28.崩壊の音
「――――…………え?」
目を開いたときには、ツェーレくんはいなかった。
いや、ツェーレくんだけではない。ヒューノットも、レーツェルさんもいない。
そして何より、私が立っている場所は噴水の前ではなかった。
手元には、赤い表紙の本。そして、すぐ傍にはテーブル。
ここは、知っている。さっき来たばかりの、書庫のようなあの部屋だ。
私はテーブルの傍らで、赤い本を持ったまま立ち尽くしているような状態になっている。
どういうことなの。ちょっと理解が追い付かない。
ついさっきまで傍らに感じていた吐息すら、今はもう欠片も残っていない。
あれだけ耳についていた噴水の微かな水音さえ、耳の奥に少しも留まってはいなかった。
「…………」
ツェーレくんは、どこに行ったのか。
いや、それよりもまずはヒューノットを探すべきかもしれない。
本をテーブルに戻して書架の間を抜けていく。
おかしい。おかしいおかしい、いつからおかしいのかも分からない。
焦りながら足を進めるものの、一向に扉が見えてこない。
確かに広い空間だ。広くて、そして書架のせいで狭い。そんな空間ではあるけれど。
こんなに広くはなかったはずだ。
まるで迷路に迷い込んだような、そんな気分になってくる。そしてそれは、きっと間違いではない。
ツェーレくんは、逃げてと、確かにそう言っていた。何から、あるいは、誰から逃げろと言ったのか。
逃げろと言うからには、危険があると考えるべきなのか。
「……」
歩いても歩いても、扉は見えてこない。壁は一面、ずらりと本で埋められている。出口がない。視界を遮る書架は乱立していて、規則性がない。
いくらなんでもおかしい。
いよいよ焦ってしまって、変な汗が出始めた。そのときだ。
背後から何か音がした。
振り返ってはみるけれど、背の高い書架がたくさんあるせいで何も確認することができない。
足音ではなかった。何かが擦れるような音。金属ではない。衣擦れの音でもない。
「……ツェーレくん?」
そっと呼びかけてみる。
すると、ぱたんと本を閉じる音がした。
「……ツェーレくん、かなぁ?」
だったらいいなぁという気持ちで、もう一度だけ呼んでみる。
まさかこれでバケモノが出るとかないよね。そんなことになったら、もう確実におしまいだ。
今はヒューノットが傍にいない。くそ、あんなヤツでも私のために戦ってくれるんだ。離れなければ良かった。
心臓が耳の奥にあるのかと思うほどに煩くて、落ち着かせようと胸を押さえても意味がない。
自分から覗き込む勇気はなくて、その場に留まって待つしかなかった。
十秒。二十秒。三十秒。
数える気はなくとも、何となくカウントを続けてしまう。
「――ヤヨイ?」
ひょこっと。
書架の向こう側から顔を出したのは、ツェーレくんだった。
しかも、小さい。うん、かわいい方の、ツェーレくんだ。
「……」
間違いない。
やっぱり、ツェーレくんだ。
「ヤヨイ? どうしたの、ヤヨイ」
「……はあぁああー、よかったぁああー」
小さな歩幅で近付いて来たツェーレくんは、私の服の裾を握って引っ張ってきた。
うん、かわいい。
思わず屈み込んで、ぎゅっと抱き締めてしまうくらいかわいい。
私もなかなか欧米人っぽくなってきた。リアルに会ったことはないけど。
「ヤヨイ? ヒューノットと、けんかしたのです?」
「んんー、してないけど、しててもいい。もうなんでもいい」
「こわいことがあったのです?」
「あったのですよー」
いや、なんか思わず安心しちゃったけど、違うなこれ。
さっきの出来事は、まだ何も解決していない。
でも、ひとりぼっちの心細さからは解放された。
ぎゅうーっと抱き締めていると、小さな手が私の背を叩いた。
なんていい子なんだ。ヒューノットだったら、こうはいかない。
