七個ないのが七不思議⑫
「うえ……気持ち悪い……」
コンクリートにへたり込みながらえずく。夜の冷たい空気が少し心地良かったが、焼け石に水。恐らく蒼白であろう顔面を、汗が伝う。
こんなに長い時間二人目を出していたのは初めてだ。丸一日。それがこんなに過酷なものだったとは思わなかった。
月を見上げて、十数秒だったと思う。決して近距離ではない図書館。そこから疾走して、あの夜の様に壁を駆け登り、現れた。
冷然院緋鎖乃が、満身創痍でへたれ込む私の前に降り立った。
「……二人目だったのね」
「へとへとだよへとへと」
私は振り絞る。やっとの思いで呟く。
ああ、気分が悪い。吐きそうだ。
「いつから?」
「昨日の夜から。部屋に戻った私は、二人目だ」
「それで、食事を摂らなかったのね」
「《《こっち》》では食べてたけどな。お昼休みに入れ違いで桜と食堂に居たよ」
昨夜、桜と話してから決めていた事だ。二人目の私で、緋鎖乃と行動を共にする。
既に立てた仮説だ。私が緋鎖乃に記憶を燃やされてしまうのならば、それを防ぐ手立てはこれしかない。
「くだらない時間稼ぎだわ。無駄な足掻き……私は、貴方の記憶を燃やすわ。こんな事をしたって無駄。だって、貴方は言ったもの。殺し合いを十回したら、十回私が勝つ。鎖子、また記憶を無くして。もう一度、私と此処を目指して」
「待って」
再度発火を伴う抜刀をしようと柄に手をかける緋鎖乃。それを止めて、私は言う。
「消えるのならば、せめて聞かせて。もしかしたら、一度聞いているのかもしれないけど」
月光を反射する刀身が少しその姿を見せたところで止まる。緋鎖乃は、再度納刀する。
「全て消えてしまうけれど、どうぞ」
本当につまらなそうな表情で、緋鎖乃は言った。
「ありがとう。それじゃあ端的に……古野野江学園学園長、白裏潤矢を殺したのは、冷然院緋鎖乃、お前で間違いないの?」
この夜の始まりを口にして、緋鎖乃を見た。
「ええ、最初から言っているじゃない。白裏潤矢は、私が殺したわ」
やはり緋鎖乃は、表情一つ変えず、冷たい目をして言う。初めの頃からなにも変わらない。まるでなにかを悟っている様に、なにかを諦めている様に。はたまた??
なにかを覚悟している様に。
「それだとさ、納得がいかないんだよ」
「納得? そうかしら? だって、現に貴方は私に襲われているし、記憶を燃やされている。私は、私が犯した殺人を隠蔽しているのだから、全て道理にそぐう筈だけれど……更に言うならば、私は自白しているじゃない。初めから、私が殺した、と」
「それなら尚更だ。緋鎖乃に疑いを向けて、納得出来ない事の一つ。あんたさ、馬鹿じゃないだろ?」
「さあ、どうかしら。私は自分を聡明だなんて思わないけれど、別段阿呆とも思っていないけれど、それはあくまで自己評価。鎖子からしたら、稀代の大馬鹿かもしれないわ」
「悲観的というかなんというか……緋鎖乃、あんたは馬鹿じゃないと思う。一緒に居て、尚の事思う。お前は聡明だというのに、詰めが甘過ぎる……いや、雑なんだ、全部が全部」
始まりの夜に全てが符合しないのは、当然だ。だってこれは、なにもかもがおかしい。
「雑……?」
「ああ、雑。お前、全部雑だ。隠匿の仕方が雑。例えば、桜。私の記憶を燃やすってのは、夜の真相に辿り着かせない為には必須だけれど、それなら桜も燃やしておくべきだ。それを怠ったからこそ、私はこの夜の違和感に気付けた。桜の記憶も燃やしておけば、こんな事は起こらなかった」
「……そうね。確かにそう。でも、別にいいじゃない。気付かれたら桜も纏めて燃やすわ。それだけ……少し、手間が増えるだけだもの」
「それだけ?」
「ええ、それだけ」
物事を隠蔽するという上で、記憶を消す、なんて能力は状況に対する最適解の一つと言っていい。
それだというのに。緋鎖乃は、一人勝ち出来る状況だというのに。
「どちらにせよ雑。もしも私が緋鎖乃の能力を持っていたのなら、まずは、その記憶を燃やす。お前の能力に関する記憶を燃やす。そうすれば、この夜は永久に円環を描いて終わらない。それでも、お前はその記憶を燃やさなかった。それはどうして?」
