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胡蝶蘭

作者: 野原秋人

この世界には自殺志願者がたくさんいる。

なんてことはない。僕もその1人だ。

中学卒業後、高校に行くお金はなく、地元を離れ小さな会社に就職した僕は、上司のミスを押し付けられ、二年目で会社をクビになった。

その三日後に父親が脳梗塞で亡くなり、母親はその翌日、部屋で首を吊っていたらしい。

更にその三日後の今日、僕は自殺志願者になっていた。

両親の死が悲しかったわけではない。

僕の両親は放任主義な上、共働きで丸一日僕と顔を合わせないことも珍しくなかった。

家族というより、同じ部屋の住人と言った方が、僕達の関係としては余程しっくりくるくらいだ。

会社をクビになり、家計を助けられそうになかった僕にとって、両親の死は寧ろ好都合だった。

僕は元々死にたがっていたのだろうか。

両親への仕送りという、生きなければならない理由から解放された僕は、負い目を感じることもなく、死を望む事ができるようになったのかもしれない。

今思い返すと、僕は自分でも驚くほど、生きることへの執着がなかった。

我ながら、くだらない人生だったと思う。

だが、もうそんなことはどうでもいい。

これから僕は、崖から飛び降りるのだから。

昨日、意味もなく会社への道を歩いた。

いつもと同じ時間に、いつもと同じようにスーツを着こなし、いつもと同じ会社の前に立ち、いつもとは違う道で帰った。

帰り道、海が一望できる崖に寄った。

赤い夕焼けと、それを反射する海が、僕にはもったいないほど綺麗だった。

それと同時にとても虚しかった。

僕は明日、ここで死のう。そう思った。

夕焼けが綺麗だから死ぬ。

人が死ぬには十分すぎる理由だ。

蒸し暑い夏の日、僕はこうして自殺志願者になった。


そして今日がやってきた。

僕は今朝5時半に起きた。今日死ぬから、という訳ではない。僕はいつも朝が早い。

いつも通りの朝、天気は晴れ。

僕はコーヒーを啜ったあと、スーツに着替え、一度会社に向かった。

特に意味はない。なんとなくだ。

そのあと、近くのカフェで時間を潰した。

なんとなく、夕焼けを見ながら死にたいと思ったから。

その帰り道、僕は崖に行った。

僕は今日、そこで死ぬ。はずだった。


そこには、先客がいた。


髪の長い、整った顔立ちの少女。

たぶん年齢は僕と同じくらいの。

僕はてっきり、彼女は夕焼けを見ているのだと思っていた。

だから次の瞬間に彼女がとった行動には、驚きのあまり反応が一瞬遅れた。

彼女は前に歩き出した。

彼女が、夕焼けを見に来ているにしては明らかに不自然な場所まで来たとき、僕は走り出した。

必死に走った。

彼女が深呼吸をして両手を広げた次の瞬間、僕は彼女の手を掴んで引き寄せた。

僕は彼女を力ずくで引っ張り、その場から離れる。

彼女は抵抗しなかった。

何故止めたのだろう?これから死ぬ僕には関係のないことなのに。

崖からだいぶ離れた場所まで移動して、僕は彼女に質問する。

「何をしてたの?」

「見れば分かるでしょう」

彼女は無表情のまま、そう言った。

「何でそんなことをしたのか聞いてるの」

「なんとなく、です」

そんな訳ないだろ、とは言えなかった。

僕もなんとなく死のうとしていた人間なのだから。

ただ、彼女は嘘をついているようにみえた。

彼女は、なんとなく、という理由で死ぬような人間ではない気がした。

彼女はそんな僕の気持ちを見透かしたように、こう言った。

「あなたに話す義務はありません」

「では、失礼します」

そう言って帰ろうとした彼女を僕は引き止め、詳しく話を聞かせてくれと頼んだ。

僕にしては珍しいお節介だ。

「あなたには関係ないでしょう」

「お願いだ、聞かせてくれ。心配なんだ」

我ながら、迷惑な奴だな。

「……」

彼女は数秒迷った顔をしてから、話を続けた。

「家族から、暴力を受けていたんです」

なるほど、と僕は思う。

これで彼女の顔や腕にできた痣に納得がいく。

「先ほどはスタンガンで気絶させられ、包丁まで向けられました」

僕はかける言葉が見つからなかった。

言葉を失っていた、というより、まるで喋る機能自体を失ったみたいだった。

それでもなんとか言葉を探す。

この嫌な沈黙から逃れるために、僕はその言葉を発した。

「生きてりゃいいことあるよ」

皮肉にもそれは、僕が今一番かけられたくない言葉だった。

「優しいんですね、死にたがりさん」

僕は少しむっとした。

「夕焼けを見に来たんだ。君とは違う」

「分かってますよ、死にたがりさん」

「君はまだ死ぬ気があるのか?」

僕は話題を逸らす意味も込めて言った。

「さあ、どうでしょう」

「そうか」

「そうですね」

「……ではそろそろ失礼します」

彼女はそれだけ言って歩いていった。

僕は彼女を見送ったあと、少し夕焼けを眺めてから帰った。


結局その日、僕も彼女も死ななかった。

家に帰ったあと、数年ぶりに1日を振り返ってみた。

僕は何故、彼女を助けたんだろう?

