16.悲歌慷慨
「連れていくか、置いていくかって……プッペちゃんを?」
「そう言っている。選べ」
ヒューノットの選択肢の提示が唐突なのは、いつものことだ。
けれど、こんなにもいきなりだなんて、一体何があったというのか。
眉を寄せると、袖を引っ張られた。
見れば、プッペお嬢様が不安そうに私を見上げている。当然だ。いきなり、あんな剣幕で問い掛けられて、なおかつ自分を置いていくかどうかなんて話をされて、不安を感じないわけがない。
私は一度首を振り、それから改めてヒューノットを見た。
「置いていけないよ」
「それが答えか」
ヒューノットは相変わらずの調子だ。鋭い青の瞳で私をじっと見つめている。
おかしい。
今までなら、選択した後は何も聞かなかったように思う。どうして、今は聞くんだろう。
プッペお嬢様を抱き寄せると、ヒューノットはそれを答えだと見なしたらしい。ふいっと顔を背けて、廊下に出てしまう。そして、私達を気にした様子もなく、しかし来た時とは違って急ぐこともなく歩き始めた。
「……」
妙な胸騒ぎがする。
私は、また選択を間違えたのかもしれない。たった二択なのに。
シュリは選択について、正解も不正解もないようなことを言っていたけど。でも、ゲルブさんの件なら、確実に不正解があった。やり直しが出来るという意味だったのだろうか。
たとえやり直せるにしても、あまり嫌な結末は見たいものではない。
「ヤヨイ……?」
プッペお嬢様の不安そうな、小さな声が届いた。
そうだ。今は、私がしっかりしないといけない。
周りの大人が怖がったり不安がったりしていると、それは小さな子にはすぐ伝わると聞く。私は頷きを返して、プッペお嬢様の手を握って立ち上がった。
「プッペちゃんが行きたくないなら、行かなくていいんだよ? どうする? ここで、ちょっと待ってる?」
正直、何が正解なのかは私にも分からない。
どうして、ヒューノットがあんなことを聞いたのかさえわからない。
でも、それをプッペお嬢様に選ばせることは、何だか卑怯な気もしていた。
だって、――私が選択したという事実と責任感から、逃れたい気持ちも確かにあったから。最良なんてなくて、あるのは結果論だけかもしれない。
プッペお嬢様が望まないことをしたくないのは嘘ではないけど、この子に選ばせるのは私が責任逃れをしたいだけかもしれないと、心のどこかで思う。
プッペお嬢様は、眉を寄せていて、今にも泣き出してしまいそうだった。
「待っててもいいんだよ。迎えに来るから」
「ルーフは?」
「え、あ、あー、どこ、だろう……」
確かに、そうだ。
ルーフさんは、どこにいるんだろう。
どうして、ヒューノットだけが来たんだろう。
何だか嫌な感じがして、すごく落ち着かない。
「ルーフと、おむかえ来てくれる?」
プッペお嬢様の声が、思考に沈みかけた意識を引き戻してくれた。
気持ち的には落ち着かないけど、こんな小さな子の前で取り乱すほど大人を捨ててはいない。なるべく笑みを浮かべようとはしたけれど、それがきちんとできたかどうかはわからない。
頷いたあと、その小さな頭を撫でてみた。
「うん、あとで絶対――――」
約束しようとした、その時だった。
身体が震えるほどの激しい音が周囲に響き渡る。腹の底に響くような、大きな太鼓でも叩いたかのようなその音は、何というか。例えるなら、木製の床の上で重たい木の机を引き摺って動かしたみたいな低音だった。
「――来るから、ここで待ってて!」
絶対におかしい。何かが、起きている。
プッペお嬢様から離れて、言い聞かせながらドアへと向かった。ヒューノットが出て行ってからは、ずっと開けっ放しだったドアを閉じて、ひとまず階下を目指して廊下を走る。
すると、ちょうど階段の手前でヒューノットが立っていた。私を待っていたのかどうかは分からないけど、不機嫌そうな表情を向けている。
「ヒューノットっ!」
ヒューノットの数歩手前まで追いついたところで、また同じ音が鳴り響いた。
音なのか声なのか、曖昧なところだ。上から聞こえているのか、下から聞こえているのか。反響しているようで分からない。
「連れて来るんじゃなかったのか」
ヒューノットは相変わらずだ。
低い声は不機嫌そうではあるけど。
「危ないかもしれないから、待っててもらうことにしたの」
「置いて行くんだな?」
「そうじゃなくて! 迎えに行くって約束したってこと!」
