29.月明かり
「――――…………?」
音が聞こえないどころか、何も触れさえしない。
恐る恐る目を開いた私の前にあったのは、テーブルと赤い本だった。
テーブルの傍らに立ったまま、分厚い赤色の本が足元に落ちている。
これは、どういうことなの。理解が追い付かない。
「…………」
これでは、まるで"やり直し"のようだ。
繰り返しているのは、私の方。
シュリも呼んでいないというのに、選択肢すらなかったというのに、やり直しをさせられている。
足元の赤い本を拾い上げてテーブル上に戻してから踵を返す。
さっきと同じなら、私ひとりでは扉に辿り着けないはずだ。
先に、ツェーレくんを見つける必要がある。
すぐに見つけられるとは、思えないけど。
「……ツェーレくん?」
近くの書架同士の間を覗き込んだところで、何かが後ろを通った。ような気がした。
問いかけてみるけど、返事はない。
その何かは、テーブルの方から扉のある方向へと抜けていったようだ。
「ツェーレくーん!」
大きめの声を出してみたら、思っていた以上に響き渡ってしまった。
反省。こんなことで怖がらせたいわけじゃない。
それに、怯えられたり隠れられたりしたら、スムーズに進めなくなってしまう。
「ツェーレくーんー」
「ヤヨイー?」
声が重なった。
振り返った先で、書架越しに顔を覗かせたのは、やっぱりツェーレくんだった。
「ツェーレくん! 探したよー」
見た目は、五歳かそのあたり。
まだまだ小さな男の子は、不思議そうに目を丸くしている。
「ヤヨイ、ぼくのこと、さがしてたの?」
「そうだよー。いてくれて良かったよ」
小さな歩幅で近付いて来たツェーレくんを屈みながら待ち構えて、ぎゅっと抱き締めた。
抵抗はされず、小さな手が背中に回される。
まるで、抱擁に慣れているかのようだ。
「ヤヨイ、ひとりなの? だいじょうぶ?」
私が迷子になっていたと思ったのだろうか。
ツェーレくんは相変わらず優しい。
抱き締めた身体は小さくて、そしてきちんと温かい。
「そうそう、ひとりだよ。ヒューノットも、どこかに行っちゃってさ。知らない?」
「ヒューノット?」
「うん、見てないかな?」
ヒューノットを見つけないと、きっと話にならない。
私の問い掛けに、ツェーレくんは少し悩んでいるようだ。
知っているのか。それとも、知らないのか。
説明しにくいだけなのか。頑張って思い出そうとしているのか。
ともあれ、うんうんと何かを考えている。うん、かわいい。もうなんでもいい。かわいい。
「どこにもいなかったの?」
お、質問になって返って来た。
「うーん、そうだね……見つけられなかった、かな」
この書庫にはいない。
温室のようなあの部屋にもいない。
中庭部屋の噴水前にも、ステンドグラスのある聖堂のような部屋にもいなかった。
というか、ステンドグラスのところは行ってはいけなかったような気がする。
少なくとも、私には見つけられなかった。
一本道なのに入れ違ったということは、あまり考えられないだろう。
あ、いや、レーツェルさんに会ったあと、この書庫は覗いていないから可能性はあるかもしれないけど。
「いなかったなら、えっと、おつきさまのお部屋かも」
ツェーレくんが、何かメルヘンなことを言い出した。
もうかわいいから許す。
「お月様のお部屋があるの?」
「うん。けど、むずかしいお部屋なのです」
「難しいって?」
どういう意味だ。
ゆっくりとツェーレくんを解放すると、まだちょっと悩んでいるようだった。
腕を持ち上げて、頭を撫でてみる。
すると、少し照れ臭そうにされた。かわいい。
「ドアのしかけがあるのです。けど、あねうえも、ヒューノットも、昔はよく使ってたから……そこかな、って」
わからないなり、可能性を考えてくれていたようだ。
けど、この建物にもう一部屋あるようには思えない。
今度は私からツェーレくんの手を握る。
「ありがとう。案内してくれる?」
「もちろんですっ」
かわいい。
こくんと深く頷いたツェーレくんは、私の手を緩く引っ張った。
立ち並ぶ書架の間を抜けて少し歩けば、扉はあっさりと姿を見せる。
どうしてなのかは分からないけど、今のところ、テーブルがあるスペースから扉まで辿りつくには彼が必要なようだ。
扉を抜けて廊下に出たタイミングで、もうひとつ問いかけてみる。
「ツェーレくん。私たちが初めて会ったのって、いつだったかな?」
「?……どうして、そんなことを聞くのです?」
足を止めたツェーレくんはきょとんと目を丸くして見上げてきた。
