24.深淵――深遠
重厚な赤い絨毯が敷き詰められた廊下は広い。
広さとしては、プッペお嬢様のお屋敷と同じくらいか。
いや、下手するとそれよりも更に広いかもしれない。
大人三人くらいなら、横並びになっても余裕を持って歩けそうだ。
そんな歩き方はしたことないけども。
そして隣には並べそうだけど、今のところは無言で進み続けるヒューノットの後ろをついて歩いていくしかない。
空気が重たいからだ。
この廊下には、窓もなければ扉もない。本当にただ、延々と奥へ続いていて景色に変化がない。
実は進んでいませんよーとか言われても、驚かないくらいだ。ムカつきはするけど。
「……」
ムカつくと言えば、ヒューノットは本当にだんまりだ。
別にすごく親切に説明しろとは言わないけど、思い切り背中を押しておいてこの扱いはどうなの、と思わないでもない。
だから、そう。シンプルに言えば、ちょっとムカつく。
つついたりしたら、不機嫌そうにされるだろうか。
ちょっとくらい悪戯してやろうかと思っていたところで、眼前の背中がいきなり止まった。
慌てて急ブレーキを掛けて、前方を覗いてみる。
私は全く気が付かなかったけど、数歩進んだ先に扉があった。両開きの大きな扉だ。
たくさんの花が彫り込まれている。
こういうのも、彫刻って言うんだろうか。彫刻なんて、まず触れる機会がない。
彫刻刀自体、一番細いのと太いので課題のものを作っていたくらいだ。
まあ、作品はうまくできずに途中で投げ出して、未完成のまま提出したわけだけど。
扉とヒューノットを交互に見ていたら、くいっと顎先で示された。
開けろってか。ちょっとは喋れやこの野郎。
ぐいっと横から追い越して前に出て、扉に手を掛けた。
引いてみたがビクともせず、押すのだとすぐに気が付いた。
何だよ、もう。恥ずかしい。
「――……扉が開いたら」
不意にヒューノットが声を出した。
何事かと思って肩越しに振り返りながら、ゆっくりと扉を押す。
「戻れないぞ」
言葉に重ねるようにして、扉を開いてしまった。
あっという間に私の手から離れていった扉は、勝手に左右それぞれに大きく開いていく。
中から誰かが開けたのかとすら思ったけど、すっかり開いた扉は完全に内側の壁に密着してしまったようだ。
思わず足元を見たが、廊下から伸びている赤い絨毯は途切れることもなく続いている。
しんと静まり返っていて、室内に誰かがいる気配もない。
薄暗いせいで、いまいち見えてはいないけど。
「……そういうのは、もっと早く言って欲しいんだけど」
控えめに抗議してみたけど、もう返事ひとつされなかった。
オッケー、わかった。お前はあれだ。
寡黙とかではなくて、ただの意地悪だ。そうでなかったら、究極の面倒くさがりだ。
まあ、どちらにしてもここに来る時にくぐった扉はもう消えたわけだし、戻るという選択肢がそもそもないような気がした。
四面楚歌。万事休す。強制イベントじゃん。
でも、うん。大丈夫。慣れてきた。私は大丈夫。ちょっとムカつくだけだ。
ほんのちょっと。少し、よし。いや、だいぶかな。ううん、かなりかも。
返事もしないヒューノットは無視することにして、扉の中へと足を踏み入れた。
一瞬、足先を使って段差がないかどうかだけ確認したけど、何かあったらシュリでも呼ぼう。
必死に叫ぼう。喚き立てよう。来てくれるだろう。たぶん。
右足の次に左足。扉をくぐって完全に中へと入ったその瞬間、手前から順々に灯りがつき始めた。
壁面に一定の間隔で取り付けられた燭台上の蝋燭が、独りでに火を抱いて室内を明るくしていく。
一瞬ばかり、ビクッと肩を震わせてしまったけど、そろそろこの程度の現象には慣れるべきだろう。たぶん。きっと。
気が付けば、真上にあるシャンデリアも本来の役割を果たしている。
