――0.案内人
たゆたう夢の奥底に触れた時、急速に意識が浮上した。
何を見ていたのか。それとも、何も見ていなかったのか。それすらも分からない。
唐突な覚醒に思考が追いつかなかった所為で、視界に入った白い天井が何なのかすら咄嗟に理解する事が出来なかった。
「──起きたのか」
傍らにいたヒューノットの声に誘われたシュリュッセルは、天井に向けていた視線を転じた。
横を向けば頬に枕が触れる。その感触は柔らかく、そして少しばかり冷たい。それによってシュリュッセルは、仮面が外されていると気が付いた。視線を巡らせてみるが、近くにそれらしいものは置かれていない。
ヒューノットはひとりきり、白いベッドの傍らで木製の白い椅子に腰掛けている。彼はシュリュッセルが目を覚ましたと気が付いても、腕と脚を組んだままの姿勢から緩めようとはしなかった。
「……無意味な事をしでかしたもんだな。お前ともあろう者が」
数十秒の沈黙を経て、低い声が再び室内に落ちる。
ゆっくりと起き上がったシュリュッセルは、普段はずっと羽織っている黒衣もなくなっている事に気が付いた。こればかりは、どうしようもない。仮面も衣も彼がそうしたのだろうと思えば、ただ肩を竦めるだけに留まった。
ベッドの傍らで揺れる白いカーテンの向こう側からは、淡い光が帯状に漏れ出ている。穏やかな、日光だ。
「さあ、無意味だっただろうか。それは分からないよ」
無意味だと示された行動が何なのか。シュリュッセルはすぐに理解した。
だが、それでもヒューノットの言葉をやんわりと否定する。無意味ではなかった筈だと、薄らと笑ってさえ見せた。
「……博打は好かんだろ」
「勝算はあるさ。それに、彼女を失う訳にはいかなかった筈だよ」
「失わない」
鋭い印象を与える青い瞳は、赤い目から視線を外そうとはしない。
傍らで、ひらりとカーテンが揺れる。窓は少しだけ開いているようだ。彼が開けたのか、どうなのか。笑みを深めたシュリュッセルは、ゆったりとした仕草で姿勢を直しながらヒューノットへと視線を転じた。
視線を受け止めた彼は、眉間に皺を寄せて「無意味だった」と断じる。どうあっても、ふたりの意見は同一の方向には向きそうになかった。
シュリュッセルが肩を竦めると、ヒューノットは続けて口を開いた。
「失うわけがない。あいつが、こちら側で死ぬ事など有り得ない。だが、お前は――……違う。何故、馬鹿げた真似をした」
青い瞳が鋭さを増した。
シュリュッセルはヒューノットについて、プレイヤー達に「寡黙である」と紹介する。プレイヤー達の前では、ふたりで会話をする事など殆どない。それはヒューノット自身が人との関わりをさほど好かず、プレイヤー達との交流も必要最低限に留めている事が多い為だ。
こうしてプレイヤーの目がない場所の彼は違うという事を、シュリュッセルは知っている。
「――傷付かない事と恐れがない事は別の問題だよ、ヒューノット」
揺れ動くカーテンを視界の端に収めながら、シュリュッセルは言葉を重ねる。
「痛みがないと分かっていても、恐ろしいものは恐ろしい。火傷を負わずとも、彼女は熱を感じれば驚いていたじゃないか。そこにいないと知っていても、未知ほどおぞましいものはないのさ。知っている事と分かっている事もまた別物だ。理解している事と感じている事が異なるようにね。どれほど頭で理解しようとも、感覚として捉えてしまえば実体を持つという事だよ。恐怖は心を支配し、そして行動を制限する。彼女の助けを必要とするのなら、彼女の脚が竦んでしまわないように恐怖は極力排除する方がいいのさ」
「――だが」
ゆっくりと紡がれていく言葉を、ヒューノットは静かに遮った。
短い声の後、シュリュッセルはゆっくりと口を閉ざして先を促す。
