第二話
重いドアを少しずつ開けていく。部屋の中は音も無く、暗い。
顔を少しばかり覗かせると、ドアの前で感じたカビ臭さは意外にも感じず、代わりにアルコールの匂いが少し強まった。もしや虫が大量にいるのではと思ったけれど、そんな様子もないようで安心する。
腕にぐっと力を込めてドアを押し、完全に開くと、外界の光が入り口付近を照らす。奥までは見えないものの、そこは最初思った酒蔵やワインセラーではないようだ。ただ、そこが広い空間であり、全てを飲み込んでしまうのでは、と思わせる暗闇があった。わずかばかりの光で幾つかの椅子やテーブルの影が見える程度。
地下ということもあって、窓らしきものから漏れる光も見当たらない。当然電気も通っていないだろう。
私は鞄からスマホを取り出して、本体に備え付けのライトを起動させる。全く便利な世の中になったもんだ。
生まれた時から便利なものに囲まれて育った世代のくせに、主にお母さんのせいで、特に家電に関しては便利が当たり前になっているという育て方をされなかった。ありがたいのやら、古臭いのやら。
到底年相応とは思えないことを考えつつ、ライトで辺りを照らす。所詮スマホのライト程度の光だ。とてもじゃないが部屋の奥までは照らせないし、本当に自分の周りしか明るくはならない。けど無いよりかは幾分マシだし、まずはここがなんの部屋なのか調べないと、かな……。まだなんの成果もあげていないし。
鞄を肩にかけなおして、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。コツンとサンダルの底と床とがぶつかる音が響いて暗闇に溶けた。
足元や天井、前方を照らしながら一歩、また一歩と進む。
部屋というより、これは空間だ。特に右手の方に広さを感じるが、どの程度広がっているのかは光も届かず、見えないのでわからない。ドアから真っ直ぐ歩くも、丸テーブルに丸椅子が幾つかあるぐらいだ。
更にそこから数歩、目の前にカウンターのようなものが見えた。その向こうには棚があり、色んなお酒が並んでいる。そこで私はやっと気が付いた。
「なるほど、ここがお店だったのね」
テーブルに椅子、カウンターにお酒が並ぶ棚。恐らくバーか何かのお店だったんだ。アルコールの香りの正体はこれだったというわけだ。
カウンターテーブルを左手にしながら、今度は入り口から見て右方向に進んでいく。広そうな空間があるということだけがわかるが、あたりはほぼ暗闇なので、少し足が竦んだ。左手の指の先でカウンターテーブルの端を触りながら、足元を照らし、進む。
カウンターは長めなのだろうか、憶測だけれど七、八メートルはあったように感じた。高めの椅子が並んでおり、時折ぶつかり、その度にビクッとなりつつも進む。ライトがあるといっても、怖くなくなったわけではないからね。
カウンターテーブルの終わりから先には、まだまだ空間が広がり、慎重に足を前に出す。人生でこんなにも小股で歩いた経験があっただろうか……ああ、あるある。お化け屋敷以来だ。
泥棒よろしく、そろりそろりと進み、あたりの把握をしていく。同じつくりの丸テーブルに丸椅子がちらほら現れては視界からフェードアウトしていく。お酒を扱う飲食のお店だったとわかれば、これといって物珍しいものではない……のだけれど、尚更ここを相続させてもらった理由がわからない。多田野家の人間に飲食を経営する人間はいないのだから。
この場所の資料や鍵を見つけたからといって、なぜ譲られたのかはいまだ謎のままだった。ここにきて分家だと発覚したことも謎のまま、健造氏によって隠されていたこともまた、謎である。
その中で一つわかったことは、多田野家は元を辿れば健造氏の妾の子の家系であったということだった。まあこれも真戸さんからの話なのだけれど。
健造氏はかなりの高齢であった。昔の金持ちとなると、妾の一人くらいはそこまで珍しい話でもなかったらしい。
本家の方もさして驚くほどでもなかった様子で、真戸さんによれば宇市家は昔、子作りに悩まされた時期があったとかなんとか。多田野家以外にも、分家の中には別の妾の子から受け継がれた家もあるということだ。まあ、そこは正直私の関与するところではないけれども、何かこう、スッキリはしない。
その話を聞いて衝撃を受けたのは勿論。だって健造氏は曾祖父ということになるのだ。でも私以上に驚いていたのは両親、特にお母さんである。
健造氏の妾の子は母方であるということだった。私のお母さんのお母さん、私にとっての祖母がその妾の子なのだという。つまり、お母さんにとっては自分の母が妾の子、祖母は妾だったのだから。
自分の出生に関して疑いを持つなんていうのは、反抗期の時のお決まりの疑問というか、自分とは一体何者なのだと、わけもわからずなんとなく考える時期の通過儀礼的な一つであって、じゃあそれを実行に移して調べたりする……なんてことは大抵しないだろう。私も、両親に突然「私は本当にお母さんたちの子供なの」と聞いて困らせたことがあったっけ。