一目惚れ、という訳ではなさそうだ。

結局答えは出なかった。

翌朝、僕は珍しく起きるのが遅かった。

何故だか自分の家の居心地が悪く感じた僕は、手早く支度を済ませ、あの崖の近くにあるカフェに向かった。

カフェで時間を潰した後、近くにある本屋に向かった。

小説を3冊買って満足した僕は、あの崖に向かった。

たぶん、夕焼けが見たかったのだろう。


そこには、先客がいた。


「今日は、死ぬために来た訳ではなさそうですね。死にたがりさん」

穏やかな笑顔で言う彼女に、僕は落ち着いて返事をする。

「それは君も同じだろう」

「ここの夕焼け、好きなんです」

「綺麗だよね」

「私が、ですか?」

「夕焼けが」

「ふふふ」

彼女は楽しそうに笑った。

その笑顔は、昨日の出来事は全部嘘だったんじゃないかと僕に希望を持たせるのに十分な輝きを持っていた。

だが彼女の顔や腕に出来た痣が、その願望をハッキリと否定した。

「今日は随分と機嫌が良さそうじゃないか」

「昨日が極端に暗かっただけです」

そう言って彼女は笑った。

「君にもそんな笑い方ができるんだね」

「失礼なこと言いますね」

彼女は少しだけ怒った顔をしたが、それが本心でないことは僕でも分かる。

「昨日は、余計なことを聞いて悪かったね」

「いえいえ、気にしなくていいですよ」

「……ところで死にたがりさん」

「その呼び方、やめてくれないか?」

「では名前を教えてください」

「本田隼人」

「分かりました。では死にたがりさん、今お金は持ってますか?」

「もうそれでいいよ。 ないよ。お金は普段使わないから」

「じゃあ何か奢ってください」

「意味が分からないよ。どうして君に奢らなきゃいけないんだ」

「そうですか。では帰ります」

「おいおいちょっと待て」

僕は何故か彼女を止めた。

何故止めたのかは、僕にも分からない。

結局僕達は、僕がよく通っているカフェに行った。もちろん、僕がお金を降ろして。

僕はコーヒーを、彼女は甘ったるそうな得体の知れないものを注文した。

それらはすぐに運ばれてきた。

人と飲食店に入るのが初めてだった僕は、少しだけ緊張していた。

彼女はそんな僕の事情も知らず、美味しいと言って騒いでいる。

「意外とよく喋るんだね」

彼女をおしとやかだと思っていた僕は少しガッカリした。

「明るいんですよ。そんなことより、あの崖の近くにこんなに美味しいお店があったんですね」

彼女は楽しそうにしている。

「君が何故敬語を使ってるのか、僕には理解できないよ」

「両親に敬語を使わされてるんです。だからその癖で」

彼女が笑顔のままそんなことを言うもんだから、僕は反応に困った。

「変なことを聞いてごめん」

「いいんですよ!そんなことよりもっと注文しましょう!」

「誰のお金だと思ってるの?」

「ふふふ」

彼女は得意の笑顔で誤魔化した。

僕はその日、自分でも驚くほど彼女と打ち解け、他愛のない世間話に花を咲かせた。

そういえば彼女は僕と同い年らしい。

僕が高校に通っていれば、同級生だ。

だからと言って、どうということはないけれど。

僕達は結局そこで食事を済ませ、店を出た。

「ありがとうございます。とても楽しかったです」

「それなら良かった」

僕は素っ気なく答えた。

「では、さようなら。また会えるといいですね」

彼女は礼もそこそこに、僕の家とは反対の方向に歩いていった。

僕はその後ろ姿を見送った。

もう少しだけこの楽しい時間が続いてくれてもいいのに、と僕は思った。

僕は帰りに老夫婦が営んでいる小さな店に寄って、お酒を買った。もちろん年齢を偽って。

家に帰り早速冷えたお酒を開けてみる。

アルコールの匂いがする。ビールというらしい。

僕は生まれて初めてお酒を飲んだ。

お世辞にも美味しいとは言えなかった。

それでも僕はお酒を飲んだ。

飲みたい気分だったから。

そしてそのままベッドに倒れこみ、いつの間にか眠ってしまったらしい。

夜中の2時半、僕は強烈な吐き気で目を覚ました。

吐き気に耐えきれず、僕は食べたものを全部吐き出してしまった。

気分が悪い。

後始末を終えたあと、気分転換に散歩に出かけた。

ゴーストタウンのように閑静な商店街を通り過ぎ、ふとあの崖に行ってみようと思った。

僕がそこに着いた時、思わず息を呑んだ。

そこには夜空一面に広がる星々と、それを反射する海が幻想的な風景を作り出していた。

絶景とは、まさにこんな夜空のことを言うのだろう。

僕はそこで仰向けになる。

夏の大三角を見つけた。

とても綺麗な星空。

少しでも気を緩めたら吸い込まれてしまいそうだ。

それから数分とせず、僕の意識は呆気なく夜空に吸い込まれた。


僕が目を覚ました時、夜が明けていた。

帰るか。

僕は賑やかな商店街を抜け、ゆっくりと家に帰った。

家に着いた時、時計の針は午前7時を指していた。

シャワーを浴びて、コーヒーを啜ったあと、僕は郵便受けを確認した。

大抵何も入っていないのだが、今日は違った。

親戚からの手紙で、「渡すものがある。お前の実家で午前11時に待ち合わせだ。」とのことだった。

僕は支度を済ませて家を出る。

電車を乗り継いだ後、バスに乗り換えた。

外を眺めると、懐かしい光景が現れる。

水田、森、草原。

それは僕の中に幼い頃からある心象風景に限りなく近いものでもあった。

それを原風景と呼ぶことは、僕も知っていた。

それから10分後、無事にバス停に着いた。

僕はさらに5分程歩いて、実家の前に到着した。

そこにはまだ誰もいなかった。

呼び出しておきながら来るのが遅いなんて人間としてどうなのか。

それから僕が何もせずボーッとしていると、

「隼人」

後ろから声が聞こえた。

振り返ると、見覚えのあるおじさんが立っていた。

「これを」

そう言って一枚の手紙を渡された。

中身がどんなものかは、ある程度察しがついている。

「遠いところ呼び出してすまんな。帰ってからその手紙を見てくれ」

そう言い残して、おじさんは去っていった。

勝手な人だな、と思いつつ僕はやることもないのですぐさま家に帰り、その手紙を開いた。

予想通り、それは母親の遺書だった。

「隼人

これを見ているということは、もう私はこの世にいないでしょう。

ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。

ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。

何もしてあげられなくてごめん。

今までずっと、ごめん。

自殺なんかしてごめん。

たくさんご飯を食べて、たくさん友達を作って、あなたは幸せになって下さい。」

文字は震えていた。泣きながら書いたのだろう。

僕は服を着替え、手紙を机に置いたまま、カフェに出かけた。

まだ午後2時半だというのに、一日分のエネルギーを使った気分だ。

僕は何も考えたくなくなり、しばらく丸いテーブルに突っ伏していた。

「死んでるんですか?死にたがりさん」

聞き覚えのある単語に、僕は顔を上げる。

「死にたがりさんがお店にいるのを偶然見かけたので来てみました」

彼女は当たり前のように、僕の向かい側に座った。

「コーヒー頼んでもいいですか?」

「構わないよ」

「死にたがりさんもコーヒーですか?」

「そうするよ」

「コーヒー2つお願いします!」

彼女は僕らの前を通りかかった店員に、元気よくそう言った。

「かしこまりました」

店員も笑顔で気分が良さそうだ。

「ミルクはどうされますか?」

「大丈夫です!」

「かしこまりました」

甘ったるそうな飲み物が好きな彼女もブラックコーヒーを飲めるのは意外だった。

すぐにコーヒーが2つ運ばれてきた。

「ごゆっくりどうぞ」

感じの良さそうな女性店員は、一言そう言って去っていった。

「いただきます」

彼女は行儀よく手を合わせた。

「平日の昼間だよ。学校はどうしたの?」

「あれ?言ってませんでしたっけ?」

そう言って彼女はコーヒーを啜ったあと顔をしかめた。

飲めないなら頼まなきゃいいのに。

「私、先月に学校を辞めたんです」

「どうして?」

「アルバイトをしてお金を貯めて早く家から出たいので」

「へー」と僕は興味がなさそうに答えた。

「あ、そうだ!」

彼女が何か閃いたようだ。ロクなことじゃないだろう。

「これから予定ありますか?ないですよね!ちょっと付き合ってください」

「勝手に僕の予定がないと決めつけないでほしいね」

「何か予定があるんですか?」

「これから本屋に行こうと思ってたんだ」

嘘だ。

「町の外れに大きな森がありますよね?」

「ああ、それがどうしたの?」

「そこに行きましょう!あ、いやらしいことはしちゃダメですよ」

「誰がするか。あんなところに行ってどうするの?」

僕はただただ疑問だった。

「秘密基地を作ります」

「高校生にもなって君は何を言ってるんだ」

「もう高校生じゃないですよ!」

彼女がヘンテコな理屈を自信満々に言うものだから、僕は少し笑ってしまった。

「少しは元気が出ましたか?」

「いや、元から元気だったよ」

「それなら良かった」

僕達は、いや正確には僕が会計を済ませて店を出た。

「1つ聞いていいかな?」

「何でしょう?」

「秘密基地なんか作ってどうするの?」

「うーん…」

「特にどうするわけでもないですね。昔から秘密基地というものに憧れがあったんです」

「じゃあ何で昔に作らなかったんだ?」

「少々重い話になりますが、聞きたいですか?」

「いや、遠慮しておくよ」

「そうしましょう」

「……では早速、森に向かいましょう!」

「僕は何も用意していないよ」

「大丈夫ですよ!道具なんていりません!」

「……分かった。少しだけなら付き合おう」

僕は少し考えるフリをしてからそう言った。

「やったー!」

彼女は幼い子どものように無邪気に笑った。

それから僕達は15分ほど歩いて、目的地に到着した。

「この辺りにしましょう」

「そうだね。ここなら、この大きな木のおかげである程度雨は防げそうだ」

「じゃあ早速、秘密基地を作りましょう!」

「具体的にどんな風に作るんだ?」

「ここにある枝を退かして雑草を抜いて下さい」

「それから枝を円の形に置けば完成です」

僕は拍子抜けしてしまった。

「そんな簡単なものでいいの?秘密基地とは呼べない気がするけど」

「いいんですよ!私が秘密基地だと言ったら、それは秘密基地です」

「そうだね。そう思うよ」

「本当に思ってるんですか?」

「思ってるよ」

僕達は簡単な作業をして、2分ほどで秘密基地もどきは完成した。

「できましたね!」

「……そうだね」

「2人だけの秘密ですよ!他言無用ですからね!」

彼女は楽しそうに笑顔で言った。

「やったー!ひーみーつーきーちー!」

「そんなに秘密基地に憧れがあるなら仲の良い友達と作ればいいのに」

僕の何気ない一言に、彼女は一瞬戸惑ったように見えた。

何か悪いことを言ってしまったのだろうか?