どうして、そうも二択オンリーなんだ。イチかゼロしかないのか、この男。
ヒューノットはどこか物言いたげな様子ではいたけれど、三度目の音が響き渡ったところで顔ごと私から視線を外した。どこを見ているのか視線を追いかけてみたけど、全然わからない。
「それより、説明して欲しいんだけど……何がどうなって――」
「――アレだ」
ヒューノットが指で示したのは、階段の下。大きく半円を描く階段から見下ろすと、一階の廊下が見える。手すりから身を乗り出せば、更に向こう側――死角になっていて見えにくいが、廊下の角あたりに黒い何かが見えた。それはゆらゆらと揺れていて、煙やモヤのようではあるけれど、まるで生き物のようでもある。ただ、あれがあの音を出しているとは思えなかった。もっと大きな何かがいるような、そんな気がする。
相変わらず説明する気なんてさらさらなさそうなヒューノットは、ゆっくりと階段を降り始めていた。シュリは確かに寡黙だと紹介してくれたけど、こうなってくると寡黙とかいうより、もっとひどい言葉をぶつけてやりたい。
ヒューノットの後を追いかけて階段を下りる。一階は、とても静かだ。もう、あの音は聞こえて来ない。
ついさっき、黒い煙のようなものが見えていた方に向かう背を追いかける。ヒューノットの足取りは特に迷いがない。どこか、目的地があるのだろうか。
「――何故、置いて来た?」
不意に問い掛けられて、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
なぜも何もない。
ていうか。
「置いてきたワケじゃないってば。待ってもらってるの」
「同じだろう」
「違うってば」
ヒューノットの調子は、やっぱり変わらない。
感情が読みにくくて――読みやすい人なんて、まあ、今のところプッペお嬢様くらいだけど――何を意図して聞いているのか、わからない。
最初に私たちが通された部屋を通り過ぎて、更に廊下を進む。もう説明してもらおうとか、そういうのを期待するのはやめよう。たぶん、それはシュリの役割なんだろう。そう思おう。期待するだけ腹立つ。
それにしても、どうしてそんなにこだわるんだろうか。
ヒューノットの選択肢はいつもふたつ。イエスかノーか。選べば、その通りに動く――はず。ゲルブさんの件で、私は既に第三の選択肢を勝手に作ってしまったから、例外があるというのは何となく分かるけど。
それにしても、こんなに何度も問い掛けられたのは初めてだ。まあ、そこまで長く一緒にいるわけではないけど。
廊下を進んでいくと、大きな扉が見えてきた。
両開きで、大人がふたり横に並んでも通れそうなほどに大きい。
その扉の前で足を止めたヒューノットは、「入るか、入らないか」と問い掛けてきた。
「……」
まあ、入るしかないよね。進むしかないわけだし。
傍に立っているヒューノットのことは無視して、扉に手を掛けた。止められもしないから、まあ、いいんだろう。たぶん。
「――……おぉ」
扉を大きく開いた先――その部屋は、これでもかと言わんばかりにたくさんの花で満たされていた。思わず、声が出てしまう。
部屋というよりは、何だろう。中庭といった感じだ。いや、温室かな。とにかく青空が描かれた天井の中央には大きな天窓があって、そこから差し込む光が天井のあちらこちらから吊り下げられているサンキャッチャーに触れて室内に淡い光を散らしている。サンキャッチャーは、スタンダードな丸いものや三角のものから、蝶々や鳥の形まで様々だ。
色とりどりに咲き誇る花は大量で、花屋でもそうそうお目に掛かれない光景になっている。
そして、その中央に銀色の細いジョウロを持ったルーフさんがいた。
ちょっと安心した。何かあったのかと思ったから。
そっと後ろを振り返ると、半開きの扉に凭れ掛かったヒューノットがこっちを見ている。
ヒューノットのことは無視して前を向けば、ルーフさんが振り返っていた。
「――ヤヨイさん。とても綺麗でしょう? ここは、奥様がお嬢様に贈られた内側のお庭なのです」
にっこりと笑みを浮かべて、そんなことを言ってきた。
よくわからないけど、ママが娘に部屋をプレゼントしたという意味で良いんだろうか。
奥に入り込むことをためらっていると、ルーフさんの方から近付いて来た。
「外側のお庭では、危険な事もあるでしょうから」