それはトドメとなる。この事件の真相を闇に葬るに十分足る。
「……姉様は、鎖子になんて言ったの?」
「なんて?」
「ええ。姉様は、私を疑っていた?」
私の質問に答えず、緋鎖乃は視線を夜空に移して尋ねる。
私も合わせて空を見上げるけれど、星が滲んでいる。視界が不明瞭だ。
ああ、頭が痛い。
「疑っていた。疑っているというより、分からなくなった、と言っていた」
あれは、縋る様だった。緋鎖乃に対して強い疑いを持って失望したとかではなく、最愛の妹が分からなくなってしまった自分への失望。緋奈巳さんは、そういう人間だ。
「そう……それなら良かったわ。まだ、大丈夫」
「大丈夫……? なにが大丈夫なんだよ」
「さっきの質問に答えるわ。私が私の能力についての記憶を燃やさなかった理由。だって、そんな事したら、確定的じゃない。私が貴方達の持つ私の能力に対する記憶を燃やした、なんて姉様達が知ったら、これはもう言い逃れが出来ないわ。私が私の事を隠蔽している。それはつまり、私が私の意思で白裏潤矢を殺し、私が私の利益の為に鎖子達の記憶を燃やした事になってしまう。それはいけない。冷然院として、そんな事があってはいけないのよ」
ただでさえ頭が重いのに、思考が爛れそうだ。
緋鎖乃の言葉が、私の中で繋がらない。バラバラに散って、落ちていく。
ああ、気持ちが悪い。
「お前……言ってる事おかしいぞ。支離滅裂だ」
「おかしくないわ。私は冷然院だもの」
たった一つの前提を除けば、それは道理が真っ直ぐに伸びる。
「おかしいんだよ! 隠蔽しようとしているのに隠し方が雑だ! お前が全ての元凶だと疑われているのに……全てを明らかにしないのなら、 全てを隠そうと躍起になれよ! お前は全部が中途半端だ! 隠そうとしているのに、バレる事を厭わない……それじゃあ——」
それじゃあ、まるで。
「お前、死ぬんだぞ! 全てが明らかにならないのなら、冷然院はお前を殺す。道理に背いた人間は、冷然院には邪魔だ! この国を守る家にとって、逸脱したお前は邪魔だ! 示しがつかない、あってはいけない……だから、お前が白裏を殺したのには理由がある! 殺すに足る理由が! それを話せよ! だって、白裏は言動を縛る能力者じゃない! その前提は崩れた! 全部お前の妄言だ……でっちあげ。冷然院緋鎖乃の虚言が全てだ……でも、どうして!」
「虚言じゃないわ。白裏潤矢は能力者、そして、言動を縛る能力。自分が口封じした事柄を、その胸の中に抑え込む。尤も、私はその能力を受けていないけれど」
その思考が回らない。満身創痍の私では、《《これ以上は無理だ》》。
吐き気と頭痛が止まらない。シナプスが焼き切れそうだ。
ああ、辛い。
「だから……それじゃあお前が死ぬだろ!? 冷然院緋鎖乃が死んでしまう……私がお前を疑う事の出来なかった一番の理由だ! お前が私の記憶を消していたとして……あの夜の真実を隠していたとして……それは近い未来の死を意味する……白裏を殺した理由が明確にならなければ、冷然院はお前を生かしておけない! 冷然院が冷然院として存在する為には、緋鎖乃の死が必要だ! だったら話せよ! なんでお前は口を閉ざす!? あの夜の真実を語ればいい! お前がお前の意思で白裏を殺したのなら、その理由を教えてよ! 短い付き合いだけれど、お前が利己的に人を殺す奴でも、快楽殺人鬼でもない事は分ってる!」
「あら、それは分からないじゃない。もしかしたら、私は血を見るのが好きな性癖なのかもしれないわ……それに、鎖子の当ては外れているわ。私は、私の為に白裏を殺したのだもの。誰の為でもないわ。全ては私の意思」
「だから! それじゃあお前が——」
「ええ、死ぬわ」
あの日と同じ表情だった。
私と桜がこの学園に来て最初の昼休み。この場所で、緋鎖乃が口にした言葉。
「死ぬに決まっているでしょう? 兄様でも、姉様でも、叔父様でも、誰でもいいの。自分の刀でもいいわ。私は、死ぬわ。私が無下に命を奪ったのなら、私は無下に命を落とすわ」
