過去 4
大国にすがるしか生き残る道の無いような小さな国の城だった。
それでも壮麗な城内を歩いていた時のこと、数羽の小鳥が遊び、羽を休める中庭に面した廻廊の向こうを歩く集団の中心に居る一人に目が留まった。
「王太子殿下、本日は良い日和ですなあ」
「ああ、良い視察になりそうだ」
「まだ病み上がりですのに、公務に熱心でいらっしゃいますな、次期王として本当に素晴らしい」
「隣国からは第二王女の輿入れも決まりまして、本当にめでたいですなあ」
近衛騎士の制服に身を包んだ人間に囲まれ、一人だけ優美な儀礼服に身を包んだ殿下、と呼ばれた青年は、見つめられていることの気づいたのかふと顔を上げるとリグリラと視線を合わせ、柔和な笑みを浮かべた。
リグリラは慌てることもなく、優雅にドレスを引いて会釈を返した。
艶めくような金髪は美しく撫でつけられ、思慮深い気質がその稀なる紺青の瞳に現れていたが、どこか儚さと不均衡な危うさを感じさせた。
となりを歩いていた白髪の混じる栗毛を撫でつけた壮年の男はそこでようやく気付き、直角的に礼を返す。
男が勢い込んで話しかけようとするころにはすでに金髪の青年の視線は外れ、大勢を伴い廻廊から姿を消した。
「まさかこのようなところで殿下をお見かけするとは。やはり、王の血筋、見事な黄金色の御髪と紺青色の瞳であったな。―――グレイシア、どうかしたのかね」
「いいえ、お父様なんでもありませんわ」
集団の、正確には金髪の王太子の消えていったほうを見つめていたリグリラだったが、結い上げた栗色の髪から落ちたおくれ毛を直し、不思議そうにする契約者に従った。
その夜、王宮に用意された一室に宿泊することになったリグリラは、幻術を身にまとい早々に城を抜け出した。
そうして、城を中心とした敷地を囲うようにある森の奥に埋もれるようにたつ塔にたどり着く。
城のはずれの森に兵士一人立たない蔦の絡みついた古色然とした塔があることを、宮中にしか興味のないこの国の貴族も、城に住まう者も知らないだろう。
その通り打ち捨てられているようにも見えるが、今も開閉があることを示すように扉の前の石畳には土が積もらず、扉には物理的な錠の他に魔術による施錠が加えられていた。
それは人族にとっては難攻不落の魔術式だった。
更にいえば開錠とともにどこかに警告が飛ぶように組み込まれていたが、リグリラはあっさりとその術式を無力化して塔の内部に入る。
上へと昇る階段を一段一段登っていくと、人が住み暮らすために必要な様々な部屋があったが、構わずのぼり、最上階近くの木扉を開けた。
いつもの様に物がびっしりと積まれた小汚い部屋のいつもの机で、傍らに置いたランプを頼りに小鳥のからくりを弄っていたハイドは、珍しく扉から現れたリグリラを見て少し驚いたように目を見開いたが、次の瞬間得心したようにうなずいた。
「その栗毛は……ということはあんた今話題のゴート子爵のグレイシア嬢か。なるほど、通りで見たことあるはずだな」
リグリラはその問いに答えず、今まで胸中を渦巻いていた言葉をぶつけた。
「王宮で、殿下と呼ばれている金髪に碧眼のあなたと同じ顔を見かけましたわ」
「知っている。今”観た”ところだ。本当に悪魔ってのはなんでもありなんだな」
その言葉で、リグリラはハイドの手の中にある小鳥のからくりが中庭で遊んでいたものと同一だと気が付いた。
何らかの魔術式を施して、耳目の役割をさせていたのだろう。
その精巧さに目を見張る気も起きず、リグリラは適当にいつものソファを引き寄せて座った。
「あなた、この国の王子でしたのね」
「言葉の頭に『居るはずの無い』『隠された』が付くけどな」
