、何を忘れてしまっているのか。
「――ヤヨイ。僕は、本当に楽しかった。あなたと、たくさんお話ができて。あなたの話を、たくさん聞く事ができて。あなたは僕のために、本当に尽くしてくれました。もう、十分なのです。だから、行ってください。ここから出て、すべて忘れてください」
「それはだめだよ!」
思わず、声を荒げていた。
だめだ。それでは、だめだ。
何がいけないのかはわからないけど、何かが引っ掛かっていて、何かが抜け落ちていて、違和感がある。
彼をここに残してはいけない。それだけは、言いようのない感覚として腹の底にあった。
この場所では、時間が交差しているようだ。私は過去の"私"を見たけど、未来の"私"は見ていない。最初の分岐点で聞こえて来た音は、あの時点では未来だった"私"が出した音だったのかもしれないけど、それも確定ではない。確信は持てないままだ。
もしかして、今の私が認識していない未来のことを、彼は言っているのだろうか。
私が、あの場所で意識を失った彼を、彼の未来を見たように。それとも、あの光景が既に過去だったのか。ぐったりと意識を失った彼を抱き締めたレーツェルさんの、あの目が忘れられない。
「だめだよ。とにかく、ツェーレくんも来て」
ツェーレくんの手を再び引っ張った。
しかし、彼は動いてはくれない。
たったひとりの、統率者――そうだ。そうだった。あの時、既にレーツェルさんは言っていた。彼こそが、ただひとり。星に触れることを許された存在だと。
レーツェルさんから彼を奪った"何か"が起きた。それを起こしたのは、――きっと、"傍観者"だ。
"理想の王様"は、彼。
どうして、頭に浮かばなかったのだろう。
あの人形は器。器は肉体の代わり。心を入れるのだと、ルーフさんは言っていた。
器に星と心を入れて、そうすれば完全な存在に近くなる。それは神様で、そして理想の王様。統率者。それなら、生身の彼は。今、ここにいる彼は。
レーツェルさんの求める統率者を作るためには、彼は。彼はどうなる。いや、どうなった? 私は何を見たのか。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。自分で混乱しているとわかる。
「――ヤヨイ」
柔らかくて優しい声が、思考を止めて来た。
知らない間に落としていた視線を持ち上げる。
彼の手は、もう離れてしまっていた。
「僕は、ここからは出られない。あなたの傍に、在り続けることはできないのです。あねうえが、そのようには望まないから――」
だから。
だから、本を返せないと言ったのだろうか。
ここから出ることが叶わないから、私の手を借りたのだろうか。
喉奥が震えた。
思い出せ。
何を忘れているのか思い出せ。
何を見たのかを思い出せ。
いっそのこと、自分を殴りたい気分だ。
私は彼に、この子に、何をして、何をしなかったの。
言い様のない恐怖に手が震え始めた。私の知らない私の行為を、彼だけが覚えているなんて。
「ツェーレくん――」
何かを言いかけたところで、ガクンッと、不意に何かを踏み外したように足が落ちた。
横にあった筈の扉は真後ろにあって、大きく開かれた扉とツェーレくんが見える。
後ろに倒れるようにして、背中から落ちていく。景色の動きは、やけに遅い。咄嗟に伸ばした手は、何も掴めなかった。
ゆっくりとゆっくりと、扉が閉じ始める。落下スピードが速まった。
真下から吹き上げる風が冷たくて痛い。一気に落ちる感覚。引き摺り下ろされるかのようだ。内臓が浮き上がる心地がする。強く目を閉じた頃には手足の末端は冷え切って痺れ始めていた。乱れた髪が耳や頬に当たって痛い。
レーツェルさんが望まないからと。そう言った彼の表情が瞼の裏に蘇る。
彼女の望みはこの世界に統率者を生まれさせること。完全な存在として、神にも等しい星の後継者として。そのためには、ツェーレくんが必要で、そして――