「もう友達とは連絡を取っていないんです、私」

「ごめん、余計なことを言って」

本心からそう思った。

「あれ?今日はしつこく聞いてこないんですか?らしくないですね」

彼女は笑顔でそう言った。

「……何があったの?」

僕は好奇心を抑えられずに質問する。

「学校では家族のことを誰にも言ってなかったんです」

「せめて家以外の場所では、明るく楽しく過ごしたいですし、明るい人として記憶されたかったので」

「でも学校での私を知っている人が今の私を見たら、私は誤魔化しきれる自信がありません。だから私は、今後一切友達と関わるつもりはありません」

彼女は落ち着いた様子で丁寧に話した。

「なるほど。だから相手が偶然僕だったわけか」

「単なる偶然というわけでもありませんよ」

話を聞く限りどう考えても偶然だろう。

「私があの崖から飛び降りようとした時、あなたは助けてくれました。自分も死のうとしていたにも関わらず」

「ずっと気になっていたんだが、どうして僕が死のうとしていたと言い切れるんだ?」

「実はあそこ、自殺の名所なんです」

「あなたと同じ目をした人が、あの崖から飛び降りる光景を、私はずっと見てきました」

その話しぶりからするに、彼女はかなり前から、定期的にあの崖にきていたみたいだ。

「だから私は、あなたは優しい人だと確信したんです。全てがどうでもよくなっても、目の前の不幸を見ていられないあなたが」

褒められているようだが、あまり良い気はしなかった。

「でも、それだけじゃないんです。あなたと仲良くする理由」

どうやら彼女の中では、僕と彼女の仲は悪くないようだった。

「あなたと一緒にいると、とても解放的で、人と関わる時特有の”縛り”みたいなものがないんです」

「それは間違いなく僕が無気力な自殺志願者だからだろう」

「その通りです」

「嘘でも否定して欲しかったな。つまり悪く言えば僕といるのは楽なわけか」

「はい。でも良く言えば居心地がいいんです」

彼女の話を聞いて、僕が彼女を助けた理由が分かった気がする。

僕が抱える虚しさを、”気楽に”紛らわすことができるのが彼女なのだ。

僕は彼女が”死のうとしていたから”彼女を助けたのだ。

良く言えば居心地がいい。

悪く言えば楽な関係。

これから死ぬ人間にはどう思われてもいい、良くも悪くも。

「なるほど、お互いに何かと都合が良いわけか」

「…どういうことですか?」

彼女はキョトンとした表情で言った。

「特に意味はないよ」

「変な死にたがりさんですね」

「…ところで、秘密基地はできたけどこれからどうする?」

「私はここで朝まで過ごします」

「流石に冗談だよね?」

「………………」

どうやら彼女は本気で言っているらしかった。

「それは危ないよ。家に帰った方がいい」

「今日は温かいですし、風邪は引きませんよ」

「そういう問題じゃない」

「何を言われても私は家には帰りたくありません」

彼女はキッパリと断る。

おそらく、今の彼女には何を言っても聞かないだろう。

僕の家に泊まる?

とは言わなかった。

それは僕の性格上不可能だ。

分からない人には分からないと思うが、僕は他人が自分の部屋に入ることを嫌う人間だ。

自分1人だけの空間を作らなければおかしくなってしまう。

そもそも彼女も僕の家なんかには、来たくないだろうけど。

だがこんな暗いところで彼女を1人にするのも気が引けた。

「しょうがないな」

僕は続けた。

「僕も朝までここにいるよ」

「そんなに私と一緒にいたいんですか?」

「そういうことにしておいてくれ」

「ふふふ」

彼女は上機嫌に笑った。

「ありがとうございます!」

「……そうと決まれば、いっぱいお話しましょう!夜は長いですよ!」

彼女は相変わらず元気がいい。

「生憎だけど僕は人に話すほど面白い話は持ち合わせていないんだ」

「えーー!じゃあ初恋の話をしてください!」

「申し訳ないけど、僕は恋愛をしたことがない」

「えーー!面白くないですね。……じゃあ」

「友達の面白エピソード!」

「友達もできたことがない」

「でも一緒に食事に行く知り合いくらいはいるでしょう?」

どうやら彼女は、僕に気を遣ってくれているようだった。

「他人と外で食事をしたのは君とが初めてだよ」

彼女は開いた口が塞がらないようだ。

だが何を思ったのか、彼女はすぐに納得したように1人で頷き始めた。

「確かに死にたがりさんは人付き合いが苦手そうですね」

「僕には人と積極的に関わる人間の考えの方が理解できないよ」

「楽しいじゃないですか」

「さっぱり分からない」

「今私と居て楽しいですよね。そういうことですよ」

「楽しくなんかないよ。ただ仕方なくここに居てやってるんだ」

とは言ったものの、僕は彼女と話すのを楽しんでしまっていた。

それから僕達は色々な話をした。

ほとんどが彼女からの僕への質問だったが、彼女も学校で起こったくだらない話をした。

僕も自分のことを、できるだけ分かりづらく話した。

途中から彼女は家から持ってきたであろうお酒を飲んでいた。

「あ〜、こんなに楽しいの久しぶりです」

「それなら良かった」

ちなみに僕は初めてだ。

「死にたがりさんもお酒飲みますか?」

「遠慮しておくよ」

「どこか楽しい場所に行きましょう」

「もう夜中の2時だよ。どこもやってない」

「もうそんな時間なんですかぁ」

僕は少し考えて、思いついた。

この時間だからこそ良い場所を、僕は知っているじゃないか。

「あの崖へ行こう」

「死にたがりさん、寝ぼけてるんですかぁ?夕焼けはもう終わってますよぉ」

彼女は完全に酔っているようだ。

「これから夕焼けと同じくらい綺麗なものを見に行くんだ」

「えーなんですかぁ、行きましょうぅ」

彼女はそう言って立ち上がったが、足元がおぼつかないようだった。

「…やっぱり、また今度にしよう」

歩けそうにない彼女をみて僕は考えを改める。

「えー。今行きたいです」

「君がお酒なんか飲むから悪いんだよ」

そう言うと彼女は照れくさそうに両手を広げた。

「その手は何?」

わけが分からない僕は質問する。

「おんぶ…してください」

「…は?」

「何で僕がそんなことしなきゃならないんだ」

「死にたがりさんが崖に行こうって言い出したんですよ」

彼女が悲しそうな顔をしたが、僕は彼女をおんぶする気はない。

そこで少々押し問答が続き、一向に彼女が折れる気配がないので、僕は仕方なく彼女をおんぶする羽目になった。

「随分と重いんだね」

と軽い彼女をおぶった僕は言う。

「女の子にそんなこと言わないでください」

それから彼女をおんぶした僕は20分ほど歩いて、あの崖に到着した。

彼女とは違う意味で足元がおぼつかない。

「ふぅ〜疲れた。膝が震えているよ」

「ふふふ、よほど緊張してたんですね」

彼女は茶化すように言った。

「そういうことでいいよ」

僕は適当に受け流した。

「うわあ!綺麗!夏の大三角が見えますよ!」

彼女は星空を見上げてそう言った。

彼女と見ている星空は、前に来た時よりずっと綺麗だ。

もちろん星空自体が前より綺麗なわけで、彼女が隣にいるからというわけではない。

「嫌なことを全部忘れられそうですね」

「吸い込まれそうですよ」

「僕は一度吸い込まれたから、君も気をつけるといいよ」

「ふふふ、意味がわかりませんよぉ」

彼女はよく笑う。

「そのままの意味だよ」

「私は大丈夫ですよぉ」

僕達は仰向けになり、綺麗な夜空を眺めた。

いくらでも見ていられるような綺麗な星空を。

10分ほど経った頃だろうか?

