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傍観者 < プレイヤー >  作者: YoShiKa
■いつつめ 新規■

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33/77

31.時の交差












「――――…………!」







 耳の奥にするりと入り込む声の冷たさにゾッとした。誰の声かなんて、考えるまでもない。思わず目元を覆う手を振り払ったら、抵抗の勢いで呆気なく転んでしまった。

 どんと尻餅をついてしまい、ちょっと悶える。不意打ちの痛みだった。顔を上げると、本がぎっしりと詰まった書架が見え――あれ。背後を振り返っても、壁面を埋めた書架が聳え立っているだけだ。花もガラスの箱も、人形もいない。右側には、テーブル。そして、その上には分厚い赤色の本が置いてある。


「…………」


 どうやら、また"やり直し"のようだ。

 正直、マジかよという気持ちが強い。

 深い溜息をついて、その場に座り直した。

 自分が望んでもいないというのに強制的にやり直しをさせられることが、こんなにも腹立たしいとは思わなかった。というか、想像もつかなかった。でも、よくよく考えてみれば、ヒューノットはいつもこういう気分だったのかもしれない。

 しかも、彼の場合は選択肢の結果を知っているパターンも存在していたわけで。苛立ちはご尤もだ。態度も悪くなろうものだ、とは、思うけど。そういう態度を示される方としては、もうちょっと柔らかくなって欲しい。

 さすがに疲労感がすごかった。

 これから、どうしたものか。

 この部屋から出るのは、ツェーレくんを見つけないといけないわけだけど。

 でも、ツェーレくんと合流してしまうと、大体よくない方向に転がっているような気がしないでもない。いや、それ自体はツェーレくんのせいではないけど。どちらかというと、大きくなったツェーレくんと会ったらダメなような気がする。あれ、でも、ステンドグラスのところでは、会う前に取り返しが付かないことになっていたような。


「うーん……」


 いまいち、まとまらない。

 ここで何が起こっているのかもわからなくて、どうすれば抜けられるのかも、何が正解なのかも見えては来ない。

 テーブル上の赤い本を眺めた。思えば、これを見つけたときからだ。何度もここに、それも本の傍へと戻されている。ような、気がする。理由は全く不鮮明だけど。そもそも、ヒューノットと合流できないことがイレギュラーな気もしてきた。それとも、ヒューノットは本当にプレイヤーの手から離れてしまったということなのだろうか。選択肢から解放されたということは、プレイヤーからの解放と同じ意味だとしても、別にそれ自体には納得できる。放り出されたことには納得できない。せめて、私がいなくなってから解放感に浸って欲しい。

 頭がこんがらがる。わけがわからない。


「はぁあぁー、もー……」


 盛大な溜息が漏れてしまう。だって、こんなにも意味がわからないなんて思わなかったもの。そりゃ、軽率について来てしまったとは思っているけど。だからといって、私が責められるような謂れはないはずだ。前髪を掻き乱してから顔を上げると、テーブルの傍に誰かがいるように見えた。ぞわりと全身の毛が逆立つ。そこにいたのは、――"私"だ。いや、正確には私ではないけど、どう見ても"私"だ。全身が薄らと透けていて、まるでお化けのように佇んでいる。あれは、幻なのだろうか。それとも、本当に何かがそこにいるのだろうか。

 しかし、何かがいるにしても、床上に座り込んでいる私をこんなにも無視できるものだろうか。相手は、私の存在を認識していないようだ。緩慢な仕草で腕を伸ばしてテーブル上の分厚い本を手に取ったけど、すぐに周囲を見回した。何かを探しているらしい。


「――……あ」


 背中合わせになっている書架を覗き込む仕草。誰かを呼ぶように動く口。

 もしかすると、あれは、ツェーレくんを探しに来たときの私なのかもしれない。

 思わず、息を潜めてしまった。あれが"過去の私"なら、あの時の私は全く何も察してはいなくて、そして気が付いてもいないけど。本当に思わず、だ。本を手にして、開くこともなくテーブルに戻して、それから。それから。

