過去 5
或る夜、いつもどおり塔の部屋を訪れると、酒精が鼻についた。
「おう、ひさしぶり」
普段光が漏れることを嫌うのに灯したランプをひとつ床に置いて、珍しく開け放った窓辺に腰かけ手酌で杯を無造作にあけていたハイドは、床に転がる酒瓶をよけながら近づいてくるリグリラに手を上げてこたえた。
けだるげなしぐさとその苦悩の疲れが色濃く残る姿にリグリラは常とは違う違和を感じた。
「どうかなさいましたの?」
「なんでもねえよ。さっきまでエドが来ていてな。久しぶりに酒を飲んだせいか酔いが回ったらしい」
確かに、いつも雑然とした室内であるが、ハイド以外の人間が出入りした気配があった。
王子が訪ねている時に出くわしたことはないが、過去に何度か来ていることは知っていたからそれ自体は驚くことではない。
だが、数年前に父王が崩御して以来、唯一の肉親と言ってもいい王子が訪ねてくることを楽しみにしている彼が沈んだ様子でいるのは不思議だった。
誤魔化そうとしているのは何となく察しはついたが、その理由をを追及するのも妙だとリグリラはその話題に触れることなく、ハイドから酒杯をとり上げた。
「一人だけ飲んでいるなんてずるいじゃありませんの。わたくしにもよこしなさいまし」
あっけにとられるハイドを無視して隣に腰かけると、強奪した酒杯を一気にあおった。
人族の様に酔いを味わおうと思えばできるし、酒に酔うのは嫌いではない。
喉を焼く酒精と心地よい酩酊感にさそわれ、あっという間に空にしてしまったリグリラは恨めしそうなハイドに苦言を呈された。
「それ、一応貴重な酒なんだぞ」
「先に水みたいに飲んでいたのはあなたでしょう。まあ、なかなかの味ですわね」
リグリラが飲み終わった杯を差し出して催促すると、ハイドは呆れ顔ながらも酒瓶を傾けて酌をしてくれた。
外を見れば夜の暗闇になかなか良い黄金の月が上がっている。
注がれた酒を今度はゆっくりと傾けながら片膝に頬杖をついて楽しんでいると、横から視線を感じた。
「なんですの」
「やっぱり、あんたは綺麗だな」
「当然ですわ。いまさら何を言ってますの」
「綺麗だ」
「……」
いつもの賛辞だ。鼻で笑ってあしらおうとしたのだが。
その口調に常にない色が混ざっている気がして胸が騒いだせいか、それとも酔いが回ったのか。
リグリラはほんの少し踏み込んでいた。
「あなた、まだわたくしを口説きたいと思っていますの」
「何言って……当たり前だろ?」
「それって、何をいたしますの?」
「は……?」
質問の意図がわからなかったらしく、戸惑うハイドにリグリラは言った。
「わたくしにはあなたが何を求めているか、わかりませんの」
もちろん、リグリラの仮の姿である美貌の女を見た契約者たちに愛をささやかれたことは何度もある。
だが、それは珍しく美しいものを独占したいという、優越感を満たすためだけの傲慢な欲だと理解できたから、一挙手一投足に狂乱する様を冷徹に見つめながら計算し、徹底的に魔力を搾り取ってやればよかった。
ハイドの望みにしても、今までと同じかと初めは取り合うつもりなどさらさらなかったのだ。
「わたくしは、魔族ですわ。人とは根本的に存在が違いますの。人というのは様々なものに愛情を感じますけど、愛しいと思う気持ちというのがよくわかりませんわ」
なのに、過ごす時間が長くなるにつれて、この灰髪の青年が向けてくる感情はなんとなく違うような気がして、リグリラを困惑させる一因になっていた。
すると、
「そう、か」
ハイドは今にも泣きだしそうな表情で、ひどく寂しげに笑った。
ある種の絶望感さえ漂わせるそれにリグリラのほうが驚き、当惑したほどだ。
明らかに自分の言葉が原因だったが、言ってしまった後だ。
引っ込みはつかない。だからいつも通りせいぜい辛辣に続けた。
「それにわかっていまして、あなたが良い女だと言ったこの姿は偽りですのよ? わたくしの本性を見ても愛しているなどという妄言をほざけますかしら」
「どうだろうな、実際に見てみないことにはわからないんじゃないか」
からかうだけのつもりだったのだが、思わぬ挑戦的な言葉に目を瞬かせた。