隣から寝息が聞こえてきた。

「ほら、吸い込まれた」

口ほどにもないな、と僕は思う。


それからしばらくの間、僕はずっと夜空を眺めていた。

いや、ずっとというのは少し語弊がある。

僕は何度か彼女の寝顔をチラッと見た。

特に意味はない。なんとなくだ。

「死にたいよ…」

僕が夜空を眺めていると、隣からその言葉が聞こえてきた。

僕は彼女の方に目をやり、彼女が寝ていることを確認した。

どうやら寝言のようだ。

それから僕は、綺麗な星空をずっと眺めた。

いつまで経っても、僕の意識は吸い込まれそうになかった。

しばらく経って、ふと腕時計を確認した。

そろそろ朝日が昇る時間だ。

ついでに日の出も見ることにしよう。

彼女はまだ寝ている。

このまま寝かせといてやろう。

それからすぐ、朝日は昇り始めた。

「わあ……日の出だ!」

いつの間にか起きていた彼女が声をあげる。

「綺麗だね」

「私がですか?」

「朝日が」

「ふふふ。ここはいつでも綺麗ですね。昼間もいい景色ですよ」

「今度見にきてみるよ」

しばらく沈黙が続いたが、気まずい沈黙ではなかった。

「……じゃあ、そろそろ帰りましょう。今日は私、アルバイトがあるので」

「分かった。気をつけて」

「何言ってるんですか?私まだ酔っていて歩けません」

彼女はわざとらしく言ってから両手を広げた。

「家までおんぶしてください」

「しょうがないな」

ここで何を言っても最終的におんぶする羽目になることを分かっていた僕は、仕方なく了承した。

「ここを右に曲がって……はい、ここです」

あの崖からも、いつものカフェからも、5分ほどで行ける場所に、彼女の家はあった。

僕は彼女をゆっくりと降ろした。

「死にたがりさん」

「どうしたの?」

「連絡先を交換しましょう」

「…分かった」

僕達がお互いの名前を携帯電話に登録した時、彼女の家のドアが開いた。

「奈々!こんな時間までどこほっつき歩いてたのよ!食器洗いも洗濯もさっさとやりなさい!」

朝なのにも関わらず、彼女の母親と思われる女性は大声で怒鳴った。

右手には缶ビールを持っている。

「あなた、どちら様?」

その女性は高圧的な態度で僕を睨みつけてきた。

「ああ、私道に迷っちゃって。それで案内してもらったんです」

彼女は怯えた表情で言いながら、家の中に入る。

「ああそうかい。あんたもいつまでも人の家の前にいないで早く帰りな!」

そう言って女性は勢い良くドアを閉めた。

僕がその場に立ち尽くしていると、

「あんたまさか家のお酒勝手に飲んでないわよね?」

という声が、ドア越しにはっきり聞こえてきた。

僕にはどうすることもできない。

この時初めて”彼女が大変な目に遭っている”という実感が湧いた。

僕は逃げるように家に帰り、ベッドに横になった。

「そういえば…」

僕は携帯電話を取り出し、連絡先の欄を見る。

登録されているのは、彼女だけだ。

篠原奈々

そこで僕は初めて彼女の名前を知った。

ブーブー

滅多に通知がこない僕の携帯がなった。

メールが一件きている。

「今日は楽しかった。

ありがとう。また遊ぼう」

彼女からだった。

「僕も楽しかったよ。また遊ぼう」

僕もこの時ばかりは素直に返した。

ベッドに横になっていたが、眠れそうになかった僕は、シャワーを浴びてからあの崖に向かった。

太陽を反射する海。

やはり綺麗だった。

しかも自殺の名所ということで人が寄り付かないのも好都合だった。

僕はそれから本屋へ行き、しばらく本を物色したあと、何も買わずに店を出た。

僕は家に帰ってから本を読んで過ごした。

それから二日間、彼女からの連絡はなかった。

元の生活に戻っただけなのに、何か大きな空白を感じた。

それはまるで、世界から1つ、色が失われてしまったみたいだった。

僕はその空白から目を背けるように、物語の世界へ逃げ込んだ。


翌朝僕がいつも通り早起きして、携帯を確認した時、午前0時15分にメールが一件きていた。

彼女からだ。

「明日…というか今日かな?

午後の2時に秘密基地に集合ね!

