18.轍鮒之急
別に、何か特別な目的がある訳じゃない。
だからといって、責任感とか使命感とか、そんなものが強いタイプでもない。
どちらかといえば、出来る限り何もせずにいたいくらいの性格だ。
学生時代も、絶対に胸を張って主張できるほどに打ち込んで来たものなんてない。
卒業してからもそうだ。絶対にやりたい仕事なんてものはなくて、それでも働かないといけないから、という理由で就職した。
これといって夢を追いかけてもいないし、情熱を持って取り組んでいることも特にないし、ある程度の稼ぎとそこそこの趣味が楽しめれば、それでいいかなと思って生きて来た。
そして、ことなかれ主義でもないし、刹那主義でもない。そこまで極めてはいない。
褒められたら嬉しいし、友達との付き合いだってあるし、遊びに誘われたら行く。面倒くさいときもあるけど、そんなの気分の問題だ。
そんな感じで、だからきっと、私はいわゆる「普通の人」なんだろうな、とは思う。
この世界がひとつの物語だったとして、その中でも特別に脚光を浴びる訳でもなく、主人公を助けるような重要人物という訳でもなく、かといってお助けキャラになんて絶対にならないような、つまりはモブだ。
直接、何かに関わることもなく、ただ景色のうちに流れていくだけ。
それでも、当人としては自分の人生では主役で生きていくのだから、壮大なストーリーになんて巻き込まずにそっとしておいて欲しいという感じ。
ええと、つまり。
そう。つまり。
何をしているんだろうか。私は。
「ヒューノット! ちょっ、どこ行ったッ!?」
プッペお嬢様を抱えて走ることが出来る私の脚力と体力を、誰か盛大に褒めて欲しい。
たぶん、火事場の何とかやらだ。あとで絶対、筋肉痛になる。
今ならオリンピックにでも出られる気がした。
「――ヒューノット! ほんっとに、もう! いい加減にしてくれないかなっ!?」
姿の見えなくなったヒューノットを探して、私たちは必死に館内を駆け回っていた。
お嬢様を"連れて行く"――と、選択した途端にこれだ。
何がどうなるのかなんて、私にもわからない。
ヒューノットが先に行ってしまった時は、てっきりまた階段のところにいると思ったのに。
騙された。
館内は静まり返っている。例の部屋も覗いたけど、ルーフさんの姿はない。
無遠慮で悪いとは思ったけど、とにかく覗き込んだ部屋の扉は全て開いたままにして廊下を走る。
イレギュラーな展開になるだろうとは覚悟したけど、どうなってんだあの野郎どこ行った。
とにかくヒューノットを見つけないことには、そもそも話にもならない。
例えば、ルーフさんがおかしくなったとして。その時に、私だけではプッペお嬢様を守ることなんてできない。
館の中は、とても静かだ。耳がおかしくなりそうなほどに静かで、だからわざと大声を出す。
「ヒューノットってば!」
そうしていないと、私だって不安だ。
プッペお嬢様は、さっきからルーフさんを求めて半泣きだし。何だよ、これ。私が何をしたっていうんだ。
喧嘩するなら、シュリとしてくれ。
ヒューノットには、選択後もリセット後も記憶があるらしいし。ああ、もう、本当なんだアイツ。
階段を上がったり下ったりで、もう膝はガクガクだ。
小さくても人間ひとり。さすがのプッペお嬢様も、ずっと抱っこしていると重たい。
レディに言うべきではないけど、重たい。
かといって、こんな状況ではどこかの部屋に置いていくという選択肢なんてあるはずもない。あの野郎、それを見越していたのだとすれば、本当に嫌なヤツだ。一発くらい殴りたい。
そう思っていた時だった。
一度は通りすぎたはずのドアが、閉じていることに気が付いて立ち止まった。
いや、だって。いくら広いとはいえ、もう何周もしている訳だから、閉じている扉なんてある訳がない。
プッペお嬢様だって、あれで全部って言っていたし、だからこそ、どこにもルーフさんがいないと思って泣きそうになっている訳だし。
「……」
これでやばい展開だったら、本当にヒューノットを殴ろう。そうしよう。
ゆっくりとプッペお嬢様を下ろす。
不安そうにしている小さな頭を撫でたのは、私が落ち着きたかったからだ。
心臓が煩いくらいにバクバクと早鐘を打っている。煩いな、急かすなよ。と言いたい。
自分の心臓なのに自分ではどうにもできないのだから、文句を言うくらいは許されたいところだ。だいぶ苛立っている自覚はある。
