――1.案内人
砕け散った破片。
飛び散った朱色。
崩れ落ちた星々。
引き裂かれた空。
項垂れた木々達。
それは、幾つも重ねられて来たバッドエンドのひとつ。分かってはいる。繰り返されているだけの事だ。全ては過去のリプレイであって、現実として再び起こっている訳ではない。分かっている。理解はしている。だが、それでも思う事はあった。
「――……慣れはしないね」
低い呟きを落としたシュリュッセルは、足元に倒れ伏せている相手を見下ろした。
傍観者――プレイヤーは今頃、バッドエンドによるエンドロールをぼうっと眺めている事だろう。実に、呆気なく味気ない黒と白に彩られた光景を見せられているに違いない。
相手の傍らに屈み込み、長い髪を持ち上げて唇を軽く寄せた。髪に体温などない。生きていようとも死んでいようとも、それは変わらない。ぴくりとも動かない相手を見つめる仮面越しの瞳は、僅かばかり揺れていた。
バッドエンドは幾つもある。それによって消えてしまう存在もまた、幾つも在る。エンドロールが終わるであろう頃、足元に転がっていた身体が白い光となって霧散し始めた。"やり直す"為だ。また、いつもの日常を繰り返して、そして傍観者の選択によって再びこの結果を迎える。そうやって繰り返す。ただ、それだけのこと。
宙の一部が青白く光り始めた事を確認したシュリュッセルはすぐに立ち上がり、ゆっくりと振り返って両腕を広げた。
「――――やぁ、傍観者。どうやら、君の選択は違っていたようだ。なに、大した事ではないさ。気に病む事でもない。喪失は創造の原点だからね。君のミスではないのだよ。何故なら、この世界には正しい答えなんてものはないからさ。選択の間違いとは、君が目指した道に辿り着かなかったという意味でしかない。我々は君の選択こそ、正答であるとしているのだからね。誤りだと思うのなら、正しい選択を繰り返すしかない。創造とは、そういうものだ。さあ、行ってくれ、傍観者。君は、まだ見ていないものを見るといい。それが正しいかどうかは、――君の選択次第だがね」
おどけたように大きく広げた腕を揺らして、決まり文句を口にする。それもまた、いつもの事だ。それから再び現れる傍観者は極々稀で、大半は二度と顔を見せない。時折戻って来る奇特な者達も、道半ばで再び姿を消す。それはよくある事で、今更珍しく感じるものでもなかった。遅いか早いか、それだけの違いだ。どこかで最悪の結末を迎え、どこかで別れを告げる事となる。
だから、そう。
"彼女"は――――
「――――……」
急に意識が持ち上がり、周囲に広がっていた景色が弾け飛ぶ。唐突な覚醒によって夢の終わりを自覚した。
薄らと開いた目を数回ほど瞬かせ、白い天井が映る視界の中に自分の手を入れる。既に傷はなくなっている。薄く残っていた痕跡の方も消え失せていた。痛みもない。そろそろだろうかと起き上がろうとしたシュリュッセルの目元を、突然何かが覆った。
「ヒューノット」
「……何だ」
「それを聞きたいのは私だけどね」
視界を遮った――だけに留まらず、起き上がろうとした動きを封じた大きな手はヒューノットのものだった。
シュリュッセルが迷いもなく名を口にすれば、当然ながら彼の方もまた隠そうとはしない。起き上がるなというメッセージだろうと気が付いてはいたものの、「何の用かな?」とシュリュッセルは問い掛けた。
「……」
ヒューノットからの返事はない。
返されたのは、単なる沈黙だった。
それでいて、手が退く気配もない。
シュリュッセルは肩を竦めたかったものの、寝転がっている状態ではそれすら叶わない。
「……よく眠っていたようだった」
「夢を見ていたからだろうね」
「……夢か」
「よくある夢さ」
シュリュッセルがそう答えると、ヒューノットは数秒ほど沈黙を返した後で手を退けた。