絶対来てね!よろしく!」

そういえば、以前もそうだったが、彼女はメールでのやり取りでは敬語を使わない。

「分かりました」

と僕は敬語で送っておいた。

それから僕はコーヒーを飲んで本屋に向かった。

時間に余裕を持って本屋を出て、待ち合わせの場所には15分前に着いた。

待ち合わせの時間まであと1分というところで彼女が現れた。

「ごめんなさい、待ちましたか?」

「1時間待ったよ」

「そうですか」

彼女は僕の冗談を軽く受け流した。

「それより…」

と僕は言う。

「なんでこの場所で待ち合わせなんだ?崖の方が君の家から近いだろう」

「2人だけの秘密基地で秘密の密会ですよ!」

秘密の密会というのは日本語として正しくないが、そこは指摘しないであげた。

「これからどこか行くの?」

「ここから10分歩いたところに神社があるでしょう?」

「階段がすごく長い、あの神社?」

「そうです!今日はそこに行きます!」

「あの階段登りたくないなあ」

「我儘言わないでください」

言い合ってもこちらに勝ち目はないので、僕は不承不承神社に行くことにした。

「ところで…」

「あの神社に行って何をするの?」

「お願い事ですよ。あの神社には神様が祀られていて、そこで紙にお願いを書くと、願いが叶うんです」

「そんな言い伝えがあるのか」

「言い伝えじゃありません!本当に叶うんです!」

今日も彼女は元気がいい。

最近自殺しようとしたとは思えないほど。

「そうだね」

「よろしいです」

そんな会話をしているうちに、神社の階段の前に着いた。

周りには木が生い茂っていて、結構不気味だ。

「改めて見ると長いですね〜」

「一応言っておくけど、おんぶはしないからね」

「分かってますよ〜〜」

僕達が階段を登り神社に着いた頃には、2人とももう疲れ果てていた。

「疲れましたね〜〜」

彼女が一息つく。

「そこのカップルさん」

的外れな単語で声をかけてきたのは、70歳前後のピンピンしたおばあさんだった。

「あ、おばあちゃん!久しぶり!」

そう言って彼女は、そのおばあさんに駆け寄った。

目の前にいるおばあさんが彼女の実の祖母なのか、それとも親しみを込めてそう呼んでいるのかは分からない。

「今日はお願い事をしにきたの」

そういえばこのおばあさんと話すときも彼女は敬語を使わない。

「そうだったのね。はい、じゃあお守り2つ」

「その中に紙が入ってるからそれを取り出して好きな願いを書いておくれ」

「それと大きな願いは、それ相応の対価が必要だから、その場合はその対価も書くんだよ」

おばあさんは不気味に笑った。

単なる願掛けなのに随分と悪趣味だな、と僕は思う。

「死にたがりさんは何をお願いするんですか?」

「僕は白紙のままでいい。あんまり願掛けとかは好きじゃないんだ」

「へぇーー」

彼女はどうやら何か書いているようだ。

「どんなことを書いたの?」

「内緒です」

彼女は唇に人差し指を当ててそう言った。

「2人とも書き終わったみたいだね。渡しておくれ」

僕達はそれぞれお守りを渡した。

「じゃあ、帰りましょうか。おばあちゃん、また来るね!」

「さようなら」

そう言って僕達が帰ろうとした時、彼女は段差に気づかず足を挫いてしまった。

「痛っ…」

「大丈夫?」

心配して僕が聞くと彼女は、明らかに無理をしている笑顔を浮かべながらこう言った。

「ダメです」

彼女の足は少しだけ腫れていた。

「すみません。おんぶしてもらえますか?」

僕は歩けないように見えなくもない彼女の足を見て了承した。

「待ちなよ。階段をおんぶなんて危ないでしょ」

今までの様子を黙って見ていたおばあさんが言う。

「でも彼女は歩けそうにありませんし、そうするしかないですよ」

「それでも危険なことには変わりないよ」

「じゃあどうすればいいんですか?」

僕がそう言ったとき、おばあさんは微かに笑ったように見えた。

「この神社の隣には今は誰も使ってないお屋敷があるんだよ。お屋敷と言っても立派なもんじゃないけどね」

「中は綺麗だし、トイレもお風呂も水道も好きに使えるよ。布団もいくつかあるんだ」

僕はまさかと思い、恐る恐る質問する。

「泊まっていけ、という事ですか?」

そのまさかだった。

「大丈夫。あたしゃ自分の家に帰るから。2人で自由に使っておくれよ」

何が大丈夫なのか、僕には分からない。

「そういう問題じゃありません。第一僕はともかく、彼女は家に帰らないと」

「帰りたくないです」

彼女はいつも通りの我儘を言う。

「大丈夫だよ!年頃の子どもが1日家に帰らないなんてよくあることさ!」

このおばあさんは、恐らく人の話に耳を貸さないタイプだ。

「それとも、あんた1人で帰るかい?怪我をしたこの子を置いて」

それも気が引けたので、僕は不承不承このお屋敷に泊まることにした。

「着替えはタンスに入っているから自由に使っておくれ」

おばあさんはそう言い残して早々と去っていった。

僕達はとりあえずお屋敷の中に入り、適当な部屋に荷物を置いて座り込んだ。

さすがの彼女も少しは気まずく思っているようで、しばらくの間沈黙が続いた。

「あ、あの…。お風呂入ってきますね」

「分かった」

「くれぐれも覗かないでくださいね!」

彼女が明るく言ってくれたおかげで、空気が少し和んだ。

「分かってるよ」

彼女は風呂場の方へ歩いていった。

僕は何をするでもなく壁にもたれかかってボーっとしていた。

ふと思ったのだが、彼女は家に連絡をしなくていいのだろうか?

まあそれを決めるのは彼女であって、僕が気にしても仕方ないのだけど。

特にすることもない僕は目を瞑った。

すぐに夢の中に入れたようだ。

僕は「死にたがりさん、死にたがりさん」という不吉な単語で目を覚ました。

「もう9時ですよ。暇です」

彼女はそう言って、まだ乾き切っていない長い髪を束ねながら、僕を覗き込む。

「よりによって、神社で死にたがりさんは良くないんじゃないの?」

「名前で呼んでほしいんですかぁぁ?」

明らかに挑発的な態度だ。

「別に」

「照れてるんですかぁぁ?」

僕は彼女を置いて家に帰るべきだったなと、反省する。

「ちょっとシャワーを浴びてくるから待ってて」

そういえば彼女はごく普通に歩いていた。

痛みが引いてきたのだろうか。

僕は風呂場に行って髪、顔、体の順で洗った。

人が住んでいないにしては、いささか綺麗すぎる風呂場だった。

多分誰かが手入れをしているのだろう。

僕は風呂を上がり、彼女のいる部屋に戻ると、あのおばあさんがきていた。

「冷蔵庫にコレを入れておくれ」

そう言っておばあさんは缶ビールを6本差し出した。

「近々誰か来るんですか?」

と僕が聞くと

「誰も来ないよ。ただ、置いておくだけさ。まあ、冷蔵庫にあるものはあんたらが自由にしていいけどね」

どうやら差し入れのようだ。

「じゃあ、あたしゃ明日の朝までここには来ないから自由にしなよ」

おばあさんはゆっくりとこの場を離れ、暗闇の中に消えていった。

「そういえば」

と彼女は言う。

「死にたがりさんと夜を共にするのはこれで2度目ですね」

「人聞きの悪い言い方をしないでくれ」

「ふふふ」

「せっかくだから飲みましょう」

「僕は遠慮するよ。それに君も怪我をしてるなら、アルコールは良くないんじゃないか?」

「いいんですよ。お酒は百薬の長ですよ!」

「死にたがりさんも飲んでください。飲まないならおんぶでどこか連れて行ってもらいますよ」

僕はこうして、半ば強引に酒に付き合わされる羽目になった。

僕は吐き気を我慢しながら、少しずつお酒を飲んだ。

1本目の半分まで飲んだところで、酔いが回ってきた。

彼女はもう3本目だ。

「死にたがりさんは私に頼み事とかありますかぁ?」

彼女も酔っているようだ。

「そろそろ敬語やめてよ〜」

僕は最後まで言い切ったあとに思い出した。

それは彼女なりの事情があっての事だったということを、僕は忘れていたのだ。

「ごめん、今のは忘れて」

僕はすかさず発言を撤回する。

「……いいよぉ、タメ口も使えないことはないんだよね。死にたがりくんにならタメ口でいいやぁ」

「それどう言うことだよ」

僕はほっと胸を撫で下ろす思いで言った。

「それはぁ、心を開いてるから、かな。あ〜言っちゃった、恥ずかしい」

「恥ずかしそうには、とても見えないな」

「お酒の力だよ」

「へーーー」

僕は適当に返事をする。

「……ねえ、死にたがりくん。生きるのが辛い時って…どうしたらいいのかな?」

「それを自殺志願者の僕に聞くんだね」

「じゃあ死にたがりくんは、死にたくなった時どうしてたの?」

死にたくなった時、と言われても僕は上手く答えられなかった。

「僕が言うのも変かもしれないけどさ、僕は本気で死にたいと思ったことはないんだ」

「だから君が納得のいく答えを出せそうにない」

僕は正直にそう言った。

「死にたくないのに死のうとしてたの?」

彼女は僕をからかうように笑った。

「僕は死にたいが強いというより、生きていたい気持ちが弱かったんだ。生きることに意味を見出せなかった」

「僕はあの日、なんとなく死のうとしていた。君と僕は逆だろう?」

「うん、確かに逆かもしれないね。でも死のうと思った人の意見なら、少なくともそう思ったことのない人の話よりは、ずっと参考になるよ」

僕は考えた。正直に、考えた。

「…まあ僕が思うに、君は人より苦しい経験をしてきたんだ」

「たまには、『自分は生きてるだけで偉いんだ』って自分を褒めてやってもバチは当たらないよ」

「……ありがとう」

彼女の肩が震えているのが分かった。

「…死にたがりくんはさぁ、好きな人とかいないの?」

「いないと断言するよ。僕は基本的に人が嫌いだしね」

それは僕の本心だったと思う。

「面白くないなー。まだ私の愚痴の方が面白みがあるよぉ」

「じゃあ君の愚痴を聞かせてほしいな」

「重い話だけど、いいかなぁ?」

話すことがない僕にとっては寧ろ好都合だ。

「構わないよ」

それから彼女はたくさん愚痴をこぼした。

僕が想像していたよりも遥かに重い話ばかりだった。

彼女が長年溜め込んだ想いを吐き終わる頃には、2人ともすっかり酔いが醒めていた。

「聞いてくれてありがとね隼人くん」

僕はその時、初めて彼女に名前を呼ばれた。

「僕が聞いて君が楽になるなら、僕でよければいつでも聞くよ」

「…ありがとう。……こっちにきて」

僕は言われた通りに彼女の前に座る。

「前を向いて」

僕は言われた通り前を向く。

彼女の顔が僕の肩に埋もれる。

僕がタンスから借りていたTシャツが、たちまち濡れ始める。

「人に愚痴を聞いてもらった後は必ずこれをやりなさいって両親に言われてるの」

「そうか。なら仕方ないね」

彼女は僕の肩に顔を埋めて泣いていた。

僕は彼女の気が済むまで好きにさせてやろうと思った。

それから彼女は、後ろから覆い被さるように僕に寄りかかってきた。

おんぶされているようにも、後ろから抱きついているようにも見えた。

その時間がどのくらい続いただろうか?

