30.真紅の瞳
ハッキリ言って、めっちゃ効率悪い。
めちゃくちゃ疲れたし、結局ヒューノットはいないし、散々だ。
さっきの場所には、味方になってくれる人がいたから良かったものを、そうでなかったら大変なことになっていた。
白く光ったら戻れるだろとか勝手に思っていた自分にも、実はちょっと腹が立つし。
自分の浅はかさが証明されたようで気分が悪いというか。
どうしたものかと、胡坐の上にツェーレくんを乗せたまま考える。
たぶん、かれこれ十分か十五分くらいは、そうしているような気がした。
「ヒューノットが見つからないよ、ツェーレくん……」
ツェーレくんを後ろから抱きかかえて、頭の上に顎を乗せる。
もう何だかぬいぐるみのような扱いをしてしまっているけど、無抵抗だから仕方がない。
いや、全然全くこれっぽっちも仕方ないことではないんだけど、まあ、とにかく仕方がない。そうとしか言いようがなかった。
「どこに行っちゃったのかな……?」
ツェーレくんもお手上げといった様子で呟いた。
まあ、お手上げ状態なのは私だから、その気分が伝わってしまっているのかもしれない。
探してやろう思ったのに一回で根を上げてしまった私も大概アレだけど、完全に単独行動しているヒューノットもどうなの。
気は進まないけど、他の部屋を回った方がいいのだろうか。
探索も捜索も気が進まない。もうどうすれば良いのか、さっぱりだ。
この場合、素直にシュリを頼った方がいいのかもしれないけど、状況が状況だけに迷ってしまう。
ふたりで見上げ続けている三日月の扉は、私が入ってきたあとから何も変化がない。
私とヒューノットがこんなに離れている状況は、シュリの言うエラーではないのだろうか。
選択肢が掲げられていない以上、ヒューノットは自由なのかもしれないけど。
「ツェーレくんはどう思う? ここで待つか、向こうに行くか、こっちで探すか」
探さないという選択肢は、さすがにない。
ちょっと前までだったなら、意地でも探してやるかボケーという気分にもなっていただろうけど。
今はヒューノットが必要だ。それくらいわかる。
「うーん……ここにおてがみをおいて、お部屋をさがします?」
置き手紙か。なかなかいい案だと思う。
ヒューノットは見ない派のような気もしないでもないけど、まあ、宛名でも書いておけばわかるだろう。たぶん。わかれば見てくれるだろう。きっと。
私の中でのヒューノットが、これ以上ないくらい大雑把な生き物になりつつある。八つ当たりだ。
「……そうしよっか」
色々と諦めてしまいそうになってしまう。
私が溜息をついている間に、ごそごそと動いたツェーレくんが小さなメモ帳とペンを取り出した。
準備万端だ。素晴らしい。
見つめていると、すらすらと文字を書き始めた。
書庫のときにも思ったけど、うん、何が書いてあるのかわからない。
「ヒューノットへ、ヤヨイがさがしてます。これをよんだら、ふんすいにきてください……これでいい?」
私が見てないと思ったのか。それとも、読めないと察したのか。
ツェーレくんは、声に出して読み上げてくれた。天使か。
「いいよいいよ、もう完璧だよ。噴水前で集合とか、最高だね。ありがと」
自分でも何が最高なのかはわからないが、とにかくツェーレくんを褒めたかった。
折り畳んだ面にもヒューノットの名前を書いて、それを扉の前に置く。
まさか、気付かずに踏まないだろうな。多少はそう思ったけど、他に置く場所もない。
ツェーレくんを解放して先に立ち上がり、遅れて立ったその小さな手を握って台上から降りた。ああ、これ、またさっきの階段を上がらないといけないのか。だるいな。
「ツェーレくん、だいじょうぶ? 疲れてない?」
「だいじょーぶなのですっ」
連れ回したり待ち疲れさせたり、そういうのは本意ではないけど。
結果的にそうなってしまって、さすがにそろそろ悪いなとは思っている。
けど、ツェーレくんは笑みを浮かべて頷いた。
頑張ってくれているような気がして、もうかわいいやら申し訳ないやら健気さにぐっと来るやら大変だ。私が。
階段を上がって中庭部屋に一旦出てから、今度は反対側へと向かう。
途中、通り掛った噴水にも視線を向けてみたが、誰の姿もない。ただ石像が、水音と共に佇んでいるだけだ。