 何だろう。これは、まるでリプレイだ。やり直しの前、というべきか。ヒントになるのだろうか。背後から通り過ぎた誰かに視線を向けると、そちらはツェーレくんだった。十歳くらいの、彼。ふたりは何事か言葉を交わしているけど、声までは聞こえて来ない。自分をこうやって客観的に眺めるというのは、何とも不思議な心地だ。ドッペルゲンガーだったら、確実に死んでいる気がする。やがて、ツェーレくんが手を差し出して、幻の"私"がその手を握り返す。そうだった。エスコートされて、一緒に戻ったんだ。

 ふたりが書架の間に消えていく。私も慌てて立ち上がって、その後を追う。もしかしたら、これで出られるかもしれない。幾つかの書架を通り越すと、ちょうど廊下に出たふたりの姿が見えた。きちんと扉が、ある。

 弾かれたらどうしようとか、閉じたらどうしようとか。ネガティブなことが頭に浮かぶけど、文字通り当たって砕けろだ。急いで走って、ふたりを追う。すると、呆気なく廊下に出ることができた。本当に呆気ない。あまりにも呆気ない。あのとき、うろうろしても全く見つからなかった扉は、一体何だったのだろうか。

 音もなく廊下を歩いていくふたりは、あのまま中庭の部屋へと行くはずだ。

 ふたつの背中が分かれ道で右に曲がるまでを見送ってから、真っ直ぐに廊下を走っていく。

 時間軸がずれているというべきか。何だろう。とにかく、あのふたりは、これからヒューノット達と会うだろう。そのあとで、私はまた書庫に戻される。書庫から出て、噴水のところに行くのもステンドグラスのホールに行くパターンも、よくないものを見るし、どちらにしても書庫でやり直しになってしまう。

 それなら、違う場所に行ってやろうというのは、突飛な発想ではないはずだ。たぶん。

 少しずつスピードを落として、扉の前で立ち止まる。少し上がってしまった息を整えながら扉を見つめるけど、今のところ開く様子はない。

 ノックをしようかどうしようか。数秒ほど迷って、諦めた。

 ドアノブに手を掛けて一気に押し開いていく。


「……」


 中には、誰もいなかった。

 足元に敷かれた石板の間――細い水路から、僅かばかり水の音がしているだけだ。

 扉はなるべく静かに、そして大きく開いておく。

 何かあった時のためだ。逃げ場がない状況は、一番よくない。精神的にも物理的にも。

 まあ、だからといって、何かあった時にすぐさま逃げられるとも限らないわけだけど。

 扉を開き切ってから、室内に足を踏み入れる。相変わらず、部屋中が植物園のような有様だが、ガラスの部屋を見たあとでは物足りないくらいだ。ここはまだ整然としていて、あちらは本当に花で埋められているといった感じ。それに、ここはまだ木や草も多い。見た目の色彩が違う。違ったからどうなるという話でもないけれど。

 極力、静かに足を踏み入れたのに、廊下の絨毯から石床の上に移るなり靴底が音を立てた。ムリゲー。私に忍びは無理そうだ。

 彼女がいることを期待していたわけではなかったけど、誰もいないというのは予想外だ。せめて、何らかの痕跡があって欲しかった。


「お邪魔しまーす……」


 一応とばかりに声を掛けておいた。

 保身は大切だ。

 この挨拶が、どれほどの効果を持つのかは期待できないところだけども、まあ、一応。そう、一応だ。備えあれば憂いなし。


「お邪魔してますからねー?」


 念押しでもう一言掛けてみたけど、どこからも返事は来ない。

 隠れられそうな場所は山ほどあるものの、物音ひとつ静かに待機することは不可能に近いだろう。誰もいないと判断して良いはずだ。できればヒューノットと会いたいけど、人形の部屋で起きたことを考えると合流するだけでも難しそうな気がしてしまう。

 石床の上を歩く途中、ふと思い出した。この子たちを踏み散らさないで。レーツェルさんはそう言っていた。あの場所でヒューノットは何をしていたか。花も蔦も葉も、気にした様子など一切なく押し潰していたじゃないか。もしかして、そのせいだろうか。あれがきっかけだったのだろうか。花を潰したから、ペナルティでどっかに飛ばされた、とか。ああ、しまった。ヒューノットがいた場所を、もう一度きちんと見ておくべきだった。まあ、この場合、ペナルティを受けたのは私な気分ではあるけど。あのヒューノットが本物なのか、それとも違ったのか。私には判断がつかない。