ルーフさんが立ち止まったのは、私達から数歩ほど離れた位置だ。大きく踏み出して腕を伸ばせば、それだけで触れられそうな、そんな距離。遠くはなく、そして近すぎない程度の距離感だと思う。
「危険って?」
問い掛けると、ルーフさんは困ったように笑った。
「危険な事です。例えば、星が降るかもしれません。私も奥様も、お嬢様をお守りしたいのです。万が一などあってはなりませんから」
ルーフさんが、ゆっくりとジョウロを下ろす。
その細い先端から漏れた水が、芝生を模した床にぽたぽたと落ちていく。
傍らにずらりと並ぶ緑の葉が揺れて、ここがどこか分からなくなりそうだ。外なのか、中なのか。ルーフさんは内側のお庭だと言ったから、ここが外なのか中なのかは、重要なことではないのだろう。少なくとも、ルーフさんやプッペお嬢様のママにとっては。
「お嬢様から、奥様のお話は聞かれましたか?」
「……うん、まあ、はい。少しくらいは……」
「そうですか。それは良かった」
良かった――と、微笑んだルーフさんが纏う空気は、どうしてなのか妙に重苦しい。何が、とは言えない。言葉では説明できない違和感だ。
胸騒ぎがして、嫌な感じがするけれど。その正体もよく分からない。
それに、星というのは、やっぱり何かキーワードな気がする。例えば、ゲルブさんは星を飲み込んだし、プッペお嬢様のママは星のせいで帰れないし――――
「――――あ」
プッペお嬢様は、何を言っていたか。
確か。確か、そうだ。ルーフさんの目に星が入っているとか、そんなことを言っていた。星の色が何色かなんて、そんなのきっと関係ない。きらきらが入っている。星の、きらきら。
私が変な声を出してしまった瞬間、後ろでヒューノットが扉を大きく開いたようだった。
それでも、そこから何をするでもない。振り返る余裕はなかった。ルーフさんが足元にジョウロを置いてから、また私を見たからだ。
その瞳が、真っ直ぐにこちらへと向けられている。
銀とも灰色ともつかない瞳。
穏やかそうな、その双眸。
きらきらしていると言われて見たら、確かに銀だと思った自分がわかるくらいに妙な煌きがある。
サンキャッチャーの光が入り込んでいるかのような、まるで夜空の小さな星が瞬くかのような、淡い光だ。
それが、ルーフさんの瞳の中にある。
目が離せなくなって、ちょっと背筋が寒くなった。
「――ヤヨイさん。私の勝手なお願いを聞いていただけますか。私は、お嬢様をお守りしたいのです。せめて、奥様がお戻りになるまで。せめて、お嬢様が大人になられるまで。せめて、お嬢様の手を取る方が現れるまで。寂しさからも飢えからも、恐れからも危険からも、お守りし続けたかった。――しかし、もう」
時間がありません――そう告げたルーフさんは、ひどく寂しそうだった。
ぐらりと周囲の色合いが変化する。
「――――……っ」
いや、そうじゃない。変わったのは、光の方だ。淡い光が薄らと少しずつ翳っていき、まるで太陽が雲に隠されたかのように室内が暗くなっていく。さっき階段から見たモヤとも煙ともつかないそれが、くゆるように揺らぎながら室内を満たし始めていた。
何かが燃えているような、そんな特有のニオイはない。あるのは、地響きのような低い音。それが、――ルーフさんの方から聞こえる。腹の底に響く低音。間近で聞くと、まるで唸り声のように感じられた。
ルーフさんの輪郭が少しずつぼやけていくように見えるのは、光の加減でもなければ黒い煙のせいでもない。
「どうか、どうかどうかどうか、ああ、どうか、お願いします。お嬢様の為に――――」
ゴキッ、と。何かが折れるような音がした瞬間、ヒューノットが私の前に出て来た。
いや、気がついたら、もうそこにいた。背に庇われた私は、開いたままの扉の外へと出ることすらできない。
ヒューノットの向こう側。
「――ッ、……ルー、フさん」
あの綺麗に咲き誇る花々を踏み締めて立つ人物――ルーフさんは、もう人の姿を保ってはいなかった。たった一瞬の出来事だったというのに、ひと瞬き分だけ見逃しただけで、そこに人の身体はもう存在していない。
黒いモヤの中に立つソレは、人の頭程度は包み込めそうなほど巨大な手をしていた。その指には獰猛な獣を思わせる鋭い爪を持っている。輪郭は真っ黒。まるで暗闇の中に目だけが浮かんでいるようだ。だから、もう黒いモヤと輪郭の境界線すらない。淡い金の髪は跡形もなくなっていて、頭からは黒焦げたような煙が立ち上っている。頭部は人の形ではなくて、どちらかといえばワニのようだ。裂けた口の中すら真っ暗で、何を見ているのかすら、分からなくなってしまいそうになる。