「こわいのはよくないねっ。えっと、とんでけー」
くそ、かわいい。
色々間違ってるなとは思うけど、かわいいものはかわいい。かわいいは正義。勝てば官軍。
これがあの、何というか。とんでもないイケメンに化けるのだから凄まじい。
そりゃ成長するんだから、多少の変化はあるだろうけど。それにしても、すごかった。びっくりした。
超ど級のイケメンだった。王子様感がハンパではなかった。あれに比べたら、ヒューノットなんてチンピラだ。
いや、そもそも比べることが間違っているレベル。
「はー、ありがと。こわいのなくなっちゃったー」
心ゆくまで抱き締めてから、ゆっくりと解放した。満足。
ツェーレくんは満足げに頷いてくれている。
あー、もー、なんて純粋なんだ。かわいい。
ちょっと嘘をついてしまった私を許して欲しい。
と。癒されすぎて忘れそうになっていたけど、確認しないといけないことがある。
気を取り直して、ツェーレくんの顔を見つめた。
「ツェーレくん、私たちが初めて会ったのはいつだったかな?」
「?……どうして、そんなことを聞くのです?」
それはまあ、当然の疑問だ。
でも、聞かないと詰まっている部分がある。私は少しだけ考えて、「謎解きかな」と言った。嘘ではない。
「なぞときー……ぼくがヤヨイと、はじめて会ったのは、昨日ですっ」
昨日。
昨日とな。
何だそのパターン。
確かに今のツェーレくんは年を取ったとか、そういう感じではない。
さっきみたいに、何年か進んだという感じではなさそうだとは、まあ、気が付いていた。
「昨日かー、そっかー、昨日かー」
がんばれ、私。頭をフル回転させろ。
うんうんと頷きながら、言葉を探す。
ツェーレくんは不思議そうにしながらも、きちんと待っていてくれている。
いつもそうだ。
歩いているときも、きちんと待っていてくれた。
急かすことすらしない。
「昨日のこと、忘れちゃってさー。何をしたか教えてくれる?」
「わすれちゃったのですかっ」
びっくりさせてしまって申し訳ない。
でも、私にはツェーレくんの言う"昨日"は存在していない。
もしかすると、タイムトラベルしちゃっているのは私ではなくてツェーレくんかもしれない。
ただ、現時点でそれを判断するには、まだまだ情報が足りない。
これで噴水の前にヒューノットたちがいれば、それなりに確信が持てる、はず、だ。たぶん。
「あねうえは、ヒューノットとお話があったのです」
「うんうん」
それが噴水前の話だったとしたら、確かにあった光景だ。
まあ、場所なんてどうでもいい。
ヒューノットとレーツェルさんが会話をしていた。それは確かだ。
少なくとも、私はそれを目撃している。
「だから、ぼくはヤヨイをごあんないしたのですっ」
「……あ。あーっ、あーあー、うん、そうだったねー」
案内したのに忘れたとか言われたら、そりゃびっくりするよね。もう本当に申し訳ない。
その場で背伸びをしたツェーレくんは、私に手を差し出してきた。
何だろうかと思って手を重ねると、ゆっくりと引っ張られる。
「おわすれなら、またごあんないしますっ」
ツェーレくんは積極的だった。
手を引かれるがままに身体の向きを変えると、すぐ眼前に扉が見えた。
流石に口許がひくりと震えて引き攣った。なかったなかった、絶対になかったよ。
だが、そんなことを言い出しても仕方がない。
扉は何の抵抗もなく開かれ、あっさりと廊下に出ることができた。
廊下自体にも異変は感じられない。奇妙な物音もしない。
私の手を引くツェーレくんは、分かれ道をそのまま真っ直ぐに進んでいく。
まさかとは思ったけど、やっぱりあっちにも部屋があるようだ。ツェーレくんの言う昨日、私は何を見せられたのだろう。
「こちらなのです」
何の変哲もない廊下を歩き続けて辿り着いた扉の前で、ツェーレくんはゆっくりと手を離した。
