19.枯樹生華
熟れた桃特有の香り。
口の中に残った甘さ。
喉の奥を流れた味。
鼻を通り抜けた匂い。
プッペお嬢様が嬉しそうに食べているクッキーを眺めたけど、そこから何かが読み取れるはずもない。
私なんかが、そんな特殊な能力を持っているわけもなかった。
というか、もし、そんなことが出来るなら、もっと器用に生きてると断言できる。
ああ、本当にヒューノットはどこに行ったんだ。あの野郎。
「…………」
私の考えすぎだという線もある。有り得る。大いに可能性はある。
でも、そうではない可能性だって、もちろん有り得る。というか、可能性はそっちの方が高そうだ。
カップに三分の一ほど残った紅茶を見下ろした。
高そうなカップだなぁ、お洒落なカップだなぁ、と意識を逸らしてみても何にもならない。
現実逃避が下手すぎる。
ママのクッキーと同じ。
その言葉が意味するところは、プッペお嬢様の中では本当に「ママが作ったクッキーと同じ味」ということなのだろう。それ以上も以下もあって堪るかという感じでもある。
大丈夫だと自分に言い聞かせて、恐る恐るルーフさんへと視線を向けた。相変わらず、穏やかな目でプッペお嬢様を見守っている。私には、それが育ての親から向けられる目なのか、それとも違うものなのかも判断が付かない。
それと、メイフのザクロだったか。その話がどう繋がって、何を意味しているのかもわからない。
何なのこれ、何なの。何のフラグなの。
考え込んでいる間に、プッペお嬢様はクッキーを食べ終えて紅茶も飲み干してしまったようだ。
満足そうな笑みを浮かべてルーフさんを見たあと、私の方も見てくれるけど、今ちょっとそれどころではない。
色々と考えたところで結論は出ないけど、どうすればいいのか選ばせてくれるはずのヒューノットも来てはくれない。それ自体、私にとっては異常事態だった。
本当に、ヒューノットは何処へ行ってしまったのだろう。
プッペお嬢様は私の様子を眺めて不思議そうにしていたけれど、何も言ってはこない。気を遣ってくれたのか、それとも退屈させてしまったのか。
その代わり、ルーフさんへと話を振る。内容は他愛のないものだった。さっきは本当にどこへ行っていたのか、とか。今日のクッキーは特に美味しかった、とか。次のご飯は何にするの、とか。
そんな些細な――プッペお嬢様からすれば、大切な話か。一生懸命にしゃべっているプッペお嬢様の様子を眺めつつ、そわそわと落ち着かない私は、どうすればいいのかを考えながら扉ばかりを気にしていた。
「――お休みになりますか?」
ルーフさんの問い掛けが聞こえて来て、慌てて視線を戻した。
すると、しばらく話を続けていたプッペお嬢様が大欠伸をしているところだった。眠たげに目を擦っている。最終的には抱っこしていたとはいえ、あちらこちらを走り回らせたものだから、疲れてしまったのかもしれない。
ただちょっと、今はできれば、一緒にいて欲しい。という気持ちと、なるべく完全圏にいて欲しい。という気持ちが、私の中で大運動会中だ。どうすればいいのかなんて、わかるはずもない。
眠たいのだと、ぐずるように言うプッペお嬢様を抱き上げたルーフさんは、「少し失礼致します」と私に断ってから部屋を後にした。
それを引き止めるだけの理由もなくて、ただ見送るだけになってしまう。
この部屋から出ても良かったが、ヒューノットがいない以上、この洋館から出られるかどうかも分からなかった。というか。
「……」
駆け回っていた時に玄関なんてあったかどうか。記憶にない。
いくら広いとはいえ、あれだけ隅から隅まで走り回って、辿り着いていない場所があるとは思えない。
何度か同じ場所を歩き回ったけど、そりゃ確認して歩いているんだから、そうなる。あの時はヒューノットを探すのに精一杯で部屋の順番だとか、そういうものを把握しようという意識がなかったから、どう歩いてどの部屋を覗き込んだとか、そういう細かなことは覚えていないけど。それでも、見たかどうかくらいは分かる。
「……」
うん。つまり。ちょっと。ピンチなのでは?