この国を守る冷然院が、人の命を無下に奪ったのならば。
死ななければならない。
「だから……それが分からないって言ってるの!! なんで——」
「……ねえ、もういいかしら?」
緋鎖乃が、抜刀する。
月下に迸る紅蓮の光源。夜に良く映えるそれは、熱こそ感じないものの、息を飲む力強さを放つ。
焼却。
冷然院の抜刀は発火を伴い、緋鎖乃の炎は記憶を燃やす。
ああ、終わりだ。
「鎖子、また会いましょう。そして、また、私を手伝って。この夜を、二人で目指しましょう」
刀身に渦巻く炎が照らす緋鎖乃は、相変わらず冷たい表情だった。
ああ、《《間に合った》》。
私の努力は、無駄じゃなかった。
「緋鎖乃ちゃん、そこまで」
声に、緋鎖乃が振り返る。赤く長い髪の毛が月光を反射する様が美しい。振り向きに合わせて逆巻くそれは、まるで生きているみたいに艶やか。
緋鎖乃程は長くないけれど、同様に風が撫でる長い髪の毛。腰ほどまで伸びた漆黒のそれは、本来であれば夜に馴染むけれど、月光に陰りシルエットをはっきりと浮き彫りにする。
振り向く緋鎖乃の視線の先、私と緋鎖乃が昼食を摂る、貯水槽の上に、桜が立っている。
古野野江学園のジャージに身を包んだ東雲桜が、月を背負う。
右手には、馴染みの金属バット。
「……桜、どうしたの?」
「ごめんね緋鎖乃ちゃん。見ちゃった」
その一言で、十分だった。
私に背を向けているけれど、それでも、表情がどう変わったのか分かる程の空気の変貌だった。
きっと、氷の様に冷たい表情を続けた緋鎖乃が、その面持ちを崩している。
「っ……鎖子! 貴方!」
再度私に振り向いた緋鎖乃は、叱責する様な語気の癖に、今にも泣きそうな顔で怒鳴る。
「どうして……桜一人じゃ、どうしようもない筈……!」
「別に、満身創痍でも二人目は出せるよ」
「——っ!」
緋鎖乃が、気付く。
本来であれば、無駄な事なんだ。
二人目で緋鎖乃と対峙して逃れたところで、すぐに此処を捕捉された。私と緋鎖乃の実力差では、なんの意味もない事だ。
けれど、時間を稼ぐ事くらいは出来る。
「お前が此処に来るまでの間に、もう一度二人目を展開した。図書館の前で桜と合流して、一度見たパスキーを二人目で打ち込んで最後の部屋へ。最後のスイッチも、二人目と桜で開錠したよ」
出来るだけ緋鎖乃との会話を引き伸ばす様にした。ただでさえ丸一日二人目を展開し続けて満身創痍。その状態で繰り出した二人目には、殆ど意識を飛ばす事が出来なかった。
だから、最後のスイッチ、それを押した先を、私は知らない。
「最後のスイッチを押して二人目は消滅したから、緋鎖乃が隠しているなにかは桜しか知らない。だから、今此処で終わりだ。桜が、その先を見た。お前の隠し立てたなにかを暴いた」
絞り出す様に言うと、緋鎖乃は苦虫を噛み潰した様に顔を顰めて私を睨む。ゆっくりと振り返し、きっと同じ表情で桜を見た。
「桜……見たのね?」
緋鎖乃の言葉に、桜が無言で頷く。
桜の表情は、暗く、冷たい。
「頭の悪い私でも……なんとなく分かった。緋鎖乃ちゃんがなにを考えているかも」
桜が言って、夜が張り詰める。
少し冷たい風が吹く闇夜が、仄暗くなった気がする。中等学校女子部校舎屋上の酸素が、ぐっと減る。空気の密度が増して、窮屈になる。
緋鎖乃は、なにも言わないまま。それでも、背中越しに覚悟を感じる。
ふっと、刀身の炎が消える。私達を照らすものが月光だけになって数瞬、全てが陰る。
「本当にっ! 私の邪魔をしないで!! 私を! 死なせてよ!!」
初めて聞く、緋鎖乃の咆哮。夜に放たれるそれが反響するより早く、燃える。
先程の、二倍、いや、三倍。緋鎖乃の握る刀が纏う紅蓮が、燃え上がる。まるで、緋鎖乃の心情がそうであるかの様に、激しく波打って渦巻く。
「……別にいいわ。それで、構わない。だって、なにも変わらないもの」
此処だけ、夜じゃないみたいに明るい。西日よりも鋭く、私の目を赤が突き刺す。
「鎖子、全部無駄なのよ。だって、燃やしてしまうもの。あの日だってそう。鎖子が一夜にして此処に辿り着いた時も同じだったもの」