 それにしても、わからない。わからないことだらけだ。でも、状況を整理していかないと、また逆戻りになってしまう。今回は、ヒューノットもあまり頼りにはできそうにない。いや、まあ、今まで謎や疑問を解決するにあたり、頼りにしたことの方が少ないけど。そのあたりは、シュリの専売特許のような気がする。

 植物たちの間をすり抜けて奥へと進んでいけば、とうとう階段前まで辿り着いてしまった。ガラス張りの部屋には、見える範囲では誰もいない。部屋の周囲は種類や形の異なる木々が満たしているけど、まだ管理された雑然さといった印象だ。放置して出来上がったような感じではない。

 前に来たときはどうだったかを思い出そうとしたけど、あの時は周囲のことを見ている余裕などなかった。

 この植物園のような一室には、人形やそれに関連するものはなさそうだ。

 レーツェルさんの部屋だろうとは思うけど、人形に関わる作業をするような場所ではないらしい。

 だったら、この植物たちは何なのだろう。ただの趣味だろうか。趣味にしては、ガーデニングのレベルが高すぎる。あの中庭部屋だけでは、物足りなかったのか。やたらと植物に縁のある部屋が多い。花言葉でも知っていれば、理由を知る手がかりになっただろうか。

 階段を上がることはせず、ぐるりと側面から中を眺めることにする。マジックミラーなどではなくて、本当にガラス張りだ。どうして室内にこんなガラス張りの部屋を作ったのだろう。部屋というか、ガラスで区切られた空間というべきか。

 何かを観察するため、だろうか。単純に植物たちを眺めながら、お茶をするための部屋なのだろうか。植物園の中に温室があるようなイメージを抱くけど、そのような形を模しただけという可能性もある。まあ、どれにしたって憶測だ。答えがわからない以上は、どれも正解ではないし不正解でもない。こういう言い回しは、シュリによくされていたような気がする。


「――……?」


 思考を遮ったのは、僅かに軋む蝶番の音が聞こえた所為だ。開いて、そして閉じられる。あれ。

 おかしい。私は確か、扉を開いたままにしていたはずだ。そんな音が聞こえるはずがない。というか。

 誰かが近付いて来る音がした。

 一瞬ばかり隠れようかとも思ったけど、そんなの見つかったときの言い訳が利かない。どうにでもなれと投げやりになって、その場に留まったままで振り返ると、少し離れた位置にある扉は開かれていた。私が大きく開いたときの、そのままの状態になっている。だったら、何の音だったのか。不審に思いながら周囲を見回したとき、視界の端がふわりと何かが動いた。

 それは、白いスカートの裾。ひらりと翻って、駆け抜けていく。金色の髪。薄らと透き通った、おばけのようなそれ。幻の子どもが立っていた。十代半ばか、前半くらいか。今よりも少し幼い印象を残したレーツェルさんの姿だ。そして、傍らには五歳程度のツェーレくんがいる。

 ふたりとも、やはり私には気が付いていないようだ。先にガラス張りの温室へ辿り着いたレーツェルさんと、そちらに駆け寄っていくツェーレくん。足音は聞こえない。透き通ったふたりの向こう側には、植物が見えている。

 ふたりは死んでいないのだから、やはりおばけというよりは幻に近い、はず。さっきは私の姿が見えていたから、ひょっとしたら、あれも過去のリプレイかもしれないけど。確証はない。

 レーツェルさんは本を持っていた。少し古そうな、分厚い本。表紙は赤。深紅の、ハードカバー。


「……あっ」


 彼女が持っているのは、あれだ。

 書庫のテーブルに置かれたままになっている本だった。

 椅子に腰掛けたレーツェルさんが、膝に寄りかかるツェーレくんにも見えるように太腿の上で本を広げている。まるで、読み聞かせでもしているかのようだ。ゆっくりと口を動かしているけど、やはり声は聞こえて来ない。

