17.改過自新
許可されていない重大なエラー。
ヒューノットは、世界に従わないといけない。そう定められているから。
その資格がない。
シュリの言葉は、確かに普段から決してシンプルではない。
言い回しだって、基本的には簡単なものではない。
けれど、今回は引っ掛かりが多かった。
しかし、どういう意味なのかと問えるような雰囲気ではない。
むしろ、この場にいるというだけで肌がピリピリと引き攣る感じだ。ゆっくりと立ち上がったヒューノットは、苛立った様子で眉を寄せながら口許を歪めている。表情は、ひどく険しいものだ。
その目が見据えているのは、シュリだけだ。私のことは視界どころか、そもそも意識にすら入っていないように見える。
「――――それで?」
フード付きの黒い外套が揺れた。
ヒューノットは液体で汚れた腕を背に隠すようにして下ろしたが、ぽたぽたと滴る生々しい音は隠せていない。
私は何とか意識してシュリの背に目を向け、ヒューノットから視線を逸らすことしか出来ない。
「再び繰り返すのか。際限なく繰り返すつもりか。繰り返し続けろと言うのか」
ヒューノットの低い声が室内に満ちる。
床に伏せた状態で動かないルーフさんは、静かなままだ。
耳に痛い静寂の中、私はその場から動けずにいる。
立ち去ることはおろか、間に入ることも出来はしない。そもそも、ふたりの間に割って入るなんて、どんなシチュエーションだったとしてもお断りだけど。
「抗いの術を持たない選択肢を、幾つ掲げたところで結果は同じだ。冷酷に繰り返せと告げに来たのか」
ヒューノットと向き合っているシュリの表情は、背後にいる私の位置からは窺えない。仮面の下で、どんな表情を浮かべているのか。仮面に覆われていない口許は、どうなっているのか。
「訪れる結末を知っていながら――それが定めだとでも言うつもりか」
話がきちんと見えない。どういう意味なのか、私にはいまいち理解出来なかった。
一度俯いてしまえば、顔を上げることすらままならない。そんな気さえした。だから、私は視線を彷徨わせながらも顔は伏せないで耐えるしかない。
数秒の沈黙。
「――そうだとも」
シュリが口を開いた。
「世界は君に、その"役割"を担わせた。君が幾ら嫌がったところで、世界は揺らがない。君は、どのような思いをしたところで、選択の通りに進まなければならないんだ。それが君という存在の理由であり、君の存在意義そのものになっている。選択が繰り返されるのなら、君は永遠であったとしても繰り返し続けなければならない。殺せと言われたら、ただ殺すだけさ。死ねと言われたら、死ぬだけだよ。何も難しい事はない。君は君自身である以前に、定められた存在である事を選択したのだと自覚しなければならないよ。それが君の存在意義であり、そして唯一の理由なのだからね」
淡々とした調子で落とされる言葉は常とは全く異なってシンプルで、普段ほどは回りくどくもなければ、それほどわかりにくくもない。
ただその分だけ、とても残酷で冷たい印象が残る。あまりにも直接的な表現が混ざり始めた所為だ。
どうして、どうしてそんな言い方をしなければならないのか。
それではまるで、ヒューノットは生きているようで生きていないかのようだ。本当に誰かの手足で道具で、たったそれだけの為に存在しているかのようですらある。
さすがにそうではないだろうと言いたくなった、その時だった。
「……散々繰り返したぞ」
震える低い声が地を這うように室内を満たした。
腕から肩にかけて、小刻みに震えている。ヒューノットの表情は、怒りと悲しみと、言い知れない感情に満ちているように見えた。
「お前の言葉通りなら、俺を殺す選択肢を出せ。……提示してみせろッ! あいつに俺を殺させてみろ! もういい、もうたくさんだ! 偽りの選択肢こそ、エラーではないのかッ! 結末がひとつしかないのなら、何故選択させようとするんだ。一体、何故だッ! 何故、覆らない!」
静かな声が一気に荒くなった。
まるで吼えるような大声が室内の空気を震わせて、踏み荒らされた花が揺れたようにすら見えるほどだ。
その花たちを更に踏んで、シュリのもとへと距離を詰めたヒューノットが片腕を伸ばす。逞しい腕が伸びて、その大きな手がシュリの細い首元に触れるか否か。
そのタイミングで、ルーフさんが微かに呻いた。瞬間、ヒューノットは弾かれたように床を蹴り、ルーフさんのもとへと駆け寄っていく。
思わず息を飲むと、シュリが肩越しに振り返った。
「――――……」
反射的に全身が強張る。
「――さあ、ヤヨイ。やり直しだ。もう一度、君は選択をやり直さなければならない。これは君が選ぶべき事だからね。君の選択肢に嘘も偽りもなく、正解も不正解もないのさ。ああ……その前に、一旦戻るかい?」
仮面越しの表情は、全く分からない。
ただ、いつもならふとした時に笑う口許も、今は全く笑ってはいなかった。
戦うか、戦わないか。
ゲルブさんの時、戦わない選択肢でヒューノットがどうなったのか。記憶に新しい。