室内が明るくなれば、そこが大きなホールのような場所だとわかった。
壁面にずらりと絵画が掛けられていて、ホール内にも整然と並んでいる。
イメージとしては、絵画の展示会のような感じ。
ただ、絵画に近付けないようにするポールだとか、そういうものはない。
「えー、……何これ。シュリのコレクションかな……」
もしかして、コレクション自慢だったのだろうか。
ちょっと考えてみたけど、有り得ないと思いたい反面、有り得そうで嫌だ。
そんな変なところでボケられても、猛烈に困るけど。
まあ、もしもそうだとしたら、ヒューノットの忠告は何だったのかという話ではある。
それも、当人がきちんと答えてくれない所為で何もわからない。
わからないことばかりだ。
実際のところ、シュリだって聞けば答えてはくれるけど、返ってくる答え自体は明確ではない。
ヒューノットは聞いても答えてくれないから、その点ではシュリの方が助かるけど。
どちらにしても、答えが難解なんだからどうしようもない。
答えが出ないんだから、考えたところで仕方がなかった。諦めるのって楽だよね。
近い位置にある絵画から眺めていくことにして、絵のすぐ手前まで近付いた。
絵画自体は私が両腕を横に大きく広げた程度のサイズはある。
草原らしいものが描かれているけど、人や建物や動物などはない。何だこれ。
「……?」
絵画の近くにつけられた小さなプレートが目に入った。
No.1。記されているのは、たったそれだけだ。
絵画には題名があるものだと思っていたけど、そうでもないらしい。
隣の絵画には、No.8と書かれたプレートが添えられている。順番も並んでいる順とは違うようだ。
プレートの番号と絵画自体の並びは一致しないけど、それ自体に意味があるのかどうか。
ひとまず、プレートの番号は無視して順々に眺めていく。
草原の絵の隣は、きっちりと規則的にレンガが敷き詰められた道が描かれている。
道の両脇には色鮮やかな花が植えられているようだ。
少し飛んで視線を転じると、白いレンガが積み上げられている。
壁だか塀だか、そんなものだ。味気ないし、別に面白くもない。
その隣の絵画は森だ。いや、森なのかどうか。不自然に丸みを帯びたシルエットが並んでいる。
でも、木として塗られたのだとは伝わる色合いだ。陰影などは繊細で、決して下手な印象はない。
それなのに、何だろう。リアリティのない木々だけが、ぼんやりと並べられている。
不気味な気がしてきた。更にその隣には、雪景色の街並みが描かれている。
雪が降り積もった建物自体も薄ら灰色で、全体的に色彩が乏しい。
敢えて、そうしているのだろうけど、これを見て感動するような感性が私にはなかった。
「ホントに何なの、これ」
草原に突き立てられた銀色の剣。それを見た時、はっとした。そうだ。私はこれらを知っている。
慌てて絵画を見返した。規則的に並べられたレンガ道。これは、あの館に繋がる道だ。
現実味のない木々は、フェルト生地で作られている森だからだ。
色合いの寂しい白い街並みは、ヒューノットが住んでいた場所。
それなら、最初の草原はシュリが待っている場所だろう。
もう一度、銀色の剣が描かれた壁際の絵画の前まで戻る。
プレートの番号については、やはりわからない。
更に進んでみるけれど、そこからは知らない景色が多くなって来る。
赤黒い床が広がっているだけの絵。枯れた花と散った花びら。
金髪のお人形が、棚から落ちそうになっている絵もある。
青いペンキが白壁にぶちまけられた絵なんて、芸術というものを全く嗜まない私には奇怪さしか伝わって来ない代物だ。
ペンキの垂れ具合は妙にリアリティがあるけど、よくよく見ると本当に絵の具を重ねて立体感を出している。謎の趣向が凝らされていた。
ふたりの男の子が、木の上と下で会話をしているような絵もある。