からくりを弄る手を止めたハイドはいったん隣の部屋に姿を消すと、少しの時間をおいて湯気の立つカップを盆にのせて戻り、一つをリグリラに手渡して自分の椅子に座り直した。
「この国は、国力が大違いの二つの国に挟まれて戦争にでもなれば万が一でも勝てない、歴史の長さと由緒正しさだけが売りのちっぽけな国だ。だからだろうな、余計に王家の血筋ってやつにこだわる。王族のみに現れる黄金に輝く髪に青空のような瞳が、この国で奉じられる太陽神に愛された一族としての矜持を支えてきた。――――そんな中、灰髪に灰の瞳の俺が生まれた」
ハイドは普段は浮かべないような冷めた笑みを見せた。
「俺とエドモンド、今の王太子とは双子だったんだが、生まれた時は大騒ぎだったらしいよ。
王太子としてはエドモンドがいるんだから生まれてすぐ殺すべきだという意見もあったらしいが、ひそかに俺はこの塔で育てられた。それが王家のしきたりに残されてたっていうんだから、昔っから俺と同じような奴が何人かいたんだろうな。
まあともかく緘口令が敷かれたせいで、俺のことを知るのは国王と、王太子、ごく少数の使用人だけだ。兄弟仲はこれでも悪くないんだ。ガキの頃は使用人に隠れて転げまわったし、今でも時々会いに来てくれるしな。
まあ、この塔にいる限り本も道具も材料も向こうから勝手に届くし、研究も自由だから不便はない。こいつを作ってからは城下のことまでよく見えるしな」
とつとつと語るハイドはカップを机に置くと、小鳥のからくりを指先で転がした。
「それでなんてことはない人間を一人飼い殺しですの? そんなあほらしい国、捨ててしまえばよろしいのですわ」
国というものが、都合の悪いものを隠そうとすることはわからなくはない。
だがハイドがその立場に納得して進んで飼い殺されていることが、自由気ままが身上の魔族であるリグリラには理解できなかった。
理解に苦しむリグリラが言い放った言葉に、ハイドは苦笑で答えた。
「好きな女と添い遂げて、養うために働きに出るって生き方にあこがれないわけじゃない。
だが、俺がまともだったら分かち合っていたはずのものを弟が全部背負っているんだ。大事な弟が戦っているのに、兄貴の俺がはいそうですかって逃げるわけにはいかないさ。
そのためなら髪と瞳の色が違うってだけの馬鹿馬鹿しい理由だろうと、一生飼い殺しでも構わない。それでこの国がうまく回るっていうんなら、いくらでも俺は影でいるさ」
何でもないことのようにさらりと口にできるようになるまで、表面上だけでもそのように覚悟に至るまで、どれほど悩み、苦しみ、涙をのみ、慟哭したか、この十年一切気づかなかったことにリグリラは歯噛みした。
これだけの付け入る隙があったというのにのうのうと見過ごし契約に持ち込めなかったのは自分の怠慢だった。
でなければこの悔しさは一体何なのだ。
そうだ、少々お膳立てが過ぎるだろうが、召喚が成立した理由の一端が垣間見えた今は、契約の絶好の機会のはずだ。
言葉巧みに誘導すれば、十中八九その極上の魂に手が届く。
あの最高の魔力をすべて自分の物に。
なのに、口から紡がれたのは契約とは全く無関係な言葉だった。
「別に、人族の国の事情なんて魔族のわたくしには意味はありませんの。
あなたの頭や瞳が、赤かろうが、黒かろうが、白かろうが魔力の味には関係ありませんし。
―――それよりも紅茶を出しておきながら茶菓子がないのはいただけませんわ。何か用意なさい」
「小さいとはいえ一国の重大機密は茶菓子に負けるのかよ……。わかったよ、ちょっと待ってろ」
どっと脱力したハイドが隣の部屋から持ってきた焼き菓子をつまみながらの雑談中も、この青年が望みも契約のことも持ち出さなかったことに、リグリラはなぜか無性にほっとした。