まあ、別に良い。これで嫌悪に顔をひきつらせれば、その場で引き裂いてやろう。
「その言葉、後悔なさらないでくださいまし」
「おう」
リグリラは持っていた酒杯をことりと窓枠に置くと、そのままゆらりと窓の外へ身を投げ出した。
「っおい!?」
血相を変えて身を乗り出し、手を差し伸べようとするハイドに、にや、と笑い。
四肢をほどいた。
たちまち本性の金に紫の筋の入った海月となったリグリラは、爆発的な風の奔流を引き連れながら翅を震わせ、ハイドのいる窓枠の前でぴたりと制止する。
突発的な嵐がやみ顔を庇っていた腕をほどいたハイドはぽかんと、虚空に浮かぶリグリラの姿を見ていた。
全く何も言わないハイドに見つめられたリグリラはふと、これでこの関係が終わってしまうかもしれないのだ、と今更ながら気づき、胸の奥深くに冷たいものが走った気がした。
それを振り払いたくて何かしらの言葉を紡ごうとしたのだが、リグリラが話しかける前にハイドの表情が和らぎ――――あろうことかぷっと吹き出した。
「悪魔というからにはどんなゲテモノが来るかと思えば、なんだ、ずいぶん可愛いじゃねえか」
「か、ッ可愛いですって!? このわたくしが!?」
いまだかつて言われたことない言葉に血相を変えたのだが、いかんせんこの姿で感情表現は難しい。
せいぜい傘に入った紫のすじを明滅させ、触手を揺らめかせる程度だ。
わなわなと震えるリグリラの抗議は見事にスルーされ、ハイドの笑みはますます深まる。
「かわいいぜ。……まいったなあ、ますますあきらめたくなくなっちまったよ」
リグリラが置いた酒杯をくいと傾けたハイドは溜息のようにそう付け加えた。
安堵と悲しみが入り混じったその表情にリグリラはなぜか不安定なる自分に戸惑い、気が付いたら言葉にしていた。
「あなた、今日少しおかしいのではなくて?」
「そうだな、思ったより酔いが回っているんだろう。なあ、酔い覚ましに一手、付き合ってくれないか」
「今からですの」
「だめか」
しっかりした足取りで室内を歩き、鞘に収まった長剣を持ち出してきたハイドの灰色の瞳の縋るような視線が妙に気になって。
「場所は、いつもの野原でよろしいですわね」
「ああ、もちろん」
問い返したものの特に断る理由もなかったリグリラは人型に立ち戻ると、いつもの野原へいざない、剣を合わせた。
初めの一合で、リグリラはハイドの本気を悟った。それでも実力の差は歴然としている。
真夜中の立ち合いはいつものようにリグリラの勝利に終わった。
それでもその熱意に久しぶりに軽く息を弾ませたリグリラは、地に倒れ伏すハイドを見下ろした。
動悸のような激しい息遣いと滝のような汗を流し、だが星の瞬く夜空を見上げ、声を絞り出した。
「やっぱり、一生かけないとだめか」
「当たり前ですわ。一生どころか、来世をかけても追いつくかしら」
深い悲哀の混じった声に訝しく思いながらもリグリラがいつもの調子で応じると、疲れ切って動けないはずのハイドの瞳が不思議な強い光を宿し、リグリラを見つめた。
「生まれ変わりがあるのか」
そういえば、この国の信仰に輪廻転生の考えはなく、人の生は一度限りという教義だったか。
「身体はもちろん朽ちますわ。それでも肉体から離れた魂は世界の根幹へ帰り、また別の生へとめぐりますの。人か獣か、はたまた別の生き物になるか、そのあたりはわかりませんけど、それを生まれ変わるというならそうでしょうね」
「俺のこの魂も別の人間のモノになる可能性があるってことなのか」
「馬鹿言わないでくださいまし。その前にあなたはわたくしと契約しているのですから根幹には帰りませんわよ」
「そうか、そうだったな」
打って変わって笑い始めたハイドをリグリラは気味悪く見つめた。
「……とうとう壊れましたの。次はないと突きつけられていますのよ? そこは喜ぶところじゃないでしょうに」
「良いんだよ。なんか吹っ切れた。ありがとな」
「本当に、変な男ですわね」
呆れ顔で嘆息しながらも、彼の幾分すっきりした表情にほんの少しだけ胸をなでおろしたリグリラだったが。
歯車がきりきりとまわり始めた音に、気づかなかったのだ。