32.幻想の声
表紙の言語が変わっていることに唖然としたけど、とにかく読めるのなら読んでおきたい。
ここまで散々必死になって走って来たのに、それが無意味になったのは腹立たしいけど。
グラオさんの家に入れてもらって、本を受け取ったけど、中は読めないままだった。
タイトルが読めたと思ったのは、私の錯覚なのか。それとも、日本語になったと感じただけで変化はなかったのか。
どちらにしても、どちらにしたところで、結果は一緒である。読めないんじゃ意味がない。
「すみません、ありがとうございます……」
前に来た時と同じように椅子の上にはクッションが置かれて、そして、その上に乗せてもらった。
そうしないと、私の背丈ではテーブルに埋もれてしまうからだ。顔を合わせて会話することさえできない。あの扉を使ってここに来ると、縮んでしまうということはわかったけど、理由は不明のままだ。まあ、説明されたところで、きっと意味はわからないだろうけど。
グラオさんとゲルブさんも、前と同じように向かい側の椅子に腰掛けた。
私が持ってきた本は、彼らの手にはだいぶ小さいように見えていたのに、渡してしまえば相応の大きさだ。
まるで錯視のようだけど、どう見ても彼らの手に渡った途端に大きくなっているとしか思えない。文字のこともそうだけど、そのあたりは深く追求しないことにした。ここは不思議な場所だからとしか、言いようもない。
「それで、あのー……本を、ですね。読んで欲しくて。というか、中身が知りたくて……」
この年齢になって、人に本を読んでくれと頼むのは少し恥ずかしい。
タイトルからすると、真面目な指南書や資料といった感じでもないから尚更だ。
まあ、かといって、絵本のようなライトさは全く感じられないんだけど。
「なんだ。そんなことなら、おやすいごようだとも。かんたんだ。そうだろう? げるぶ」
「まったくだ」
前にも思ったけど、グラオさんはゲルブさんに同意を求めることが多い気がする。そして、ゲルブさんは基本的に肯定しかしないらしい。仲が良いというべきか。とにかく、グラオさんが快く引き受けてくれて良かった。
テーブルの上に広げられた本を覗き込んでみる。まあ、やっぱり読めなかった。全く知らない言語が並んでいる。
「では、もくじから――すてきなおうさまのつくりかた。そのいち、こころえ。そのに、なかみのつくりかた。そのさん、うつわのようい。そのよん、ほぞんのてびき。そのご、かいほうのてじゅん。そのろく、おうさまのこえ。そのなな、かぎをてにいれるほうほう。そのはち、ほしのみわけかた。ぜんぶで、はちしょうだ。なつかしいね、げるぶ。むかしは、こういうほんも、よくよんだものだ」
「たしかに、むかしはそうだった」
頷くゲルブさんは、少しだけ笑ったように見えた。
となると、ふたりはこの本の内容を把握しているのだろうか。
ふたりして本を眺めている様子は、何だか微笑ましい。
にこにこと笑みを浮かべたグラオさんが、そのいち、心得を読み上げ始めた。
最初は特別に何ということもない話の、それこそ物語の導入部分のようだったけど途中から雲行きが怪しくなって――
「――――だいさんしょうのとおり、ねむるあんねいがしんぞうとなり、せいじゃくのうつつがひとみとなる。いのりのほしをとかしこめば、しんぞうはかどうする。ただし、うつわはかんせいちょくごにしようしてはならない。うつわのねむりをさまたげないよう、あまつゆをうけとめるはなばなのそば、できうるかぎりはしずかでうつくしいばしょに、あんちしなければならない。あんちのかんきょうについては、ほぞんのてびきをさんしょうすること。しようするさい、いのりのほしをさきによういしておかなければ、うつわはつちくれとなり、にどとしようすることができないため、ちゅういがひつようとなる。なお、しんぞうのかどうごは、すみやかにかくせいをうながすこと。かくせいをかくにんご、かいほうのてじゅんをただしくふみ、うつわをかんぜんなるものにしなければ、おうさまのうつわになることはない。かくせいのためには――――」
――うぁあああ。
聞いていられない。