両手で顔を覆い、それから前髪を掻き上げた。そして、手櫛で髪を元の状態に戻してから周囲を見回す。
ヒューノットは私の手足。そして、剣でもあり盾でもある――とか何とか、そんな感じのことを言われていたような気がする。つまり、ヒューノットがいないということは、私は丸腰状態で放り出されているに等しいのではないだろうか。私に手は出せないとか何とか、そんなニュアンスのことを言われたような気もするけど、だからといって鵜呑みにして平然としていられるほど私のメンタルは強くない。
だってあれは、シュリが投げた石が私に当たらなかったというだけの話だ。
立ち上がって室内をうろうろと歩き回る。意味なんてない。動かないと落ち着かないだけだ。だからといって、別に動いたからって落ち着く訳でもないんだけど。
テーブルの周りをぐるぐると回って、何だっけこれ、トラがバターになる話だったかな、なんて思うけど下手すぎる現実逃避だった。そもそも、私が見ている世界が現実なのかどうかという感じでもあるけど。ナチュラルにゲーム世界に入り込んでるとか、誰にも言えない。めっちゃ現実っぽいんだもの。いや、すごく非現実的ではあるんだけど、五感すべてがリアルというか、リアリティがハンパないというか。始まりは何だっけ。起動した時に、――――。
「――――シュリだ」
私をこっちに連れて来たのは、もとはといえばシュリだ。
何となく味方みたいな気持ちになっていたけど、よくよく思えば黒幕の可能性すらある。
もしかすると、ヒューノットの方が被害者かもしれない。ああ、まあ、そこはどうでもいいっていうか、いいんだけど。そうじゃなくて。
ぐちゃぐちゃになっていて、なかなかまとまらない思考が面倒くさい。
一旦、足を止めて息をつく。二度、三度と深呼吸をして、それから扉へと向かった。ドアノブに手を伸ばしかけたところで、先に扉が開かれてしまって息を飲む。
扉の向こう側に立っていたのは、ルーフさんだ。
少し驚いたような表情を浮かべていたが、数秒もすれば淡い微笑を向けて来る。
ただ、そこには違和感があった。
何か。ずれている。視線の先が、おかしい。目が合わないのだ。
ハッとして勢いよく背後を振り返ると、見慣れた黒い衣が目に入った。嫌味なくらいに長い脚を組んで椅子に腰掛けているその人物は、どこから取り出したのかコーヒーを啜っている。テーブルにあったのは紅茶だし、そもそも私とプッペお嬢様の分しかなかった。もう既に、意味が分からない。
「――やあ。調子はどうかな、ヤヨイ」
目元から鼻先まで覆う、猫の顔を模した銀色の仮面。やや無造作な乱れが入ったウルフカットの黒髪。いい加減、そろそろ見慣れた黒いローブっぽい長衣。そして、その声。相変わらず仮面で顔を隠しているが、それでもシュリであることはよく分かる。これで別人だったら、私は完全にお手上げだ。こんな感じの人物が何人もいて堪るか。
私が答えられずにいると、シュリは気軽な調子で片手を軽く上げた。ひらひらと軽い調子で手を振られても、どうすればいいのかさっぱりだ。
「見る限り、順調そうで何よりだ。――いいや、順調どころではないね。これは快挙だよ、ヤヨイ。君は、初めて彼女を招き入れる事が出来たんだ。ああ、いいや。この表現では、少し正しくないかな。そう、逆だ。君は、初めて彼女から招かれる事に成功したのさ。それは誇って良い事だよ。君は君が成し遂げた事に胸を張っていい。"初めて"の事だからね。それも、"犠牲を払う事なく"だ。なかなか出来る事ではないよ」
長々と言葉を紡ぐ声はいつも通りのもので、だから途中で扉の方を振り返っていた。
シュリが何を言っているのかを理解したのは、その瞬間のことだ。
「――……」
ルーフさんが立っていたはずの場所に、彼の姿はない。代わりに知らない女の人が立っていた。
入れ替わったというよりは、まるで最初からそこにいたかのように自然な様子で佇んでいる。