 ガラス越しに眺めている私のことなんて、ふたりは全く認識していない様子だ。だったら、やっぱり過去の幻なのかもしれない。

 ゆっくりと足を引き、そしてすぐに踵を返した。あの赤い本。あれがヒントになるはずだ。いや、ヒントどころの話ではないかもしれない。何度も戻された、あの位置。部屋から出られない意味。あれだけ整った室内で、一冊だけテーブルに置かれた本。見逃していた方が馬鹿だ。あんなにも、わかりやすく訴えかけていたのに。

 植物の間を抜けて開いておいたままの扉をくぐり、そのまま扉は敢えて閉じずに廊下を走る。途中、分かれ道のところで迷っている様子の"私を"見かけた。あれは何だ。えっと、そうか。ツェーレくんを探して来るように言われたときだ。初めて、この場所に来たときの私だろう。自分の前を横切るというのも、新鮮で不思議な感じ。あっちは気が付いていないし、私も干渉はできそうにないから無視だ無視。いや、待てよ。あの時、音を聞いたような気もするけど、気のせいだろうか。天井から聞こえたように思ったけど。

 走って書庫へと飛び込み、立ち並ぶ書架の間を抜ける。最初は何も考えてなかったけど、部屋の入り口からテーブルがあるスペースまで、まるで障害物競走だ。床に並べられた書架は、目隠しをするための衝立のようにすら思えて来る。最初はやたらと本が多いだけだと思っていたけど、もしかして、何かを守る為の場所なのかもしれない。例えば、――そう。木を隠すなら森の中。

 このループを打開するために、あの本が必要な気がして来た。


「……っ」


 少し開けたそのスペースに置かれたテーブルと椅子。何度も見た光景の中に、違うものが入り込んだ。――テーブルの前には、ツェーレくんが立っていた。書架の脇を抜けた瞬間に姿が見えたものだから、大慌てでブレーキをかける。今更、室内を走ったことを咎められるとは思っていない。そうではなくて。

 赤い瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。

 さっきまでは、誰もがちっとも私を認識していなかったから、急に見つめられてどきりとした。

 特徴的な赤い瞳だ。ルーフさんの、星が宿っていた銀の双眸よりも主張が激しい。まるで作り物のような、深紅の瞳。

 テーブルに降りていた手指が、ゆっくりと持ち上がる。

 彼の手が触れていたのは、例の本だった。赤い、表紙の本。


「――逃げて、と。言ったのに」


 十代半ばか。後半くらいか。成長したツェーレくんの手には、あの赤い本が大人しく収まっている。

 責めるような調子ですらなく放たれた言葉は、どこか諦めの気配が滲んでいた。

 そう。確かに彼は、最初からそう言っていた。最初は彼から、途中からは私が、幼い彼に案内をお願いしたんだ。それをツェーレくん自身はきっと、遠い過去の出来事として記憶しているのかもしれない。私にとっては、たった数十分前のことなのに。彼にとっては、数年前のような。


「……うん。ごめんね、ツェーレくん」


 逃げるように言われたけど、結果的に外を目指してはいなかった。

 今も、ヒューノットと合流できないなら、このループを断ち切る方法を探している。

 どうにかして外に出る手段が全くないわけではないだろうけど。それでも、目的が違っていた。私の頭には、そんなことが初めから選択肢として存在してなかったといえば、きっと正解に近い。もちろん逃げたいけど。

 作り物のように整った顔が、僅かに歪む。その表情は、少しだけ物悲しげに見えた。



 ――僕らを知れば、きっとわかる。だから、      逃げて。



 あの時の声が、脳裏に過ぎる。

 まざまざと蘇るのは、私にとってはさほど昔の出来事ではないからだ。

 ステンドグラスのホールで倒れていた彼は、私の手を握って逃げるように告げた彼は、立派な椅子に押し込められていた彼は、彼女が守りたがっていた彼は。どのツェーレくんが本物で、どの出来事が実際に起こったことなのか。