同じ返答だ。でも、まあ、その疑問自体はやっぱり当然だ。
「ちょっとした謎解きのヒントになりそうなんだよね」
嘘ではない。
謎解きというか。この謎には、答えがあるのかどうかも怪しいけど。
「なぞとき……ええっと。ぼくがヤヨイと、はじめて会ったのは、昨日ですっ」
昨日。
やっぱり、そうだ。昨日なんだ。
ということは、ツェーレくんのいう昨日の私はあの温室の部屋を案内してもらっている、はずだ。
推測ではあるけど、レーツェルさんにも会って会話をしているだろう。
会話の内容にも変化があるのなら、どうなるのかなんて全く見当がつかないけど。
でも、レーツェルさんとの会話を繰り返す気力はない。無理。
あれ。いや、でも、昨日だったか。レーツェルさんはヒューノットと話があったはずだ。
だから、ツェーレくんが私を案内してくれた、はず。あれ、違うのかな。
「……そうそう、昨日だったね。えっと、案内してくれたよね?」
「したのですっ」
「案内してもらってないお部屋って、お月様のところだけかな?」
「おやすみのお部屋もですっ」
おやすみの部屋って何だ。寝室かな。
今のところ、居住空間は確かに見てないけど。
「おやすみのお部屋って、ベッドのあるお部屋のこと?」
ひとまず聞いておくことにした。
ツェーレくんになら、聞きやすい。
今のところ情報が少なすぎるのに、不可解なことは多すぎる。
ひとつずつ確認していくしかない。
できれば、早くヒューノットと合流したいけど、急いだところで仕方がないとは分かっている。
「そうだよ。ベッドのあるお部屋がふたつと、ガラスのお部屋がひとつなのです」
三部屋もあるのか。
それなら、お月様の部屋が先でいいかもしれない。
ガラスの部屋がどうしておやすみの部屋なのかはわからないけど、今はひとまず置いておこう。
一気に聞き出しても、私が混乱しそうだ。
少しだけ考えて、繋いだ手を揺らして軽く引く。
「じゃあ、お月様のお部屋に案内してくれるかな?」
「はいっ! こちらなのです」
笑みを浮かべて頷いたツェーレくんは、ゆっくりと歩き始めた。
足取りは一定。例の分かり道を真っ直ぐは進まずに右へ。中庭部屋の方へと向かう。
できれば、ステンドグラスのところには行きたくないのだけど、それ自体も同じ展開かどうか。
ツェーレくんの手をぎゅっと握る。
離れてしまったら、またおかしくなってしまうような気がしたからだ。
こうしていれば、傍にいる間は、もしかしたら大丈夫かもしれない。それは何の確証もない、ただの希望だ。
中庭のような一室に入り込み、噴水を横切る。いつもならそのまま真っ直ぐに行くけど、今回は違った。
噴水を右手にして歩いていく。
そういえば、勝手に出入り口は正面同士のふたつだと思っていたけど、この広さなら左右にあってもおかしくない。
噴水の石像がなければ、自分の位置さえも把握できそうにないほど、室内はすべてが左右対称に作られている。
丸い部屋に丸い噴水。その周囲に一定間隔で置かれた、波紋を示すような半円の花壇。白い石の花壇を飾る花。そして花壇両脇に植えられた木々。振り返れば、白い石像の横顔が見える。入ったときには石像に正面顔で出迎えられたから、入り口から向かって右側に進んでいるのだと理解できた。真っ直ぐに歩いていけば、やはり扉のない出入り口がある。そこをくぐると、廊下ではなくて階段になっていた。外の光を取り入れた中庭がとても明るい空間だったのに、こちらは一気に光が薄まる。唐突な暗がりに、少しビビった。やめてほしい。
ぽっかりと口を開いた下り階段が、ずっと先まで伸びている。
「あぶないので、壁にさわっておりてくださいねっ」
かわいい。
ふたりで並んでも、余裕があるくらいに階段は広い。といっても、片方はツェーレくんだから、ヒューノットだったら微妙な気がする。言われた通り、壁に手をつきながらゆっくりと階段を下りる。
「――ここ?」
階段を下りていくと、薄らと光が見え始めた。
天井も床も白い石で作り上げられた一室には扉がなく、階段から直接辿り着くことができるようになっている。正方形の一室は広いけど、今までの部屋と違って壁は剥き出しで何も埋め込まれていない。シンプルだ。
中央には大きな台。そして台に上るための階段がある。その台の上には、大きな扉がひとつ。たった、それだけ。
「そうですっ」
扉だけが台の上に立っている光景は妙に不安定な気がして、どうにも異質だ。