石像を正面に据えて考えれば、部屋の左端に値する位置。扉のない出入り口の向こうには、やはり階段があった。
ただ、こっちの階段には手すりがついている。普段使いの場所だから、だろうか。
ツェーレくんには、きちんと手すりを掴んでもらって、一緒に階下へと降りていく。
人様のプライベートな空間に、ヒューノットがいるとは思えないけど。イメージだけど、そういうことは苦手そうだ。
階段を降りてしまうと、細い廊下があった。あれ。勝手に対称だと思ってたけど、向こう側とは作りが違うらしい。
いや、それもそうか。あちらは一室で、こちらは三部屋だ。
「あれっ、あいてるっ」
階段を振り返っていたら、ツェーレくんが声を上げた。
するりと手指が外れて、直後には駆け出していく。小さな背は真っ直ぐ、奥の部屋へと向かった。
「あねうえー?」
あちらが、レーツェルさんの部屋なのだろうか。
そうだとしたら、私は行かない方がいいような気がする。ほら、あれ、乙女の部屋だし。
ふと左側を見ると、そちらの扉も薄く開いている。きちんと閉じているのは、右側の扉だけだ。
扉を閉じようかどうしようか。迷いながら手を伸ばすと、ひとりでに開いてしまった。
「……」
待って待って冤罪冤罪。触れてない。
誰かがいるのかと思ったけど、視線は意図的に足元へと落とすことで外しておいた。奥の部屋へ行ってしまったツェーレくんが戻るまで待つ。
ほどなくして、小さな足音が戻ってきた。視線を向けると、ちょうど扉を閉じるところだ。良かった。
「お姉ちゃんいた?」
「ううん、いなかったのです」
「そっかぁ」
あっちもこっちも薄開きで、何だか気味が悪い。
私が立っているすぐ傍の扉を見ると、ツェーレくんは「ガラスのお部屋だよ」と言う。
じゃあ、消去法で、右側の部屋がツェーレくんの部屋ということでいいのだろうか。
「ガラスのお部屋は、何があるの?」
「おやすみしてるの」
「そうなんだ」
全くわかんない。
どうしたものかと思っている間に、ツェーレくんが扉を大きく開いた。
扉はツェーレくんの手を離れても止まることなく、ゆっくりと口を開いていく。
室内には、誰もいなかった。ただ、たくさんの花々が出迎えてくれる。何だか、デジャヴだ。
白一色に統一された籠から色とりどりの花が顔を出している。隙間なく詰め込まれているようにも見えるのに、だからといって、無理に押し込んだという印象はない。
床も壁も、花で覆い尽くされている。斜めに積み上げられた白い籠からも、花たちが顔を覗かせている。
ただ、それよりも目に付いたのは、大きなガラスの箱だ。
花が重なっていて、中身はよく見えない。
「――……」
ちらりと見えた。見えてしまった。
ガラスの箱には布が敷かれていて、その上には手がある。
いや、手だけではない。誰か、あるいは何か。人のようなものが寝かされているようだ。顔までは見えない。
部屋に入ることを躊躇っていると、ツェーレくんが見上げてきた。そして小首を傾げている。
私はこの場所を知っている。
いや、正確にはここではないけど。ここに良く似た場所だ。
プッペお嬢様のために、と。ルーフさんが花を育てていた一室。サンキャッチャーがたくさんの光を反射させていた部屋。あそこにも白い箱があって、ガラスの蓋越しに人形が寝かされていた。一瞬、本物かと思ってしまうほどに精巧な人形。あの時はひとつだったけど、今は違う。よくよく見れば、夥しい量の花々の中で、幾つかの箱が見え隠れしている。ガラス製の箱。棺のような印象だったものとは、また違う入れ物だ。天井からも蔦が降りているけど、吊り下げられている籠はなくて、代わりに照明用のランプが幾つか引っ掛かっている。
「……おやすみ、してるの?」
斜め後ろにいるツェーレくんへと問い掛けた。
声が少し震える。
「うん。あねうえが、言ってたの」
その声を聞きながら、ゆっくりと足を踏み入れた。
入り口近くで斜めに立てかけられたガラスの箱には、男の人が入れられている。胸の上あたりで組んでいる指を見れば、関節部分が丸くて、何だっけ。そう、球体関節人形だとわかる。それはわかる、けど。顔の方は、まるで本物のようだ。それだけに、顔と身体が妙にアンバランスで、気味が悪い。指先あたりは妙にリアルなのに、それでも人間ではない。しかし、首から上はどうだろう。どう見たって、人の顔だ。