上にいる少年は黒髪で、下にいる少年は金髪だ。
背景は黄昏色をしていて、それが金髪に溶け込むような色合いまで出ている。
よくよく見ると、黒髪少年の髪は少し紫が入っているようだ。いや、黒ではないのかもしれない。
濃紫というか、黒に近い紫というべきか。たとえば。
「……」
たとえば。
ヒューノットのような。
ちらりと視線で探してみると、気が付かないうちに私よりも随分と奥まで進んでいた。
そして、ホールの角に近い位置を陣取っている。いつの間にそこまで移動したんだか知らないけど。
ともかく、そこで壁に掛けられた絵を見上げていた。
こうやって遠目に見ると、ヒューノットも絵になるといえば絵になる。
彼がこの少年なのかどうかまでは、考えないことにしよう。どうせ、答えは得られない。
もしも、木に登っている少年がヒューノットだとしたら、下で待っている少年は誰なのだろう。ルーフさんだろうか。
シュリから聞いた話だと、幼馴染みたいな関係らしいから全く有り得ない話でもない気がする。
そうなると、問題は誰がこの絵を描いたのか。そこだけど。
隣の絵には、ぬいぐるみを抱えた女の子が背を向けて座っている。
白い壁の一部をくり貫いたように、ぽっかりと口を開いた窓の向こうには星空が広がっていて、それを眺めているような感じだ。
更にもうひとつ進んでみて、少しぎょっとした。
くすんだ白というか、灰色に近い室内の光景。
奥にはステンドグラスがあって、台座が描かれている。ぱっと見だと教会に見えないこともない。
ただ、私のイメージしている教会はドラマやマンガのものだから、実際にそうなのかは不明だ。
つまり、結局どこかはわからないのだ。無教養って、こういうことだと思う。
ただ、そんなことよりも目に付いたのは、壁にずらりと並んだ――いいや、並べられた人の身体。
どれもこれも頭を垂れていて、意識がないように見えた。
まるで磔にされたかのように、両腕を肩の高さに持ち上げた形で奥まで延々と壁を埋めている。
これが例えば人形だとしても悪趣味だ。というか、何だこの絵。本当に悪趣味すぎる。
その隣は星空の絵かと思ったけど、暗い背景の中でぼんやりとふたつの目らしき輪郭が浮かんでいる。
瞳だ。瞳の中に星空があるような絵になっている。
ぽっかりと目に穴が開いているようにも見えて、どうにも私は好きになれそうにない絵だ。
順々に見ていく中で、これを描いた人とは感性が合いそうにないとは思っているんだけど。
こういう絵を好んで集めている人とも、きっと話が合わない気がする。
少なくとも、積極的にお近づきにはなれそうにない。
さっきの廃教会に人形が並ぶような絵と比べれば、そこから先は割りとシンプルだ。
差し出された手を取る手。傅いた男性が女性の靴先に口付けている絵。
奥の方から伸びてきた手が王冠を差し出している絵もある。
お母さんらしい女性と女の子が手を繋いでいる絵もそうだけど、全体的に肌色の表現が暗い。白っぽくてくすんでいるような、そんな色使いだ。
絵画自体が古いというよりも、きっとこういう色使いの人なのだろうとは思うけど、どうにも死人の肌みたいで好きにはなれない。
眠る赤ん坊を抱いた腕。誰の腕なのか。人物は描かれていない。
虚空から伸びた腕だけで、頬に薄らと朱色が入った赤ちゃんを抱っこしている。
赤ちゃんの肌だけ血色が良いのは、何かこだわりでもあるのか。
他には、白い足跡を残して黒い背景に消えていくような人の絵。部屋に取り残されたぬいぐるみ。
純白の、ドレス。いや、ワンピースかな。シンプルなワンピースを揺らして歩く女の人。どこに向かっているのか、白い中に描き出された薄灰の扉は半開きになっている。
だが、向こう側の景色までは窺えない。