両開きになっている大きな扉は、中央に三日月が刻み込まれている。だから、お月様の部屋、というのだろう。その三日月が薄らと光を纏っていて、室内が仄かに明るく照らされている。
なら、どうしてお日様の部屋がないんだよ。
という気がしてならないけど、太陽の光をたっぷりと取り入れた空間が上にあるのだから、まあ、バランスとしてはいいのだろうとも思えた。
「あの扉って、何か意味があるの?」
「うーん、えっと、それは、うーん……むずかしいのです」
一緒に階段を上がると、台の上は思いのほか広かった。
十畳くらいかな。たぶん。扉は異様に大きく、私の背丈なんか遥かに越えている。ヒューノットでも届きそうにない。
「見てて」
ゆっくりと手が外れた。
思わず小さな手を目で追いかけてしまう。
まあ、そこにいるから大丈夫だろう。と、そう思いたい。
ツェーレくんは、両手を持ち上げると、おもむろにパンパンッと手を叩いた。
すると、私たちを照らしている光の色が変わった。三日月を見上げると、さっきまでは薄ら白い光だったはずが、薄青に変わっている。もう一度、パンパンッと手を叩く。すると、今度は鮮やかな緑色になった。更にもう一度、パンパンッと続けて叩く。次は元気そうな橙色になった。更にぎらついた黄色になって、薄い赤茶になって、そして白へと戻る。
「あの色が変わると、つながるところが変わるのです」
手を下ろしたツェーレくんは、小首を傾げながら私を見上げてきた。
「むこうで、またおつきさまを探さないといけないので、ぼくは使っちゃだめって言われてるのです」
どういうことだ。
あちら側に行ったら、また扉を見つけないといけないということなのか。
だとすれば、確かにツェーレくんには難しいかもしれない。だからといって、私にできるとも思えないけど。
「お月様を見つけないと、戻って来れないの?」
「ううーん、きっとそうなのです……」
ツェーレくんは自信がなさそうだ。
きちんと説明されてはいないのかもしれない。
まあ、あのお姉ちゃんがガッツリ説明してくれるとも思えない。
そもそもツェーレくんは使用が禁止されているのだから、使い方を懇切丁寧に教えているはずもないだろう。
あと、ヒューノットについても完全に以下同文。
「……」
え。まさかとは思うけど、ヒューノットって迷子になってないよね。まさかだよね。
向こうに行って、お月様が見つからないとか、そういう展開ではないよね。そんなの知らないよ。
「……」
いやいや、でも。
この場所自体にはいないし、何なら噴水のところにもいなかったし、可能性としては扉の向こう側というのが一番濃厚なのではないだろうか。だとしたら、いやいや、だとしても、だ。私が行ったところで助けられるとも思えない。相手はヒューノットだし。
「……」
しかし、現実問題として現時点でヒューノットは見つかっていない。
探しても呼んでも出て来ないし、迷っているのではないのなら完全にシカトされているんだけど、どうなっているのだろう。
無意識のうちに足先で石床を叩いていた。
「ツェーレくん、やっぱり……ヒューノットって向こうかな?」
「うーん……」
悩ませてしまった。そりゃそうだ。
ツェーレくんだって、ヒューノットの行き先を知るはずがない。
あの野郎。勝手に迷子になりやがったな。でも、どうしよう。ここで待っていれば、戻って来るだろうか。探しに行って、入れ違いになるのもよろしくない。
でも、もしも向こう側で困っていたらどうしよう。いや、全然そんな場面は想像できないんだけど、万が一ということもある。
ヒューノットに限ってそんな、とは思うんだけど、だから、いやいや、混乱してきた。
「……ツェーレくん」
じっと見つめたまま待ってくれているツェーレくんを見て、ちょっと決心がついた。
今のところ、ここでできそうなこともない。それに、私ひとりでは解決できそうにもない。
「ちょっとヒューノットを探してくるから、ここで待っててくれる?」
「うん」
「もし、先にヒューノットが帰ってきたら、いっしょに待っていてあげて」
「うん。ヤヨイが帰るまで、だねっ」
話が早くて大変助かる。
入れ違いになるわけにもいかないし、かといってツェーレくんはこれを使えないらしいし、それならこうするのが良いはずだ。たぶん。そのあたり、全く自信なんてないけど。まあ、どうせ、正解も不正解もないんだからと開き直るしかない。選択肢が提示されていないだけで、行動なんて選択の連続だ。
「……」
さて、まずは何色のしようか。
できれば、さっさとヒューノットと合流したい。