あの時も、ひどく怖かった。何が起きているのか、わかっているのに分からない。
どうして、私がこんなことに関わらないといけないのか。何度も思ったのに、どうしてまだ、こんなところにいるんだろう。どうして、またこんなところに来たのだろう。
気が付いたら、私は"戻る"と頷いていた。
ひと瞬き。
その間にあの部屋は掻き消えて、いつもの草原に立っていた。
思わず、その場に座り込んでしまう。少しチクチクとした草の感触が、今はいっそ心地良い。
見上げた先に立っていたのはシュリだけで、ヒューノットの姿は何処にもない。
「……シュリ」
緊張の為か。妙に掠れた声が出た。
名前を呼ぶと、視線がこっちを向く。
視線というべきかどうかは、分からない。少なくとも、シュリは顔を向けて来た。
「何かな、ヤヨイ」
傍らに佇むシュリは、いつも通りのようだった。
まるで、さっきまでの様子が嘘だったかのように、口許で薄らと笑って小首を傾げてくる。
「ごめん。悪いけど、……その、……説明、して。ヒューノットは、……何のことを言ってたの?」
私の問い掛けに、シュリはすぐ傍で屈み込んでくれた。
目線の高さを合わせるようにして、こちらを見て来る。
そうは言っても仮面越しだから、いまいちよく分からないけれど。
「そうだね。簡単に言うのなら、彼は覚えているんだよ。今までの事実を。やり直しを行なった事も、その前に決断した選択についても、その結果がどうなったのかについても、彼は全てを記憶している。寧ろ覚えていないのは、周囲の方さ。君自身が選択し直した事を自覚しているように、彼もまた同じように知っている。彼は君の手足だからね。実行した全てに対して自覚がある。君がやり直す度、彼は何度も同じ事を繰り返すのさ」
シュリの説明に対して、無意識のうちに眉を寄せていた。
きっと、情けない表情になっていたのだろう。
その場に座り込んだまま、立ち上がるどころか、きちんとシュリを見つめることすら出来ない。
だったら。
だとしたら。
今までのバッドエンドを、ヒューノットは記憶している。
それは、プレイヤーが変わったところで同じなのだろうか。そう考えていけば、ヒューノットが叫んだ言葉の意味も何となく分かってきた。ような、気がする。
「――ヤヨイ。ルーフとヒューノットはね、元々は友達だったのさ」
屈んでいた姿勢から改めて草の上に腰を下ろしたシュリは、くつろいだ様子で脚を伸ばした。
嫌味なほどに脚が長いから、並んで座られると無意識のうちに比較してしまう。
相変わらず、男なんだか女なんだか、それすら不明だ。
「ううん。元々というのは、少し語弊があるね。分かり易く言えば、そう、竹馬の友さ。ずっと昔からね。そう、生まれた時には、既に互いを知っていた。認識していたかどうかは定かではないが、意識としてはそれ相応の発達があった瞬間から相違なく互いに相手を認めていた筈さ。だから、プッペもヒューノットを知っているというわけでね。しかし、彼らはそれぞれに役割がある。ルーフはあの屋敷を守り、プッペの世話をしなければならない。ヒューノットは世界の秩序を守る為、プレイヤーに従わなければならない。だから、彼らの自由時間は少なくてね。しかし、意外と多いのさ。――プレイヤーの大半は、最初の時点で見切りをつけるのだから」
シュリは笑っているようだった。
笑っているように、見える。
ただ、どこか遠くに視線を向ける様子は寂しそうにも思えた。
この人はひょっとしたら、実はとても感情表現が豊かな人なのかもしれない。そんな気がした。
「……私はエラーが発生した事を見過ごす訳にはいかない。世界の指針を偽りに染めてしまえば、結果的に全てが崩壊してしまう。だから、彼を制止する必要があった。しかし、しかしね。ヤヨイ――君は、どうか彼を責めないで欲しい。どうか、責めずにいてくれ。誰でも友を傷付ける事には幾らか抵抗があるものさ。苦しい筈だよ」
「じゃあ、抗いの術を持たないっていうのは……」
もしかして。
その選択肢しかない、という意味だったのだろうか。
どう選んだとしてもルーフさんを傷つけなければならないのだとすれば、ヒューノットは何を思ってその選択肢をプレイヤーに掲げたのだろう。どれを選んだところで同じ。どう転んだところで結末は同じ。選択させる必要性も意味もない。
「そう。君が考えた意味の通りだよ。だから、ヒューノットはそれを嫌がったのさ。彼は、君に問い掛ける。"戦うか、戦わないか"――戦うと選択すれば、ヒューノットは彼を手に掛ける事になるだろう」
そこで言葉を切ったシュリは、ゆっくりと周囲を見回した。
見渡す限り何もない。誰もいない。
この場所には、ふたりきりだ。
でも、シュリ曰く、この場所はあらゆるところに繋がっているらしいから、実はふたりきりではないのかもしれない。
けれど、見える限りは私とシュリのふたりだけだ。
再び私を見たシュリは、静かにするように、とでも言うかのように、口許に人差し指を当てた。