そして、伸び放題になっている雑草の間に落ちた指輪。
見上げる視点になっているけど、これってつまり地面側から見ている感じなのか。
どれもこれも寂しい感じがして、テーマもいちいち暗い気がして来た。
まあ、どんな意図があるのかは読み取れないけど。
国語の試験で作者の気持ちを考えなさいみたいな問題があったけど、正解した試しがない。
知るかそんなの。あとから模範解答を見ても納得した記憶がないんだから、私はああいうのが苦手なんだろう。
気持ちを汲めとか空気を読めとか、そんな部類に近い気がする。
そうやって順に絵を辿っていっても、やっぱりナンバーはバラバラだ。
別に数えたりはしてないけど、抜けている番号もありそうな気がする。
そしてようやく、ヒューノットが見続けている絵へと辿り着いた。
さて、何を見ているのだろうと思えば、その絵だけが妙に高い位置に引っ掛けられている。
めいっぱいに腕を伸ばしても届きそうにない。ヒューノットなら、指先くらいは届くだろうか。
他の絵とは違って、まるで触れられることを嫌がっているような高さだ。
それでいて、全く届きそうにないほど高い訳でもない。
絵を見上げて最初に飛び込んで来たのは鮮やかな赤。一面真っ赤に塗られた背景。
そして真上から下がった鎖の先には、銀の鳥篭が吊るされている。
鳥篭の中身は、可愛らしい小鳥ではなくて心臓だ。
今にも鼓動の音が聞こえそうなほどに生々しい。そしてその心臓には、無遠慮に矢が突き立てられている。
「――……」
ぞわりと背が粟立った。
どうしてなのか。理由はわからない。ただ、一気に背筋が寒くなる心地がした。
思わずプレートに視線を転じると、No.0となっていた。
ナンバーがないのか。それとも、1番よりも先に存在していたという意味なのか。
自然と眉間に皺が寄った。
だって、明確すぎる。私はあれを知っている。正確には、これの持ち主だ。
隣に立つヒューノットをちらりと見ても、彼の視線は私を向かない。
釣り目がちな青い瞳はただ一直線に、絵を見据えたままだ。
まるで呼吸さえも忘れてしまったかのように、ひたすらに見入っている。
私達の間に落ちるのは静寂だけで、踏み締める足音は毛足の長い絨毯に吸い込まれてしまう。
呼吸音でさえも、そのように消えてしまいそうな気がするほどに静かだ。私以外の誰かが傍にいるのに、まるでいないかのような沈黙。
ただ静かなだけなら良かった。ぞわぞわと、背が震えるような嫌な感覚さえなければ。
「ヒューノット」
だから、わざと名前を呼んでみた。
沈黙の中で落ちる音は明瞭で、きっと彼に一番届くだろうと思ったからだ。
案の定というべきか。ヒューノットは、少々煩わしげにしながらも私の方を見た。
って、なんで煩わしそうにされなきゃならないのか。
「……これってさ、やっぱり……」
言いかけて、言葉を止めた。
やっぱり、何というか。
さすがにこの絵ほど生々しいものではなかったけど、シュリが首から提げているアクセサリーによく似ている。
絵の方が生々しいっていうのは何かおかしいけど、そういう表現以外に思いつかない。
鳥篭。心臓。矢。これだけの類似点が揃っていたら、むしろモチーフではないという方が矛盾しているような気がする。
ヒューノットは、ふんと鼻を鳴らした。あ、ムカつく。
「確認するまでもない」
あ、はい。そうですね。一回殴っていいかな。
ヒューノットはシンプルな一言だけを放って、どこか呆れたように肩を竦めた。
そりゃ、私だって確認するまでもないとは思ったけど、それとこれとは別だし、いや、確認することって大切じゃん。ホウレンソウじゃん。実は私も気が付いていましたみたいな後出しジャンケンって鬱陶しいじゃん。
そもそも無駄話っていうか、こういうのがコミュニケーションっていうか。