でも、行き先はわからないし、そもそも何色がどこに繋がっているのかもわからない。
やばそうだったら、別の色にしよう。そうしよう。
まずはパンパンッと手を叩いてみる。赤茶色になった。さっきと順番違うじゃねえかランダムかよ。
「……まあ、いいや。よし、じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい!」
両手ふりふり状態でお見送りをするツェーレくん。かわいすぎる。
赤茶色の光に照らされながら、ゆっくりと扉を開いた。
向こう側には緑色が広がっている。ただ、それは木ではなくて、フェルト生地だ。あれ。ここ知ってる。
扉をくぐると、足元にはきちんと地面がある。
見上げてみれば、いつか見たように大きなバルーンが浮いていて、長い幕には"ようこそ、ふえるとのまちへ"と書かれている。
ああ、やっぱりそうだ。
良かった。一発目が平和そうな場所で。
地面に降りて振り返ると、もう扉はなくなっていた。仕事が早い。同じ扉を見つけないと、戻れないということか。最悪、シュリを呼べば戻してくれそうな気もするけど、ヒューノットがいない状態でシュリを呼ぶのは憚られた。とにかく、今はヒューノットだ。合流しないと話にならない。
「……あれ?」
フェルトの森を歩き始めて、ふと気が付いた。
前に来たとき、木々はもっと小さかったはずだ。でも、ここの木は異様に大きい。
とにかく街を目指して歩いてみるしかない。
バルーンがあるから、いい目印だ。そのあたりも親切設計で大変よろしい。
ただ、目指している先のバルーン自体も何だか大きいような気がしてきた。
なんでだ。成長でもしているというのか。フェルトが?
「……」
歩いている間、どうにも妙な気がしてならない。
通り過ぎていくのは、茶色と緑色のフェルトで出来た木と灰色のフェルトで作られた岩くらいなもの。動物や人の姿は見えない。
そもそも、ここって動物とかいるのだろうか。今まで見たフェルトの人形も、人ばかりで動物はいなかったような気がする。忘れているだけかもしれないけど。
歩けば歩くほど、何かが後ろにいるような気がしてきた。でも、振り返る勇気はない。
フェルト同士が擦れる音。それが、木々のざわめきのようなものなのか、違う何かなのかも判断がつかなかった。いや、だって、わかるはずない。
「……」
だんだん不安になってきて、ひとまず走ることにした。
すると、背後の何かも走り出した。これはだめなやつだ!
走る速度にも体力にも自信はないけど、それでも走らないよりは速い。
森の中を走って走って、バルーンの方向を目指す。通り過ぎていく木々は、やはり大きい。巨大というか。こんなフェルトあるのかよと思うレベルだけど、どう見たってフェルト生地で作られている。
木々の並びが途切れるまで走り続け、街に辿り着いたときには息が上がっていた。更に少し走って、ゆっくりと速度を落とす。もう無理。ヒューノットみたいなスタミナのバケモノではないんだから、そんなにガンガン走れない。立ち止まって、膝に両手をつきながら息を整える。
砂利を踏む音がして、慌てて顔を上げた。
そこには、フェルトの人形が並んでいる。
ただし、めっちゃ大きい。
大きいというか、いや、大きい。
背丈は私と同じくらいだ。丸っこいフォルムは明らかに人形だけど、サイズ感が異様だ。
反射的に後ずさったとき、人形たちが口々に声を上げた。
「にんげんだ!」
「ほんとうだ!」
「にんげんがいる!」
「おかしいな」
「どうしてここに!」
「だれのためにきたの?」
「にんげん!」
「よばれたの?」
「だれだ!」
「おいだせ!」
「にんげんっ!」
「どうして」
「とじこめて!」
「またきちゃった」
「だれか!」
「まちにきたぞ!」
「にんげんがはいってきた!」
「どこからきたんだっ」
「つかまえろ!」
十体ちょっとくらい、だろうか。
あちらこちらから声を上げられて、訳がわからなくなる。
人間だって言われた。そりゃ、私は人間だけど。違う。前には別の呼び方をされていた。
あれ。やばい。これはちょっと、前とは違って全然歓迎されていない。いや、前だって大歓迎でもなかったとは思うけど。
怖くなってきて、一目散に駆け出した。
森には入れない。かといって、街にもいけない。万事休す。三日月の扉を探そうにも、ヒントがない。誰だよ平和そうな場所とか言ったのは。
私が走り出すと、フェルトの人形たちは口々に何かを言いながら追いかけてきた。追いかけてくるなよ!
