【番外編】 魔族様、発音練習するの巻
本日は娘姿のラーワが、ネクターと仙次郎と共に書き物を乗せたテーブルを囲む様に座って話し込んでいると、注意を引き付けるように軽く扉を叩く音がした。
三人が顔を上げると、開けられた扉の脇にリグリラがこめかみに青筋を浮かべて立っていた。
「わたくしの家を勝手に溜まり場にしないでくださるかしら?」
と、言いつつ、リグリラの後ろからやってきた少女使い魔イルの持つ盆には、大きめのティーポットと人数分のティーカップが用意されている。
「ごめんね、めぼしい場所が無くてさ。リグリラ、お仕事お疲れ様。お邪魔してるよー!」
本気で怒っているわけではないとわかっているラーワが軽く謝ると、リグリラは仕方ないとため息をついてテーブルを覗き込んできた。
「何をしていらっしゃいましたの?」
「今ね、仙さんとネクターに東の列島諸国……正確には東和国語を教えてもらってたところなんだ。こっちの言葉とはしくみがだいぶ違うから、面白いよ」
「ふうん」
ラーワの隣の椅子に座ったリグリラは、テーブルに広げられていた紙を一枚とった。
西大陸語で「五十音表」と題され、その下に規則正しく東和で使われる文字が並ぶそれを気の無い風に眺めるリグリラに、ラーワは言った。
「東和には他にも「漢字」っていう表意文字が何千とあるんだって。それぞれの事象とか物の絵から形作られたり、意味を表すために関連する事柄を組みあわせて作られたりしているから、魔術にそのまま使いやすいんだ」
「それがしの槍に刻まれているのは、まさに呪を施した漢字でござる。それがしの故郷では「刻印術」と申した」
「ぜひそれを学びたいものですが、そのためには東和国特有の発音を正確に、更には個々の漢字の意味を正確に理解しなければならないとのことで……学びがいがあります」
「あーまあ、それはいいけど、仙さんを困らせないでね」
薄青の瞳を爛々と煌めかせつつ拳を握るネクターに苦笑したラーワは、リグリラが「五十音表」を置き、別の紙を取り上げたのを見て言った。
「あ、それは発音がわかりやすい様に西大陸語でルビを振った対照表だね。一番右に書いてあるのが、仙さんの名前」
何気なしに見ていたリグリラは、そのラーワの説明にぴくりと眉を動かした。
その反応を見たラーワは、リグリラのそばによって指さした。
「上が、東和国の「ひらがな」っていう表音文字で、発音を西大陸語の文字で再現してるんだ」
「あら、『センジロー』では違いまして?」
顔を上げたリグリラが眉をひそめながら言うと、視線を受けた仙次郎は返答に迷った様子で苦笑する。
「なんというか。名を呼ばれている、とはわかるのだが、少々違和感はごさるな。正確には『仙次郎』にござる」
「センジィロ―?」
「仙次郎」
「……ふうん?」
自分でも微妙に違う、というのはわかるのか、むっつりとしかめっ面になったリグリラに、ラーワは明るく言った。
「まあ、仙さんの国の言葉は海へだてているだけあって、全然言葉のしくみが違うからねえ。こっちにない発音もあるし、無理もないんじゃないかい?」
「ああ、でもラーワの発音はずいぶんきれいに思えますね」
「え、そうだった?」
ふと思い出したように言ったネクターにラーワはちょっと驚いたように金の目を見張った。
仙次郎もうなずいて同意を示す。
「うむ、それがしに学術的なことはわからぬが、その点、ノク……ラーワ殿は、初めからそれがしが聞いても全く違和感のない発音にござる。それがしもこちらの言葉の発音には苦労した。秘訣などあったのでござろうか」
「うーんと。それはまあ、私は耳が良いから」
前世で使っていた言語と似ていたから、とはいいがたいラーワは曖昧に言葉を濁しつつ、いまだに発音表を見ているリグリラを振り返った。
「まあ、こんな感じでやってるけど、リグリラ、一緒にやらない? 魔術の幅もひろがるんじゃないかな」
ラーワの誘いに、リグリラは肩をすくめることで答えた。
「……興味ありませんわ。しょうがないですから部屋は使っても構いませんけど。わたくし、まだ少し仕事が残っておりますから失礼いたしますわ」
「そう、でござるか」
若干残念そうな仙次郎にも構わず、リグリラはさっと立ち上がった。
そうしてイルを連れてダイニングから出ていったのに狼耳をしょげさせる仙次郎の傍らで、ラーワが形容しがたい気分でネクターを見ると、丁度視線が合った。
その表情で同じことを考えているらしいと察したラーワは、耳の良い仙次郎にはばかって思念話をつなぐ。
《えと、ネクター。私の見間違いじゃなければ、持っていったね》
《ええ、持っていかれました》
《……可愛いから、仙さんには黙っとこうか》
《そうですね。怒るリリィさんは、できれば遠慮したいです》
被害を受けた経験のあるネクターが思わず身を震わせると、それに気づいた仙次郎が不思議そうに言った。
「ネクター殿。どうかなさったのか」
「いえ、何でもありませんよ。仙次郎さん、続きをお願いできますか」
「うん、私、『漢字』ってのやってみたい」
「……では、画数の少ないものから披露するでござる」
二人に言われた仙次郎は、背もたれの間から垂らした灰色の尻尾をふさりと揺らしながら、講習を再開したのだった。
**********
ラーワたちに言った言葉とは裏腹に、仕事部屋ではなく自室に戻ったリグリラは、ドレスのスカートに隠すように持っていた発音表を広げた。
東和国語と西大陸語の発音表記が書かれたその紙を、リグリラはじっくりと読んでいく。
実際、指摘されるまでもなく、リグリラは自分の発音が仙次郎から教えられたものと違うことくらい気づいていた。
紙には右端から縦書きで、東和国語と思われる丸みを帯びた文字の右隣りに西大陸の文字を使って音を当てはめてある。
更にイントネーションの指示だと思われるやじるしまで書き込まれているそれを、じっくりと眺めたリグリラは、わずかに息を吸った。
「セェンジロー?」
違う気がした。
「センジィロー」
これも違う。
「センジーロウ」
少しは 合っている、か?