しかし、再び沈黙が落ちた。
静寂は室内を満たしていて、時折小さく揺れるカーテンだけが光の強弱を演出してくれる。外からの音はなく、会話をしなければ鳥の囀りひとつ聞こえはしない。青い瞳が半ばほどまで瞼で隠された。
伏せた視線の先には何もない。白い板の継ぎ目を眺めていた目は、数秒ほどして再び持ち上がった。
「……分かっている。分かってはいるんだ。だが、……だとしても、……お前を失うわけにもいかない」
歯切れ悪く放たれる声は、少し震えていた。
プレイヤーは傍観者。選択する事は出来ても、それ以上の役割を本来であれば担う事などない。
ヒューノットはその手足。選択肢の向こう側へと導く事が役割だ。その先にあるものを知っていたとしても、繰り返さなければならない。
シュリュッセルは案内人。迷う手を引き、幾つかの道筋を示す事が役割だ。引き戻す事も手を差し伸べる事も、求められるがままに行う。
「……何も与えられないというのなら、せめて何も奪わずにいろ」
低い声が、室内に横たわる沈黙の背をなぞった。
放たれた声はほどなくして消えて、紡ぎ落とされた言の葉は沈黙が寝そべる床へと落ちていく。音さえ消えてしまえば、何もなかったかのように痕跡を失う。
それでも、シュリュッセルは記憶している。彼が放った言葉を忘れる事はしない。そこに宿る感情を正しく読み取ったかどうかについては、些かの不安が残るものの――シュリュッセルは微笑んだ。
「私は君のものにはならないんだよ、ヒューノット」
「欲しいなどとは言っていない」
「君から私が私自身を奪う事への危惧かと思ったのに、違うのかい?」
「そんな事までは言っていない」
「おや、そうなんだね?」
「そうだ」
「ふふ、それは残念だ」
くすくすと小さく笑うシュリュッセルに、ヒューノットは怪訝そうな視線を向けた。
普段は仮面で隠されている案内人の表情は存外に豊かで、しかしながら、その事を知る者は少ない。それはヒューノットが相手によっては言葉を黙殺しないという事実を知る者が少ない事とよく似ている。
眉間に刻んだ皺を更に深くしたヒューノットは、深い溜息をついた。
視線を落とした先、少し前までは赤い液体に濡れていた白い肌が今は何ともない。シーツの上に置かれた手指に火傷の痕跡もなければ、鋭い破片が刺さっていた気配さえもなくなっている。だが、それは痕跡がなくなったという事実に過ぎない。あの瞬間をなかった事になど、出来はしないのだ。頬に薄く走った傷は、まだ残っている。
「……お前は繰り返せない」
「そうだね」
シュリュッセルの肯定はあっさりとしたものだ。
実に淡白で簡単な調子で、呆気ない響きを持っている。
まるで他人事のようですらあるほどだ。
ヒューノットは、その淡々とした肯定を聞く度に気分が悪かった。だが、それこそ今更だ。シュリュッセルの態度は相変わらずで、それも今に始まった事ではない。
「……お前だけが――」
――終わってしまうだろうが。
続きを口にしないまま、ヒューノットは視界を閉ざした。
瞼越しに薄らと光が触れている。カーテンが揺れているのだろう。光のちらつきが微かに変化していく。ここは、とても静かだ。騒がしいものは何もない。星の光ですら、この柔らかな日光の中に侵入する事は叶わないのだ。この場所は、永遠のように淡い光に包まれている。木漏れ日のような、日向のような、心地良い光はひとときも途切れはしない。
僅かに衣擦れの音がして目を開いたヒューノットのすぐ前にシュリュッセルの顔があった。前のめりになっている所為で、吐息が触れ合いそうなほどの距離にまで近付いている。ヒューノットは仰け反る事もなく受け入れて、それだけに留まらず見つめ返した。
「――そういえば」