思わず数歩ほど後ずさりしてしまった。私が敏感ではないにしても、気配どころか音すらなく、人間があっという間にそのまま場所を入れ替えるなんて有り得ない。いや、そりゃ有り得なさで言うのなら、私の体験すべてが今のところ有り得ないんだけど、そうではなくて。
その女の人は、シュリとよく似ていた。顔立ちだとかそういうものではなくて、雰囲気というか、そんな感じ。寧ろ、見た目としては正反対だ。
シュリの黒髪とは違って、極々薄らと紫が入った髪は全体的には白っぽい。そして、とても長くて、高い位置で結い上げられている。目は、青が強い紫といったところ。
純白のワンピースを着ていて、その上に腕を袖に通さないまま白衣を羽織っている。靴まで白い。徹底的に白がメインに据えられている。
基本的に黒を纏っているシュリとは、まるで意図的に対を成しているかのようにすら見えた。
それでも、ふたりはよく似ている。
シュリの顔立ちは明確ではないし、背格好としては似ていない。類似点の方が少ないくらいだ。背丈が同じような感じかどうか、くらい。だというのに、それでも感覚として、ふたりはとてもよく似通っている。
「ヤヨイ」
声の近さに驚いて視線を上げると、いつの間にかシュリがすぐ隣に立っていた。
仮面越しの視線は私ではなくて、眼前の女の人へと向けられている。
私も半ば反射のように、再び女の人を見た。
「――驚かせてすまないね。さて、紹介しよう。彼女は、ユーベル・フェアレーター。本来であれば、傍観者の前に姿を現す事などなくてね。私も、少し驚いている。いいや、戸惑っているという表現がより適切だろうね。さて。だから、今のところ私は説明するべき言葉をたった今探しているところだが、――そうだね。分かり易く言ってしまえば、彼女はその名の通りさ。名は体を表すとはよく言ったものでね。先人は常に我々に教えを残してくれている事がよく分かる。彼女は、この世界にとっては、全くもって"害悪"そのものだ。概念としての悪ではない。根源に意味はない。しかし、結果的にはそうなのさ。あらゆる終焉を呼び込み、この世界に別れを告げる存在だ。シンプルに言えば、業を背負う裏切り者といったところだろうね」
シュリの言葉は私に向けられているけど、その意識は女の人に向いているようだった。警戒しているといった様子もない。あまりにもひどい紹介の割りには、構えている様子なんて全くなかった。シュリと女の人を交互に見る。ふたりはそれぞれに、見つめ合っているように思えた。シュリの方は、よく分からないけど。
「う、裏切り者って……」
「プッペから話を聞いただろう? その通り、彼女は――」
プッペお嬢様から聞いた話。
それは、どの話のことなのか。
頭の中でプッペお嬢様との光景が、そして交わした会話がぐるぐると回る。ルーフさんに関する話なのか、ぬいぐるみに関する話なのか、ママについての話なのか、この洋館の事なのか、それとも――。視線を女の人から再びシュリへと戻した時だった。
「――随分な事を言うのね、シュリュッセル・フリューゲル」
女の人が声を出した。
声自体は優しげで耳に心地良くて、そして聞きやすい、ゆったりとした話し方だ。
その黒目がちの垂れ目が細くなる。女の人――ユーベルが何者なのか。すぐには分からなかった。
優しそうに見えるというのに寂しそうでもあって、それらとは全く違った調子で含みも感じられる。
「何者にも成れないあなたが外側から囁く言葉に、どれほどの真実が含まれているのかしら。それを判断させるには、この子への情報が不足しているのではなくて?」
言葉を聴いていてハッと気が付いた頃には、周囲の景色が一変していた。
これは経験がある。あの草原だ。草原の中で向こう側が変化した時もそう、最初にパソコンの前から草原に呼ばれた時もまたそうだ。またシュリが何かしたのか。とにかく、今はもうただの部屋ではなくなっていて、何もない空間になっている。慌てて周囲を回したあと、また後ずさった。今度は、ふたりともから距離を置く。