「……難しいですわ。たかが発音の癖に」
一人がけのソファにとさっと身を預けたリグリラは、むっつりと唇を尖らせた。
魔術を自在に操るために長く複雑な詠唱をこなすこのリグリィリグラが、たかが島国の言語、しかもたったひとつの単語も正確に話せないなど、あってはならなかった。
それに、正確に発音しなければ、仙次郎と交わした約定を果たしたとは言えないではないか。
そう自分に言い聞かせ、リグリラが再度対照表とにらめっこしていると、丸みを帯びた文字の左隣に書かれているものに惹かれた。
幾何学な絵のようであったが、漂う気配でそれが文字だと理解したリグリラは、彼らの交わしていた会話の中の「漢字」であると悟った。
隣に書いてあるのだから、それは仙次郎を表す漢字なのだろう。
紙の上の角ばったそれを、魔力を帯びさせた指でそっとなぞれば、その文字が内包する意味がわずかに感じられた。
「次郎」というのは家の次男に名付けられるもの。
「仙」というのは真理の探究を目的とした修験者のことか。
「センジロウ」
少し、近づいた気がする。
「せんじろう」
あともう少し
「仙次ろ―――……」
「何でござろうか」
思わずびくりと肩を大きくすくめたリグリラは、即座に背後を振り返った。
そこには半開きになった扉を開けた仙次郎が立っていた。
顔には困惑とわずかな喜色を漂わせ、灰髪から覗く灰色の狼耳をぴんと立たせている。
「な、な、な」
なぜ、の一言が出てこなかったが、仙次郎は察して答えた。
「あいすまぬ。ラーワ殿とネクター殿が帰られたので、報告をと思ってまいったのだが」
「と、とび、扉は」
「その、わずかに開いてござった」
リグリラの私室は、扉を閉めると許可がない限り外からは開けられず、完全防音になる術式が施されている。
仙次郎が開けられている時点で、リグリラが閉め忘れたということを何とか理解したが、そこで、己が何をしていたかと言えば――――……
絶句するリグリラに、仙次郎は少々頬を赤らんだ頬を掻く。
灰色の尻尾は、ゆらゆらと喜びを表すように左右に揺れていた。
「それがしの名前を正確に呼べるよう、練習しておられたのか。その、興味がない、と言われていたゆえ、嬉しいでござる。つい声をかけずに聞き入ってしまっておった」
最後の一言で、リグリラの理性は限界に達した。
「……聞いて、いましたのね」
「うむ、それがし耳は良いのでな。正確さも良いが、好いた女子であれば舌ったらずに呼ばれるのもなかなかだと――――……リグリラ、殿?」
不自然な風の流れをほおに感じた仙次郎が顔を上げると、顔はもとより首すじまで薔薇色に染まったリグリラが、涙目で両手に攻撃魔術を構えている姿があった。
「り、ぐ――――……!?」
「〜〜〜ッッっ……――――!!!」
もはや声にもならない悲鳴を上げながらリグリラが放った怒濤の魔術に、仙次郎はなすすべもなく飲み込まれたのだった。
**********
「あ、丁度良かった。ごめん使い魔ちゃん、忘れ物しちゃったんだけどー……って」
「こ、黒熔様!」
再びリグリラの家を訪ねたラーワは、玄関前で立ち尽くしていた真っ青な顔の少年使い魔、エーオに出迎えられて目を見張った。
その尋常でない様子に感覚を研ぎ澄ませば、家に張られている結界越しに、魔力が乱舞しているさまが感じ取れて、それで大体の事情を察したラーワは、思わず苦笑した。
「あー仙さん、やっちゃったのか―」
「ど、どうしよう、あ、主が兄貴を殺しちまうかも!?」
「エーオ、落ち着いて。この程度で果てるのなら、あんな奴主にふさわしくない」
「イル!? そう言ったってこのままじゃ家も壊れちゃうぜ!?」
玄関扉を開けて顔を見せたイルと、若干恐慌状態のエーオまで一触即発の雰囲気に、ラーワは割って入った。
「二人とも、落ち着いて。結界は私が重ねがけしとくから。君たちはいつもの通り、貴重品だけ持ち出しとくこと。念のためにネクターも呼んでおくよ。それでいいかい」
てきぱきと指示を出すラーワに、エーオは必死に、イルは渋々と言った風でうなずくと、それぞれの作業に取り掛かる。
その翌日、リリィ婦人服店は臨時休業となり、その後はしばらく包帯を巻いた仙次郎が見かけられたのだったが。
その包帯が取れるころになると。
「仙次郎! 次は向こうの問屋ですわよ」
「……リグリラ殿」
「そのにやけた顔は何ですの。仙次郎」
「いや、やはり何度呼ばれてもうれしいものでござるな、と」
「っ! と、とっとと参りますわよ!」
頬を赤く染めたリグリラにふいと顔を背けられつつも、さり気なく腕を絡められた仙次郎は、笑みを深めて歩き出したのだった。