僕の耳元から寝息が聞こえてきた。

僕は彼女を起こさないように敷き布団の上に移動させ、布団を掛けた。

僕も隣に敷いて置いた布団に潜り込み、30分程して、ようやく眠りについた。

翌朝、僕達は鳥の鳴き声で目を覚ました。

「おはよ〜」

と僕より先に起きていた彼女が言う。

「おはよう」

と僕は返す。

「昨日は変なことしてごめんね」

彼女の顔が少しだけ赤くなっているように見えた。

「お酒を飲んだから何も覚えていないよ」

と僕は嘘をつく。

それから僕達は、他愛のない会話をしながら布団を畳み、僕達が帰る準備を済ませた頃、昨日のおばあさんがやってきた。

「昨日はよく眠れたかい」

「それがね、死にたがりくんが襲ってきて大変だったんだよ」

彼女はありもしないことを言う。

「そんなことしてませんよ」

「元気でいいじゃないか!2人はお似合いだよ!」

僕は反論するのも馬鹿らしくなって、相手にしないことにした。

彼女は終始ニコニコしていた。

おばあさんは、僕と彼女を交互に見ながらニヤニヤしていた。

「もう歩ける?」

僕はおばあさんの視線には気付いていないフリをして、彼女にそう言った。

「うん、歩くだけなら痛くないや」

一刻も早くここを離れたかった僕は、すぐに靴を履く。

「おばあさん、ありがとうございました」

「ありがとう!また来るね!」

「2人とも気をつけて帰りな!」

僕達はおばあさんに挨拶をしたあと、慎重に階段を降りた。

僕は彼女の一歩後ろを歩いて、僕達が彼女の家の近くまで来た時、

「…あの、隼人くん」

「…どうしたの?」

「迷惑で我儘なのは分かってるんだけど、今日もどうしても家に帰れない。もし良かったら、隼人くんの家に泊めてくれない?」

「……ダメ…かな?」

彼女の話しぶりからして、何か事情があるのだろう。

「…分かった。いいよ」

「ありがとう!」

結局僕達は彼女の家には寄らず、僕の家に着いた。

「おじゃましまーす」

彼女は控えめに言って僕の家に入った。

「誰もいないよ」

「一人暮らしなんだ〜。大変なんだね」

「君ほどじゃない」

ーーーそれから僕達はデパートに行った。

今日はデパートで買ってきた食材を使って、彼女がカレーを作ってくれた。

「美味しい」

僕はお世辞抜きでそう思った。。

「すごく美味しい。料理が上手いんだね」

久々に食べる手が止まらなかった。

「ありがとう。家でいつもご飯を作らされてるからだよ」

できればそれを聞かずに食べたかったな、と僕は思う。

それから僕達はゲームセンターに行ったり、映画を見て過ごした。

彼女はゲームセンターで僕がとってあげたクマのぬいぐるみを大切そうに持っている。

時計の針が7時を指す頃、僕の家のすぐ近くで大きな音がした。

外を見ると、さほど暗くない空に、大きな花火が上がっていた。

そういえば、この時期は花火大会があったんだ。

この町は小さくて活気もないが、打ち上げ花火の迫力と規模は、日本でも5本の指に入ると以前聞いたことがある。

「綺麗……」

「これは始まりの花火だよ。本当に綺麗なのはこれからだ」

「私、こんなに近くで花火を見たことなかったな〜」

「どうせなら近くに行ってみる?屋台もたくさんあるよ」

「本当!?行きたい!」

よほど近くで花火を見たかったのだろう。

彼女はごく自然に僕の手を引き、僕達はすぐ屋台が立ち並ぶ商店街に着いた。

僕は彼女と過ごすようになってから、財布には少し多めにお金を入れるようになったのでお金の心配はなかった。

「とりあえず何か買おうか」

「あ、私たこ焼き食べたい!あとお好みも!」

同じようなものじゃないか、と思ったが、彼女の好きにさせてやろうと思った。

「分かった」

僕達は一通り近くの屋台を見たあと、たこ焼きと広島風お好み焼きを買い、路地裏に入り適当な場所に座った。

僕は彼女と他愛のない話をしながら花火を見た。

僕達がたこ焼きとお好み焼きを食べ終わる頃には空はすっかり暗くなっていた。

それから僕達は屋台を見て回ることにした。

「あ、金魚すくいだ!やってみてもいい?」

「いいよ」

彼女は今まで見たこともないほど集中した表情で金魚に狙いを定める。

彼女は1つのポイで3匹の金魚をすくった。

「中々うまいじゃん」

僕は感心して言う。

「ふふふ、うまいでしょ〜〜」

彼女は楽しそうに笑う。

「隼人くんもやってみてよ〜」

「僕はいいよ」

「えーー、やってよ〜」

「はいはい、分かったよ」

僕は1匹もとれなかった。

彼女は僕を馬鹿にしたような顔で笑っている。

屈辱的だ。

「射的もやろうよ」

珍しく自分から提案した僕を見て、彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの明るい顔に戻った。

「いいよ!やろうやろう!」

「でも隼人くんから言い出すなんて、珍しいこともあるもんだね!明日雪でも降るんじゃない?」

「夏なのに雪なんてあり得ないよ。バカなの?」

僕は敢えて言葉通りに受け取った。

「はいはい、私はバカですよー」

彼女はそう言って口を尖らせた。

「……お、あったあった」

「見つけた!今度は射的で勝負する?」

今度はって、僕は金魚すくいで勝負した覚えはない。まあ、いいか。

「勝負しよう。負けた方は罰ゲームね」

自信満々に僕はそう言って、彼女を少し虐めてやろうと思った。

「いいよ!じゃあ何発で倒せるかで勝負ね!」

「望むところだよ」

僕は射的が得意で、彼女には絶対に負けない自信があった。

だが、彼女は1発でぬいぐるみを倒してしまった。

「罰ゲームあるってこと、忘れてないよね〜〜?」

勝ちを確信した表情で言う彼女を、僕はとりあえず無視して小さなプラモデルに狙いを定めた。

集中する…徐々に雑音が聞こえなくなる…。

パーンッ

「……僕の負けだ」

僕は結局2発でプラモデルを倒した。

「ふふふ、やった〜勝った!」

僕は心底悔しかった。得意の射的でも負けてしまうなんて。

「はい、罰ゲームはなに?」

「んーとねー…花火が終わるまでに考えとく!」

「はいはい」

僕は罰ゲームがさほど過酷でない事を祈りつつ、彼女と屋台を見て回った。

「それにしても花火綺麗だね。来て良かったよ」

彼女は頭上に咲く花火を見ながらそう言った。

「そろそろクライマックスだよ。どこかに座って見る?」

「そうしよ!あ、できるだけ暗い所で花火見たいな!」

「それもそうだね」

僕達は屋台から離れ、暗い路地裏に着いた。

「この辺でいいかな?」

僕はどこにいるかもはっきり分からない彼女にそう言った。

「いいんじゃない!この辺りなら花火も近いし、余計な光もないし!」

「そうだね。じゃあここにしよう」

「あ、ちょっと待って」

彼女は携帯電話を取り出し、その光で僕を照らして、僕の手を握った。

「ほら、暗いし逸れちゃうといけないから」

「それもそうだね」

僕はそっと彼女の手を握り返す。

それから僕達は適当な場所に座った。

お互いの手を握ったまま。

僕達は、花火を眺めていた。

「隼人くん。私、君に会えて良かったと思ってるよ」

「急にどうしたの」

「……私ね、実は隼人くんと秘密基地を作った次の日、死のうとしてたの」

僕は何も言わなかった。

だが僕の動揺は、お互いの手を通して彼女に伝わっているのだろう。

「でもね、死ねなかったよ。もっと君のことを知りたかったから。せっかく助けてくれた命を無駄にしたくなかったから…」

彼女の手は震えていた。

僕は彼女の手を握りしめたまま彼女の前に立った。

そして僕は、彼女を抱き寄せてこう言った。

「僕は君と出会ってから、死ぬことなんてすっかり忘れていたよ」

僕は彼女を強く抱きしめた。

どれくらいそうしていただろうか。

ふいに真っ暗な空に、綺麗な花火がいくつも上がり始めた。