自分で読むのも苦痛なのに、音読を耳に入れたところで頭にまで届かない。
お願いして読んでもらっている分際で申し訳ないけど。
あの分厚さを延々読み続けてもらっても、きっちり頭に入れられる自信が皆無すぎる。
第一章の心得。しかも、その途中あたりしか、きちんと聞けていなかった。最低すぎるよ、この頭。
まず、手ぶらで聞こうというのが、そもそもの間違いだった。
メモを取り出そうとして、そんなものを持っていないのだと思い出す。
後ろのポケットから取り出したのは、スマホだ。持ち出しに成功したのは良かったけど、使う機会なんて今までなかった。まあ、メモくらいはできる。
器、つまり人形は眠らせる必要があるらしい。安置する場所は静かで、美しいところ。美しいという条件が花に掛かっているのかは、定かではないけど。祈りの星がないと、器は使い物にならないらしい。完成後に寝かせて、やっと使おうとしたら一度の失敗で取り返しがつかなくなるとか、なかなかリスキーだ。安置が眠る安寧というものだとして、いや、なんだ。待って待って。読むのが早い。
「……それはなんだ?」
もたもたと文字を打っていたら、さっきまでグラオさんを見ていたゲルブさんが声を出した。
顔を持ち上げると、グラオさんも本の読み上げを止めて私を見ている。おう、びっくり。
「ええっと、これはですね。スマホ……スマートフォンといいましてね、えっと、その、……電話、ですね……」
自分で引くレベルで頭の悪そうな説明の仕方になった。
当然のように、顔を見合わせたふたりの頭上にはクエスチョンマークが見えるような気分だ。すみません。
「……でんわ」
「しっているでんわとは、ちがうようだね」
そもそも、ここにフェルトの電話とかあるんですか。
とは思ったが、ややこしくなりそうで質問は飲み込んだ。
「色んな機能がついているんですよ。えっと、……触ってみます?」
たぶん、いや、絶対にその方が早い。
スマホをテーブルに乗せて差し出すと、ふたりは揃ってしげしげと眺め始めた。ちょっとだけ、かわいい。
そのフェルトの手で操作できるのかは不明だけど、まあ、中身は見られても問題ない。きっと文字だって読めないだろう。
彼らがスマホを弄り始めたタイミングで、テーブル上の本を引き寄せた。
やっぱり、私の方に持ってくると通常のサイズになっているように見える。深く考えるのはやめよう。脳容量の無駄だ。きっと。どちらにしても、文字は知らないものばかりで読めそうにない。開かれたページはそのままにして、グラオさんの方へと本を返した。
まあ、とにかく、これで少しはわかったことがある。
やっぱり、あの大量の花たちにはきちんと意味があったんだ。それが人形に対して、どのような効果を持つのか。そこまではわからないけど、保存する方法の一部なのだろう。ただ、やっぱりツェーレくんの人形だけが箱に収められていなかったことが引っ掛かる。そもそも人形が器なのだとしたら、成長はするのだろうか。成長するなら、めっちゃ怖いということだけはわかる。めっちゃ怖い。
そんなことを考えていたら、いきなりシャッター音が聞こえた。
「……」
全員びっくりしていて、ちょっと面白い。
「……でんわに、あながあいた」
「げるぶ、まさかこわして……どうしよう……」
ふたりの動揺っぷりも、ちょっと面白い。
カメラ機能で向こう側が見えている所為で、穴が開いたと思ったのだろう。
私はちょっと笑ってしまいながら、ゲルブさんの手からスマホを受け取った。
「穴じゃないですよー。これは、カメラというんです」
「かめら?」
ふたりは声を合わせて、また互いに顔を見合わせた。
わかってはいたけど、やっぱりかなりの似たもの兄弟だ。
「カメラっていうのは、……わかります? えっと、写真って知ってます?」
ふたりは殆ど同時に首を振った。
電話はあるけど、カメラはないのか。カメラの方が説明しにくいんだけどなぁ。
まあ、いい。百聞は一見に如かず。見ればわかる。はず。
おもむろにふたりの写真を撮って、その画面を見てみた。
すると、ふたりはそれぞれに互いを見たり、自分の身体を見下ろしたり、思い思いに確認をしていく。直後、いきなり声を上げて、すごいすごいと盛り上がり始めた。差し出したままの画面を見て、また互いを見て確認している。