――彼は彼女の望みのために、生き続けることを許されない。
自分の声なのか。誰かの声なのか。
言葉が聞こえた。
「――ッ!」
声が響いたような気がしたタイミングで何かにぶつかった。
落下が終わったことは理解したけど、地面に叩きつけられたという感じではない。何かに引っ掛かったにしては、すごく安定して支えられている。もうすっかり全身が強張っていて、すぐには指先一本動かすことができないでいた。瞼も痙攣していて、唇すらすぐには開いてくれない。
少し遅れて感覚が戻って来ると、誰かに抱えられているようだと気が付いた。
張り付いてしまったように固まっていた瞼を、少しずつ持ち上げる。
「――……シュリ」
「やあ、ヤヨイ。おかえり。君が無事で何よりだ」
目元から鼻の先まで覆う、猫の顔を模した銀色の仮面。やや無造作に乱れたウルフカットの黒髪。そして、黒色の長衣。笑みを浮かべる唇に、白い首筋。そして、この声――私を抱えていたのは、シュリだった。
よくそんな細腕で、という気持ちになる。けれど、そういえば、ユーベルから逃げるときもシュリはそうしてくれていた。案外、力持ちだ。周囲に視線をやると、ここが平原だとすぐにわかった。いつもシュリがいる場所。真上を見上げてみたけど、青い空が広がっているだけだ。
「シュリ、ツェーレくんが……」
「おや、彼と会えたのかい?」
「会えたっていうか、……あ、あと、ヒューノットっ!」
「ヒューノットの姿がないようだね。これはイレギュラーだ」
もう何だか、言葉がうまく出て来ない。
とにかく訴えるように名前を告げると、それだけでもシュリには伝わったようだ。
ゆっくりと足先から静かに降ろされる。
しかし、脚が震えてしまって、結局はシュリを支えにしてやっと立っているような有様だ。
「さて、ヤヨイ。ヒューノットと離れてしまっている時間は、果たしてどの程度か。それはわかるかい?」
肩に触れる手が、しっかりと支えてくれる。
そんな些細なことでも、私には安心感を齎した。
仮面越しの表情は、うまく読み取れないけど。そんなの、いつものことだ。
「わからないけど……結構な時間、離れてるような気がする。探したんだけど、見つからなくて……」
最初に噴水の前に立って、そこからだ。
そのあとからは、姿を見ても合流には至っていない。
ガラスの部屋で見たヒューノットが、本当に彼だったのかさえも自信はなかった。
ヒューノットが呼んでも出て来ないなんて、想定外だ。
シュリは、少しだけ思案げにしてから、ゆるりと小さく頷いてくれた。
「それなら彼も、きっと君を探している事だろう。しかしながら、残念な知らせがあってね。君たちの事を私から探ろうと思ったのだが、どうやら干渉が出来なくなっている。本来であれば、こちら側から把握できる筈のところまで、綺麗に隠されてしまっているという事さ。これは、実に厄介だ。彼なら心配は不要だとも思うが、しかし、可能性はゼロではないからね。私も現時点で、このような状態になっている事に対しては、驚きを禁じ得ない」
シュリが静かに天を仰ぐ。
釣られるように見上げてみたけれど、ただの青空があるだけで、やっぱりあの星空はそこにはない。
まさか、シュリにもわからないことなんて。そんなこと、あるのだろうか。いや、確かに"そもそもルートにない"とは言っていた。前に進んだ。プレイヤーが、あの場所に辿り着くことそのものが、今までのストーリーにはなかったと見て良い、ということか。少なくとも、この世界の人たち同士は何らかの関わりを持ち合っているけど、そこにプレイヤーが介在するパターンが新たに出てきたという解釈で正しいのかもしれない。
黒色の長い衣が揺れた。その衣擦れの音は、確かに耳へと届く。
傍らにいる存在が確かにいるのかどうか。それすら曖昧な状態が続くというのも、本来なら確かに異常だ。それを思えば、あんなところには長くいるべきではないのだろう。ツェーレくんの言う通りだ。