髪は金色。柔和そうな顔立ち。緩やかな瞼のライン。そして睫毛。眠っているように目を閉じているせいで目の色はわからないけど、顔だけ見ればルーフさんによく似ている。
思わず喉を鳴らしてしまった。妙な緊張感がある。こういうのは苦手だ。そっと視線を外して、奥へと進む。花や籠を踏まないように僅かな隙間へと足を置きながら、もうひとつのガラスの箱を覗き込んでみた。こちらは知らない顔だ。薄らと唇が開いていて、今にも呼吸音が聞こえそうなほどにリアル。ほんのりと色付いた頬は触れたら柔らかそうな気もする。唇の艶が少し作り物っぽいけど、グロスだと思えば無理ではない範囲というか。私には、本物に見えていて怖いくらいだ。
離れるときに動き出しそうな気がしてしまうくらい、人形の顔はよくできている。更に奥へと進んで蔦が絡みついた箱を通り過ぎたとき、小さな箱があることに気が付いた。さっき見た箱の半分くらいの大きさだ。幼児のものだろうか。しかし、中には何も入っていない。色を保った一輪のひまわりだけが、代わりのように布の上に添えられている。プッペお嬢様によく似た人形が、あの館に置かれていたことを思い出す。まさか、ね。
ひまわりの箱から離れて、花の入った籠を蹴らないように気をつけながら進む。籠は一体いくつあるのだろう。それすらわからない。花屋さんでも見られないだろうほど、あちらこちらも花だらけだ。この部屋に人が入ることなんて、全く想定していないように思える。
今のところ、ルーフさんに似た人形以外は誰なのかも思いつかないような、知らない人ばかりだ。中には、男にも女にも見えるような人形もある。けど、まあ、人形なら化粧ひとつで顔の印象は大きく変わるだろう。いや、まあ、生きている人もそうだけど。部屋の中央付近で眠るその人形は、とても綺麗な顔立ちをしている。細身で脚が長い。髪は漆黒と呼べるほど、綺麗な黒だ。ルーフさんに似た人形よりも、唇の色合いが少しだけ濃い。中性的な顔の作りだ。
「……」
ツェーレくんは、この人形たちについておやすみしていると言った。
それがただの比喩なのか。それとも、本当のことなのか。それによって、言葉の意味が大きく変わってくるような気がする。
尤も、ツェーレくんは実際のところを知らない可能性の方が高いわけだし、あくまで言われたままに答えている可能性の方が高いけど。やっぱり、深い事情を知っているのは作り手――レーツェルさんだろう。
この人形たちが、星や祈りや、理想の王様あたりと、どう関係しているのかは想像もつかない。プッペお嬢様の人形もそうだったけど、どうして花に埋もれているのかも、何らか意味があるのだろうか。てっきり――いや。ルーフさんは何と言っていたっけ。確か、確か。
――奥様がお嬢様に贈られた内側のお庭なのです――
そうだ。内側の庭だと言っていた。
外側の庭には危険がある。たとえば、星が降るだとか。
あの庭は、プッペお嬢様を守るための庭だ。それがどういう意味なのかまで、考えたことがなかった。単純に、室内に庭を造ったのだとばかり思っていたけど、そうじゃない。違う。
敷き詰められた色とりどりの花々も溢れんばかりに光を受けていた緑もすべて、守るために存在していた。
万が一のとき。人形に心を入れて。失ってしまった存在の、器にすることができる――ルーフさんはそれを、すべて鵜呑みにして信じている様子ではなかった。それでも、あの人形を花々の中で眠らせている。そして、これからもそうするのだと言っていた。
この植物たちはすべて、人形を守るためのものなのかもしれない。
人形というよりは、器というべきか。ルーフさんは、プッペお嬢様の代わりはいないと言い切っていたけど、万が一があったら、選択するかもしれない。考えたくもない、万が一。その時に備えて、予備としての身体がこの人形たちなのだとすれば。
ルーフさんは、"人形の贈り主"から星の話を聞いている。思考がぐるぐると渦を巻いて、うまく思い出せない。
何だ。何と言っていた。
「……あッ」