扉自体も特に何の違和感もない。
少し背伸びをして取っ手に触れる小さな手の動きを眺めながら、僅かな緊張感に喉を上下させた。
何があるのかも分からない。何かがあるには違いないんだろうけど、何というべきか。
ああ、やっぱり先にヒューノットを呼べば良かったかもしれない。
ゆっくりと、扉が開かれていく。すると、急にその速度が変わった。がくん、と、ツェーレくんが前のめりになる。慌ててその身体を支えると、小さな手から扉が離れた。そのまま、ゆっくりと開かれていく。
「――いらっしゃい。お待ちしておりましたわ」
聞きたくない声だった。
ツェーレくんの肩を支えながら引き寄せる。小さな身体がきちんと立てるまでを見守ってから、渋々顔を上げた。
扉を内側から開いたのは、やっぱりレーツェルさんだった。
年の頃は、二十歳くらいの姿だ。少なく見積もったとしても、せいぜい十代後半がいいところだろう。決して、ツェーレくんと双子には見えない。よく似た色合いをした金髪に、全く色味が異なる碧眼。光が通り抜けるような白い肌はふたりとも同じ。レーツェルさんのほっそりとした華奢な身体も、おっとりとした垂れ目も、光沢のない黒色のロングワンピースも、前に見た時と特に変わりはない。
「あねうえっ、いらしたのですかっ」
ツェーレくんが背を正した。
正直、私はレーツェルさんが苦手だ。さっきも、誰かが扉を開いたと分かっていて、内側から強引に引っ張ったようにすら思える。まあ、単純に気に入らないから、そういう風に受け取ってしまうのかもしれないけど。でも、その時点で苦手であることは確定だ。少なくとも、私からの良い印象は全くない。
レーツェルさんはツェーレくんに視線を落としてから、ふっと目を細くした。
「ええ、案内ご苦労さま。ツェーレ、お茶の用意をしてくれるかしら?」
身体を少しずらして中に招き入れられた。
ツェーレくんが元気な返事をして飛び込んでいく。そのあとを追うかどうか迷った私は、すぐには動けなかった。
彼女がここにいるのなら、ヒューノットはどこに行ってしまったのだろう。
「あの」
「どうぞ、中へ。お入りになってくださいませ」
「ヒューノットは……」
「お話でしたら、中でお聞き致しますわ。さあ、どうぞ」
有無を言わせないこの感じ。丁寧ではあるし、柔らかな雰囲気でもあるけれど、そちらを裏切るチグハグさ。これは何なのか。
一瞬ばかり踵を返しかけたが、何とか前に進ませた。
招かれて入り込んだ室内は、まるで植物園だ。
天井から細い鎖で吊り下げられた幾つもの籠から、緑色の葉がついた蔦が流れるように落ちていて、壁に引っ掛けられた編み籠や大口の瓶からは溢れんばかりに咲き誇った花が顔を覗かせている。絨毯が途切れた室内の床は四角い石が規則的に並べられていて、よくよく見れば石同士の間には水が流れているようだ。水路というには細い。ペン先ほどしか幅がない。深さは分からないけど。
壁に寄せて床に置かれた幾つかの半球を描くガラスの器からも、私には名前も分からないような植物が顔を出している。長方形の鉢が並べられている場所もあって、そこにはそれぞれ葉の形が違う統一性のない木々が立っているけど、中庭部屋ほど背の高さはない。
「足元にお気をつけてくださいませ。くれぐれもこの子たちを踏み散らさないで」
招いておきながら、そんな言い草はないよね。
返事はせずに頷きだけを返して、細い水路を踏まないように気をつけながら石板に足を乗せる。背後で扉が閉じる音がした。
私に背を向けたレーツェルさんは、ゆっくりと奥へ進んでいく。
あなたのその無駄に長いスカートは水路に引っ掛かったりしないんですか。とか言いたい。言わないけど。