まあ、これくらいで楽しんでもらえるのなら、それこそ安いものだ。保存された画像を見直して、ひとつ前に戻ったところで固まった。
ゲルブさんがたまたま撮影した画像。それは本だった。同じページのままで止まっている本へと視線を向ける。
「……」
本は知りもしない言語で書かれているというのに、写真の方は日本語だ。
思わず見比べてみたが、何度見ても実際の本はわけのわからない文字が並ぶだけ。
なるほど。こうすれば読めるということか。いや、でも、何枚撮らないといけないんだ。既に気が遠くなる。
まあ、とりあえず、カメラ機能がこういう形で使えるということはわかった。そのうち、役に立つかもしれない。
「ぼくらもかめらをつくろう」
「そうしよう」
ちょっと考え事をしている間に、そんな結論に至っていた。
おお、フェルトのカメラ。それって機能するのかな。作るってことは、そういうことだろうけど。そもそもレンズとかどうするのか。ちょっとは興味があったけど、今は置いておこう。
「ところで、本なんですけど……わからないことがあるので、教えてもらえないかなーって」
「もちろんだとも」
グラオさんは大きく頷いた。
サイズが違うせいか、随分と頼もしく見えてくるから困る。
「祈りの星っていうのは、どういうものですか?」
そもそも、それだ。
溶かすというのもわからないけど、祈りの星が何なのかを知らなければ先に進めない。
グラオさんはゲルブさんと顔を見合わせた。
それから、本をぱたんと閉じて表紙を撫でる。
「いのりのほしというのは、いのりをうけとったほしのことだ」
そのまますぎる。
先を促すと、グラオさんは少し困った様子で頷いた。
「いのりをうけとめて、おもたくなったほしはおちてしまう。ながれぼしをみたことがあるかな?」
「ありますけど……」
「ながれぼしがちじょうにおちると、もどることはむずかしくなってしまう。ちじょうのこえであるいのりをとどけるものと、おちてしまったほしをそらにかえすもの。そのふたりが、ひつようなんだ」
ううん。
つまり、どういうことだ。
祈りを捧げたら星が落ちるという解釈でいいのだろうか。だとしたら、祈るのやめろやって話になってしまう。
「おちてくるほしは、いのりをうけとめて、ねがいをかなえるために、ちじょうへきてくれることがたいはんでね。そらにかえりたがるほしを、あのこは、つぇーれくんは、そらにかえすやくわりをもっていたんだ」
それは知っている。
頷きを返しながらも、ちょっと釈然としない。
「いのりをうけとったほしが、いのりのほし。これはわかるね?」
「わかります」
「これを、そらにかえさない。そうすれば、ほしは、とけてきえてしまう。ほしは、そらでしか、いきられないからね。しんでしまったほしは、もうそらにはかえることができない。ちじょうでいきるほしもいるけど、それはもうほしではなくなってしまっている。ちじょうでいきのびても、ほしとしてはしんでいる。そういうことだよ」
なるほど。
そうなると、祈りを受け止めた星を返さないことで「祈りの星を溶かす」という表現になるわけか。
納得して頷いていると、グラオさんはゆるりと首を振った。
「しかしね、しかし。だめなのだよ、それは。そらからほしをうばうなんて、そんなおそろしいことは。だからね、すてきなおうさまなんて、ほんとうはつくられない。いいや、いいや。つくってならない」
真剣な調子で言われてしまったけれど、ピンと来なかった。
空から星を奪う。あれ。何か、シュリからも聞いた気がする。
――希望と願いを抱き締め、夢を叶えてくれる愛おしい光の子を空から奪い取り、あまつさえ大地に突き落としたのが彼女だよ。
シュリの言葉を頭の中で繰り返した。
星と光の子は同じだと思っていたけど、違うのだろうか。星が落ちるのではなく、突き落としたというのなら、違うのかもしれない。彼女が――ユーベルが、悪い事をしているはずなんだけど。ユーベルとレーツェルさんは、どこかで繋がっているのだろうか。