情報共有というかさ、雑談もそうだけど円滑な人間関係を築く上で必要なことじゃないのかなー。ほら、挨拶みたいなさ。
何というか、社交辞令みたいなさ。おはようございます、良い天気ですね。とか。あれだって究極いったら、すっごく無駄じゃん。
良い天気ですねって何だよ、見りゃ分かるわバーカ。ふざけんな。
今日は午後から雨ですね、傘をお持ちください、おはようございますくらい言ってみろってんだよバーカ。
「……」
カッとなって、心の中で暴言祭りを開催してしまった。虚しい。
これだと、私がすっごく心の狭い人間みたいだ。別に寛大なつもりで生きてきたわけでもないけどさ。
「……ねえ、このプレートのナンバーって意味あるの?」
ひとまず、思考を切り替えよう。
シュリがここに通したということは、だ。この場所自体に意味がないとしても、この絵たちには何らかの意味があるはずだ。
いや、あれ。何だ。私の知らない向こう側とか言ってたような気もする。え。シュリが知らないってやばくないですか。
「俺がつけたわけではない」
ヒューノットの答えは素っ気無い。
ていうか、それだと答えになってないな。誰がつけたのかを聞いたわけではないんだけども。
つまり、知らないって答えだと受け取ればいいのだろうか。
うわ、ヒューノットもシュリと同じく面倒な回答をするようになってきたなチクショウ。
「意味はないのかなぁ」
「意味はある」
呟いたら、即座に答えが返って来た。
なんという即答。なんという即レス。驚きの展開。
「あるの?」
「なければ、プレートをつける必要性がない」
いや、まあ、そうなんですけどね。
今度は私が肩を竦めてしまった。
ヒューノットの方はシュリと違って、答えられない範囲とかなさそうな気がしていたんだけど、やっぱり制約みたいなものがあるんだろうか。
いちいち答えが回りくどい。いや、知らないって答えたくないだけかもしれないけど。
真っ赤な絵から顔を背けて、背後にある絵に視線を転じた。
プレートのナンバーは47になっている。おお、突然かなり飛んだ。たぶん、そんな数は見てないと思う。
「……?」
その絵は、いきなりテイストが違っていた。
さっきまでは絵の具で描かれていたのに、その絵でカンバスを飾っているのはまるでクレヨンのような線だ。色合いで描かれたわけではなくて、ただの線が結び付けられて形を描き出している。
クレヨンとはいえ、幼稚園児が描いたような稚拙な絵ではない。
けれど、今までの画風と比較すると画家が変わったとしか思えなかった。
線の細さや色の濃淡、筆遣いというかクレヨン遣いが巧みすぎてはいるけど、どう見ても帆布の上を走る痕跡はクレヨンにしか見えない。
色使い自体もいきなり明るい。クレヨンには暗い色がないとか作れないとか、そういうわけでもなさそうなのに。
そして、クレヨンで描かれた絵は一枚ではなかった。
なぎ倒された木々と転がっている何か。壊れた階段と綿が飛び出たぬいぐるみ。
何なのかはわからないけど、潰れた丸いもの。割れてしまったカップの数々。
引き千切られた花と倒れた何か。歪んでしまった棚に、そこから飛び出ているたくさんのぬいぐるみ。
それと、割れた仮面。猫のような形をした仮面が、真ん中から割れている。端の方は粉々になっていて、ひどい有様だ。周囲には黒い何かか、散っている。
「……」
さすがの私でも分かって来た。
グラオさんにゲルブさん。プッペお嬢様にルーフさん。そして、シュリとヒューノットだ。
壁に掛けられていないそれらは、スタンドでホールに並べられている。並びも内容も規則性は乏しい。
ただ、乱雑に置かれている。クレヨンで描かれた絵。
「……ねえ、この絵って」
「バッドエンドだ」
今度の問いに返された答えは明確だった。
振り返ると、ヒューノットも同じようにホールの絵を眺めている。