奥まで歩いていけば、白い石で出来上がった階段が現われた。階段といっても、五段ほどしかない。階段を上がれば、透明なガラスで覆われた一室へと辿り着く。何だろう。温室みたいな感じだろうか。
そこだけは植物が何も置かれておらず、猫足のテーブルセットが並んでいる。
椅子の上で膝立ちになっているツェーレくんが、紅茶を注いでいた。
「……」
なんというデジャブ。
ツェーレくんには何の罪も責任もないけれど、このデジャブは回避するべきだったとしか思えない。
ヒューノットがいない。そして、男女の組み合わせに私。
更には、紅茶。見覚えがありすぎて、口をつけたくない気分。
あの館でも、ヒューノットはいなくなっていた。理由の方は、とうとうわからないままだ。きっと明確な答えはないのだろう。
静かに一番奥の椅子に腰を下ろしたレーツェルさんは、こちらを客だとは思っていないようだ。
まあ、それはどうだっていい。こっちだって、呼ばれて尋ねてきたわけではない。イレギュラーであろうことは理解できる。だったら、この部屋に入れなきゃいいのに、という気持ちはある。言えないけども。
「お掛けになってくださいませ」
「どうぞーっ」
一足先に紅茶を飲み始めたレーツェルさんに続き、ツェーレくんが声を掛けてきた。
椅子から降りたツェーレくんは、いそいそと私のために別の椅子を引っ張り出してくれている。
この場では君だけが良心だよ。本当にもう。
ただ、そうされてしまうと座らない私が悪いみたいになるわけで、つまり座らないとだめな気分になるわけで。今は、ちょっと歓迎しない。
「ありがとう」
一応お礼を言うと、ツェーレくんは嬉しそうに笑った。
レーツェルさんの真正面はさすがに荷が重いので、自分でちょっとずらして座る。
微妙な抵抗だ。
「ツェーレ、もうよろしくてよ。あちらで遊んでらっしゃい。私たちは、少しお話がありますの」
私にはないです。
と、言いたかったけど、命が惜しいのでやめておく。
お茶の用意をさせた挙句に追い払うとか、もう心底から嫌なんだけど。でも、話の内容によっては聞かせたくない。
「ありがとうね、あとで遊ぼうね」
ぺこっと頭を下げて立ち去ろうとするツェーレくんに、そっと声を掛けた。
いや、まあ、遊んだことはないんだけど。でも、こんな小さな子が人の言いなりになっているのは見ていて辛い。まだ世話をされているだけでもいい。そんな年頃だ。よその家庭事情に口を出すつもりはないですけど。たくさん遊んでいて欲しい。
「うんっ、ヤヨイ、またねっ」
「またねー」
小さな手を控えめに振ったツェーレくんが立ち去ると、一気に空気が重たい。
そして、振り返していた手を引っ込めてしまえば、いよいよ困惑がやって来る。
視線のやり場もなくて、テーブルの上に落とすしかない。白いカップに入っているのは、ローズティーだろうか。
上品な仕草で紅茶を飲んでいるレーツェルさんに視線を向けてみたけど、ひとりで勝手に気まずくなってしまった。
「あの、すみません。ヒューノットはどこですか」
単刀直入。
何事も遠回りすれば良いというものではない。
ほら、慇懃無礼って言葉もあるし。あれ、そういうことではないのかな。
あ、でも、急がば回れとも言うな。あー、もうわけわかんない。
ここはあれだ、シンプルイズベストってことで。って、誰に言い訳しているのか。
「さあ?」
返された答えの方がシンプルを極められていた。
さあ、って。さあってお前。そんな無責任な話あるのかよ。
ゆったりとした仕草で、カップがソーサーの上に置かれた。
「私は、あなたとお話がしたくてお呼びしましたので。ご心配なさらずとも、そのうち迎えに来てくださるでしょう」
呼ばれた記憶もないし、私はお話したくないですし、お断りしたいです。
あと別に、送迎の心配をしているわけでもない。
若干、ボディガードがいないような気分ではあるけど。
