過去 7
リグリラは、ハイドの望み通り”隠された王子”に関する記憶をすべて消し去り、黄金色の髪と青い瞳の”青年王”の劇的な復活譚を演出してやった。
その後は宣言通りハイドの前に姿を現さなかったが、ずっとその小さな国を中心とする狂乱を見つめた。
そうして、リグリラは知った。
隣国イグアルが姫をとつがせたのは同盟のためなどではなく、子が生まれればすぐさま王を殺し、イグアル王家の血を引く子を王に据え、摂政としてトーレスを乗っ取るためだということを。
同じような策略を考え、年頃の姫が居ずに断念していたタシオスは、イグアルに先を越されたことに腹を立て、正妃に据えられたイグアルの姫に暗殺者を差し向けたことを。
そして全くの政略結婚だったにもかかわらず、トーレスの王エドモンドがイグアルの姫を愛し、王としての地位も国を守る立場であることも忘れ、一人の男として、イグアルの姫を暗殺の凶刃から守り命を落としたことを。
灰髪の青年が割に合わない願いを口にしたのは、すでにイグアルの姫の腹にいた子を守るためだったらしいことも。
リグリラは知ったが、わからなかった。
なぜ、彼が顔も合わせたことのない姫を庇おうとするのか。
なぜ、自分と血がつながらぬ子を慈しむのか。
どうして、これほどのいらだちを覚えているのか。
答えを知りたくて、姿を消し、あるいは使い魔を使い、ずっと彼の行動を追っていた。
幻術は得意だ、見破れるわけない。
「こいつはエドの子供だから、俺のとも血はつながっているんだぜ。何よりこんなに可愛いじゃねえか」
「その猿顔のどこが……と、いうかどうしてあなたはわたくしの気配を悟っていますの」
見破れるわけない、のだが。
完全に気配を断っているはずなのに、男はそばに誰もいない時には必ずと言っていいほど気安く声をかけてきた。
今日もつい応じてしまったリグリラだったが、決して姿は現さなかった。
自分の期待を裏切った男への、せめてもの意趣返しのつもりだった。
「まあいいじゃねえか、それよりもほら、あんたも手を出してみるといい」
「わたくしがその猿に興味があると思いまして?」
人払いをして子供部屋で”我が子”をあやす男は、しばらくたってもリグリラが赤子に手を出さないことに残念そうにしながらもベビーベッドに戻した。
「赤子を可愛いと無条件に愛おしいと思うのは心にそう刷り込まれているんだって話だ。ごく当たり前のことらしいから、気が向いたらあやしてやってくれよ」
言い残して男が退出したのを確認してから、ひっそりと部屋に姿を現したリグリラは、そっとベビーベッドに近づいた。
赤ん坊がかわいいのはそういう風に作られているから?
愛おしいと思って当たりまえ?
それは人間の理屈のはずだ。魔族には関係ない。
そう思いつつ、金の髪と青の瞳の赤子から視線が外せない。
何が楽しいのかきゃっきゃと声を上げながら手足をばたつかせる赤子の、ふくふくとしたほほに恐る恐る指を伸ばし、つついてみる。
そのあまりの頼りなさに驚き、引っ込めようとすると、そのおもちゃのような小さい手に握りこまれてしまった。
赤子はさらにご機嫌に満面の笑みを浮かべる。
「……わたくしに許可なく触るなんて生意気ですわ」
怒ってみせたが、指を抜こうとは思えなかった。
子が無事に生まれると、今度は男の周囲に暗殺の手が回ってきた。
もちろん首謀者はイグアルだった。
軍事には興味をみせない王であると侮りつつも、複数の暗殺者が城中に入り込み男の命を狙った、
のだが。
特徴のない服装をした暗殺者の最後の一人にとどめを刺した男は、愛用の長剣に血ぶりをくれつつ、場違いに首をかしげた。
「おかしいな。暗殺者ってのはこんなに弱いものなのか」
「わたくしが鍛えましたのよ。そこらの人族に後れを取るなどありえませんわ」
「そうか、強さの基準があんただったからな。きっとこれだけじゃ終わらねえだろうし、鍛練代わりにするか」
己の命が狙われていると自覚しているのかわからないほど長閑な言葉に、心配した自分が馬鹿らしくなったリグリラは、ずるずるそばにいたがる己を叱咤して離れた。
10年という長くはない治世だった。
だが、それなりにうまくいったと言っていいのかもしれない。