壁の絵とは違って熱心な様子もなければ、食い入るように見つめている訳でもない。
ただぼんやりと、まるで単に視界へ入れているだけといった有様だ。
「正確には、傍観者が見届けたバッドエンドだ」
言い直されたけど、そうではないバッドエンドが思い浮かばない。
「バッドエンド……」
呟いてみたが、しっくり来ない。ひとまず、もう一度絵を見た。
色んな向きで置かれたクレヨン絵画同士の隙間は大きく、人ひとりなら余裕で歩くことが出来るようになっている。意図的なのかは、わからない。
道のような、とまで言ってしまうとさすがに違うとは思うけれど。
向かい合っていたり斜めだったり背を向けていたり、本当に雑に置かれている。
並べたという印象ではない。本当にただ雑然と、そこに置いただけという印象だ。
まあ、確かにバッドエンドの光景なんて大切に並べて保管したくなるシロモノではないだろう。
ゲームでいうと、画像ギャラリーという感じなのかもしれない。
いや、ゲームでいうと、っていうか。うっかり忘れそうになっていたけど、そもそもゲームだった筈なんだけどな。違ったんだな。私の順応性は素晴らしい。
それとも、すべて夢だったりして。
そうだったらいいな。いや、いいのかな。どうだろう。こんな疲れる夢ってあるのか、カオス。
「……」
溜息が出た。
グラオさんは弟を失う。ヒューノットが戦おうが戦うまいが、失う結末があった。
戦わない場合はヒューノットが、戦った場合はゲルブさんが負けてしまう。
あの選択肢自体に、どちらかを残そうという思惑がなかった。必ず、誰かを失う結末が待っている。
そして、星に狂ったルーフさんはプッペお嬢様を手にかける。
あるいは、ヒューノットがルーフさんに手を下す。
賑やかなフェルトの街も、あの静かな館もそうやって壊れてしまうのだろう。
別にすべて見て来たわけではないけど、選択からするとそういうバッドエンドが転がっていた。
それを、他のプレイヤーもとい"傍観者"が見届けたとしても、私としては違和感がない。
シュリは、一体どうしたのだろう。仮面が割れてしまうなんて、相当なことだろう。
そこは少し、何というか。少しどころか、全然想像がつかない。
そして、ヒューノットの身に何が起こるのかも全てはわからない。
でも、そういうバッドエンドも、かつてはあったに違いない。
絵があるわけだし。ヒューノットも、この絵をバッドエンドだと認めていたし。
どうして、この絵はクレヨンで描かれているのか。何となく絵画の縁に触れてみたが、特に何という事もない。
バッドエンドだけが、クレヨンで描かれている理由。そこまで考えて、ふと思った。
――ああ、いや違う。"見届けた"わけじゃない。"見捨てた"んだ。
傍観者は選択して、その結果を見せ付けられて終わる。
そこから先で選択をやり直すかどうかの判断は、傍観者に委ねられているはずだ。
少なくとも、シュリはそう言っていた。それに、私だって戻ってやり直した。
選択さえやり直せば、その気さえあれば、バッドエンドには進まずに分岐点へと引き返せる。
クレヨンの絵は、やり直しを選ばなかった"傍観者"達が残して来た、彼らの末路というわけだ。
バッドエンドしかないわけではなかった。バッドエンドにしか、しなかっただけだ。
エンディングが増えていくのは選択の幅があるせいだとしたら、大体の辻褄が合うような気がして来た。
ヒューノットにとっても、気分の良いものではないに違いない。
私のせいではないけれど、途端に申し訳なくなって来た。私は単純だ。
クレヨンの絵は、両手の指よりも更に多い。もう一度見るだけの勇気は、私にはなかった。
視線を足元に落として、そっと顔を背ける。むしろ、そうするだけで精一杯だ。