「あなた。この子には、きちんと説明したの? あなたが何者であるのか。あなたが何をする者なのか。あなたが何者ではないのか。――答えなくて良いの。良いのよ。あなたの答えなんて、最初から期待していないの。だって、そうでしょう? きちんとした説明なんて、できる筈がないのだもの」
ユーベルが言葉を紡ぐ間に、少しずつゆっくりと後ずさる。
足裏には硬い床の感触があるけど、足元には何もないように見えた。きっと何処かに壁もあるんだろうけど、黒い何かが広がっていてわからない。だからといって、周囲が暗いわけではなかった。ふたりの姿も私の手足も鮮明に見えている。
シュリは、一体何者なのか。ヒューノットとは立ち位置が違うこと、それだけは確かに明白だ。シュリがいなければ、たぶん、私もここに来ることもなかった。ヒューノットだって、もしかすると役割に縛られる事がなかったのかもしれない。もしかして。もしかして、そもそもの原因は。
「あなたの事を、この子は何も知らないのではなくて?」
「知っているさ。君が私について知っている全てよりも多くね」
ユーベルの言葉をシュリが遮ったように聞こえた。しかも、いつもの饒舌さはない。それがとても珍しくて、思わずシュリに視線を向けた。
ふたりの距離は数歩分、私とふたりの間にはその倍は距離が開いている。足を止めた私を見たシュリは、距離を取ったこと自体には何も言わなかった。
戻れとも進めとも言わない。その程度のことは、どうでも良いのかもしれない。シュリにとっての物理的な距離なんて、あってないようなものである可能性は高い。わかんないけど。でも、呼ばれたら何処にでも来られるような人だ。何か条件があるのかもしれないけど。
シュリの言葉に対して、ユーベルは気分を害した様子すらなく、単純に微笑を深めた。
「もちろんよ。私は、あなたの殆どを知らないのだから。――ねえ、貴女。少しだけお話をさせてくれないかしら」
いきなり話のターゲットにされて、どきりと心臓が跳ねた。
視線が向けられて、ぞわりと背が粟立つ。
ここで「いやです」なんて言えるほど強靭なメンタルが私に宿っているはずもない。
ふたり分の視線を受け止めて、また半歩後ずさってしまった。
「伝えたい事があって貴女を呼んだのよ。彼の手を借りた事はお詫びするわ。けれど、あの方法しかなかったの」
ゆっくりと向き直って来たユーベルは、ゆったりとした仕草で持ち上げた片手を自身の胸元に当てた。
その仕草が何を意味しているのか。何の意味もないのか。何らか示すものがあるのか。私には分からない。見たこともない、ような気がしている。
「――あの子達を傷付けずにいてくれて、ありがとう」
思いもしない言葉が向けられて、呆気に取られてしまった。
あの子達。というのは、誰を示しているのだろう。響きからすると、プッペお嬢様は入っている気がする。それなら、もうひとつはルーフさんだろうか。それは、私の選択肢について言っているのか。どうか。
「や、その、……何もしてない、ん、ですけど」
声が掠れた。
この妙な緊張感は心臓に悪い。
あと、この黒い空間も嫌だ。足裏に硬い感触はあるのに、目では何も確認できないから動きにくい。いきなり落ちそうな気さえしてしまう。
足にぐっと力を入れて視線を持ち上げた時、何かが通り過ぎた。天井――というのか、空なのか。頭上に視線を向けると、薄く光る星が見えた。ひとつを見つけると、またひとつ、もうひとつと次々と見つかっていく。そこにあるのは、夜空だ。満天の空というべきか。
少しずつ目が慣れてくると、無数の星々が空を飾っている事に気が付いた。通り過ぎたように見えたのは、流れ星だったらしい。もうひとつ流れたそれが、ユーベルの向こう側に落ちていく。自然と星を追いかけていた視線は、彼女の白い髪に留まった。
「――いいえ。貴女は選択したわ。選択肢を放棄して、それでも止めずに留まってくれた事を感謝しているの」