「ちじょうでほしにふれることができるのは、そのやくわりをあたえられたものだけ。あのふたりは、おうさまをつくることができる」
「……おそろしいことだ」
「ほんとうにそうだよ、げるぶ。あのこたちが、そのようなことをしていないことを、われわれはいのるしかない」
ふたりは静かに顔を見合わせて、まるで嘆くように、ゲルブさんは天井を仰ぎ、グラオさんは足元に顔を伏せた。
「おうさまとはね、かみさまのことだ。しかし、われわれはあったこともない。だから、ほんとうにいるのかは、だれもしらないんだよ。もしも、かみさまがちじょうでうまれたら、それはりそうのおうさまだ。もっとも、せいかいにちかいのだからね。このせかいのすべてに、しあわせとあんねいをもたらすといわれているのさ。だから、ちじょうにうまれたのなら、それはとてもとても、たいへんなことだ」
「だが、いままでにきいたことはない」
「そう。そういうことなんだ」
ふたりの言葉に対して、私はただ頷いた。
話を整理していくにしても、いまいち前提がわからない。
理想の王様とやらは、本のタイトルにある"素敵な王様"と同じ存在でいいだろう。星の後継者が理想の王様を示しているのかは、まだちょっとわからないけど。でも、理想の王様は星が選ぶとか星の子がなるとか、そういう言い方がされるなら、星の後継者が理想の王様とイコールで繋げられていても、別に違和感はないような気がする。
じゃあ、なんだ。レーツェルさんは王様になろうしているわけではなくて、王様を作ろうと、つまりは神様を作り上げようとしている、ということなのだろうか。
レーツェルさんは、確か"正統なる星を受け継いだ統率者が必要"だと言っていた。神様と星と空。どれが、この世界で頂点なのかはわからないけど、祈りの星を溶かし入れて目覚めさせた器が神にも等しいというのなら、確かにこの上ない統率者ではあるような気がする。何とも壮大すぎる話ではあるけど。そんなこと、本当に可能なのだろうか。
レーツェルさんの役割は、大地の声を空に届けること。
ツェーレくんの役割は、星を空に返すこと。
この場合、星に触れることができているのはレーツェルさんではなくて、ツェーレくんの方だ。星を溶かすことができるのは、彼。きっと、それを命じるのが彼女の方だ。
人形が置かれていたガラスの部屋にレーツェルさんの人形はいなかった。いたのは、ツェーレくん。剥き出しになっていたのは、使う予定があったからか。それにしては、長らく放置されていたようにも見えたけど、確かに人形は汚れてはいなかった。あれが、理想の王様の器になるのか。そうだとして、逃げろと言ったのは、どういう意図があったのか。別に私の人形はなかったわけだし、ついでにヒューノットの人形もなかった。ひょっとしたら、あったのかもしれないけど、見つけられなかった。
ツェーレくんの言葉が、少し引っ掛かる。
「やよいちゃん?」
考え事に没頭していたら、名前を呼ばれてしまった。
「あ、えっと、はいっ! 助かりました、ありがとうございます!」
「もういいのかな?」
「十分です。また、何かあったら、助けてくださいね」
クッションから立ち上がろうとしたら、転んでしまった。情けない。
しかも、もたもたしている間に、ゲルブさんが引っ張り起こして床に降ろしてくれた。うう、申し訳ない。助けられるの早い。
扉まで近付いたところで、思い出した。
「あ、その本ですけど、お返ししますってツェーレくんが言ってました」
危ない。忘れるところだった。
うっかり。
私からの伝言に対して、グラオさんもゲルブさんも少し驚いた様子を見せた。
「かれが? ほんとうに。では、いつかあそびにおいでと、つたえてくれるかな? われわれは、かんげいするよ。そうだろう、げるぶ」
「もちろんだ」
そして、グラオさんは微笑んで、ゲルブさんも少し表情を柔らかくした。
本は失くしてしまったと言っていたけど、貸したままになっていたのだろうか。
ふたりは、ツェーレくんが持っていたという事実を不思議がっているようにも見えなかった。
背後から腕を伸ばしたゲルブさんが、扉を大きく開いてくれる。
「こまったら、いつでもおいで」