でもここにきて、それがまさに訪れたわけだ。両親にとってどれほどの衝撃だったのか、私には想像がつかない。
私も驚きこそしたけれど、傍から見たら冷静に見えているのかもしれない。なぜなら私は当の祖母のことをあまり覚えていないからで、私が小さい頃に亡くなってしまっていたからだ。当然曾祖母も曾祖父も私は知らない。いや、曾祖父は健造氏だったのか……。
両親も曾祖父であった健造氏のことは今回初めて知ったと言っていた。健造氏の妾、つまり曾祖母に母さんは良くしてもらっていたと、今回のことがきっかけで最近になって母さんから聞いた。
母さんは一人っ子だったし、祖母も一人っ子だったようなので、嫁いで嫁いでときてるのだから、多田野家は本当に急に現れた遠い遠い親戚なのだ。
そんなこともあって私自身は、あまり祖母や健造氏との関係を実感できずにいるのだ。
私も両親に連れられて、昔の夏休みとかに祖母の実家に行ったことはあるらしいのだけれど、微かに記憶にあるのは、恐らく祖母であろう人物の腕の中で子守唄のように歌ってくれた歌だけだ。それもどんなタイトルだったかも覚えてないし、歌といってもワンフレーズだけ、こんなんだったかな、程度のうろ覚えのものだ。
謎が多いままここに来たわけだけれど、今のところはお酒を扱うお店だったということの他には進展がない。
とりあえず家の問題に関しては私が直接何かするわけではないだろうし、両親と真戸さんとでそのうちわかってくるはずだ。
私自身はというと、この夏休みを使って雑用に奮闘することになりそうだ、ということだけがはっきりしているだけに、今のこの状況もそこからくるものだと思うと悲しくなってくる。
「もう帰ろっかなあ」
日も暮れかけていたし、遅くなってしまう前に帰ってしまおう、と思ったところ足元に段差があった。スマホで照らしてよくよく見れば、それは数段の低い階段だった。
目の前を照らしてみると、真っ黒な物体。
「ひぇ!」
変な声が出た。って、なんだ、これって。
「ピアノ……」
目の前に現れた巨大な黒い物体は、グランドピアノだった。
私は低い階段を上り、ピアノの元に近づいてみる。ははあ、なるほど、ここ、ステージだ。
付近を照らしてみると、横に広がる板張りの空間。そこは確かにステージと言えるものだった。つまりここは、生演奏を披露していたりもできるジャズバーのようなところだったのだ。
私はピアノに触れてみる。別に弾くつもりはなかった。ただ、なんとなく、本当になんとなく鍵盤蓋を上げた。
ピアノに触るの、久々だな。
中学までピアノを続けていたけれど、すっかり弾かなくなってしまった。最後に弾いたの、もう去年か。
自分で言うのもなんだけど、結構自信があったし、練習も頑張っていた。絶対音感とは言えないけれど、大体音を聞けばどの音かぐらいはわかるし、一応、相対音感だったりする。もっと学校にちゃんとした環境さえあれば、続けていたかもしれない。
何をきっかけにだったか、すっかり弾かなくなってしまったけれど、嫌いになったわけじゃなくて、ただ周りとの熱に差を感じて……。
思って私は、少し切ない気持ちになった。一時は生活の半分であったのだから。
一番右に位置するピアノの中での最高音の鍵盤に指をそっと乗せる。
「まあ、調律なんてされてないだろうし、音が出るかどうかも……ん?」
違和感。
なんだろう、凄くおかしい気がする。
指を鍵盤から離す。
そしてピアノを照らし良く見る。
静かに一人、長い年月、誰にも触れられることもなくステージにいたグランドピアノ。その姿は美しく、光を柔らかく反射させて、何か怪しげな魅力すら醸し出している。
そう、おかしいのだ。綺麗すぎる。
予想に反して、少なくとも見える箇所に関しては埃が積もることもなく、綺麗に保たれていたのだ。
長年放置されてきたとは到底思えない。健造氏が掃除していた……とも思えない。
健造氏がどんな人物だったのか私は良く知らない。これは全くもって私の偏見以外の何ものでもないけれど、お金持ちへの勝手なイメージで健造氏も日常の家事、炊事等はお手伝いさんにやらせていたのではと思っているからだ。真戸さんという完璧超人執事の存在が、尚そう思わせた。
そうとなると、真戸さんがここの手入れをしていたのか……いや、それはないと思う。ここの鍵は本家と私と真戸さんの総出で探して、やっと出てきたものであったし、まずこの場所の存在を知ったのも、あの遺言書あってのことだったのだから。
「だとすれば一体……。ん? あれ?」
口にして、急に寒気を感じる。どうして私は入った瞬間に気が付かなかったのだろうか。なぜ、ここは、こんなにも綺麗なのか。
ドアを開けてからここまで、汚れただろうか。いや、汚れていない。
自分の掌、指を見てみる。私、確かにカウンターに触って……。
幽霊的なホラーか何かでなく、見知らぬ誰かがここに出入りしているというリアルなホラーになるのでは。
私は自分でも驚くほど素早い動きで、ステージから降りる。
怖い怖い怖い!