恐る恐るドアノブに手を掛けた。重くもなければ熱くもない。
変に冷たい訳でもなくて、至って普通だ。これといって、何もない。何の、変哲もない。
「……うぅ」
そういうのが一番フラグっぽくて、本当に嫌だ。
このゲームのテーマって何だっけ。ホラーだっけ。ただの謎解きものだっけ。もうやだ。
そもそもゲームの中になんて、普通は入れない。私は本当に何をしているんだ。ていうか、どうして、こんなことをしないといけないんだっけか。もうやだ。本当にやだ。
私が戸惑っていると、プッペお嬢様が声を出した。
「ルーフかな?」
いるといいね。と思ったけど、即答はできなかった。
もちろん、見つかることそのものはいいんだけど。
でも、通常の状態ではないのなら、見つからない方が断然いい。
戦う戦わないの選択肢にすら、そもそも辿り着けていないんだけど。
それが良いのかどうかさえ、現時点では判断がつかない。というか、ヒューノットはどこ行きやがった。職務放棄かよ。
内側に誰かがいても、なるべく刺激にならないように心掛けて静かにゆっくりと扉を開いた。
しかし、拍子抜けもいいところだ。そこには、誰もいなかった。
広い一室に長テーブル。その上にはポットとカップ。紅茶のような匂いがしている。ちょっと甘めだ。
扉を全開にしたけど、扉の後ろに隠れていましたというベタな展開もなかった。本当に拍子抜けだ。
テーブルへと駆け寄っていくプッペお嬢様を眺めてから、室内へと視線を巡らせる。
特に何もない。一度覗いた時には、あんな紅茶のセットなんて用意されていなかったということ以外は異変なし。
ヒューノットが用意する筈もないのだから、きっとルーフさんだろう。というか、これでヒューノットでもなくルーフさんでもない第三者が出てきたら、一旦シュリを呼んで抗議したいところだ。
「こっち! あっ、ここは、ママのお席なんだよっ」
プッペお嬢様はそう言うと、右側の一番手前に腰掛けた。
ママの席。そう示された席を見る。当然、そこには誰もいない。いつからここにいないのか。聞きたくなって、すぐにやめた。聞いたところで、きっとヤブヘビだ。プッペお嬢様だって、嬉しくはないだろう。
勧められるがまま、扉を閉じてからプッペお嬢様の向かい側の席へと向かった。のんびりとお茶をしている場合でもないけど、こうなったら誰かが戻って来るまで待ってやろうかという気にもなってきた。ヒューノットがムカつくし。
「ねえ、プッペちゃん」
椅子を引いたタイミングで、ふと気が付いたことがある。
顔を上げて扉を見るけど、誰かが来るような気配はない。
視線をプッペお嬢様に戻すと、不思議そうに丸くなっている青い瞳が向けられていた。
「ママのお仕事って、どうやっておしまいにするの?」
うまく聞けずじまいだった問いだ。
ヒューノットが"人を連れて来る"と言った、らしい。
そして、その人がプッペお嬢様の"ママを連れ帰る"、らしい。
私自身は初耳だったから、うっかり聞き逃しそうになったけど。
ヒューノットが"連れて来る人"というのは、まず、間違いなく、"プレイヤー"だと思っていいだろう。
もうひとつ別の可能性があるとしてシュリがいるけど、まあ、それは捨てていいほど低い可能性だと思う。そもそも、シュリにその役割があるのなら、ヒューノットがもっと早く連れて来ている気がする。
あんなにループを嫌がっていたのだから、進行する手段があれば使わない筈がない、だろう。たぶん。
シュリを連れて来なければループを止められないのに、それが出来ないのだとすれば、わざわざプッペお嬢様に伝えてもいないようにも思える。
プッペお嬢様は、ヒューノットのことを「だんまりでつまらない」と言っていた。つまり、子ども相手にも相変わらず無愛想なままだろうから、うっかり喋ってしまったという可能性はかなり低い。
それなら、やはりヒューノットが"連れて来る人物"は、やっぱり"プレイヤー"のはずだ。
プレイヤーになら、何かができるのか。
「お空がね、白くなったら、おしまいなんだよっ」
「白く?」
「うん、真っ白になるのっ! お星さまがなくなって、お日さまみたいに白くなったらいいんだって」
「へ、へえ……」
頑張って説明してくれている気はするけど、やばいくらいわかんない。
お空が白くなるというのは、早朝という意味だろうか。空が白み始めたら帰る。何だそれ。なぞなぞか?