どうして、私が他の傍観者の分まで罪悪感を背負わないといけないのかって、まあ、そういう気もしないではないんだけど。私って意外と善人なのかもしれない。
「――あれ?」
ふと顔を上げると、ヒューノットがいなくなっていた。
周囲を見回してみるけれど、見えている限りの場所にはいない。
いやいや、そんな。いくらホールが広いといっても、見失うほどじゃない。
ホールに立てられている絵画達だって、あの背の高いヒューノットを隠してしまうほど大きくはない。
もしかして隠れているのだろうか。いやいや、そんなお茶目な男では。
絵が掛けられているスタンドの裏を覗き込んでみたけど、まあ、いないよね。
何なのだろう。さっきもいきなり奥にいたし、私がそれだけ深く考え込んでいたという事なのか。
背後を振り返り、壁に掛かった絵を見た。真っ赤な背景の――
「――……」
あれ。
おかしい。
ヒューノットが見ていた絵は、壁の端にあった。
ホールの角がすぐそこだった筈だ。それなのに、位置が変わっている。
私の背後にあったのは、白い女性の絵だ。両手を胸の上で組み、眠るように目を閉じている。
周囲には花がたくさん描かれていて、まるで花の海に飛び込んだかのようにすら見えた。
長い睫毛が顔に影を落としている。色白ではあったのだろう。
いや、それよりもずっと顔色が悪い。まるで死んでいるような。
そう思い至った瞬間、女性の目が大きく開かれた。
思わず一歩後ずさったタイミングで、がくんと足が落ちる。
床が抜けた。違う、床がない。重力に従って落ちる身体に浮遊感などなくて、突然すぎて声を出すことさえ叶わなかった。
デジャブだ。唐突に支えを失って落ちる感覚。
真下から突き上げてくるような風が一気に身体を包み込んだ。
耐え切れずに目を閉じれば、轟々と鳴り響く風の音に混ざってたくさんの声が聞こえて来た。
――ぼくの、たったひとりのおとうとなんだ。もちろん、まちのみんなはたいせつだ。だがね、しかし、それでもね。やはり、かぞくはたいせつなんだ。みんなは、げるぶをおそれて、もうずいぶんはなれてしまった。かまわないとも、おそろしいものはおそろしい。だが、ぼくにとっては、たいせつなおとうとだ。だから、どうかたすけてくれないか――――助けるか、助けないか――――ああ、かわいそうなげるぶ。ぼくが、たすけてあげられなくて、ほんとうにすまなかった。ぼくは、ほんとうにこうかいしているんだ。あんなことさえ、しなければ。きみは、こんなにくるしまなくても、よかったのに……ああ、げるぶ。ぼくのたいせつな、おとうとよ。だいじょうぶだよ。しんぱいない。ここにいる、だいじんたちが、きみをたすけてくださるから。さあ、げるぶ。ほしをはきだして、またげんきなきみに、もどってくれないか。おねがいだ、ぼくは――――嘘ついたら、おっきな人がおうちをこわしちゃうからねっ―――連れて行くか、置いて行くか。選べ――――危険な事です。例えば、星が降るかもしれません。私も奥様も、お嬢様をお守りしたいのです。万が一があってはいけませんから――――何故、置いて来た?――どうかどうかどうかどうか、ああ、どうかお願いします。お嬢様の為に――――――あの子達を傷付けずにいてくれて、ありがとう――――それは重大なエラーだよ。許可されていない。私も看過できないな。君は世界に従わなければならない。世界は君をそう定めたのだからね。想定され得るうち、最悪の想定外だ。決して許されるものではない。君の行動は反逆に等しい――――俺を殺す選択肢を出せ。……提示してみせろッ! あいつに俺を殺させてみろ! もうたくさんだ! 偽りの選択肢こそ、エラーではないのかッ! 結末がひとつしかないのなら、何故選択させようとするんだ――――君が幾ら嫌がったところで世界は揺らがない。君は、どのような思いをしたところで選択の通りに進まなければならないんだ。それが君という存在の理由だ。選択が繰り返されるのなら、君は永遠であったとしても繰り返し続けなければならない。殺せと言われたら、ただ殺すだけさ。死ねと言われたら、死ぬだけだよ。何も難しい事はない。君は君自身である以前に、定められた存在である事を自覚しなければならないよ。それが君の存在意義であり、そして唯一の理由なのだからね――――この世界の秩序を守る為、傍観者に従わなければならない――