またもや、私に顔を向ける緋鎖乃。表情は、元通り。また、氷の様に冷たい目で私を見て、なにも感じていないみたいに、無表情。
「桜が居たって同じ。二人共、燃やすわ。今なにを知ったって、一つ残らず燃やしてやる」
全てを忘却の彼方へと。私達の記憶を灰塵とすべく、緋鎖乃は、猛る炎の一切を私達へと向ける。
こうして、繰り返して来たのだろう。この夜を、この私を、この場所を、ぐるぐると。
「いいや、違う」
ただ、過去二回と符合しない点が一つだけ。
緋鎖乃すらも口にした、それ。
「なにが……違うの? 同じよ。灰になって、静かな夜に散っていくわ」
「いいや、終わりだ。この夜は、終わりだよ」
ああ、私は満身創痍。もう、思考を回すのも、口を開くのも億劫だ。
けれど、私が万全でいたって、役立たずなんだ。私は、何度挑んだって、緋鎖乃には勝てない。
私と緋鎖乃の間にある壁は、努力とかで越えられる程低くなく、才能で破れる程薄くない。
明確な差がそこにはあるけれど、私は、なにもしない。
「なにが出来るの。十度私と殺し合いをすれば、十度私に殺される。自分でそう言ったのよ。そんな貴方に、なにが出来るの? ねえ、鎖子、教えて」
「私は、なにも出来ないよ」
「じゃあ——」
その言葉は、そっくりそのまま、緋鎖乃に返される。
緋鎖乃の言葉を待たず、迸る。
緋鎖乃もそれに気付いて、構えた。真正面に私を見据えていた緋鎖乃は、即座に私を意識から追い出して、敵意へと向き直した。
貯水槽の上から滑空した桜は、緋鎖乃へと金属バットを振り下ろす。大振りのそれを緋鎖乃が躱して、距離を取る。振り下ろした金属バットは、屋上の床擦れ擦れを空振りして、遠心力そのまま上空へ。それに引きずられて、桜が屋上に身を打ちつける。
「ぐへっ」
空振りの風切音が私の鼓膜に届いて直後、桜が間抜けな声を吐き出す。
「いてて……外しちゃった」
立ち上がりながら、まるで緊張感のない口調で桜が呟く。対照的に、その攻撃を避けた緋鎖乃に、冷たい空気が張り詰める。
躱した本人だから、分かる筈だ。
桜から距離を取った筈の緋鎖乃が、更に後退る。一歩、二歩、三歩。
四歩目で、頭打ち。背中が触れる。貯水槽の真下、屋上への入り口。その薄い扉が行き止まりだ。
「鎖子……どう……どういう事よ」
焦燥が手に取る様。緋鎖乃は、表面上まだ落ち着いているが、言葉の端々が縒れていて、決して桜からずらさない視線は、戦慄に染まっている。
「緋鎖乃、お前は自分を半人前と言った。それは、本当に謙遜だと思う。お前は強い。そう言って差支えない。日本最強の家に生まれ、その看板に見合う才能と実力を持っていると私は思う。けれど、致命的だ。実戦に出た事がない、というのは致命的。勿論、それは戦闘経験の多寡とか、複雑な話じゃない」
至極単純な、それだけの話。
「この世界の天井を知らないってだけだ。世界は、広い。それだけの話。私の知る限りだけれど、冷然院緋鎖乃は、日本に居る十四歳の中で二番目に強いよ」
人体変異の能力、今は闇に消えた、東雲家。
その直系、《《滅ぼされるべきと外道に堕ちた家》》に生まれた、私と桜。
《《私という失敗作》》を経て作られた東雲桜は、姉の失敗を存分に活かし、狂った両親を満足させる成果を生んだ。
「単純な話。一番目が、強過ぎたってだけだ」
私と緋鎖乃が殺し合いを十度したのならば、私は十度緋鎖乃に斬り刻まれ、灰塵と化す。
けれど、桜と緋鎖乃が十度殺し合えば、緋鎖乃は十度身元が分からない程壊される。
東雲桜とは、そういうレベルで、そういう存在だ。
桜が緋鎖乃へ踏み込む。そのまま、右バッターボックス。緋鎖乃のやや右前方に躍り出て、握り込んだ金属バットを大きくテイクバック。
標的は緋鎖乃。始動するスイングは、風切音を置き去りにする。対して、緋鎖乃は炎を纏った刀の横腹を前方に翳すけれど、それは防御よりは、焼け石に雨垂れが滴る様。
ワンストライク。空振りを喫して、二回目のスイング。
東雲桜は、標的を捉え、その金属バットを振り抜いた。