「お星様がいなくなったらいいの?」
「ちがうよっ!」
めっちゃ勢いよく否定された。
何が違うのか。釈然としないまま、とりあえず椅子に座ってみる。座り心地がよくて、この椅子が欲しくなるくらいだ。
「いなくなっちゃうだけなのは、だめなの。お日さまにならないと、よくないんだよっ」
よくわからないけど、めっちゃ叱られた。
「いなくなったら、よくないの?」
「よくないの! だって、みんなのお星さまだもんっ」
わかったような、わからないような。
確か、ゲルブさんは星を飲み込んでからおかしくなったのだと、グラオさんは言っていた。そして、ルーフさんは星が入っていると、プッペお嬢様は言っている。目がきらきらで、ルーフさんは眩しいと言っていた、らしい。そして、ママはお星様のせいで帰ることができない。
星。星。星、確実にキーワードだ。シュリに説明してもらった気がするけど、何だっけか。何だと、言っていたっけか。
思い出そうとしてみるけれど、すぐには出て来ない。答えられない答えられないと繰り返したあとで、確かこれは答えられると言って、説明してくれた――はず。
記憶を辿ろうと真剣になり始めたところで、扉が開かれた。慌てて立ち上がり、視線を向ける。
そこに立っていたのは、ルーフさんだった。
室内に人がいるとは思っていなかったらしく、驚いた様子で固まっている。
「え、あ、ご、ごめんなさ――」
「ルーフッ! 探したのにっ、どこ行ってたのー!」
反射的に謝ろうとした私の声は、プッペお嬢様の元気な声に遮られた。
しかし、本当にそうだ。どこに行っていたのか。
改めて見ると、彼はトレイを持っていて、その上にはクッキーなどのお菓子が盛られた皿が乗っている。
あれ。これって普通におやつを用意してくれていたのでは。
「えっ、あっ、そ、それは申し訳ありません。まだ、お遊びの途中かと……」
「ルーフのばかーっ、いっぱい探したのにっ」
「も、申し訳ありません……っ」
「いやっ、いやいやっ、いいんです、ルーフさん。遊んでました!」
クッキーごとトレイを放り投げて頭を下げそうルーフさんに慌てて手を振った。
もしかして、館の中を駆け回っていたのは、かくれんぼか何かだと思われていたのだろうか。
私とプッペお嬢様は鬼で、ヒューノットを探していたような感じ、とか。そう思われていたのかもしれない。
って、いやいや。あんたら友達だろ、ヒューノットがそんなタイプじゃないことくらい知ってるだろ。天地がひっくり返ったって、あいつがお子様と遊ぶ場面なんて見られないと思う。
安心したらしいルーフさんは、お礼を告げてきた。そして、トレイからお菓子が盛られた皿をテーブルに移す。
焼き立てなのだろう。香ばしい匂いがふわりと鼻先を掠めた。
「……」
でも、私は厨房らしき場所まで、すべての部屋を覗いたつもりだ。
順々に扉を開いて回り、室内に扉があれば、それも開いて確認した。クローゼットまで開いておいたのに。
そして、確認した部屋だとわかるよう、わざわざドアを開けっ放しにもしていた。
見ていない場所なんて、あったのだろうか。部屋はこれで全部なのかと、プッペお嬢様にも確認したのに。
不可解な感じがして、どうにも首を傾げてしまう。
ルーフさんは、一体どこにいたのだろうか。
プッペお嬢様と言葉を交わす彼に、変わったところは見られない。
見た感じの好青年。あの危うい雰囲気もない。
お嬢様とお揃いの金髪に、お嬢様とは全く違う色の瞳。淡い、白っぽくて、光っているような薄い灰色にも似た瞳だ。
しげしげと眺めていると、不審に思われたのだろうか。
ルーフさんは、少し困ったように笑って「お掛けになってください」と言葉を向けて来た。
逆らうだけの理由もない。さっき、お嬢様に示された椅子に腰を下ろし直して、もう一度扉を見る。
「ルーフさん、ヒューノットがどこに行ったかとか、知りませんか?」
「ヒューノットさん、ですか? いえ、何も聞いてはおりませんが……」
問い掛けてはみたものの、まあ、うん。そうだろうね。と言うより他にない回答だ。
可もなく不可もない。見かけていたところで、聞いてはいないと言われてしまったら、嘘にはなっていない。と、流石にそれは言いすぎだろうか。
ルーフさんが本当に知らないのだとすれば、言いすぎになってしまう。まあ、ヒューノットもいちいち誰かに言付けてから移動するような人物でもない。いや、イメージだけど。とにかく、そんなマメなタイプには見えない。