選択肢。
それはヒューノットが私に提示するものだ。プッペお嬢様を連れ出してからは、ヒューノットに会えていないのだからルーフさんに繋がる選択肢まで辿り着けていない。
「……選択肢を、放棄して?」
彼女の言葉を、無意識のうちに繰り返していた。
選択肢を放棄した――増やしたのではなく、選択し直した訳でもない。ヒューノットの、「連れて行くか、行かないか」を選択し直したと思っていた私にとって、その言葉は強い引っ掛かりを生んだ。
確かにプッペお嬢様を、ここから連れ出すつもりで選択し直したことは、確かだけど。
そうすれば、ルーフさんがおかしくなっても、ターゲットにならずに済むとは思ったけど。
シュリは、言葉を挟んで来ない。
ただ黙ったまま、私と彼女のやり取りを聞いているだけのようだ。何を考えているのかなんて、わかるはずもない。
"選択肢を放棄"した。
それは、どういう意味だろうか。私は、あくまで示された選択肢から選んだつもりだ。
プッペお嬢様を連れて行く。その上でルーフさんが死なずに済むように、プッペお嬢様に危険がないように――出来ることなら、そうなる道を選びたかったから。
でも、あの時点では、ヒューノットが出した選択肢から行動を選んだ。連れて行くか、置いていくか、だったか。言い回しは、あまり覚えていないけど。確かに、二択だったはずだ。
ユーベルの言葉の意味がわからない。どうして、この人達はわかりやすく言ってくれないんだろう。
自然と眉間に皺が寄る。選択肢。ヒューノットが示して、私が選ぶ。そして、それに合わせてヒューノットが行動する。戦えと言えば戦って、戦うなと言えば何もしない。連れて行くか置いて行くか――あれ。違う。おかしい。
あの時、ヒューノットはプッペお嬢様を"連れて"行かなかった。私が"連れて行く"と選択したのに、だ。ヒューノットが、行動する。そのはずでは、なかったのか。
「そう。選択肢を放棄したの。貴女は単なる傍観者ではなくなって、もう選択肢を放棄するに至ったのよ。それはとても、とてもとても素敵な事なのよ、この開かれた世界にとって――――そうではなくて? シュリュッセル・フリューゲル」
ユーベルの唇から再び名前が溢れた瞬間、まるで弾かれたかのようにシュリが駆け出した。その瞬間、足元がガクンッと支えをなくす。唐突に床の底が抜けたかのようだった。声すら、上げられない。何が起きたのかを理解しようとするだけで、精一杯だった。だが、自分が落ちていくということを知るだけで終わる。理解になど至らない。
「――――ッ!」
呆気なくバランスを崩して真っ逆さま。
落下しそうになったところで、黒い衣に包まれた腕が私の身体を抱き上げた。枝から枝へ飛び移るかのように、タンッタンッと音を響かせながら何かを踏んで移動が続く。走っているというよりも、本当に飛び移っているという感じだ。眼前で揺れたのは、小さな鳥篭。矢の刺さった心臓。心臓が鳥篭に入っている。趣味が悪いその装飾は、シュリのものだ。しなった鎖の音が僅かばかり耳に届いた。
ずり落ちそうになって、慌ててしがみつく。分かってはいたけど、助けてくれたのはシュリだった。私の腕より細いのではないかと思うくらいの細腕が、それでもしっかりと支えてくれている。
シュリの顔を確認しようとしたところで、何かが勢いよく落ちて来た。閃光を伴って落下して来たそれは、地面に落ちたと同時に激しい音を立てて弾け散っていく。あとに残ったのは、焦げたようなニオイだ。
「――シュリッ!」
首に腕を回してしがみつき、シュリの肩越しに空を見上げた瞬間にゾッとした。
落ちて来たのは、頭上を飾っていた星だ。火花を散らして舞い降りて来る。中には、白い煙を伴っているものもあった。星ではないのなら、――とにかく光の塊が落ちて来ている。サイズは大小様々だが、小さくても拳大、今のところ見る限りは人間の頭ほどあるものだって、簡単に地面へと叩き付けられていた。まるで油でも入っていたかのように、地面に落ちた瞬間に散った液体が燃え上がって消えるものまである。青白い火柱を上げたもの、ただの光る石のように砕け散るもの、様々だ。