もしものときは、シュリを呼べばいいかなとは思っている。
視線の矛先がないものだから、結局は紅茶を眺めてしまう。
そういう仕草が情けなさを演出してしまっているのかもしれないけど、レーツェルさんと真っ直ぐに見つめ合うとか無理怖い。
「――あなた。彼とは親しくしていらっしゃいますの?」
「……はい?」
当然の質問に戸惑った。
流れ的に彼とはヒューノットのことだろう。しかし、親しくってなんだ。親しそうに見えたのか。見えるわけない。
「いや、別に、それほどでは……」
何か照れ隠しのような言い回しになってしまった。
話をしないほどよそよそしいわけではないけど、まだ親しいといえるほどの距離感でもないと思う。
それは私がどうのという話ではなくて、完全にヒューノットの問題だ。最近ちょっとわかったことといえば、だんまりのときは割りと肯定のパターンが多いということくらい。
「あら、そうでしたの。それはそれは。酷な事をお聞きしてしまって、失礼致しましたわ。どうぞ、お許しになって」
酷なことって。
言葉選びにいちいち悪意を感じる。
「……レーツェルさんは、ヒューノットと親しいんですか?」
一応、聞いてみた。
別に興味はないけど。
あの時の会話からすると、親しいとは思えない。
親しさで言うのなら、シュリの方がずっとヒューノットと親しい感じだ。
「ご想像にお任せ致しますわ」
何だこいつ。
会話する気ないだろ。
流石にカチンッと来てしまって、眉間に皺が寄った瞬間を自覚した。
私だけが気を遣っているみたいになっていることにも、何だか腹が立ってきた。どうなっているんだ。それとも、そういう作戦なのか。相手のペースに飲まれるのも癪だ。努めて冷静になるべきところだろう。がんばれ私。このところ、ずっと自己応援しているような気がする。
「――では、あなたは私とツェーレを引き裂く為に来たわけではない、という解釈でよろしくて?」
「はい?」
話の繋がりが全く見えなくなった。
何だ。何の話なんだ。一体、何がどうなって、そんな話になっているのか。あなたは、というか、ヒューノットだって、そんなつもりで来ていないと思う。そのあたりはコミュニケーション不足で絶対だとは言い切れないけど。
ほっそりとした白い指先がティーカップの縁をなぞる。
目を伏せたレーツェルさんも、よくよく見れば人形のようだ。美しいという言葉よりは、単純に整っているという感じかな。大きくなったツェーレくんと似ているかもしれない。いや、どうだろう。わからない。
私の反応は不可解ですと言わんばかりだったようで、レーツェルさんは薄笑みを浮かべた。
「そう。でしたら、構いませんわ」
「はあ……」
「あら、ご不快でした? お許しになって。私たちの役割を奪われてしまうものと警戒しておりましたの。あなたに関しては誤解でしたわ。お詫び致します」
椅子に深く背を預け直したレーツェルさんは"安心した"といった様子で、全然お詫びするという感じではない。しかし、謝る気がないことだけは伝わってきたからどうでも良かった。
しかし、姉弟を引き裂くというのは、穏やかではない。まあ、あんまりにもこき使われているようだったら、私だって引き離してやりたくなるとは思うけど。ヒューノットがどういう意図を持っているのか、そこまではわからない。知る由もない。
あなたに関しては。つまり、ヒューノットはまだ除外されていないということだ。当たり前といえば、まあ、当たり前だろう。
「質問してもいいですか」
「どうぞ、構いませんわ」
「役割って、何のことですか?」
質問するだけ無駄だろうとは思ったけど。
ひとまず、聞くだけ聞こうというスタンスで行くことにした。何と思われようが、どうでもいい。ストレートに聞くぞ。
私の問い掛けに対して視線を持ち上げたレーツェルさんは、再びカップを持ち上げて口をつけた。