静まり返って見つめ合っていたのは、数秒足らずだった。
シュリュッセルは、今まさに思いついたと言わんばかりに口を開く。
「私達の場所がよく分かったね。館で迷っていたんじゃなかった?」
「……お前が呼んだからだろ」
「それは違うね、彼女が呼んだのさ」
「お前が呼ばせた」
姿勢に反し、主張については頑なに受け入れようとしないヒューノットが面白くて、シュリュッセルはまた小さく笑ってしまった。怪訝そうな視線を向けられてしまうが、それ以上がない事をシュリュッセルはよく知っている。
「彼女は帰ってしまったのかな?」
「俺に聞くな」
即答気味に言葉を投げ返したヒューノットは、実に面倒臭そうな様子で眉を寄せた。
投げかけられる疑問に、自分が答える必要性を全く感じない。だというのに、シュリュッセルは悪びれた様子もない。
「私は知らないのだから、君に聞く以外に方法がないのさ」
「扉が開かれた。あれはお前が開いたものだ。俺ではない」
「成る程ね。確かに彼女を守る為には君がいてくれた方が良いし、扉は開かれていた方が良い。ははー、成る程成る程、私はなかなかどうして、仕事熱心なようだね」
口許を緩めたシュリュッセルが姿勢を戻すと、ヒューノットは複雑そうに顔を顰めた。
あちら側とこちら側。そのふたつを繋ぐ役割を持つ案内人は、役割を果たす為の権限として全てに繋がる扉の鍵を握っている。無意識のうちに、或いは意識を失う寸前に、意図せずして"彼女"を逃す手段として、繋がりを隔てていた筈の扉を開放したというのなら――他人事のような口振りに対して、肩を落としたヒューノットから溜息が漏れ出た。
「……お前は、そういう奴だった」
吐き出した言葉には、いっそ諦めにも似た響きが含まれている。
「知っていただろう?」
対してシュリュッセルは、当然の事であるかのように微笑んだ。
「今更だ」
ヒューノットは食い下がる事も諦めて、ただ短い言葉を口にするだけに留まった。
口を閉じる頃に視線は足元へと落ちていく。
脱がせた黒衣とブーツは床に置かれた編み籠の中だ。銀の仮面は、まだ返す気にはなれない。
沈黙が落ちた。
ゆったりと揺れるカーテンの隙間から差し込む光に変化はない。
ベッド上のシュリュッセルは、立ち上がる気配もないまま窓を眺め始めた。向こう側を覗き込む事はしない。穏やかな光を遮るつもりはないからだ。貫かれた筈の肩も、抉られた筈の背も、今は何ともない。すぐにでも動ける状態ではあったものの、全身の傷が完全に消えてからでなければヒューノットが許してくれない事をシュリュッセルは知っている。彼はその為に傍らにいる。
看病などという献身的なものではなく、監視役として傍にいるのだ。――献身的という言葉で表現するのであれば確かに、監視をしてまで動きを制限している事もまた確かにそうだったが。
「――……傷付く事だけが恐れに繋がるものではないだろう」
しばらく続いた静寂を裂いたのは、ヒューノットの声だった。
組んでいた腕も脚も解いて前のめりになった彼は、膝上に肘をついて片手で顔を覆っていく。手指の先が、くしゃりと髪を乱した。
「……失う事は恐ろしい」
何を、とは言わない。誰を、とは言わない。
喪失感は幾度繰り返しても、全く慣れはしないのだ。ヒューノットは、それを知っていた。幾度繰り返しても、何度再び出会っても、戻る事が出来ると分かっていてさえ別れは辛い。友が迎える悲劇的な結末を引っ掻き乱して、別のものに変えてしまいたいと幾度願った事だろう。――それを阻止したのは、誰でもない。眼前にいるシュリュッセルだ。
「私を責めているのかい?」
「違う。そうではない」
「そのようだね」