テーブルや椅子にぶつかろうとなんだろうと関係ない。なんとなくの方向で入り口に走って向かう。
出たらまず警察? 誰かが空き家に住み着いてるって? いや、まず両親に、違う、真戸さんに連絡してそれからそれから!
回らない頭で数メートルを駆け抜ける。外はもう目の前だ。スマホを強く握りしめて、先だけを照らす。
やっとの思いで出口につく。なぜかドアが閉まっている! 手探りでドアの取っ手に手をかけ、そして。
パッ
瞬間目の前が明滅する。何も見えない。
「誰かいるのか」
「きゃあああああああああああああ!」
何か聞こえた何か聞こえた何か聞こえたあ!
完全に涙目である。いや、多分泣いてる。自分で制御できていない。
次第に視界が戻り、そこが明るくなっていると気付くまでに数秒かかった。更に私は完全にうずくまっていた。震えが止まらず、コツコツと音を立てて何かが近づいてくる、逃げないと、逃げないと……。
「……怖がらなくていい、お嬢さん」
ひいいいいいいい!
何者かの低い声が耳を襲う。渋めでおじ様ボイスでハスキーで優しさ充分んんんんんん!
最早自分で何を考えてるのかわからなかった。恐怖で体も心も思考も支配されてしまっていて、何もできない。その声の主も見ることができない。
「怖がらせてしまったかな、すまない。顔をあげてくれないかな、何もしないから。ほら、私は、じゃあ離れよう」
またコツコツと音を鳴らして、声が少しづつ離れていく。これは……隙をみて逃げよう、そうしよう。一刻も早くここから脱出することだけに思考を持っていく。
「うーん、こりゃまた……」
声の主は苦笑交じりに呟く。どうする、逃げるのは今か、今なのか。そう思い、少し頭を上げて目だけを腕の隙間から覗かせる。
しかし、うずくまっていたのもあったのか、それでは声の主と思われる人物の足元しか見えなかった。ベージュのパンツに革靴が見えた。
距離は、十分ある気もする。まず出て、近くの家の人に助けを求めよう。そうしよう。
なんとか意思を固めて、軽く足に力を入れて動くかどうかを確かめる。よし、動ける。
「おーい、みんな来てくれ、久々のお仲間さんのようだ」
他にもいるのおおお!? 万事休す、これは、逃げられない……。
もう半分諦めていた。私どうなっちゃうんだろ、監禁されるのかな。なんかヤラシイこととかされちゃうのかな。そう思うと自然と涙が溢れてきた。
なんだなんだ、どうしたどうした。ぞろぞろと音が聞こえてきて奥から人がやってくるのがわかった。何人そのお仲間とやらがいるのだろう。
「あらあら、女の子じゃない」
「ちょっとちょっと、烏羽さん、怖がらせちゃったーん?」
「いや、そういうつもりじゃないんだが」
「レディには優しくしないとダメだよ、ミスター烏羽」
「烏羽さんはパッと見、怖いからなあ」
「ううむ」
複数の男性の声に女性の声、笑い声。いやいや、なんだこの空気は。足元だけが見える視界には五、六人の足が映った。
タタタタ
軽快な音を鳴らして何者かが近づいてくる。そしてぽんと肩を叩かれる。
「……!」
あまりの唐突さにびっくりして頭を上げてしまう。そこには、満面笑顔の女の子の顔があった。
「大丈夫だよ、あたしたちは仲間なんだから。私は猫尾。よろしく!」
金のメッシュを入れた派手な髪の女の子が言う。えっと、何を言ってるのか理解できない。
「ちょっと猫ちゃん、突然すぎるわよ。まだ状況がわかってないんだから、落ち着かせてあげなくちゃ」
今度は別の女性が猫尾と名乗った女の子に言いながらやって来た。ブロンドだ! 外人だ! とんでもない美人だ!