クライマックスだ。

次々に空に花が咲く。その音が体に響く。

贅沢な夜が、世界を包み込む。

僕は彼女から離れ、彼女の手を握りしめたまま、僕達は花火を見ていた。

「隼人くん」

「どうしたの?」

「罰ゲーム、もう一回私のことを抱きしめなさい!10秒でいいから!」

僕は返事もせず、すぐに彼女を抱きしめた。

「ふふふ、素直でよろしい」

彼女は僕の背中に手を回す。

僕はそうして20秒ほど彼女を抱きしめたあと、彼女から体を離した。

その時、空に最後の花火が上がった。

僕からは背を向けているので見えないが、音から察するに、クライマックスの名に相応しい迫力だっただろう。

空に咲いた花火が僕達を照らした時、僕は彼女と目があった。

僕は恥ずかしくなって、すぐに目を逸らしたが、彼女の顔が赤くなっていることに気付いた。

そしてそれは彼女も同じだろう。

「綺麗だね」

「私が?」

「花火が」

「ふふふ」

彼女は照れくさそうに笑った。

この笑顔のために、僕は生きよう。

そう決めた。

花火が消えた後の静けさが、僕達にこの時間の終わりを告げた。

それから僕達は、僕の家までの道を手を繋いで歩いていた。

「ところで、神社での願いごと、なんて書いたの?」

今なら教えてくれるかもしれないと思った僕は、さりげなく彼女に質問する。

「知りたいの〜〜?」

「うん、とても」

「前にも言ったけど、それは秘密!」

「えーーー」

結局教えてくれなかったが、こんな時間が、僕は幸せだ。

僕達は寄り道もせず、僕の家まで歩いた。



「今日は楽しかったね」

と僕のベッドで寝ている彼女が言う。

「楽しかったよ」

とソファで寝ている僕は返す。

「花火綺麗だったな〜〜。また来年一緒に行こ!」

「その時まで僕達が生きていればね」

「生きてるよ、絶対。君も。私も。絶対」

彼女はいつになく真剣な顔で言った。

「奈々」

「僕は今、生きてて良かったって心から思えるんだ」

「約束しよう、僕は絶対に死なない」

だから君もーー

「私も。絶対に死なない。早くお金貯めて家を出て、来年も隼人くんと花火を見るよ」

「見よう。再来年も、その先も、ずっと」

なるほど、幸せとは、こんな夜のことを言うのだろう。

「こんな時間がずっと続けばいいのにな〜」

「僕もそう思うよ」

「明日は家に帰らなきゃ…」

「いつでも僕の家に来るといいよ」

「ふふふ。ありがとう。…じゃあそろそろ寝るね。おやすみなさい」

「おやすみ」

翌朝、僕はいつも通りの時間に目を覚ました。

いつも通りの朝だった。

同じ部屋で好きな女の子が寝ているということを除けば。

僕は彼女を起こさないようにコーヒーを淹れたつもりだったが、いつの間にか彼女は目を覚ましていた。

「起きたんだね。朝早いからまだ寝てても大丈夫だよ」

「ありがとう。でも家のこともあるから帰らなきゃ」

「そっか。分かった」

彼女はすぐに支度を済ませた。

「じゃあ今日はもう帰るね。泊めてくれてありがとう」

「家まで送っていこうか?」

「大丈夫。これ以上迷惑はかけたくないし」

「そっか。気をつけてね」

「うん。バイバイ!」

「じゃあね」

幸せな時間だった。

明日も明後日もこんな時間が続けばいいと思った。

実際に続くと思っていた。

だがその希望は、その日の夜に打ち砕かれることになる。

彼女の楽しい顔ばかり見てきた僕は、彼女の事情を軽く考えすぎていた。


「今日はゆっくり本でも読むか」

彼女が帰ったあと僕は歯磨きと着替えをして以前買った小説を取り出した。

僕はこの日、とても平凡な1日を送った。

彼女からメールが来る夜9時までは。

「助けて。」

たった一言のメールが彼女から届いた。

「分かった。今すぐ行く。」

僕はそれだけ送って急いで家を飛び出した。

僕は全力で走った。

ほとんどが閉まっている商店街を駆け抜け、いつものカフェの前を走り抜け、僕は彼女の家の前に着いた。

ピンポーン

「ごめんください!ごめんください!」

ピンポーン

彼女の家のインターフォンを何度鳴らしても、誰も出てくる気配はない。

僕はドアを開けて彼女の家に入った。

彼女は壁にもたれかかって泣いていた。

腕には青い痣がいくつも増えていた。

僕はその光景に、数秒間息をすることすら忘れていた。

「人の家に勝手に上がらないでくれるかな?」

木刀を持った彼女の母親が階段から降りてくる。

僕は急いで彼女に駆け寄った。

「早くここから逃げよう。乗って」

僕は一向に動こうとしない彼女をおんぶしてその家を出た。

後ろから怒鳴り声が聞こえるが、そんなことに構ってる暇はない。

彼女は僕の背中がびしょ濡れになるほど泣いていた。

僕の部屋について彼女をベッドに寝かせた。

彼女は起き上がってベッドに座った。

「大丈夫だよ。僕がついてる」

「……辛いよ…。もうあんな場所に居たくない…」

僕は黙って彼女の背中に手を回し、優しく抱き寄せた。

「大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫」

僕はそう言って彼女の背中をさすり続けた。

彼女はそのまま泣いていた。

僕の胸がびしょ濡れになるほど泣いていた。

「…僕と、逃げよう」

「……え?」

「僕と君でどこか遠いところへ行くんだ。誰にも言わずに。僕達ならやっていけるよ」

「でも…隼人くんにそんなに迷惑かけられないよ」

「君さえそれでよければ僕は全然構わないよ」

「私は今すぐにでも家から出て行きたい。でも隼人くんにこれ以上迷惑をかけたいとは思わないよ」

それでも僕は折れなかった。

「……分かった。…ありがとう。…お願いします」

彼女が先に折れた。

「よし。行動は早い方がいい。今日は僕の家に泊まって、明日荷物を取りに君は家に帰って、それからすぐ出発しよう」

「うん。分かった。ありがとう」

その日、彼女は僕の部屋に泊まった。

彼女が、私はソファーでいいと言っていたが、僕は説得して、彼女がベッドで、僕はソファーで寝た。

翌朝、僕達はほぼ同時に起きた。

時刻は5時半だ。

「いよいよ今日だね。緊張してきたーー」

「今日はさすがに家まで送っていくよ。何かあった時のためにね」

「いいよ。私の問題だから私1人でやらなきゃ」

「それでもダメだ。万が一ということもあるだろう」

「大丈夫だよ!」

ここでは彼女は折れなかった。

彼女なりの想いがあるのだろう。

「…分かった。絶対無事に帰ってきてくれよ」

「まかせて!」

それから僕達は、それぞれの時間を過ごした。

彼女は僕のベッドで携帯を弄り、僕はソファーに座り本を読んでいる。

その日行方を断つようには到底思えないほど、2人は落ち着いていた。

時計の針が午後12時を指した時、彼女が言った。

「じゃあ…行ってくる。」

「気をつけて。」

「遅くても30分あれば戻れるから」

そう言って彼女は僕の家を出ていった。

僕は部屋を出ていく彼女を見送ったあと、小説に目を戻した。

だが彼女は1時間経っても、一向に戻る気配がない。

心配になり、何度か連絡したが返ってこない。

まさか…

嫌な予感がした。

そのまさかだった。

いや、むしろ状況の悪さは僕の想像を遥かに超えていた。

僕は携帯電話をポケットに入れ、彼女の家まで必死で走った。

彼女の家の前には3台のパトカーが止まっていた。

僕は走った。とにかく走った。

彼女の家の中に入った時、僕は自分の目を疑った。

そこにいたのは数人の警察官と、血のついた包丁を持った中年の男性と、血だらけで動かない彼女だった。

僕は状況をうまく飲み込めなかった。

「関係ない奴は外に出てろ!」

警察官の僕に対しての怒鳴り声が耳に入ったが、頭には入らなかった。

ようやく頭が状況を飲み込めた時、僕の中で何かが切れたのが分かった。

絶対許さない!