「ヒューノットのところに行くの?」
シュリの腕に触れて、無意識のうちに確かめてしまっていた。
ここにいるのだと、確かに在るのだと。それが分かれば、安心感はとても大きい。
気が付かないうちに強張っていた肩から力が抜ける。
「そうさ。彼は不要だと言い捨てるかもしれないが、もしもの場合は助けが必要だろうからね。何が起きているのかも、知る必要があるだろう。案内人として、君の行く先を隠されてしまっては面目が立たない。ここは世界の中心。全ての場所に通じる場所。この場所から知る事すらままならないのなら、私から行くしか方法がないのさ」
当然だと言わんばかりに頷いたシュリは、私がきちんと立てたことを確認するように顔を伏せる形で視線を下げたあと、ゆっくりと腕を引いた。ただ、私の方が、私の手が、シュリを離せずにいる。
黒い衣の袖あたりを掴んだまま、指が強張って離れてはくれない。
たぶん、心細かったんだと思う。ヒューノットのせいだ。
シュリはただ視線を向けて来るばかりで、私が衣を掴んでいることには言及しない。それが、ありがたかった。聞かれても、説明なんてできない。
「……私も、連れて行って」
ゆっくりと息を吸って、吐き出す息に乗せて言葉を出す。
声は少し震えていたけれど、どうしようもなかった。
取り繕うような余裕はない。
「それは勿論、構わないとも。しかし、無理はせずとも大丈夫だよ、ヤヨイ。これはエラー。この世界にとっても、イレギュラーな出来事だ。本来であれば、発生する筈のないハプニングなのさ。ルートとしては確かに新しいが、この場合は未知である事は不明であるという事と同義ではないからね。これらは、決して君の所為ではないのだよ」
よく慣れたシュリの喋り方に、少し安心する。
相変わらず、直球に物を言ってくれなくて理解しにくいところも。
何だか、じわじわと感情が追いついて来ている感じだ。きっと、私はずっと怖かったんだと思う。ヒューノットはいないし、意味のわからない事ばかりが起こるし。でも、ここで放り出す方がずっと嫌だ。ツェーレくんのことも、気になる。ついでにヒューノットも。何かあったのかもしれないし。あくまで、ツェーレくんのついでだけど。
「でも……」
言葉が途切れた。
いや、うまく言葉が出て来ない。
言いたいことはあるのに、喉の奥で詰まっている感じだ。言葉が喉に引っ掛かって、息さえもしにくい。
シュリがゆっくりと頷いて、先を促すように小首を傾げた。
不思議と、たったそれだけのことなのに、ゆっくりと肺に空気が流れ込む。
「……ヒューノットもそうだけど、ツェーレくんのことも気になるから」
「彼に何か言われたのかい?」
「……うん、まあ……」
私とツェーレくんの間に起きた出来事に対して、あまりにも認識がかけ離れている。
あの場所で私が過ごした時間は、どうなっているのか。
私は、ツェーレくんに何をしたのか。あるいは、何をしてあげられなかったのか。
あんな表情を浮かべられて、すべてを忘れてしまえるなんて。さすがに、そこまで図太い神経は持ち合わせていない。
記憶の中にはないのに、妙な違和感がある。それが、あの場所で狂わされた感覚だと言われてしまえば、まあ、そうかもしれないんだけど。
曖昧に濁した私の返答に対して、シュリは何も言わない。
黒い衣を離せずにいる私の手指を静かになぞったあと、ゆったりと掬い上げるようにして手を取った。
「――では、行こうか。話なら、道中で聞くとも。君が話したい事だけを、話したいように教えてくれると良い。少し遠回りではあるが、安全の確保が第一だ。さあ、それでは失礼するよ」
取られた手を引かれるがままに距離を詰めた直後、繋いだ手の高さはそのままにシュリが少し身を屈める。持ち上げられていた手が解放されたかと思えば、あっという間に抱き上げられてしまった。