ボタンの目。ビーズの目。開いた口。縫われた口。とりつけられた口。きちんと縫い閉じられた手足。別縫いで取り付けられた手足。縫った糸が見えている子もいれば、縫い目は全く見えていない子もいる。作り手が違うのか、それが個性なのかはこの際どうでもいいとして、このサイズのフェルト人形。しかもこの数。マジで怖い。
別に武器を持っているわけではないけど、数の暴力がすごい。捕まったら終わりではないかと思ってしまう。めっちゃ怖い。
「――ぎゃっ!」
追いかけて来る人形を振り返りながら走っていたら、思いっきり何かにぶつかった。
ぼよんっと弾き飛ばされて、そのまま地面を転がってしまう。ぶつかったことよりも、転んだことが痛い。
何だこの柔らかい壁は、と思ったら。人形だった。ただし、ものすごく大きい。私の背丈を越えているなんてものではない。
何倍あるのかというくらいに巨大だ。私が当たったのは、ちょうど太腿あたりだったらしい。デカすぎる。
更に視線を持ち上げると、黄色い髪が見えた。辛うじて。ネクタイにシャツ。ずんぐりむっくりな体型。
「げるぶさん!」
「げるぶさんだ」
「にんげんだよ」
「にんげんがきた」
「げるぶさん!」
「にんげんにげる!」
追いつき始めた声たちが後ろから響く。
ああ、そうだ。ゲルブさんだ。弟の方。
咄嗟に名前でも名乗ろうかと思ったけど、しまった。正気を保っているゲルブさんとは面識がなかった。
どーんと張り出したお腹の上にある顔は殆ど見えていない。もたもたと動きながら、こちらを見下ろそうとしていることだけがわかる。
丸っこい手が大きく開いて伸ばされた。
いや、いやいや。巨大すぎて全身を掴まれそうだ。
慌ててポケットを探るけど、武器になりそうなものなんて所持していないわけで。
「――あ」
指先に何かが触れた。
取り出してみると、黄色いフェルトで作られた林檎だ。
確かあの時、グラオさんからもらったもの。小さすぎてポケットの中で忘れ去っていた。
そんなことを考えている間に、少しずつ、私を覆う影が大きくなって来る。
「――すみませんっ! グラオさんに会いに来たんですけどっ、いらっしゃいますかねっ!?」
握り潰されるよりは抵抗したい。
大声を上げて、思いっきり力の限りに林檎を投げた。
ぼよんっとお腹に当たって跳ねた林檎を、私に向かっていた手が受け止める。あの手から見れば、林檎なんてゴミみたいなサイズとしか思えない。
その直後、後ろからわらわらと駆け寄って来た人形たちに囲まれた。え、待って。死にたくないです。
「……にいさんとなかがよいらしい」
ひっくい声が落ちてきた。
え。これ誰の声だ。見上げるものの、そこにはゲルブさんしかいない。
弟、声ひっくいな。かなりの低音ボイス。
林檎を投げた体勢のままで固まっていた私は、おずおずと手を下ろした。
もぞもぞと動いたゲルブさんが、ゆっくりと膝を付く。それでも、私よりずっと大きい。
黄色、もとい黄金の林檎はやはり特別なものだったらしい。
「にんげん、なまえはなんという」
「え、あ、や、やよいです……」
威圧感がハンパではない。
声が低いのは、太りすぎているせいなのかどうか。いや、これ、太っているというのか。綿を詰めすぎたというのか。
身体も背丈も大きくて、ちょっと倒れてきただけで一撃必殺な気がする。のしかかりで死ぬのは嫌だ。圧死は嫌だ。
「やよい……ふむ」
聞き覚えがないのだろう。
そりゃそうだ。ゲルブさんとは、きちんとした面識がない。
疑っているのかどうなのか。手を開いて、握った林檎を確認している。
あれ。林檎が大きい。ゲルブさんの掌サイズになっている。
名前は知らないが、それでもグラオさんの面識があることは伝わっているようだ。林檎すごいな。
「……にいさんをよぼう。すこしまたれよ。……おまえたち、さわぐな。にいさんのおきゃくさまだ」
私を取り囲んでやいのやいの騒ぎ続けていた人形たちが、鶴の一声でぴたりと止まる。
すごい。やっぱりサイズが地位に関係していたりするのだろうか。
あの時ですら、グラオさんは私の膝くらいまでの大きさがあったような気がするし、やっぱりこの兄弟は相当大きいんだ。
のっしのっしと背を向けて歩いていくゲルブさんを、私は追いかけることができない。
逃すまいとしているのか、単純に動けなくなってしまったのか。取り囲んでいる人形たちが退いてくれないからだ。