「戦うか、戦わないか」
ヒューノットから選択肢が飛んで来た。
それは、とても残酷な二択だ。どうして、そんなことを聞くのだろう。
メキメキと音を立てて大きくなっていく姿は、生き物ですらないように見える。アレは、何なのだろう。アレが、ルーフさんの成れの果てだというのだろうか。私は、ルーフさんを連れて迎えに行くと、プッペお嬢様に約束してしまったというのに。
「戦うのか、戦わないのか」
苛立ちを含んだ問いが投げかけられる。
それでも、私はすぐには答えられなかった。
分かっている。やり直せる。選択肢の前まで戻ることが、できる。はず。シュリはそう言っていたから。でも、違う。そうじゃなくて。そういう問題ではなくて。
プッペお嬢様は待っていたと言っていた。ヒューノットが誰かを連れて来るまで。ルーフさんは時間がないと言っていた。守りたかったのに、時間がない。それはヒューノットが、"誰かを連れて来た"からじゃないのか。ヒューノットが連れて来るのは、プレイヤーだ。プレイヤーが来たから、ここの時間が動き出してしまったわけじゃないのか。私さえ来なければ、始まらなかったのかもしれない。プッペお嬢様からママの話を聞かなければ、ルーフさんは――
「――戦わないのか、戦うつもりがないのか」
ヒューノットの声が耳に入って来た。
身体が震える。そんな。そんなことを言われても困惑しかない。そんな、私にどうしろって言うんだ。答えられずにいると、ヒューノットは一歩進み出た。そして、ルーフさんと対峙する。それと同時に激しい咆哮が響き渡った。今度は明らかに、獣のような音だ。獣の声。鳴き声。激しいその声は、耳の奥に反響しているように音を残していく。こきりと、ヒューノットが手首を鳴らした。
そして、次の瞬間、彼はルーフさんに飛び掛かっていた。
まだ、選んでいないのに。
ヒューノットは、黒い大きな身体を引き倒して馬乗りになり、片腕を高く掲げた。それを振り下ろすと同時に、何かが砕けるような音がした。それが二度、三度、四度――と、続く。
「――っ、ヒューノット! ヒューノットやめて、ヒューノット……ッ!!」
フリーズしていた私は、気が付けば叫び声を上げていた。
それでも、ヒューノットは動きを止めない。何度も何度も、大きな身体を殴り続けている。硬いものが砕ける音が何度か続いたあと、濡れた音が入り始めた。柔らかいものをぐちゃぐちゃと掻き混ぜるような音。何かを引き千切るような腕の動き。まるで血しぶきのように黒い液体が飛び散って、踏み散らされた無残な花の上に降り注ぐ。
大きな黒いそれは、生き物というよりも暗闇そのものだ。モヤとの境界が曖昧でも確かに輪郭はある。
直視できないまま、両手で耳を塞いだ。
何が起きているのか、理解できない。したくもない。どうして、ヒューノットは私の選択を待ってくれないのか。それも分からなかった。
何がどうなっているのか。ヒューノットがおかしくなってしまっているようにすら思えて、戸惑いが深まっていく。
「ヒューノット! ねえっ、ヒューノットってば!」
声を上げたその時、強い風が吹き荒れて扉が乱暴に閉ざされた。慌てて目を開くと、見慣れた黒い衣が眼前にあった。
「――シュリ……ッ!」
私がその名を口にした瞬間、ヒューノットが振り返った。
いつものような不機嫌さを滲ませた表情ではなく、かといって無関心そうな平然とした表情でもない。そこにあったのは――
「……ヒューノット。それは、重大なエラーだよ。許可されていない。私も看過できないな。君は、世界に従わなければならない。世界は、君をそう定めたのだからね。想定され得る事柄のうち、最悪の想定外だ。決して許されるものではない。君の行動は反逆に等しい。――彼を放しなさい、ヒューノット。君に、そのような資格はない」
静まり返った室内に声が落ちた。
ヒューノットは動きを止めたまま。感情を堪えるように口を引き結んで眉間に皺を寄せて、ただシュリの顔を見つめている。そこには、今の今まで暴力を振るっていた勢いはまるで残っていなくて、チュートリアルでシュリと対峙した時のような迫力もない。
背を向けられている私には、シュリの表情は見えないけれど、その声は背筋が凍るほどに冷たかった。