「その、本なんだけど」


 赤い本を指し示すと、ツェーレくんの視線が落ちた。

 そして、ゆったりとした仕草で本を差し出してくる。


「こちらが、必要ですか」

「たぶん……」

「では、どうぞ」


 知れば、わかる。

 そのヒントは、あの本にあるような気がした。いや、答えそのものかもしれない。

 差し出された本を受け取る手が、少し震える。

 手の上に乗せられた本は、見た目通りに、いや、それ以上に重たく感じられた。

 少しずつ、ツェーレくんの手指が離れていく。その白い指先が宙をなぞって、そして下ろされるまで。見るともなしに眺めていた。視線を持ち上げると、彼は目を伏せていた。赤い瞳が、薄らと開いた目蓋の向こう側にいる。その光景に、少しも肌が粟立たなかったといえば、きっと嘘になってしまう。彼は、とても作り物のようだから。

 本を開いてみると、知らない文字が並んでいた。絵本ではないだろうと思ったから、想定内といえば確かにそうだ。挿絵も何もない。ただ、整然と並ぶ文字だけが紙面を埋め尽くしている。

 勝手に読める気になっていたけど、よくよく思えばツェーレくんが書いた置手紙も読めなかったんだ。本など更にハードルが高い。


「……この本、借りてもいい?」


 読めないけど、ツェーレくんに読んでもらうのは違う気がする。

 頼りたくないという意味ではなくて、この本で彼の――何かが、決まるような、変わるような、そんな気がするからだ。


「……」


 しかし、返されたのは沈黙だった。

 赤い瞳が私を映し出す。

 見つめられても、何が言いたいのかはわからない。


「ツェーレくん?」

「……そちらの本は、僕のものではありません」


 唐突な言葉に少し面食らう。


「そちらの本は、……彼らのものでした。どうか、返してあげてくれませんか。僕は、返す事ができませんから」


 赤い瞳が細くなる。

 僅かに眉を寄せて、唇がほんの薄くだけ弧を描いた。

 どうして、そんなにも寂しそうに笑うのか。

 不可解だ。不可解と理不尽が連なって、底の知れない謎だけが取り残されている。

 彼らとは、一体誰のことを示しているのか。口を開こうとしたタイミングで、扉の開閉音が届いた。弾かれたように振り返るものの、誰もいない。いない、はずなのに。


『――見つけましたわ、ツェーレ』


 声だけが聞こえて、心臓が跳ね上がる。

 その声は、数歩後ろから届いていた。

 誰もいない場所から、だ。ツェーレくんは、そちらをじっと見つめている。


『さあ、聖堂にお越しなさい。準備は整いましたわ。ねえ、ツェーレ。喜びなさい、ツェーレ。長らく待ち望んだ瞬間が、今まさに訪れようとしていますわ。あなたにも聞こえるでしょう? いいえ、あなたにしか聞こえないでしょう。空の声が。星の声が。賛美歌のように響いて、どれほど甘美なことでしょう。甘く愛おしい、子守唄。頑なに留まった失望は潰え、渇望の果てに器は満ちましたわ。星の正統なる後継者が、ようやく――――』


 ぶちり、と。

 唐突に声が途切れる。

 それと同時に、ゆらりとツェーレくんの片腕が持ち上がった。

 いや、違う。そうじゃない。

 薄らと浮かび上がったのは、ツェーレくんの手首を握るレーツェルさんの姿だった。

 彼は持ち上げられるがままに腕を差し出しているに過ぎない。どこまでも、無防備で、そして無抵抗だ。

 ツェーレくんの手を握るのは、幼い彼女ではない。喪服のような黒いワンピースに身を包んだ姿。まるで責めるような表情で、どこか悲痛そうに口を動かしている。声は、もう聞こえない。ただ、ツェーレくんは黙って彼女の言葉を聴いているようだ。やがて、彼は腕を引かれるがままに歩き出した。