フェルト人形の檻なんていうと微笑ましいが、今の私にはそんなことを思う余裕がない。怖いわ。
数分ほど沈黙だけが落ちる中で待っていたけど、正直もうお腹痛い。
立ち上がって隙間から抜け出した方がマシではないかと思った時だ。ドスドスッと重たげな足音が聞こえて来た。
「やあっ、やあやあやあっ! おまたせしてもうしわけないね、やよいちゃん! こらこら、みんな。かのじょはおきゃくさまだよ。こわいにんげんではない。やさしいだいじんだ。さあさあ、そこをどきなさい」
ゲルブさんを連れて走ってきてくれたのは、やっぱりグラオさんだった。
ずんぐりむっくりの体型に灰色の髪。シャツとネクタイ。サイズは大きくなっているけど、間違いない。グラオさんだ。
グラオさんの声で、私を取り囲んでいた人形たちが一斉に散っていく。何という連携力。団体戦とか得意そう。
「けがはないかい、やよいちゃん。げるぶも、きちんとあやまるんだ。おんなのこにけがをさせてしまったら、おおごとだぞ」
大きな手に抱き起こされて、やっと立ち上がることができた。
一斉に散り散りになった他の人形たちは、遠巻きに眺めているだけ。あれだけ煩かったのが嘘のようだ。
「うむ。すまなかった」
「いや、いやいやっ、そんなっ、こちらこそっ」
寧ろ、ゲルブさんが出てきてくれて助かった。
そうでなかったら、延々と逃げ惑っていたことだろう。
丁寧に頭を下げるゲルブさんに、私の方が恐縮してしまう。
「しかし、やよいちゃん。ひゅーのっとくんは、いっしょではないのかね?」
うっかり忘れるところだった。
頭を上げたゲルブさんと、問いかけて来たグラオさん。それぞれを見上げた。
とにかくデカい。
「実は、ヒューノットを探すために来たんですけど……」
「ひゅーのっとくんが、いなくなってしまったのかい?」
「ええっと、まあ、そうなんです……」
「なんと、それはそれはたいへんだ。ちからになろう。きみたちは、ぼくとげるぶのおんじんだからね。ひいては、われわれふぇるとすべてのおんじんだ。こまりごとなら、てをかそう。ひゅーのっとくんをさがせばいいんだね? ――みんな! きいたかい、ひゅーのっとくんをさがしておくれ。すがたをみかけたのなら、ほうこくを。もしみつけたのなら、つれてきてほしい。ちいさなじょうほうでもかまわないよ、なんでもはこんでおくれ!」
グラオさんが大きな声で、遠巻きに眺めている人形たちに指示を出した。
あの時はそんなことちっとも思わなかったけど、何て頼りになる人なんだ。ずんぐりむっくりでかわいいだけじゃなかった。
「あ、あっ、それと! できれば、三日月のついた扉も見つけたら教えて欲しいんですけど……」
「もちろんだとも、さがさせよう! まちのみんな、そうでであたれば、すぐにみつかるさ。とびらと、ひゅーのっとくんだね。きいたかい、みんな! ひがくれるまでに、みつけだしてもらいたい。よるはこころぼそいのだからね。ぼくのいえまで、ほうこくにくるようにたのむよ」
話が早い上に頼れるぞ。さすがは、町長。
わっと方々へ散っていく人形たちを眺めてから、グラオさんを見上げる。
すると、ゲルブさんの大きな手で抱え上げられてしまった。
さっきまでだったら、失神してる自信がある。
「……みつかるまで、いえでまとう」
「いいんですか?」
「もちろんだとも! ぼくらのいえはおおきいからね。げるぶもそういっていることだし、なにもしんぱいはいらないよ。なに、あれだけのひとでをそうどういんしてさがせば、すぐにみつかるはずさ」
それは頼もしいけど、ヒューノットがいるかどうかは定かではない。
扉が見つかれば、さっさと戻ることができて助かるけど。
ゲルブさんの大きな手に座る形で、ゆっくりと運ばれていくのは何だか不思議な感じだ。
やっぱり、人形が大きくなったというよりも、私が小さくなったのだろう。
家まで大きなサイズになっている様子を眺めながら、一際大きな建物へと入り込む。ゲルブさんやグラオさんでも、難なく入り込めるほどの大きな扉に巨大な家だ。
外では、たくさんの人形たちがわらわらとどこかへ向かっていく。
探してくれているのだろうけど、見当はついているのだろうか。いるかどうかもわからないのに、ちょっと申し訳ない。