「ありがとうございます」
「また、かめらをみせてほしい」
「ふふふ、げるぶがね、とてもきにいったようなんだ。つぎのきかいに、おねがいできるかな」
「え、そんなに。はい、大丈夫ですよー」
スマホを貸す程度でいいのなら、全く何の問題もない。
とりあえず、撮影した時に肉眼で見えているものとは違うことがある、と、判明しただけでも割りと前進な気がする。
まあ、応用とか苦手なんだけどね。
ふたりに手を振って家を後にしてから、私は前回のときに月の扉があった場所を目指した。
入り口が同じ場所だったから、ひょっとしたら、という気分だ。
「……」
道中で見かけるフェルト人形たちが、ぺこっと頭を下げてくれる。
町長の知り合いだとわかったからなのか。追いかけられないのなら、それでいいかな。
ひとまず、本は彼らに返してしまったから、書庫に戻されることはない、と思いたい。
あと、何だろう。目を閉じたときに戻されていることが多い気がする。多いというか、いや、毎回か。でも、目を塞がれたパターンは不可抗力だ。それで言うのなら、ステンドグラスのホールで襲われたときもほぼ不可抗力と言って良い気がする。
町を抜けて森の中に入り込む。少し歩いていると、三日月が光っている扉が見えて来た。おお、やっぱり同じ場所にあった。行き当たりばったりだけど、割とこれで生きていけるものだ。
入り口と出口が毎回同じ場所にリンクされるのなら、知っている場所に行き来する場合は簡単だ。毎回、扉の位置が変わるとなったら、厄介だけど。
三日月が白く光っていることを確認して、浮き上がり始めていた扉の両サイドを持って落としてみる。ゲルブさんの真似だ。さすがにちょっと重いけど、ひとりでは絶対にできないということもない。
開いた扉の向こう側には、もちろんツェーレくんは待っていない。かといって、やっぱりヒューノットもいなかった。
扉を抜けて台上に降り立ち、すぐに階段を下る。ふと振り返ると、ツェーレくんが書いてくれた置き手紙がなくなっていた。
風もないこの場所で、飛ばされたとは考えにくい。ヒューノットが見たなら助かるけど、そうとは限らない。まあ、誰かが回収したのだろう。いや、もしかして、時間が前後しているのか。その可能性もある。そうなったら、もうワケがわからない。
長い階段を上って噴水の間に出る。相変わらず水が流れる音だけがしている空間だ。人の気配はない。
「はあ……」
どうしたものか。思わず溜息が出てしまう。
今度は一体どこに向かえばいいのかを考えていたとき、何か音がした。
その音は、少しずつ近付いて来ている。しかし、姿は見えない。噴水に歩み寄ると、音は更に近くなった。すぐ傍にいるような、そんな感じだ。肌がちょっとだけぞわりとする。見えていないのに、いる感覚。さっきから何回かあるけど、音と姿のどちらかしか伝わって来ないから厄介だ。
「……」
もしかして。いや、そんなまさかね。
ふと思い立って、スマホを取り出してみた。
心霊写真ではないけど、カメラにはそういうものが入り込むとか入り込まないとか、そういうことは聞いたことがある。
カメラ機能を起動させて、噴水の周囲を映し出してみた。まあ、何もいない。ぐるりと自分の周りを一巡りしたところで、また音がした。
「――ッ」
何の気なしに音の方へとカメラを向けたとき、心臓が止まるかと思った。
噴水の縁。誰かが――いや、あれはツェーレくんだ。大きくなったツェーレくんが、何かを握り締めて立っている。カメラを退けると、姿は見えない。あれは、過去のものなのだろうか。たぶん、そうだ。
カメラ越しに見える空間には違和感があった。そうだ、石像がない。噴水はとてもシンプルなものになっている。
ツェーレくんが腕を伸ばして、噴水に何かを落とした。さらさらと手の中からこぼれ落ちていくそれは、まるで細かな砂のようだ。ただ、普通の砂ではなくて、きらきらと銀色に光っている。そして最後に、ぽちゃんと音を立てて重たいものが水に落ちた。
彼の唇が動く。声は、聞こえて来ない。
――ご め ん な さ い
彼は確かにそう言った。
聞こえてもいないのに、私の耳には届いたような気がした。