「……」
スマートすぎて、拒否する暇もない。
背と膝裏に手を差し入れられて、固まる以外のリアクションもできない。
そんな私を抱えたままのシュリが前へ一歩を踏み出した途端、唐突にガクンッと上下に揺れが走った。
「おぅ……ッ!?」
慌てて真下を見ると、地面がなくなっていて、画廊から出たときのような疎らに星が散る夜空が広がっている。
まるで階段を踏み外したかのような揺れだったのに、シュリは平然としたものだ。一気に地面の穴をくぐり抜けて落ちていくと、ものの数秒程度で急に速度が緩やかになる。ヒューノットは階段を降りるようにして歩いていたけど、シュリは浮遊で移動するらしい。見上げると、落ちてきた穴がぽっかりと開いたままになっている。
空中に腰掛けるような体勢になったシュリの、何故だか膝の上に下ろされた。ちょうど、シュリの脚に横座りになる形。顔もよく見える。え、なにこれ。はずかしい。
「さて。では、ヤヨイ。君の話を聞かせてくれないかい? 生憎と、辿り切れずにいた時間が少々長くなってしまってね。案内人として恥ずべき事だが、隠していても仕方がない。私の知らない君の時間を、少しだけでも共有させて欲しい」
とにかく顔が近い。
今までにないくらいに近い。
噴水前のツェーレくんくらいに近い。
言葉を紡ぎ出す唇が弧を描くと、途端にシュリからの視線が気になって顔を背けた。
「う、うん。まあ、それはいいけど……正直、何から話せばいいのか、わかんなくって……」
だって、一気に色々と起こり過ぎている。
もう少し、私自身にも整理する時間が欲しいくらいだ。
シュリと一緒にゆらゆらと、空中を漂うように降りていく。
落ちているというか。それこそ、本当に少しずつ風船がふわふわと舞い降りるような感じだ。
「では、質問形式にするとしよう。しかし、答えたくない場合や答えにくい場合は、無理に話さなくても大丈夫さ。それでは、どうかな?」
優しい。
ヒューノットでは、こうはいかない。
いや、そもそもどうして、いちいちヒューノットと比較しないといけないのかって感じだけども。
「うん、お願い」
「分かった。では、……そうだね。何か、困った事は起きなかったかい?」
質問は優しいけど、いきなり核心を突かれたような気分だ。
ちょっとだけ、言葉に詰まってしまう。
「んー……困った、こと、ばかり、だったかな……」
自分で引くほど、歯切れが悪い。
何せ、本当に困りごとばかりだった。まあ、別にどれも隠すものではないけれど。
「何か、こう、何回もループさせられたりとか……」
「ループかい?」
「うん。なんていうか、同じ場所に戻されるっていうか……」
「成る程ね。場所に戻されるというだけかな?」
「いや、そうじゃなくて、うーん……たぶん、時間も戻ってると思う。あと、ひとりだと、その部屋から出られなくなってたかな」
あの仕様は謎だった。
ツェーレくんと合流しないと出られないのかと思ったけど、過去の幻についていけば出られたのだから。
私のぐだぐだな説明にも、シュリはきちんと頷いてくれる。優しすぎか。
「そのループが起こったきっかけは分かるかい?」
「きっかけ?」
何だろう。
最初に引き戻されたのは、大きくなったツェーレくんと話したときだった。
手を掴まれて、顔が寄せられて――思えば、あのときからヒューノットと会えていない。
「……ツェーレくんが」
「ツェーレか。彼が君に、何かを言ったんだね?」
「……うん。僕らを知れば、きっとわかるって。だから、逃げてって……そこから、かな……」
あのとき、目を閉じてしまったのは、恥ずかしさのあまりだ。
あまりにも彼が近付いて来るから、どうすれば良いのかわからなくなった。
そうだ。あのときからだ。書庫に戻されて、小さなツェーレくんが"昨日のこと"だと言ったんだ。