僕は近くにあった木刀を握って、男に殴り掛かる。

だが近くにいた警官が、僕を止めに入る。

それでも僕は、男に殴り掛かるため必死で抵抗した。

その次の瞬間のことだった。

「ウゥッ…」

男は自分で持っていた包丁で、自分の左胸を勢いよく突き刺していた。

結論から言おう。

彼女の実の父親であるその男は即死だった。

彼女の母の遺体も奥の部屋から見つかった。

薬の大量摂取による自殺らしい。

彼女は……

死んでいた。

実の父親に殺された。

後に警官から聞いたことだが、彼女には以前、姉がいたらしい。

僕は警官から厳重注意を受けて彼女の家を追い出された。

彼女が死んだ。

今朝まであんなに元気そうだった彼女が、死んだ。

僕の中で何かが崩れていくのが分かった。

実感はない。だが確かに彼女は突然死んでしまったのだ。

いや、突然ではない。

彼女が暴力を受けていたことを僕は知っていたじゃないか。

彼女があの崖から飛び降りようとしていたことを僕は知っていたじゃないか。

ただそれでも、僕の中から彼女は突然消えてしまった。

僕が一緒について行っていれば、もしかしたら助かったかもしれないのに…。

僕は現実を受け入れられなかった。

何事もなかったかのように”死にたがりさん”と後ろから話しかけられる気さえした。

僕は歩いた。あの崖へ歩いた。


そこには、誰もいなかった。


彼女の居ない世界は、消え去った後の線香花火みたいに感じられた。

次第に彼女が死んでしまったという実感が湧いてくる。

だが僕は思いのほか冷静だった。

現実を受け入れた瞬間、僕は一瞬で諦めがついたのだ。

取り乱す暇も無く、一瞬で。

どうせ人生なんてこんなもんなんだよ。

今日も夕焼けが綺麗だ。

あの日のように。

僕は明日、ここで死のう。そう思った。

大切な人を失ったから死ぬ。

人が死ぬには十分すぎる理由だ。

それから僕はゆっくりと家に帰った。

ベッドに横になった。

眠れるはずもないが、何もしたくない。

結局僕は朝まで一睡もできなかった。

僕は朝6時ごろにコーヒーを啜ったあと、またしばらく横になった。

何もできず、ただ何かが自分を削っていく時間が何時間も続いた。

時計の針が4時半を指す頃、僕は適当な私服に着替えて、家を出た。

気づけば僕は、鳥居をくぐり抜け、あの神社に来ていた。

「なあ神様…」

僕は神社の外部建具に向かって話し始める。

「僕は極悪人だ。僕は1人の人間を殺す気でいた。警官に邪魔をされなければ本当に殺していただろう」

彼女が死んでしまってから時間が経つにつれ、僕の諦めや悲しみは次第に怒りに変わっていた。

「でもな。

あんたは僕以上の悪人だよ……。」

「…彼女が…………奈々がいったい何をしたんだよ!!!罪のない人間を殺して面白いかよ!!!理不尽に人を死なせて面白いかよ!!!…何であいつが死ななきゃならねえんだよ…。奈々を殺した奴ももう死んじまったよ。もう罪を償えないんだよ!!残された人間はどこに怒りを向ければいいんだ!!答えて見ろよ!!!!神様だったらこの壊れた世界を直してみろよ!!!!!!」

僕はぶつけどころのない怒りを、神様にぶつけることを正当化した。

僕は周りにあるものに当たり散らした。

殴って折って蹴って踏みつけて壊して…。

感情を爆発させた僕は、しばらくそこで立ち尽くしていた。

僕が神社を離れる頃には、空は綺麗なオレンジ色に染まっていた。

僕が崖に向かう途中、大きな声で宗教の勧誘をしている人を見かけた。

「幸福と隔離されたこの現実で、醜い嘘だけが唯一美しいこの世界で、70億人の病人を乗せたこの星で、あなたたちはいったいこの世界のどこに価値を見出しているのですか!

こんな醜い世界を私たちの力で変えましょう!」

追い詰められた人間が宗教に縋る理由が、何となく分かった気がする。

それから少し歩いて、僕は崖に到着した。


そこには、先客がいた。


「あんたならここに来るだろうと思ってたよ」

以前あの神社にいたおばあさんが言った。

「あの子が生きている頃はお前さんの話ばかりしていてね、お前さんに会うにはここが確実だと思ったんだ」

あの子とは彼女のことだろう。

「…何の用です?」

「これを渡そうと思ってね」

「……お守り…?」

「あの子がお前さんと神社を訪れた時に書いた紙が入ってるんだ。本当は持ち出しちゃいけないんだけど、今のあんたにはこれが必要だろう」

僕はお守りの中に入った紙を取り出した。

そこには、こう書かれていた。

「私はどうなっても構いません。その代わり死にたがりさんに友達ができますように。私を助けてくれた死にたがりさんが楽しい人生を送れますように。

私の大好きな隼人くんが幸せになりますように。」

僕は泣いた。ひたすら泣いた。

「あんたが死に急ぐのは勝手だけどね、あんたの命はあんた1人のものじゃないんだからね」

おばあさんはそう言い残して去っていった。

僕はずっと泣き続けた。

僕は独りになった。

いや、独りに戻った。

だが彼女と出会ってからの独りは、出会う前のそれとは違い、僕はまるで押し潰されるようだった。

気付けば、夕焼けは星空に変わっていた。

空では夏の大三角が、その存在をはっきりと主張していた。



ーーーそれから8ヶ月後、僕は新しい会社に再就職し、それなりに上手くやっている。

今日も同僚と食事に行く予定だ。

だがその前に、僕にはしなければならない事があった。

花屋に寄った僕は、迷う事なく、その花を手に取る。

胡蝶蘭

花言葉は、”幸福が飛んでくる”

僕にとって、彼女はまさしく、僕の人生に贈られた胡蝶蘭のようだったと思う。


人生とは、花のようなものだ。

気持ちのいいお天道様に照らされているだけじゃ、干からびてしまうし、雨に晒されてばかりじゃ、枯れてしまう。

雨に濡れながらも、光を浴びて、花を咲かせる事が出来たなら、それはこの上なく幸せな事だろう。


僕は今でも、週に一度は彼女のお墓参りに行き、この花をお供えしている。

その帰りに、彼女と作った秘密基地の前で、一人で泣いている。

今日も夕焼けが綺麗だ。

さあ、生きよう。

今この瞬間でさえ、絶望に飲み込まれた人々が死に場所を求めて彷徨い続けている。

この世界は地獄だと知ってしまった人々が救いを求めている。

それでも僕は一生闘い続けよう。

例えボロボロになろうと、どん底に突き落とされようと、何度押しつぶされようと。

僕は、無様に、生きよう。

そうすれば、きっと、奈々はいつもみたいに笑ってくれる気がするから。

皆は「僕」を不幸者だと憐れむだろうか?

「僕」が彼女と過ごした時間はとても幸福なものだっただろう。

彼女がいなくなったとしても、それが変わることはない。

今まで死んだように生きてきた「僕」が生きる喜びを知った。

生きてて良かったと心から思えた。

ならもうそれだけで彼は幸せ者ではないだろうか?

その一瞬があるだけで、「僕」の人生は輝き、とても価値のあるものになった。

きっと、幸せとは、そんな一瞬の事を言うのだ。

「僕」はきっと、この先も、彼女のいない世界を生き続けるのだろう。

このろくでもない世界に、生きる意味を見出して。



ーー最後に

現実では不幸ばかりが、横殴りの雨のように強く降り注ぎます。

それでも、ずぶ濡れになりながら、必死に足掻いて、馬鹿な希望を抱いて、馬鹿みたいに生きてみるのも悪くないと思うんです。

何かの間違いで降ってきた一滴の幸福を取り零さないために。

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[良い点] 生きようと思えました。こんな素敵な人達に出会わせてくれて、ありがとうございます。
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