「――ツェーレくん!」


 どこに連れて行かれるのか。

 何をするために呼んだのか。

 そんなことはわからなかったけど、気が付いたら、彼の名前を叫んでいた。

 肩越しに振り返った彼は、少しだけ物言いたげにしたあと、穏やかな微笑を浮かべて前を向いてしまう。

 彼らは、書架の脇を通り抜けていく。

 すぐに追いかけたのに、書架の向こう側にはもうふたりの姿がなかった。

 本を抱いたまま、廊下に飛び出した。

 廊下にも、ふたりの姿はない。あれは、昔のことなのか。今のことなのか。それとも、未来のことなのか。

 胸に抱いた本が、とても重たく感じられる。


「……」


 彼女は、レーツェルさんは、何かをしようとしている。

 あの人形は器の代わり。肉体の代用品だ。花々で守られ続けた人形は、ただの人形ではなく器。ガラスの箱から出ていたのは、ひとつだけ。ツェーレくんのものだ。

 本の中に、きっと書かれている。彼女がしようとしていることも、彼女が望んだことも。彼を守ろうとした彼女の手段が、書かれているはずだ。正統なる星を受け継いだ統率者。それが理想の王様だとすれば。


「……!」


 絨毯を蹴るようにして、廊下を駆け出した。

 理想の王様。その本があると言っていたのは、グラオさんだ。そして、ゲルブさんは本をなくしたと言っていた。あと、大きな本だと言っていた、はず。その大きいという言葉が大判という意味ではなくて、分厚いという意味ならドンピシャだ。

 私は噴水の間に飛び込み、勢いをつけたままで駆け抜けた。目指すのは、お月様の部屋だ。転びそうになりながら階段を駆け下りて、台へ上がる為の階段を一段ずつ飛ばして超える。既に息が上がっていて苦しいけど、そんなことを気にしている場合ではなかった。本を脇に抱えて手を叩き、三日月の色が赤茶になったことを確認して扉を開く。見えて来たのは、前と同じ景色。フェルトの森へと飛び降りて、扉を振り返らずに縺れる脚を叱りつけながら走る。

 森を駆け抜けて街に入ると、人形たちが驚いた表情で次々振り返って来るけど、今は構っていられない。喉奥が張り付いて気持ちが悪い。走って走って走って、まだ彼らの家は見えて来ない。お腹の中がひっくり返されて吐きそうだ。こんなに走ったことなんて、学生時代ですらなかった。本が重たくて、ときどき落としそうになってしまう。


「――グラオッ、さん! ゲルブさんッ!」


 大きな家が近付いて来たところで、耐え切れずに声を上げた。

 声自体も掠れていたけど、とにかく早く読んで欲しい。二度、繰り返し叫んだところで、扉が開いてグラオさんが顔を出した。驚いてしまっているが、やっぱり構っていられない。

 少しずつ速度を落として、最終的には膝を折ってしまった。地面にへたり込みながら、ぜえぜえと息を吐く。やばい。気持ち悪い。


「やよいちゃん、やよいちゃん。これはまた、どうして。いったい、なにが――」


 まってまって。今、話しかけないで。

 動揺しているようなグラオさんの声に首を振って、抱き締めていた本をぐいっと差し出す。


「……はぁッ、この、こ、この本、はぁ…っ、本の、ッ、はぁ、タ、タイトル、読んでください……!」


 乱れた呼吸の間で言葉を出そうとしたら、気持ち悪いことこの上なかった。

 こんなに意味のわからないお願いもないだろう。

 遅れて家から出てきたゲルブさんと顔を見合わせたグラオさんは、重たい本を軽々と受け取ってくれた。

 両手を地面についた私は、すっかり四つん這い状態だ。なかなか呼吸が落ち着いてくれない。汗もすごい。

 私の背を撫でてくれているのは、どちらだろうか。

 触れる手のサイズからすると、グラオさんかもしれない。


「――――ほんのたいとるか」


 ゲルブさんの低い声が落ちて来る。


「そうだよ、げるぶ。やよいちゃん、だいじょうぶかい。おちついて、ゆっくりでかまわないから」


 グラオさんは優しい。

 げほげほと息を吐き出して、ようやくちょっとずつ落ち着いて来た。

 背を撫でる大きな手が、とても優しい。泣ける。


「――――つくりかた」

「は?」

「すてきな、おうさまの、つくりかた――だ」


 半分ほど声が聞こえなくて、めっちゃ失礼な聞き返しをしてしまう。

 すみません。全然そんなつもりなかったんです。この口が勝手に。

 顔を持ち上げると、ゲルブさんが本の表紙をこちらに向けていた。









 すてきなおうさまのつくりかた












 クッソ! 日本語で書いてやがる。

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