知れば、わかる。だから、逃げて。そのふたつが私の中でうまく繋がらない。知ればわかるのだから、と。説得されるのならまだしも。わかる前に逃げるように彼は言った。その理由が、未だにわからない。
ツェーレくんは、何から逃げろと言ったのだろう。私は、何から逃げるべきだったのだろう。まさか、忠告をして来たツェーレくん自身から逃れろという話ではない、と、思いたい。
「そのあとは、……目を強く閉じる度に、戻されてたかな」
目を閉じる。
私はその行動が、何らかの意味を持つように感じていたけれど。
「戻された場所には、どのようなものがあったかは分かるかな?」
「どのような……」
何だろう。
思い浮かぶのは、やっぱりあの赤い本だ。
テーブルや椅子は、光景のひとつに過ぎないと思う。
「本があったんだよね。その本のところから、始まるっていうか……あれ?」
あれ。そうだ。
それなら、きっかけはあの本に触れたことになるのだろうか。
何度も何度も。まるで、何かを知らせるかのように。
それとも、全く別の理由があるのかもしれないけど、そうなるともう全くわからない。
「何の本かは、分かるかい?」
「あ、うん。分かるよ。読んでもらったから……"すてきなおうさまのつくりかた"っていう本」
結局、あの本は返してしまったけど。
返したから、戻されていないのか。
目を閉じていないから、戻されていないのか。
単純にループが終わったのか。可能性が転がりすぎて、特定ができない。
シュリは、緩やかに頷いた。
その動作に合わせて黒髪が揺れて、顔の上半分を覆う仮面に当たる。
「ふむ……」
「どうかしたの?」
「いや……」
珍しく、シュリの反応が鈍い。
口許に片手を当てて、何やら考え込んでいる。
そんな状態でも、私の背を支えている手はそのままだ。
ふよふよと漂うように、底の見えない空の中を降りていく。
「……ヤヨイ。その本は、彼らのところにはない筈なんだ」
「ない、はず? あ、グラオさんの本だから、ってこと?」
「いいや。その本は、レーツェルが燃やすはずなんだ。自分以外が得てはならない知識を、彼女は決して許さないからね」
「……燃やす?」
いや、いやいや。
でも、私は確かに手に取った。
それに、グラオさん達に返した、はずだ。
けど、シュリが嘘をついているとは思えない。そもそも、嘘をつくだけのメリットもない。
「ふむ……ありがとう、ヤヨイ。これで、少しは見えて来たよ」
私は何も見えてないんだけど。
シュリは、ひとりで納得してしまったようだ。
口許に当てていた指を離す仕草を、ついつい目で追ってしまう。
「どういうこと?」
顔が近いついでに、仮面の目のあたりを眺めてみた。
シュリから見えているということは、こちらからも見えそうなものだけど。
そもそも、猫を模した仮面の目に相当する部分に穴があるようにすら見えない。どうなってるんだ、それ。
「君が新たな道を開いた事により、滞っていた可能性の枝分かれが発生したという事さ。繰り返されたのは、バッドエンドだけではなくてね。この世界においての終焉は、幾度も重なっているが同一ではない。導き手が傍観者である事に違いはないのだけどね。傍観者の向く先で選択肢が発生するように、向いていない側では別のストーリーが交わされている。裏側には、選択肢の力が及んでいない。それ故に、繰り返すうちに僅かな違いを帯びるものもあるのさ――"繰り返している"事実を知る者と知らない者との間に横たわる差異こそが、微々たる誤差をルート上に生み出すという事だよ」
シュリの言葉は相変わらずだ。
ただ、今までと違って、少し考えながら話しているような印象を受ける。私のように詰まったり止まったりはしないけど。
「ええと……ヒューノットは私と一緒に行動するから別として、他の人達は自由に動けるってことでいい?」