そして、ゆっくりと喉を上下させてからカップを戻していく。
「御仁からお聞きになっているのではありませんこと?」
「ごじん?」
誰だ。誰のことだ。
確かヒューノットとの会話でも、そんなことを言っていたような気がする。
「あら、ご存知ありませんの。それは失礼致しましたわ。何も知らされていないだなんて、思いませんでしたの」
意図的なのかはわからないが、いちいち癪に障る言い方だ。
言葉選びが絶望的に下手なのでなければ、きっと意識的にやっている。
再び紅茶を口に運んだレーツェルさんの仕草を眺めながら、私もティーカップを持ち上げてみた。
用意してくれたのは、ツェーレくんだし、飲まないと失礼なような、気がしないでもないような、そうでもないような。
何だか話す気が失せたともいう。
聞くだけ聞こうとは思ったけど、どうにも相性が悪いようだ。
レーツェルさんがカップを戻したタイミングで、紅茶を飲んでみた。ほんのりと甘くて美味しい。
「――私の役割は、大地の声を空に届けること」
不意に話し始められて、ちょっと驚いた。
視線を持ち上げると、レーツェルさんは目を伏せていた。
そうやってみれば、何だろう。大きくなったツェーレくんとレーツェルさんは、やっぱりよく似ているようにも見える。
「――ツェーレの役割は、空に星を返すことでしたわ」
過去形だ。
そうだ。それはすべて、星が落ちてしまう前のことだったと聞いた。
目を伏せているレーツェルさんは、どこを見ているという様子でもない。
遠く、どこか、強いて言えば過去を思い出そうとしているかのように見える。
私は相槌を打たずに、ただ次の言葉を待った。
「私たちの愛した世界は、空の崩落に伴って壊れ始めてしまいましたわ。世界は救済を待ち、災厄を鎮める方法を模索しましたけれど。幾ら待っても、落ちて来るのは役にも立たない痴れ者ばかり。――――ねえ、傍観者」
びくりと肩が震えた。
カップを持つ指先にも震えが走る。
そうだ。この人は、私の名前を呼ぼうとはしなかった。いや、それどころか、聞こうともしなかった。
この人にとって重要なのは、誰であるのかということではなくて、どのような役割を持っているのか、だ。
震える手でカップを置く。
長い睫毛に縁取られた碧眼が私を見つめている。返事の声は、出せなかった。
「私はこの世界を、そしてツェーレを、愛しておりますの。愚かな道化を幾ら繰り返しても、結果は崩壊の一途。それならば、咎人と謗りを受けようとも、私は私の愛するものを私の手で守ろうと誓ったまでですわ」
レーツェルさんがゆっくりと立ち上がる。
カップは、もうとっくに空になっていたようだ。
物悲しげな微笑はどこか儚くて、そしてとても淡い。
「どうぞ、御仁にお伝えになってくださいまし。この世界に必要な救済は、無責任な傍観者ではなく、正統なる星を受け継いだ統率者ですわ。私はこの考えを改めるつもりなど毛頭なくてよ。邪魔立てする者は、なんびとたりとも決して許しませんわ。……燃え盛る災厄の業火を払い去る事すら出来ないのであれば、傍観者には――どうか、無言を貫いて頂きたいものですわね」
柔らかな声が鋭い言葉を落としていく。
私が彼女から受け取っていた嫌な感覚の正体が分かったように思えた。
レーツェルさんの根底にあるのは、とても強い怒りのようだ。それも、打ち据えられ続けた結果に出来上がったもの。
小さな足音が、ガラスに包まれた一室に響く。
隣までやって来たレーツェルさんが私の肩に手を置いた。
跳ね上がったのは心臓だけではなかっただろう。ゆっくりと見上げれば、そこには微笑を浮かべた顔があった。
「――私の用件は済みましたわ。どうぞ、遊んであげてくださいまし。あの子にはお友達が必要ですので」