「――これは私の独り言さ。私は草原の風に話しかけていてね。何だろうね、年を取ると独り言が増えていけないなぁ。……"戦わない"と選択した場合、ヒューノットは彼を取り逃がす事になる。そうなれば、彼は大切なお嬢様を手に掛けてしまうのさ。気が付いた時には既に遅い。星を失った彼は、自らが手に掛けた大切なお嬢様の最期を知る。耐え切れずに彼は自ら命を絶つしか選択肢がない。彼は、とてもとても大切なものを失ったのだからね。いずれにしても、同じ事さ。ふたり失うか、ひとり失うか。たったそれだけの事だよ。ヒューノットにとっては、自分の手で終わらせる方が良かったのだろうね。今回のように、先走った事は初めてだったけれど……ああ、独り言だよ。独り言。聞かれていたら、大変だなぁ」
白々しい。
というか、面白いくらい分かり易く教えてくれた。
でも、きっと、シュリの役割や立場からすれば、確かに言ってはいけないことなのだろう。
ヒューノットは、ルーフさんが苦しまない方を選択したい、ということか。どうか。それは、わからない。誰かに殺される方が良いのか、自分で死ぬ方が良いのか。なんて、そんなの、私にはあまりにも重過ぎる。ああ、でも。ルーフさんがプッペお嬢様に手を掛けないという点では、先に戦った方が良いということなのかもしれない。
いずれにしても、その選択肢しかないのなら、何度も何度も繰り返したヒューノットが怒鳴るのも無理はない。
「大半の傍観者はね。このあたりで、"もうやめたい"と――終わりにしてしまうものなのさ」
シュリの言葉は、相変わらず淡々としている。それなのに、どこか寂しそうでもあった。
極々一般人な私が、誰かが抱いた感情の些細な揺れを、そうそう繊細に捉えられるとは思えない。
だからこれは、単なる私の感想だ。ヒューノットが怒っていたようで、悲しんでいたようにも見えたように。
シュリは、何か寂しそうにしている。そう思えてならない。
私としては画面越しでも、キツい展開だと思う。
それがこんな、仮想現実みたいなリアリティで来られたら、今は正直、我に返ると吐きそうな気さえしていた。
「――ヒューノットがあのような行為に走ったのは、君に望みがあると踏んだからかもしれない。それなら、私はそれに応える必要があるのだろう。もちろん、君がどのように選択するかについては、我々の気持ちを汲む必要などないさ。君は君自身の思う通り、選びたい方を選べばいい。君は一度、それを知っているだろう? 君は選択する事が出来る。そして、選択しないという選択肢もまた選ぶ事が出来る。つまり、そういう事だよ」
終わりにして来たプレイヤー達は、シュリのこの言葉を聞かされたのだろうか。ヒューノットの、あの叫びを聞いたのだろうか。それとも何も知らず、もう無理だと手を引いたのだろうか。
じっと見つめても、シュリはそれ以上に言葉を重ねることはしなかった。
進めるのも進めないのも、選ぶのも選ばないのも、すべてがすべて私の自由。
いつもなら、普段なら。自由でいることは楽だと思っていたけれど、こんな自由は流石に重過ぎる。こんなことなら、ある程度のレールを引いてもらっている方が楽だ。
ヒューノットが、ああやって勝手に行動を選択したのは初めてのこと。
そして、シュリはそれを見逃すことは出来ない。
ヒューノットは、私が選択した行為を実行する。
「――あ」
そうだ。
ヒューノットは、私が"選ばなかった"としても、実行してくれる。
ゲルブさんの時もそうだ。戦うか戦わないか。そうじゃない。その二択だけではなかった。シンプルな二択の先に別の選択肢を持ち出しても、ヒューノットはそれを拒まなかった。拒めなかったのか、拒む必要がなかったのか。それは、現時点では分からない。でも。それは、ひとつの大きな事実だと思う。
戦うか、戦わないか。
進むか、進まないか。
その選択肢の先、どうやってそれを実行するのか。方法をヒューノットが私に委ねないのは、そんなことに選択肢が用意されていないから――だとすれば。
「……」
確かに怖いし、嫌だし、辛い。帰っていいって言われたら、帰りたい気持ちはある。けれど。
何というか。使命感でもないし、責任感というほどではないけど。
「ヤヨイ?」
ここまで来て、ここまで知って、ここまで教えられて。
ハイそうですか面倒くさいし怖いし辛いしだるいのでやめます。なんて、ちょっと言えない。
少なくとも、私は。確かに、何の恩義もないけど。関わっちゃったから、とか、そんな小さな理由で動けるほど、私には正義感とかそういうものはないけど。乗りかかった船だから、とか、そんな感じで行動できるほど、お人好しでも情け深くもないけれど。挙句、私に何が出来るのかすら分からないけど。
「シュリ」
ゆっくりと息を吸う。
何だか、妙な緊張感だ。
でも、大丈夫。たぶん。
「戻して。選び直すから」
だって、私は知っている。
選ばなくてもいいことも、選択肢の意味も――たぶん。憶測でしか、ないけれど。
私の言葉に、シュリはゆっくりと立ち上がって手を差し伸べて来た。