「その理解で正しいよ。尤も、自由の幅は狭いけれどね。いや、狭かったというべきかな。表現は、ともかくとして――少なくとも、祈りの丘で起きるはずだった事柄に狂いが生じているという事は確かだろう。元々の分岐点よりも細かく分かれているのかもしれない」
それが本当なら、本当は焼失するはずだった本が残っている上に、それをグラオさん達に返した時点で、随分と方向性が違う。なかったものがあることになっていて、渡される筈のないものが渡されている。
本来は起こるはずのことが起こらない時点で、かなり、あれだ。タイムパラドックス。いや、パラレルワールド、か? わかんないけど。
どちらにしろ、ツェーレくんのあの未来が残っているのなら、だめだ。ステンドグラスのホールでの光景は、あまり思い出したくない。
「……ねえ、シュリ。ツェーレくんとレーツェルさんって、双子なんだよね?」
ふと、思い出したことを問い掛けた。
あのふたりだけを切り取っても、違和感だらけだ。
少年だったり青年だったりするツェーレくんも、大きくなった彼より少し年上に見えるレーツェルさんも。小さなツェーレくんが、大きなレーツェルさんと普通に話をしているところも、だ。
「分かりやすく言えば、双子だよ――と、私は答えた筈だったね」
「うん。でも、同い年には見えなかったよ。私が見た中でも、ツェーレくんはおっきくなったりちっちゃくなったりしてたし……」
まあ、どちらの姿が現在のものなのかわからない以上、大きくなっているのか小さくなっているのかも判断がつかないけど。
ふわり、と。
下の方から風が起こり始めた。緩やかなそれは、シュリの黒い衣を揺らして、頭上へと吹き上がる。
「――彼らは、ふたりでひとつ。同じ星のもとに生まれ落ちたふたりは、始まりから違う位置に立っているのさ。重なっているようでいて、実は隣り合っている。同一のようで正反対。傍らにいるようで前にいて、そして後ろにいる――覚えているかい? 彼らは、互いに相手がいなければ、そもそもとして成立しない。彼らは互いを必要とし合っていて、補い合ってもいる。互いの不足を埋め合い、過剰を削ぎ落とし合う対の存在だ」
いつかのように、決まり切った台詞を口にするように、すらすらと言葉を続けていたシュリが足元へと顔を向けた。
同じように見下ろすと、白い円が遠くに見えている。星ではなさそうだ。
「――言い方を変えれば、彼らは決して重ならない。互いを見つめる事は出来たとしても、同じ場所に立つ事は叶わないのさ。彼女は進み、彼は繰り返す。祈りは日々新たなものへと変化していくけれど、星のサイクルは同一だからね。太陽が終始その姿を変えないように。月が満ちては欠けていくように」
歌うようなシュリの声が、ゆったりと落ちて来る。
ふたり分の重みが引き込まれる落下の速度は一定。背を支えてくれている手にも変化はない。
少しずつ近付いていくにつれて、白い球体のように見えていたものが穴なのだとわかる。白く見えたのは、穴の向こうが光に満ちている所為らしい。
顔を上げてシュリを見る。仮面の向こう側に隠された表情は、やっぱり窺い知ることができない。
太陽がレーツェルさん。月がツェーレくん。前に進むのがレーツェルさん。そして、繰り返すのがツェーレくん。
"僕は永遠を生きるから"――彼は、確かにそう言っていた。それはもしかして、ある時点からある時点まで、繰り返すということなのか。そうだとすれば。
「――わっ!」
急に速度が上がって、強風が吹き荒れた。
真下からの風に身体が持っていかれそうになるけど、シュリの腕が支えてくれる。
夜空が唐突に途切れて、目が痛いくらいの強い光の中へと飛び込んで来た。反射的に目を閉じたけど、それでもチカチカと残るほどに眩い光だ。
視界のすべてが、一瞬にして白に染まる。
轟々と耳鳴りのような音を上げていた風が消えて、再びシュリに抱き直された。
瞼を持ち上げた瞬間、目に飛び込んで来たのは、あの巨大なステンドグラスだった。