地面に突き刺さって弾け散ったものもある。そのうちのどれが直撃しても怪我は免れないだろう。もちろん、この黒い地面の向こう側に落ちたところで無事ではいられないと思う。ルーフさんの言葉が、やっと理解出来た。
外側の庭では、危険なことが起こる。例えば、――星が降る、とか。
背が震えた。その震えは背から首に伝わり、そして頭頂部まで駆け抜ける。ぞわりと気持ちが悪い感覚だけが残った。動けないまま、ただシュリにしがみついて、一緒に逃げる以外には何も出来ない。
音や光が走る度に身が竦む。あれが当たったら無事で済むはずがない。
「……っ、ヤヨイ、ヤヨイ。大丈夫だよ。怖がらないで。君は、……――――君だけは守るとも」
跳び回る度に息が弾む中、シュリはそんなことを言って来た。
ユーベルの姿は確認できない。けど、たぶん、彼女の仕業だ。感謝とは何だったのか。跳ね上がった瞬間にしがみついていた腕が緩む。そして、守ると言ってきたというのに、次の瞬間、思い切り宙に放り投げられた。
「――うわッ!」
当然ながら受身なんてものを取れるわけもなく、正面から地面に突っ込んだ。
幸いだったのは、そこが硬い場所ではなくて草が折り重なっているかのような、多少柔らかな場所だったことだろう。それでも、痛いものは痛い。
打ち付けた額が鈍い痛みを放つ中、ぶつけて擦った顎の、地味な痛みが重なって来る。胸も痛くて、何とかしようと伸ばした筈だった役立たずの腕も、擦り傷が出来ている。一瞬の出来事で、何がどうなっているのかなんて、すぐには把握できない。とにかく痛かった。
地面に手をついて体を起こしたところで、ひどく近い位置で光が弾ける。続けざまに、けたたましい音が鳴り響いた。同時だったのか、少し遅れたのか。そんなことは分からない。何だったら、私の着地と殆ど同時だったタイミングのように思えた。
地面に這いつくばった状態で振り返ると、シュリの左肩あたりから白い煙が上がっていた。
焦げ臭い空気が漂う。シュウシュウと変な音がしていて、それがシュリの方からなのか周囲からなのかも分からない。慌てて体の向きを変えたけど、膝にも腰にも力が入らなくて立ち上がれない。
顔の上半分を覆う仮面の下、唯一きちんと見えている口許が歪む。ぐっと歯を食い縛っている様子が見えた。その背後で別の光が炸裂する。震える右手が左の肩口に触れた。どうなっているのか、逆光になっていて見えない。
「ッ、……ヤヨイ、彼を呼んでくれないか。すぐに、呼べば、きっと――――」
言葉が終わるよりも早く、シュリの身体が大きくしなった。
激しい音と閃光があった。何か細かなものが飛び散り、地面に落ちた星の破片が燃え上がる。
一撃を受けて、大きく仰け反った細い身体が震える。何とかその場に踏み止まったシュリは、右手で左肩を押さえたまま私に背を向けた。その背を覆う黒い衣は、一部が燃え上がっていたが、その薄い青とも白とも言えない炎はすぐに消えていく。だが、燃えていた何かが足元にぼろぼろと落ちた。それが何なのか、なんて。見ることが出来ない。
「――……大丈夫さ、ヤヨイ」
シュリの声が届いた。
震えていて、喉の奥から呼吸音が漏れている。それでも、大丈夫だと繰り返した。
「……君、は、……何度でもやり直す事が出来る。その為に、私がいるんだ」
それは、いつだったか。聞いたことのある言い回しだった。
確か、最初の頃だ。あれから、どのくらいの時間が経ったのかも分からないけれど。
途切れがちに声が続く。
「……私は、全て知っている。君の、……君の存在を残す為に、……私は、在るのだから……」
私に聞かせているのか。それとも、自分自身に言い聞かせているのか。
あるいは、そのどちらでもあるのか。
シュリの言葉は続いた。