再び開けた視界には何の変化もない。ゆっくりと身を起こしてベッドを見下ろしたところで、何がある訳でもなかった。緩やかにひとつ、息を吐く。
窓が閉じられているのだろう。白いカーテンはもう揺れてはいない。
室内に巡らせた視線を戻したシュリュッセルは、ヒューノットの様子を眺めた。
彼にもまた変化はない。疲れた様子すらないのは、彼もまたひと眠りした為だろう。ヒューノットはそんなシュリュッセルの様子を見つめ返すだけで特に何も言いはしない。
「随分と長く眠ってしまったようだね」
室内は相変わらず明るい。
木漏れ日のような淡く優しい光は、カーテン越しに降り注いでいる。
時間の経過を示すものが何もない一室においては、時間の感覚など体内時計に頼る以外に方法がない。
シュリュッセルの言葉に、ヒューノットは小さな頷きを返した。
「言っただろ。よく眠っていたと」
「ここまで深く寝たのは久し振りさ」
「……だろうな。今後、その必要がない事を願う」
言葉を紡ぎ落としたヒューノットは、自分の手元へと視線を落とした。
冷たい銀製の仮面。指先を軽く引っ掛けて持つそれを、じっと見つめる。
これを返せば、シュリュッセルは本来の役割を担う為に此処を出て行く。返さなければ此処から出られない訳ではなかったが、この仮面こそが案内人にとって重要なものである事をヒューノットはよく知っていた。
カーテンの隙間から差し込む光が当たる仮面は、ただ静かにその光を受けているだけだ。何も語ることはしない。案内人と共に全てを見届けて来た仮面。猫を模した形。指の腹でその輪郭をなぞり、傷一つ付かない表面を眺めた。
「ヒューノット」
シュリュッセルの声が落ちる。
静かな室内に響くその声は、とても穏やかなものだ。
ヒューノットは視線だけを持ち上げて、その表情を見つめ返した。仮面に隠されていない顔を見つめる事は珍しい。
「……」
友は、幾度も死を迎えた。時には大切な者に手を掛けて、時には自分の手によって、時には己自身への失望によって自ら命を絶った。友自身に罪などない。善良なあの友を、幾度も殺し続けているのはこの世界に他ならなかった。それは知っている。選択肢を提示する度、その行く末が脳裏を過ぎり、いっそ息が詰まりそうな思いをするのだ。
だが、逆に言えば、選択肢を提示するまで友は生きている。あの静かな館で、ただふたりきり。小さな少女と共に、穏やかな時間を生きていく。傍観者が選択のカードを切るまで、彼に訪れる死の運命は眠りについている。死の運命が目を覚ますのは、選択肢を掲げた瞬間からだ。ヒューノットの中では、それが事実だった。
「……シュリュッセル」
唇を薄く開いたヒューノットは、静かにその名を口にした。
呼ばれたシュリュッセルは、珍しい事もあるものだと軽く目を丸くした。しかしそれも、程なくして微笑に変わる。
「何かな?」
静けさの中に声が滲む。
温度を持たないそれは、室内の空気にじわじわと溶けていくかのようだ。
どこまでも遠く続く空の果て、底の知れない深い海の最後、辿り着くかどうかも分からない向こう側を見つめる赤い瞳は可能性を否定しない。ヒューノットは、その双眸を見つめながら膝上に置いた仮面をなぞった。
シュリュッセルは、繰り返す事さえできない。選択肢のもとに戻れないのだ。案内人は、世界の外側にいる。あちら側とこちら側を繋ぐ為だ。内側に干渉する事もなければ、無理に断ち切る事も出来ない。傍観者には出来ない事を、内側の者達には出来ない事を、やり遂げるだけの力を持つ代償としてシュリュッセルは世界の庇護を捨てた。
傍観者は、幾度でも戻る事が出来る。ヒューノットを含め、内側の者達は幾度でも繰り返す事が出来る。そのうち、ヒューノットは記憶を保持している分だけ、友と比較すれば例外ではあるが――案内人の身に何かが起これば、そこで終わりだ。