ゆっくりと足音が遠ざかっていく。
私は彼女の言葉に対して頷くことができたのかどうかすら、全く自信がなかった。
足音が遠く離れて、そして消えてしまったところで、やっとひと息をつく。
カップに残った紅茶は、とっくに冷めてしまっていた。
「……」
心臓がすごく煩い。
痛いくらいに早い。
グラオさんもプッペお嬢様もルーフさんも、バッドエンドを繰り返していることを自覚していなかった。
いや、そもそもとして、選択肢があることさえも、彼らは気が付いていないようでもあった。だから、私は案内人であるシュリと選択肢を掲げるヒューノットだけが、記憶を保っていると思っていたのに。
彼女は、レーツェルさんは、まるで鮮明に記憶を保っているかのようだった。
それなら、彼女の立ち位置とは何なのだろう。グラオさん達とは違うということなのか。
災厄というのは、たぶんユーベルのこと。星を受け継ぐというのはわからないけど、傍観者はプレイヤー、つまりは私のことだろう。無言を貫けというのは、選択するなという意味のように聞こえたけど、実際はどうかわからない。
重要なのはきっと、星を受け継いだ統率者。それが何を意味しているのか。
そして、災厄の業火。
災厄はユーベル。災厄の業火は、あの時、火花を散らして落ちてきた星。だとすれば。
「――……っ」
テーブルに手をついて立ち上がった。
落ちて来る星たち、青い炎が燻る光景、意識を失ったシュリの姿、燃え落ちた黒い衣、鼻腔に残った焦げ臭さ。あの時の、すべてが、まざまざと蘇る。
シュリを呼ぶなんて、そんなこと。できそうにない。
レーツェルさんは、一体どこまで知っているのだろう。
彼女もヒューノットのように、繰り返し続けた過去を、選択の結果を、覚えているのだろうか。
「……ヒューノット」
そうだ。ヒューノットを探さないといけない。
早く合流しないと。
喉が張り付いて、呼吸さえもうまくできない。
乱暴に椅子を退かせてテーブルに背を向ける。ガラスの一室から飛び出して、植物達の間を抜けるうち、扉がなかったらどうしようかと思ったけど。
扉は半開きのままになっていた。不自然だ。でも、今はそんなことに構っていられない。
廊下に飛び出て、その勢いのまま走って中庭部屋を目指した。
足がもつれそうになるけど、早くヒューノットを見つけないといけない。
長い廊下を走り抜ける間にツェーレくんに合わなかったのは、今は幸いだ。開かれたままの出入り口をくぐった先に広がる箱庭のような光景は、相変わらず何も変わってはいない。
「――ヒューノット!」
声を出して呼ぶものの、返事がない。
そういうのはやめて欲しい。書庫のときもそうだったけど、不安になってしまう。
今から何かが起こるとしても、起こらないとしても、ヒューノットと合流しないとだめだ。
レーツェルさんのあの言い方だと、まるでツェーレくんに何か起こってしまうようでもあった。それが心配だ。
「ヒューノットってば!」
噴水の前までやって来たけど、そこには誰もいなかった。
まさか帰ってしまったのだろうか。
いやいや、そんなはずはない。
「ヒューノット! いないの、いるのっ、どっちなの!」
どっちでもいいから、とにかく答えが欲しい。
無茶苦茶なことを言っている自覚はあったが、どうにも落ち着かない。
落ち着かないどころか、心臓が痛いくらいに大騒ぎしていて苦しい。
じわじわと、妙な汗が浮いてくる。
噴水に背を向けて、ここへ来た時に通った廊下へと駆け出した。
どうしていないの。
どこにいるの。
一体、どこに行ってしまったの。
さっきの場所にいないなんて、想定外だ。
呼んでいるのに。
「……ッ!」
廊下を駆け抜けて、聖堂のような、大きなホールへと入り込んだ。
そして、すぐに足を止める。
足元に散乱しているのはステンドグラスの破片だ。