まるで決まり切った常套句を繰り返すように、よく知っている定型文を朗々と読み上げるかのように。
いつもの調子で声は続く。苦しそうな呼吸が聞こえるというのに、まるでそうしなければならないかのように言葉を放つ。
「……――言っただろう? すべては、君の、心次第だ。誰ひとりとして、……君の選択に、否の声を上げる者は、いない。君は安心して、君の選択を掲げるが良い。それこそ、我々が君に望む役割なのだから――――……彼女は、選択肢を放棄してなどいないさ。彼女こそ、世界にとって選択肢そのものだ。彼女こそが、選択の指針だ。これは定めだよ、ユーベル・フェアレーター」
背後の私へと向けられていた言葉は、やがて前方へと飛ぶ。
名を呼ばれた主の姿はなく、何らか声を返す者などいない。
だが、まるで返事の代わりであるかのように光の玉が落ちて来た。空気を引き裂く音がした直後、漸うといった様子でシュリはそれを右腕で素早く振り払った。大きくは避けない。私を背後に庇ったまま、何処にも動こうとはしていなかった。
――君を傷つけられる存在は、この世界にはいないんだ――
シュリは、確かにそう言っていた。それは覚えている。
そして、あの時、投げられた石が当たらなかった事は確かだ。
すり抜けて、そして落ちた。その瞬間まで知っている。
それなのに。
シュリが私を傷付けられないというのなら、まだしも。
あの時の言葉が本当なら、真実を言っているのなら、シュリは私を庇う必要なんてない。はずなのに。
どうなっているのか分からなくて、思考が掻き乱される。
いや、そもそも思考が成り立っているのかどうかすら曖昧だ。
「ヒューノット! ヒューノット来てっ、ヒューノットっ! 戦ってッ、戦ってよッ、ここに来て――――ッ!」
気が付けば、私は空に向かって声を上げていた。
怒鳴り声のような、叫び声のような、悲鳴のような、情けない声が響き渡る。
私の知る限り、戦う事が出来るのはヒューノットだけだ。他の誰も、その術を持っていないように思えた。それはシュリですら例外ではないかもしれない。
頭上に広がっている空に光自体のような亀裂が走った瞬間とシュリの足元から青い火柱が激しく立ち上がったタイミングは殆ど同じだった。どちらかが先だったとしても、私には認識できなかった程度には僅差だ。頬に熱を感じた瞬間、反射的に両腕で顔を庇っていた。数秒ほど遅れて金属がバラバラに弾けたような音がして、更に硝子が砕け散るような音が響き渡る。
降り注いで来た何かは硝子か金属の破片だと思ったけど、肌に当たると異様に柔らかくて、そして淡雪のように冷たさだけを残して消えた。
顔を庇った腕を下ろしていくと、くすぶる青い火を幾つか纏ったシュリが見えた。
「ヒューノット……」
そして、その身体を片腕に抱いたヒューノットが立っていた。
私に背を向けて、シュリの背に腕を回して肩辺りを掴んで支えている。
シュリは意識がないようで、彼の腕の中でぐったりと身体を預けた状態だ。その黒い衣は、所々が焦げていて、燃え落ちた部分もある。直接の肌がどうなっているのかは、分からない。青い炎が風に散らされ、周囲に飛ばされていく。その一部はヒューノットの指先にも触れたが、彼は熱がっている様子も見せなければ痛がっている様子も見せはしない。
私の情けない声に対してか。肩越しに振り返って来た顔は、いつも通りのものに見えた。どこか不機嫌そうな、いつも通りの表情。しかし、向けられた言葉は予想外のものだった。
「戦わない。逃げるぞ」
だらりと下がったシュリの左腕から何かが落ちた。
滴るそれが何なのか、目を凝らさずとも分かってしまう。焼け焦げた袖から覗く白い腕は赤黒い液体で汚れている。シュリの肩を掴むヒューノットの手も同じような色に染まっていた。焦げ臭い、いやなニオイがしている。鼻腔の奥に居座りそうな、濃いニオイだ。
左腕にシュリを抱いたヒューノットが私に向き直ったその瞬間、背後で扉が開くような音がした。