「それにしても、やよいちゃんがもりのほうからきたときいて、とてもおどろいたよ。それもひとりでね。なにごともなくてよかったが、まんがいちがあってはいけない。ひゅーのっとくんには、きちんとはなしをしておかなければならないね。おんなのこをほうっておくなんて、かれらしくもない」
そうかな。割とヒューノットらしいと思うけど。
ゲルブさんに抱えられたまま待っていると、グラオさんが大きな椅子の上に分厚いクッションを乗せてくれた。なるほど。それで私の背丈でも、テーブルが使えるというわけか。いや、そもそも、全部が大きすぎるんだけど。
とにかく、気遣いには感謝しかない。
でも、不思議な感じだ。いくら大きいとはいえ、それでもグラオさん達は本来なら私の膝くらいまでの高さしかない。
「しかし、どうしてそんなにちいさくなってしまったんだい? それでは、まるでにんげんのようだよ」
「はは……」
定義が違うのかもしれないし、うっかり口を滑らせるとやばい気もするし、笑って誤魔化した。
こんなにもいい人たちに対して、私はなかなか不誠実だ。
「それに、どこからきたんだい? もりのむこうには、いのりのおかしかないというのに」
「あ、えっと、そこから来ました」
「いのりの? おお、それでは、れーつぇるちゃんやつぇーれくんとも、あえたということかな?」
「あー、はい。そうです」
笑みを浮かべたグラオさんは、嬉しそうに笑いながら椅子を引いて座った。
私をクッション上に下ろしてくれたゲルブさんも、グラオさんの隣に行って椅子を引き出して腰掛ける。ふたりが並ぶと、壁のようだ。
「あのこたちは、げんきにしていたかな?」
「はい、ふたりとも元気そうでしたよ」
少なくとも、小さなツェーレくんは元気だった。
お姉ちゃんの方は、よくわからないけど、言うまでもないだろう。
「それはよかった。いろいろあってね、かれらのよくないはなしもきいていたんだ。きょうだいは、なかよしがいちばんだ。そうだろう? げるぶ」
「まったくだ」
隣り合って座る彼らは、確かに仲が良いのだろう。
あちらの姉弟は、どうだろう。少なくとも、弟は姉に懐いているようではあった。姉の方も、弟を多少は気にかけているようにも見えたけど、実際のところはわからない。まあ、家族なんて、そういうものだろう。他人がとやかく言うことでもない。
「よくない話っていうのは、何ですか?」
ひとまず、探りを入れてみることにした。
ヒューノットが見つかるにしろ、見つからないにしろ、月の扉が発見されるまでは足止めだ。
あちらにはツェーレくんを待たせていることだし、時間を無駄にするよりは、せめて情報のひとつくらい持って帰りたい。
「たんなるうわさばなしだよ。れーつぇるちゃんが、つぇーれくんにつらくあたっているだとか」
「わるいものをつくっているというはなしもあった」
「そうだね。かぎのひとにも、ひどいことをしたときいたこともあるね。しかし、やよいちゃん。それはすべて、うわさばなしなんだ。われわれもきいたことがあるというだけで、みたわけではない。みてもいないのに、そういうものだときめつけてはいけないからね。よくないはなしがでなくなれば、そのうち、みんなわすれてしまうとも」
あまり具体的に言ってくれないのは、あくまで"噂話だから"なのだろう。
ふたりはとても優しいようだ。確かによくない噂は、聞かされる方も言われる方もよい気分ではない。
鍵の人にひどいことをした、というのは、気になるところではあるけど。
「あの」
「なんだい、やよいちゃん」
「グラオさんやゲルブさんは、星の後継者というのは、知ってますか?」
星の正統な後継者だったか。何だっけ。統率者だ。
レーツェルさんの言葉を思い浮かべようとしたけど、あの独特な目も思い出しそうになってやめた。
ふわっと。そうだ、ふわっと。ニュアンスで伝われば、それでいい。
ふたりはそれぞれに顔を見合わせた。
「りそうのおうさまのことかな?」
「ほしのうけざらかもしれないな」
「うけざらではないよ」
「では、わからん」
ゲルブさんが肩を竦めてサジを投げ、グラオさんが私を見た。
思わずちょっと背を正しそうになったけど、クッションが柔らかすぎて無理だ。
重みが全部持っていかれてしまう。
「やよいちゃん。それはきっと、りそうのおうさまのことだね。ほしがえらぶとも、ほしのこがなるともいわれている。りそうのおうさまは、このせかいのすべてにしあわせとあんねいをもたらすといわれているのさ」
「だが、おとぎばなしだ」