考え事をしながら足を持ち上げたとき、靴先に蔦が引っ掛かり、蔦が巻きついた先にあった籠を引き倒してしまった。
慌てて屈み込んで、籠を元の位置に戻す。花は無事だったようだ。籠も壊れてはいない。焦った。
部屋の中央は特にうず高い花の山が出来上がっている。天井からも蔦が垂れ下がり、ジャングルのような有様だ。籠も乱雑に積み上げられていて、元々不安定だったように思える。踏んでしまった蔦の房を、そっと手で摘んで端に避けさせた時、花や草に混ざって白っぽい足が見えた。
「……」
素足だ。
足の指が見えている。
視線を少し持ち上げると、足首が見えた。踝あたりだろうか。球体関節が覗く。一瞬ばかりどきりとしてしまったけど、大丈夫だ。人間では、ない。はず。
屈んでいた腰を持ち上げて、ゆっくりと近付いた。
その人形だけは箱に入れられておらず、そして寝かされてもいない。
もう何年も放置されているのだろうか。蔦と花が絡みつき、すっかり覆われている。まるで、花と蔦こそが籠になっているかのようで、そういうオブジェみたいにも思える。
上から白色の布が掛けられていて見えにくいが、どうやら椅子に座らされているらしい。肘置きに重なった腕はだらりと垂れ下がり、手首から先が不安定に浮いている。
まるで転寝でもしているかのように僅かばかり右側を向いて俯いている顔を花と葉、そして蔦と髪が隠してしまっている。どうして、この人形だけが出ているのだろう。
今にも動き出しそうで少し怖い。
白い首筋も喉元も妙にリアルで、これが人形だなんて信じられない。
この人形は特別なのだろうか。何か、意味があるものなのだろうか。
「――ッ!」
指先に蔦を引っ掛けて持ち上げたとき、その人形が目を開けていることを知った。
声を出さなかったことは、奇跡に近い。悲鳴を上げそうになった。
半ばほど伏せられた赤い瞳が、睫毛越しにぼんやりと視線を投げ出している。
いや、瞳ではない。ガラスだ。眼球を模したガラスが、薄く開いた瞼の向こう側から覗いている。
一瞬ばかり心臓が跳ね上がった。鼻筋も唇も頬の丸みも耳でさえも、まるきり作り物には見えないというのに、目だけが違う。他の人形たちは目を閉じていたから気が付かなかったけど、この強烈な違和感はなかなか拭い去れるものではなかった。
色付いた唇がほんの薄く開いている。白いシャツは少し乱れていて、花びらや葉が落ちて重なっている。その上を、更に蔦が這い回っている状態だ。胸元から太腿までを覆うように掛けられた白い布の上にも蔦が伸びている
なるべく蔦を千切らないように、そして花を散らさないように手を引いていく途中で、この人形が誰なのか分かってしまった。
「……ツェーレくん」
どう見ても、成長した彼だ。
大きく立派な椅子に押し込められて、一体どうしてしまったのだろう。
天井から垂れ下がった蔦が邪魔だ。
なるべく触らないように気をつけながら、ゆるゆると腕を引いた。
レーツェルさんの役割は大地の声を届けること。それは、祈りだと解釈していいはずだ。
そして、ツェーレくんの役割は星を返すこと。そうだ。祈りと、そして星。
人形の前に立ったまま、ルーフさんの言葉を思い出してみる。
こういうときに、聞いた言葉がすっと出て来なくて辛い。シュリなら、すぐさま口に出せそうなのに。
祈りの星は何だった。祈りの星。ルーフさんも、それが何を示すのかわからないと言っていた。
「祈りと、星と、ああー、器と、えー、なんだっけ……」
「――"祈りの星を溶かし込めば、器は完全として生まれ変わる"」
急に声が聞こえてきて、びくんっと全身が跳ねた。
慌てて振り返ると、入り口から入って数歩のところにヒューノットが立っていた。
黒い外套の中、ポケットに手を突っ込んで花を潰しながら壁に凭れている様子は、まるで待ちぼうけを喰らっていたかのようですらある。いや、いやいや、探したのは私だし、いなくなったのはお前だよ。あと、花を潰すな。
ああ、でも、そうだ。
「……ヒューノット、続きは覚えてる?」
「"それは神を作るにも等しい。我々は統率の主を目覚めさせる必要がある"――だ」
本の一節なのだろうか。
ヒューノットは迷う様子もなく、すらすらと言葉を口にする。
それはどこか、決められた台詞を読み上げるかのように説明するシュリに似ていた。