ふと見れば、プッペお嬢様はおやつタイムを待ち遠しそうにしている。じっとこちらを見て、会話が終わるのを待っているようだ。
何はともあれ、確かにルーフさんが無事で何よりだ。それはいいんだけど。どう、なんだろう。
「ヒューノットは、ホントにどこ行ったんだろうねー?」
お嬢様に話しかけると、「ねー?」と不思議そうに小首を傾げられた。
ヒューノットは、どうしていなくなってしまったのだろう。
自分の役割はないと思って、消えたのだろうか。いや、そんな筈はない。と、思う。たぶん。
「ねえ、食べていい?」
「勿論です、どうぞ。お召し上がりください」
「やった! ヤヨイも食べよーっ」
おねだりをするプッペお嬢様は、何だかもう、とにかく可愛らしい。
それに答えて優しげに頷くルーフさんは、まるでお兄さんか、若いお父さんといった感じもする。まあ、これだけ面倒を見ているのだから、育てたという意味では間違いでもないのだろうけど。
「んっ、んー! おいしーっ、クッキーおいしーっ! ママのクッキーとおんなじっ!」
クッキーを一口食べたお嬢様は、嬉しそうに脚をばたつかせた。
そして、チョコレートのかかったクッキーを次から次へと食べていく。
私はそれを眺めながら、いただきますと小さく言って紅茶を口に運んだ。
匂いの通り、ピーチティーだった。おお、飲める。紅茶が苦手な人でも――私だけど――十分、楽しめそうだ。
「おいしいですか?」
「うんっ、おいしいっ」
「そうですか。それは良かった」
夢中になってクッキーを頬張るプッペお嬢様を見ていたルーフさんは、満足げに頷いた後でその瞳をこちらに向けて来た。一瞬ビクッと肩が震えてしまう。
どうしてなのかは、わからない。変な緊張感が走ったような、そんな気がした。
だって、何だろうか。何かが違う気がする。わからないけど。最初に出会った時と、何かが違う。
それは一種の勘だった。第六感というべきか、いわゆる野生の勘とか、そういうものなのかは知らないけど。
「ヤヨイさん。冥府の柘榴というものは、ご存知ですか?」
「はい?」
何の話だ。いきなりすぎて、ちょっと変な声が出た。
メイフのザクロ。何だそれ。何かの比喩だろうか。別に聞いたことは、ないけど。
「何のこと、ですか?」
「冥府の王が、地上から女神を連れ去ったお話です」
それがザクロと、どういう繋がりになるというのか。
そして、ルーフさんが何を言おうとしているのか。考えたところで、何もピンと来ない。
話の続きを促そうとしたところで、プッペお嬢様が私の方を見た。
「プッペ、それ知ってるよ!」
「そうなの?」
なんて物知りなんだ。
私は、全く知らなかったよ。そういう類の話は基本的に知らない。
「どういう話なの?」
「んっとね、王さまがザクロをくれるの。それでね、それを食べちゃうとね。その分だけ、女神さまは王さまのとこにいないといけないんだって!」
「へえ、そうなんだ」
ふぅん。
と、何も考えずに頷いてしまったけど。
視線は何となく、手元のティーカップに落ちてしまった。
ええ、いや、でも。待って。私、ここに来た時にコーヒー飲んでるし。飲んだけど、全然平気でシュリのところに帰れた、というか。シュリが帰らせてくれたというか、とにかく無事だし。ザクロじゃないし。飲み物だけだし。
「……」
ちょっと、そういう話はやめて欲しい。
もしかして、って、思っちゃうじゃん。
お菓子がめっちゃ食べづらい。
視線を持ち上げてルーフさんに向けると、穏やかな笑みを返されてしまった。
あの、一体それは、何の顔ですか。怖い。
「……」
ていうか。
ちょっと待って。
さっき、プッペお嬢様は何だと言っていたっけか。
「ヤヨイも食べよー。おいしーよっ」
無邪気に言われたけど、それだよ。それ。
だって、それ。ついさっき、言ってたじゃん。
「……プッペちゃん。これ、ママのクッキーなの?」
「うんっ、ママのクッキーとおんなじなのっ」
「へ、へえ……」
立ったままで傍らに控えているルーフさんの方を、見ることができなくなって来た。
ええ、それって、つまり。いや、いやいや。だって、そんな。
ルーフさんがめっちゃ上手に焼けるというか、作れるというか、そんな感じだ、と、思いたい。
口の中に残った甘い桃の味が、何だか妙に濃く感じられた。