差し込んでいる光の色合いは疎らで、どこかに穴が開いているのだろうとすぐにわかる。
色褪せた絨毯が伸びたその延長線上に、喪服のような黒色のワンピースを着た女性が背を向けて座り込んでいる。
そして、誰かの脚。女性が抱えている誰かの脚は投げ出されたままでぴくりとも動かない。
無意識のうちに、喉が上下した。
飲み込んだ唾さえ、腹の底へと重たく沈む。
躊躇の時間は数秒だった。色の付いたガラスの破片たちを踏み越えて、出来る限り静かに前へと進む。
近付けば、その女性が誰なのかはすぐに確信が持てる。彼女以外である可能性は低かったけど、その低い可能性を望むしかなかった。
「……レーツェル、さん」
数歩手前で足を止めた。
座り込んだレーツェルさんが抱いている人物に意識はないようだ。
頭を抱き寄せた彼女は、ただ小さく震えている。
名前を呼んでも、振り返りもしないまま。
後ろを振り返ると、ステンドグラスが派手に割れている様子が見えた。
差し込む光が、座り込んだふたりを照らし出している。
柔らかくて優しいその光は、ただ無情に室内の一部を明るくしているだけだ。
「――……あなたには、お分かり?」
レーツェルさんの声が響き渡る。
視線を前に戻すと、肩越しに振り返った顔が見えた。
そして、その向こう側。
さっきまでは深く抱き込まれていて見えなかった、その顔が彼女の身体越しに覗いている。
「――……いいえ、分かるはずなんてありませんわね」
目を閉じて四肢を投げ出しているのは、大きくなったツェーレくんだった。
力なく落ちた長い脚。乱れた金の髪。血の気のない白い肌。中途半端に開いた手指。薄く開いた唇。重たげに落ちた瞼は、赤い瞳を隠したまま持ち上がらない。
無意識のうちに、一歩、そして二歩。後ずさってしまう。
飛び散った細かなガラス片の中に、赤い液体が混ざっていることに気が付いた。
何かが起こったあとだ。遅かった。あるいは、早すぎた。来なければ良かったんだ。せめて、先にヒューノットと会っていれば。
「……ッ」
走りすぎて上がっていた体温が一気に下がる。
壁面を覆った人型たちの顔が、こちらを向いていた。
すべての顔が、向いている。表情のない顔だ。怒りも悲しみも、そこにはない。
開かれた目は白い。なのに、その視線の先が、意識の矛先が私だとわかる。
「――……この子は星に触れることを許された特別な存在。星と空を、空と大地を、祈りと星を結ぶための唯一無二。声を聞き届ける事ができる、たったひとりの統率者。……あなた達が、傍観者が、気安く触れて良い存在ではありませんわ」
淡々と言葉が放たれる。どこか、責めるような声だ。
私は何度も口を開いては、何も言えずに閉じてしまう。
何が起こっているのか、本当に全く分からない。
もしかして、ヒューノットがこんなことをしたのだろうか。
だから、呼んでも来てくれないのだろうか。
いらない思考がぐるぐると頭の中を支配していく。目の前に広がる光景を、受け付けたくなかった。
「――…………」
彼女が何かを言い放った。
その瞬間、壁際に並べられていた大量の人型が床へと舞い降りていく。
一斉に、一列ずつ、落ちて、降りて。その様はまるで、ばらばらと散っていく木の葉のようだ。
落ちて動かなくなったものもあった。立てずに崩れたものもある。それでも、殆どの人型が向かって来た。それを、まるでスローモーションのように視覚が伝えてくる。
レーツェルさんの声が聞こえない。
何かを言っているのだということだけがわかって、あとは何も分からない。
視界の右も左も埋め尽くして土色の何かが迫って来ているのに、脚は全く動かなかった。
「――ひっ」
いきなり、すべての速度が元に戻ったその瞬間、腕で遮ろうとしながら反射的に目を閉じた。
音は、聞こえなかった。