もうどこから考えたらいいのか、考えることを止めてしまおうと思うぐらいに情報過多すぎる。
「驚いたでしょう、突然こんなところに来て。私はヴァレー。何も怖がることはないわ。まずは、ほら、こちらに座って」
ヴァレーと名乗ったブロンド美人は、腰ほどまで伸びた綺麗な金髪を揺らしながら、私に手を回して立たせてくれる。そして促されるまま、丸椅子に座る。
私が座ると、向かいに外人(?)たちが立つ。男性に女性、一見、国籍も年齢もばらばらの人たちが七人。
「ほら、ボルトーレ、お茶くらい……」
「言われずとも」
ブロンド美人が言うと、その脇から鼻の高い無精ひげの外人男性が良い香りのするティーカップを差し出してくれる。ついでにウィンクも一緒に。
私は、とりあえずそれを受け取る。でも口は付けない。何があるか分かったもんじゃない。
「まあ飲んで。怪しいモノじゃないわよ、こんな見た目でもこの人が淹れる紅茶と珈琲は美味しいのよ、保証するわ」
光をキラキラと反射させる金髪を軽く払って、それ以上にキラキラしている笑顔でブロンド美人は語りかけてくる。
鼻高ひげ外人の男性は、肩をすくませて、いかにも外人のリアクションをしてから、私にどうぞと飲むように勧める。
私はしぶしぶ、恐る恐る紅茶を口にする。ふわっと花のような香りが鼻孔を抜けて、混乱していた頭を覚めさせてくれるようだった。一口含むと、柔らかな温かさが喉と胃を満たしてくれる。あ、美味しい。
その様子を皆様方が見ている。どうして人は何かをしているところを見られていると、こうそわそわしてしまうのだろう。は、恥ずかしい。
「どう? 落ち着いたかい」
「……はい」
渋い声のおじ様が声をかけてくれて、返事をする。改めて見れば声のイメージに違わぬ渋いおじ様っぷりだ。
紅茶のおかげもあったのか、気持ちは落ち着きつつあった。恐怖心に関してはほとんどなくなっていた。この人たちも、どうやら今すぐ私を拘束してどうこうするつもりなどはなさそうだし、嘘をついて優しくしているとも、なんとなく思えない。
「さっきは驚かせてすまなかったね。私は烏羽という者だ。我々にとっても久々の客人だったから、ついね」
「いえ、こちらこそ、大声を出して……すみません」
いいよ、とおじ様は笑顔で返してくる。そしてすっと真面目な顔をすると話し始めた。
「そうだな、どこから話そうか。そうだね、簡単に言うと、我々はここに住んでいる者なんだ」
やっぱり! 勝手に住み着いてるんだ! 前言撤回、即警察に!
そう思ったのが顔に出たのか、おじ様が苦笑しながらそれに答える。
「ああ、いや、確かに不法侵入だと言われればその通りなんだが、我々も君と同じく跳ばされてきた人間なんだよ」
「……え?」
私はスマホの液晶をタップする指を止めて顔をあげた。ちなみに地下だからか電波は来ていなかったわけだけれど。
周りの人たちも烏羽さんの言葉にうんうんと頷いているけれど、跳ばされてきたって、なんですかそれ。なんか皆様方、あの時は大変だったよなぁとか、びっくりしちゃってとか、なんか勝手に思い出話してますけど、意味が分かりませんよ。
「ええっと、ちょっと、いいですか? 跳ばされたって、よくわからないんですけど……」
一斉にこちらを向いてくる。え? 変なこと言った?
「君も、持ち主なのだろう?」
「なんのですか?」
「楽器の」
うん? 話が噛み合ってないんだよね、これ。ちんぷんかんぷんだ。
「私は、えっと、この」
私は鞄からここの鍵を取り出して見せ、入口を指差しながら言った。
「この鍵を使ってそこから入ってきたんですけど……楽器?」
みんなが同じようにポカンと口を開けたまま、こちらを見ている。
「そ、そこのドアから?」
鼻高ひげ外人が聞く。
「え、はい」
何を言ってるんだ、ドア以外の出入り口はないのに。
「外から、入ってきたの?」
ブロンド美人が続く。
「ええ」
そりゃそうよ。
「鍵を使って?」
更に派手髪女の子が。
「はい」
私には何を不思議がっているかわからないけれども、聞かれるままに答えた。嘘は言ってない、というより当たり前のことを聞いてくるので当たり前のことを答えただけだ。
それを聞くと、七人はそれぞれ顔を見合わせ、一斉に
「「「「「「「えぇーーーーーーーーーーーーーーっ!」」」」」」」
叫んだ。
不思議と和音になっていたのは偶然でしょうか。本当にここが地下で良かったです。
お母さん、お父さん、そして健造氏。私にはもう何が何やらわかりません。そして一刻も早くこれ以上面倒なことに巻き込まれる前に帰りたいです。