タシオス、イグアル両国からの圧力を言葉のみで巧みにかわし、男自らが開発したからくり小鳥による情報収集で自国の貴族の思惑を把握し、リグリラに教え込まれた剣術で襲い掛かる暗殺者を一人で退けた。
男はさらに、自身の研究していた魔装衣の技術を国の産業にしようと研究室を設けたりもしたが、それは軍事利用のために秘術とされた。
大きな波を未然に防いだそれは大きく評価されることはないだろうが、双子とはいえ別人に成りすまし、真に信頼できる味方が居ない中、大陸中で戦乱の荒れ狂う時代に表面上でも10年、平和を維持したことは大きな成功なのだろう。
だが、やはり、初めの掛け違えのしわ寄せは遠くないうちに来るものだと、何百と人の不相応な願いの末を見てきたリグリラは知っていた。
その部屋は王の寝室であり、彼の片割れが人知れず息を引き取ったベッドに、今は彼が横たわっていた。
ほんの少しだけ皺ができ、だが金の髪も青の瞳も変わらず時代を生き急いだ男は、姿を隠匿しているはずなのにそこに見えているかのように虚空に言葉を投げかける。
「エルバートが生まれても暗殺の手がいかなかったのは、あんたがタシオス王にエルバートに孫姫を娶せるべきだと吹き込んでくれたからだろう? 正直助かった。ありがとうな」
男の想定通りベッドのそばに置かれた椅子の一つに腰かけていたリグリラは、胸の内で返答した。
横やりを入れられては困るから退場願っただけである。
それのおかげで新たな契約も結べたから感謝されることでもない。
「それにしても、物理的な暗殺は良い鍛練になったが、こればかりは防げなかったな」
少しも無念そうに思えない口調に、リグリラはいらだった。
防げなかったのではない。防がなかったのだろう。
何せ、毒が交ぜられていたのは、決まって王妃とのお茶会に出された飲食物だったのだから。
その心の声が聞こえたはずはないだろうに、男は苦笑いを浮かべながら、かつてと同じようにぞんざいな言葉遣いでいった。
「エドの嫁さんは、うすうす入れ替わりに気付いていたみたいだなあ」
「……あたりまえですわ。あなた、一度も王妃と夜を共にしなかったでしょう。怪しまれないほうがおかしくてよ」
「いや、弟の嫁に手を出すわけにはいかねえだろう? そりゃちょっと揺らがなかったわけじゃねえけど」
リグリラのはなつ剣呑な空気を感じたのか、男はぶるりと身をを震わせ慌てた。
「あんたが見ている中で、別の女を抱く気になれるわけねえじゃねえか」
「そんなこと聞いていませんわ」
正妃の元に通わなくなったことで、周囲が山ほど送り込んだ側室候補も召し上げることはなかったことくらい知っていた。
しばらくの沈黙を破ったのは男だった。
「俺は、あんたを口説くことをあきらめたつもりはなかったんだ」
はっとリグリラは顔を上げた。
男は空間が揺らいだことを感じ、脳裏に焼き付く金の流れと紫水晶の瞳の美貌を思い浮かべて語りかけた。
「エドが死ぬ一月か、そこら前だ。
暗殺の手が迫っていることを肌で感じていたんだろう。あいつに懇願された。
もし私が死ぬことがあれば、この国はどうなってもいい。せめて、子が生まれて彼女の地位が安定するまで、守ってやってくれってな。
驚いたよ、国を第一に考えていると思っていたからな。同時に可笑しかった。女に馬鹿になるとこまで似ているなんてな。そのとき俺は、あのちっぽけな塔を抜け出して武者修行に出ようかと思っていたくらいだから悩んだよ。
悩んで悩んで、あんたをあきらめようかと思ったくらいだ。
だがそっちも無理だった。あんたの本性を見たら、ますます惚れたしなあ」
あの時の強引な言葉はそのせいだったか、とリグリラは今更ながら気づいた。
「それでも私情を挟まなかった弟の最初で最後の願いだ。どうせ、あんたを口説くには一生かける必要がある。なら武者修行は、兄ちゃんらしくひと肌脱いでからにしようと、思ったわけだ。あんたに何にも相談なしだったのは悪かった」
リグリラは男の告白に呆然と問いかけた。
「……まさか、本当に正妃と子供の地位が安定したら、国も玉座も捨てる気でしたの」