シュリュッセルは、いわば番人。門番でもあり、秩序の見張り役でもある。重大なエラーが発生した場合、強制的に引き戻すだけの力を持っている。踏み躙られた花々が嘆く一室で、彼を叱責した事はあの一度きり。それでもヒューノットが、自らの力で友を救う事が不可能であるという現実を突きつけられた事だけは確かだ。
「……失う事は恐ろしいと言っただろう。あいつの前でお前が、……」
星が降り注ぐ中で見た光景は、未だ生々しく瞼の裏に残っている。
泣き叫ぶような声を上げていた"彼女"の姿、そして崩れ落ちるシュリュッセルの姿。もしも、寸前の一歩が遅れていたら、どうなっていたか。もし、最後の一撃が少しでもずれていたら、どうなっていた事か。
ヒューノットは一度途切れさせた言葉を、一度ぐっと飲み込んだ。
「……お前の身に、何かが起きたとして。……その事実こそが、恐怖になる事も有り得るだろ」
もし、言葉にしてしまったら、現実になりそうな気がしていた。
普段であれば、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑う事だろう。だが、今ばかりは違う。どうしても、拭い去れない懸念があるのだ。どこか慎重に言葉を選んでいくが、シュリュッセルは「それはよくないね」と簡単な反応を返すだけだ。眉間の皺を深くしたヒューノットは、溜息をついて腕を下ろした。
「そもそも、――こだわらなければ、傍観者は他にもいる。また、待てばいい」
失わずに済むのであれば、待ちぼうけを食らう方がずっと良い。
ヒューノットは、繰り返し続ける事に嫌気が差していた。停滞を望む訳ではない。だが、意味もなく繰り返され続ける終焉を眺めて、再びやり直す事に辟易としていた。
「――いいや。駄目だ。彼女の代わりはいないよ。彼女は、君の選択肢を成長させたのだからね。彼女ほど前に進んだ傍観者はいない。君こそ、よく知っている筈だよ」
しかし、シュリュッセルは否定する。
その赤い瞳を見つめたヒューノットは、数秒ほどしてから吐息を落として再び腕を組んだ。
細く差し込む光の筋が見え始めた事には気が付いている。それでも、どうせ失うのであればと、思いはするのだ。些か臆病になっている自分自身にも嫌気が差していた。混沌の運命から逃れる術があるのだとすれば、出来る限りは手に入れたい。
「お前がそのように言うのなら、そうだろう。だが、……寝ろ。話はあとだ」
「君、そうやって逃げるタイプの男なんだね?」
「ほざけ。怪我人にとやかく言われる筋合いはない」
「もう殆ど治ったじゃないか」
「減らず口か。お前らしくない。完治してからだ」
表面的な裂傷は塞がっても、内部まで修復されているとは限らない。
特に熱傷はその傾向が強い。星の熱は特別だ。燃え上がる青い火柱に眼前の人物が晒された瞬間を見た事は一度きりだったが、――繰り返す必要などないと、ヒューノットは首を振るう。
立ち去るつもりのない彼の様子を眺めていたシュリュッセルは、やがて仮面を返さないのであればと再びベッドに横たわった。
眠りに落ちるまでは数分。しかし、落ち始めてしまえば、あっという間に意識は底へと沈んでいく。シュリュッセルは、眠りに落ちる瞬間の感覚をあまり好まない。バッドエンドを迎えた後に、再び世界が開かれるまで――たったひとりで暗がりにいる間、自分の意識が迎える感覚とよく似ていたからだ。次の傍観者が現れるまで、一度終わりを迎えた世界は閉じられ続ける。沈黙した世界の中央で、繋がりの光が零れ落ちるまで待ち続けるあの時間をどう表現すれば良いのかさえ分からない。
次に目が覚めて、この白い光の空間から出た後は――始まりと同じだ。
銀色の仮面で顔を隠した案内人は、光に包まれた草原に立ってお決まりの台詞を口にする。
「おかえり、傍観者」