ただひとり。戻る事の出来ない身になりながら、幾度も繰り返していく。ヒューノットは唇を強く引き結んだ。
自分と同じように記憶を持ち続け、それでいて傍観者の選択に従わざるを得ないシュリュッセルに何を言えば良いのか分からない。
「……、……返す」
暫く沈黙を返したあと、ヒューノットは静かに仮面を差し出した。
冷たい空気を纏う銀色を見つめたシュリュッセルは、不思議そうに目を瞬かせた。
「いいのかい?」
「返すと言っている」
「物分りがよくて助かるよ」
仮面を受け取ったシュリュッセルは、すぐにそれで顔を覆う。
鼻先までを覆い隠す銀色の仮面は、表情の大半を消して、瞳の動きを分かりづらくさせる。
今ではもう、そちらの方を見慣れているのだと気が付いたヒューノットは複雑そうな表情を浮かべた。
「……一言多いんだ、お前は」
仮面を返せば、シュリュッセルは案内人としての役割を全うする。
一度視線を落としたヒューノットは、ベッドから立ち上がって黒衣を纏い始めた傍らの気配に目を閉じた。
「……」
案内人は、繰り返せない。
もしもの事があれば、本当に終わってしまう。その後、この世界がどうなるかなどヒューノットは知らない。知ろうとも思わなかった。繋ぐ役割を持つシュリュッセルが消えてしまえば、役割だけが残されるのか。それとも、全ての可能性が消えてしまうのか。それすら、分からない。分かっている事はひとつ――シュリュッセルだけが、傷が癒えるまでを待つ必要があるという事だ。
黒衣を纏い、ブーツを穿き、手櫛で軽く髪を整えたシュリュッセルが「ヒューノット」と、その名を呼んだ。それを合図にしたかのように目蓋を持ち上げたヒューノットは、僅かに肩を竦めて薄らと息を漏らした。逃れるように流れていく吐息は、緩やかに音を失って消えていく。
案内人は繰り返せない。ただ、――死ぬだけだ。
「――二度とするなよ」
それだけを告げて立ち上がったヒューノットは、座り込んでいた椅子を靴先で軽く押し退けた。
シュリュッセルは、その言葉が示す意味が分かっているのかどうなのか。小さく笑って、一足先に歩き出した。その背を追いかけるように、数歩遅れでヒューノットも後に続く。
少し歩いた先にあった扉をシュリュッセルが開けば、白い光が視界を覆った。突然、眼前に白い布地を広げられたかのようだ。目に沁みる事のない純白。光と言うには刺激が薄いそれは、数秒ほどして霧散していく。そうすれば、風が流れていく草原がそこに広がっていた。
開いた筈の扉は、そこにはない。
ふたりの前にあるのは、ぽっかりと口を開いて草原へと繋がっている壁の一部だけだ。
「――二度と、するんじゃない」
境界線を跨ぐ手前で、ヒューノットはもう一度だけ言葉を重ねた。
肩越しに振り返ったシュリュッセルが口許で小さく笑う。
「君の気持ちは理解しているつもりだよ。でも、――"彼女"は特別なんだ」
その言葉に彼が諦めたように肩を竦めれば、シュリュッセルは再び前を向く。
この世界の為に在る。繰り返される終焉を阻止する為に自分達はいる。分かっている。だが解せない。鋭い青の瞳が宙を眺め見る。見つめたのは、軽い足取りで部屋を後にする黒衣の背中だ。
「――やあ」
草原を覆う空の一部が僅かに青色を強めた直後、草原へと降り立った案内人は両腕を軽く広げた。
「――おかえり、傍観者」
口にするのは、飽きるほどに紡いだ決まり文句。
後ろに降り立ったヒューノットがその斜め後ろに立ち直す。
後方にあった筈の白い部屋は、もう見えていない。
広げた腕を下ろしかけて止めたのは、自分の前に立つ傍観者の表情を見た為だった。
吹き抜けていく風には温度がない。熱もなく、冷たさもない。揺らぐ草の音だけが風と共に流れていく。
「――……待っていたよ。戻って来てくれて、ありがとう」
案内人は薄らと笑って言葉を紡ぐ。
それは決まり文句ではない、感謝の言葉だった。