「おう、顔かたちは瓜二つだが、中身が全然違う。どうせ長くは続けられないとは思っていたからな。10年以上にはなるまいと思ったんだが」
男は弱弱しく苦笑し細くなった手首を持ち上げた。
今や枯れ木のようなその体は遅効性の毒に蝕まれ、誰が見ても残り僅かの命だと理解できた。
「エドと入れ替わって、全部を偽った罰だろう。エドをそのまま安らかに死なせてやれなかったことを、弟の嫁さんが殺したいほど憎いっていうんなら、しょうがないかもしれないな」
「……っ!」
罵声を浴びせようとして、寸前で堪えて唇をかみしめた。
リグリラは姿を現さないと言ったが、力を貸さないとは言わなかった。
それこそ契約違反になってしまう。
なのに、男はエドモンドに成り代わることを願った以外、一切リグリラの力を使わなかった。
こうして、死の淵に立たされても、なお。
なぜ体を治せと言わないのか、なぜ願ってくれないのかと思った。
契約者に直接干渉するには、本人の許可が必要だった。
自分から要求することなど理由もないのに言えなかったから、リグリラは震える拳を握りしめて睨み付けるしかなかった。
「リグリィリグラ、愛しているよ」
決して交わらない視線を虚空に投げかける男は穏やかに笑った。
「俺は来世でもあんたに惚れる自信がある。一生で足りないんならもう一生でもなんでもかけてやる。どれだけかかろうとあんたに追いつく。
だからいつか、絶対に勝ってやるから、その時はあんたの返事を聞かせてくれ」
浅い眠りにおちた男を置いて、リグリラは爆発しそうな感情をどうしたらいいのかわからないまま、転移術を使っていた。
リグリラに治癒魔術は使えない。
使う必要もなかったから学びもしなかったし、使えたとしてもあの弱り切った状態ではとても回復させることはできないだろう。
だが、一つだけ、細い細い糸がある。
他の魔族に訝しく思われることすら気にせず聞き込み、己の手をすべて使ってレイラインをたどり、何十回と転移を繰り返し、たどり着いた先はいつかの夜と炎の竜の元。
『あれ、君はいつかの魔族さん?』
要の竜の荘厳な気配に気圧されかけるのをぐっとこらえ、リグリラはいつもの己を装う。
『黒熔の。あなたに再戦を申し込みますわ。このあいだ取り決めました一撃先取で』
『たしかにまた来てね、とは言ったけど、やるの?』
『もちろんタダでとは言いません、私の真名を賭けますわ』
『ええ!? でもそれじゃ、君の命を私が握ってしまうことになるよ』
ドラゴンが迷惑そうにしながらも、真名を持ち出したリグリラを心配そうに話を聞いてくれることに安堵しながら、努めていつもの通り、戦闘への期待に昂揚する風を装う。
決して、こちらのどうしようもなく浅はかで、醜い思惑を悟られてはいけない。
リグリラはふるえそうになる唇を獰猛につり上げ、大胆に笑った。
『あなたと戦えるのでしたら何でもやりますわ。
それに初めから勝つ気でいらっしゃいますの? 後で吠え面をかかないでくださいまし。でも、わたくしに見返りがないのもつまりませんわ。
そうですわね、わたくしが勝利した暁にはあなたの血の一滴でもくださいまし。どんな死の淵からでも奇跡のように治り、どんな病人でも100年以上寿命が延びるらしいではありませんの。それひとつでいくらでも人族の国で遊べそうですわ』
『うーん、まあ君がそれでいいんなら、良いの、かなあ?』
煮え切らない態度で困ったように人型のリグリラを見下ろすドラゴンの答えを是と取り、リグリラは構わず全力で仕掛けた。
時間がなかった。
魂の契約は願いを重ねることでより強固に縛っていくのがセオリーだ。
灰髪の青年の願いは、確かに魔力だけでは足りなかったが、魂を縛りきれるほど強いものではなかった。
それを怠ったのだから当然だったし、そのことをうすうすハイドも察していたから、あんな言葉が出てきたのだろう。
だが、別離を覚悟しながらも淡い期待を残すハイドに、リグリラは言えなかった。
魂は世界の根幹に戻ると、まっさらになってから新たな人生に入るのだ。
だから例え、魂が人に転生したとしても、前世のことを覚えていることなどあり得ないのだとは。
言えなかったのだ。
そうして、鎖は掌から滑り落ちていった。