覚えてくれていたことは助かったけど、そうではなくて。言いたいことが色々ある。
「……ていうか、どこにいたの」
「上だ」
上。
上ってなんだ。え。中庭部屋のことを言っているのだろうか。
いやいや、絶対にいなかったよ。噴水の前は、何回も通ったんだぞ。
「あと、いつ来たの。ツェーレくんは?」
入り口には、ツェーレくんがいたはずだ。
黙って入り込むにしても、反応してくれそうなものなのに。
ちらりと視線を入り口に向けると、ツェーレくんの姿はなかった。あれ。
ヒューノットを見ると、物凄く怪訝そうに眉を寄せている。
「何の話かは知らんが、ここにはお前しかいなかった」
馬鹿な。
今度は私が眉を寄せる番だった。
なるべく蹴らないように、そして踏まないように気をつけながら、籠と植物の間を縫うように歩いて入り口へと戻る。
廊下に顔を出してみたけど、ツェーレくんはいない。どこに行ってしまったのだろう。
ヒューノットは、やっと壁から背を離した。押し潰されていた花たちは元には戻らない。ひどいことするなよ。
「……」
色々と言いたいことはあるけど、ひとまず脇においておこう。
入り口の前まで来て、もう一度ヒューノットを見る。
花がたくさん入った籠に足が当たっても気にした様子もなく、普通に歩いて来る。おい、やめろ。少しは気にしろ。
廊下に顔を出して奥の扉を見ても正面の扉を見ても、それぞれきちんと閉じられている。
ツェーレくんが黙って何処かに行ってしまうとは、あまり考えられないんだけど。どこに行ったのだろう。
「ねえ、さっきのって、ルーフさんが言ってたやつだよね?」
「ああ」
それなら、ルーフさんの話からいくと、器は人形でいいはずだ。
完全として生まれ変わるっていう意味は、よくわからないし、どう解釈すれば正解なのか不明だけど。神に等しいっていうのは、つまり神は完全だから、完全な器は神と同じってことだろう。割と無茶なことを言っている気もする。祈りの星を入れると神ができるってことだ。いや、等しいだから、完全に一致というわけではないのだろうか。そのあたりは、言葉のあやかもしれない。
統率の主っていうのは、統率者。つまりなんだ、星の後継者だっけか。理想の王様ってやつか。ううん、こんがらがってきた。
「ねえ、ヒューノット――」
顔を引っ込めて振り返ると、そこには誰もいなかった。
植物が部屋を覆う光景が広がっているだけで、ヒューノットの姿はない。
「――は?」
状況が飲み込めない。
待って。おかしい。こんなのおかしい。
今まで、変なことが起こってはきたけど、ヒューノットがそこに絡むことはなかった。
いや、確かに姿が見えない状況はあった。でも、不可解な現象の中に彼が登場したパターンはなかった、はずだ。
ヒューノットが凭れかかっていた壁を見ようとしたとき、けたたましい騒音が響き渡った。何かが割れる音だ。慌てて再び廊下に顔を出すと、さっきは閉じていたはずの奥の扉が開いている様子が見えた。
半分ほど開いた扉の傍には、ランプのようなものが落ちている。ガラスの部分は割れていて、吊り下げる持ち手の部分は拉げてしまっているように見えた。
カランカランと転がるような音がしているけど、その音の正体はここからでは見えない。それ以外は、とても静かだ。さっきの一瞬で、何もかもが終わったように。
「……」
さすがにあの部屋を覗きに行くような勇気はない。
確か、あっちはレーツェルさんの部屋だった、ような。具体的に聞いてはいないけど。
前のめりになっていた姿勢を戻したとき、背後でかさりと音がした。
振り返るよりも先に、顔の横から手が伸ばされる。
顔の左右から顔を包むように伸びてきた手は、とても白かった。
ほっそりとした指先。そして、少し長い爪。
それが一瞬で、黒く染まる。
「――……っ」
ひっ、と。
引き攣った声が呼吸音のように漏れ出た。動けない。
温度を失ったように冷えきった手が目元を覆っていく。それでも動けない。
思わず目を閉じたけど、目蓋越しの感触に震えが走った。
真後ろへと頭ごと引き寄せられ、身体がぐらりと後ろへと傾く。
「――――沈黙をお願いしたはずですわ」
冷たい声だけが耳に届いた。