「そうだね。ぼくらも、いままでりそうのおうさまがうまれたとは、きいたこともないよ」
「……そうですか」
うーん。何も進んだ気がしない。
統率者が理想の王様だというのなら、まあ、意味としてはわかる。
そして、それがこの世界に必要だという判断もわからないでもないけど。
でも、理想の王様はあくまで理想の王様。理想の、つまりは想像上の存在。ふたりが言う通り、おとぎ話だ。
もしかして、レーツェルさんはその理想の王様とやらになろうとしているのだろうか。そのために、邪魔をしないで欲しいと言っていたのだろうか。
レーツェルさんはツェーレくんを守りたいと言っていたけど、王様になれば守ることができるのかどうか。
「りそうのおうさま、ほんがあったんじゃないかな? げるぶ」
「にいさん。それはもう、ずっとむかしになくしてしまった」
「あー、そうだったかな。ああ、そうだったね。あんなにおおきなほんを、どうしてなくしてしまったのだろう。やよいちゃん、もうしわけないね」
「いやいや。そんな、いいんですよっ」
そこまでしてもらわなくても大丈夫だ。
こんなにも親切にされて、むしろ申し訳ない気分になってきた。
ゲルブさんが暴走していたとはいえ、あのときの狼藉があれば特に。
窓の外を見ると、もうそろそろ日が暮れ始めている。
どうしよう。ヒューノットはまだ見つからないのだろうか。いや、それよりも扉か。
少しそわそわしていると、グラオさんが立ち上がった。
それと殆ど同時に扉が開かれる。
「ありましたー!」
「ありましたよ、とびらが!」
「みつけました!」
「みつかりましたよ、みかづきです!」
「もりのなかでした!」
外からたくさんの声が届いて、ちょっとびっくりした。
しかし、どうやらヒューノットは見つからなかったらしい。
では、ここには来ていないのだろう。残念。
「おお、みんな、ありがとう。では、やよいちゃん。あんないしよう。こちらへおいで」
おいでも何も、いきなり再び抱え上げられてしまった。
フェルト人形に二度も抱えられるなんて経験は、まず有り得ない。
一足先に出たグラオさんを追いかける形で、ゲルブさんの大きな腕に乗ったまま外に出る。
見上げた空には月と星があるけど、もしかしてあれもフェルト生地なのだろうか。
空の端には夕暮れが追い遣られていて、反対側からは夜が迫って来ている。
のっしのっし。歩くスピード自体は緩いけど、ふたりともサイズの通りに歩幅は大きいようだ。
左右に重心が傾くせいか。どうにも横揺れが激しくて、乗り物酔いしやすい人にこの移動方法はなかなか厳しい気がした。私はどちらかと言えば酔わないタイプだけど、それでもひょっと胃が揺れるような感じがする。
彼らの足元では人形たちがうろちょろしていて、ビッグな兄弟が蹴り飛ばさないかひやひやしてしまう。
森の中へと入り込めば、ほどなくして三日月の描かれた扉が見えて来た。
ゆっくりと少しずつ浮き上がっているようだが、グラオさんが容赦なく地面に置き直した。めっちゃ力技だ。
「さあさあ、やよいちゃん。どうぞ」
「どうぞ」
グラオさんの声に応じて、ゲルブさんが降ろしてくれる。
地面に降り立つと、まだちょっと揺れている感じがしてしまう。
「ひゅーのっとくんは、このあたりにはいなかったみたいだ。でも、もしもみつけたら、きちんといっておくよ」
「ありがとうございます」
「またおいで。ぼくらは、いつでもかんげいするよ。そうだろう? げるぶ」
「もちろんだ」
ゲルブさんと話せることがよほど嬉しいのか。
元々そういう感じだったのか。
グラオさんは、しきりに同意を求めているように見えた。
町長兄弟に対しても、そして少し遠くで見守っているフェルト人形たちに対しても、頭を下げておく。
それから、三日月が白い光を纏っていることを確認して、扉に手をかけた。
「それじゃ、また!」
一度振り返って手を振ってから、一気に扉の向こう側へと飛び込んだ。
飛び込んだというか、そのつもりはなかったけど、吸い込まれるような感じだった。
そういえば、黄金の林檎は渡したままだ。
そんなことを思いながら、顔を上げると、ツェーレくんがきちんと座って待っていた。
体育座り。何それ。かわいい。
「おかえりなさい、ヤヨイ!」
「ただいま」
しかし、ヒューノットはいなかった。
少し期待していたけど、ハズレだったらしい。
背後で扉が閉じていく。
音は、とても静かだった。