――彼は、君の手足さ。彼は盾でもあり剣でもある。君を守る為の鎧にも成り得て、君の望みを叶える為の手段にも成り得る。そして同時に君は彼にとって定めそのものだ。君に選択肢を委ねる存在であり、君に運命を託している存在でもあるという事さ。逆に君は彼を守る事も救う事も出来るが、勿論見捨てる事だって可能だ。君を制する存在など、この世界にはいないのだからね。君は君の思うがままに――――世界の指針を偽りに染めてしまえば、結果的に全てが崩壊してしまう。だから、彼を制止する必要があった――――戦わないのか、戦うつもりがないのか――――抗いの術を持たない選択肢を、幾つ掲げたところで結果は同じだ。冷酷に繰り返せと告げに来たのか――――再び繰り返すのか。際限なく繰り返すつもりか。繰り返し続けろと言うのか――――君は、どうか彼を責めないで欲しい。どうか、責めずにいてくれ。誰でも友を傷付ける事には、幾らか抵抗があるものさ。苦しい筈だよ――――驚き、戸惑い、傷付き、落ち込み、嫌悪して、そして逃げたくなる。私をそれを止めはしないし、その為の方法だって持ち合わせてはいないのさ。だから君は、君の思った通りに何でも出来る。彼は、君の手足であり、彼は盾でもあり剣でもある。そう言っただろう? 君を守る為の鎧にも成り得て、君の望みを叶える為の手段にも成り得る。そして同時に、君は彼にとって定めそのもの。君に選択肢を委ねる存在であり、君に運命を託している存在でもある。逆に君は、彼を守る事も救う事も出来るが、勿論見捨てる事だって可能だ――――――そう。選択肢を放棄したの。貴女は単なる傍観者ではなくなって、もう選択肢を放棄するに至ったのよ。それはとても、とてもとても素敵な事なのよ、この開かれた世界にとって――――――我々にとって空を飾る星は、希望と願いの象徴だ。夢を叶えてくれる愛おしい光の子さ。光の子を空から奪い取れば、その逆になる事なんて誰もが知っている。況してや、空から隠してしまうなんて、とてもひどい行いだ。子を奪われた母の嘆きを我々は聞いている。悲しみに暮れる母が大地を引き裂いたとしても、我々にはそれを非難するだけの資格すらないのさ――――何者にも成れないあなたが外側から囁く言葉に、どれほどの真実が含まれているのかしら。それを判断させるには、この子への情報が不足しているのではなくて?
――あなたが一体何者であるのか。あなたが一体何をする者なのか。あなたが何者ではないのか――
――君を傷つけられる存在は、この世界にはいないんだ――
――おかえり、傍観者――
「――――ヤヨイッ!」
ハッと目を開くと、すぐ目の前にヒューノットがいた。
私の両肩に彼の大きな手が乗っている。いや、震えるほどの力で掴まれている。痛いくらいだ。
恐る恐る視線を落とすと、足元には絨毯が広がっている。
何ということはない。最初に見た時から変化していない。床は、ある。心臓だけがバクバクと激しく動き回っていて、身体の方は硬直したままだ。全身に冷や汗をかいている。今のは一体、何だったのか。ヒューノットは私の肩から手を離さないまま、どこかを見遣った。
床からヒューノットへ、そしてその視線の先へと私の目も動く。
そこには、暗がりへと誘う扉がぽっかりと口を開いていた。




