序
汚い、否、恐ろしいまでに汚い部屋だった。
よくよく見ればかなり広い部屋のようだが、壁一面に配置された棚には魔導書と一緒に剥製や、何かの模型、剣などの武器類が整理などまるで無しに適当に放り込まれ、案の定入りきらなかったらしい数々のがらくた類は床に山となっておかれている。
床にはさらに呪文の構成や魔方陣の配置を書き散らかした羊皮紙や広げられたまま巻かれることのない巻物がそこかしこ乱雑に積み上げられ、その隙間を埋めるように触媒用の魔力結晶や、鉱石、一見して用途のわからない薬草類が雑然と転がされているため、足の踏み場もないありさまとなっていた。
それらを無理やり押しのけて確保されたことがありありとわかる石床に、びっしりと白墨で書き込まれた召喚陣はとても精密で美しいものだっただけに、魔族はその背景との激しい落差に召喚に応えたことを早くも後悔し始めた。
召喚主らしい、様々な補助魔道具を身に着け、頼みの綱である護符に手をかけながらもいまだ召喚陣の外で杖を支えに呆然をしている男は、大方思わぬ大物が釣れたことに頭が追いついていないのだろう。
阿呆のようにあんぐりと口を開けてこちらを見上げていたが、はっと我をとり戻すと慌てて言葉を紡いだ。
「古より魔導の理を担う偉大なる魔族よ。我が召喚に応えていただけたこと心から感謝を申し上げます」
元来の本性は別にあるが、今は少しでも魔力の消費を抑えるために人族の女性の姿をとっていた。
細く華奢な手足に優美な曲線を描く肢体。だが、己の魔力が足りないばかりに、それを包むのが何の工夫もない黒い服だということが更に魔族の美意識を逆なでする。
本性の体色と同じ金砂色の髪を無造作に背に払うと、魔族は召喚に応じた手前気が進まないながらも儀礼にのっとり、召喚主の男に問いかけた。
《矮小なる人族よ、我に何を望むか》
それは、召喚されたものとしてはごく当たり前の問いのはずだったのだが。
男は唯一の武器であるはずの杖も、己を縛るための護符ですら投げ捨てその場にばっと両手両膝をつくと、地面にこすりつける勢いで頭を下げたのだ。
「俺の童貞を捨てさせてください!!!」
金砂の髪と紫の瞳の絶世の美女をかたどった魔族、リグリィリグラは、とりあえず眼下にある灰髪に覆われた後頭部を素足で踏みつけた。
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夜の闇に染まった作業部屋で、リグリラは束の間のまどろみから目覚めた。
魔族に睡眠は必要ない。
だが、何百年もの月日で積み重ねた記憶を整理するために一時的に休眠状態になることはある。
さらに今は仮の姿をより人族の体に近づけているため、ここ連日の徹夜でたまった精神的な疲れを解消しようと機能の一部が休止したのだろう。
その証拠に、金砂の髪から伸びた触手はきちんと作業を続けており、微調整を繰り返していた型紙で試し縫い用の生地を切り、仮縫いをしていたそれを終えようとしていた。
縫い糸を切り、出来上がったドレスを用意していたトルソーに着せかけるよう己の触手を動かしながら、ぼんやりとまどろみの中で垣間見たそれを反芻する。
ずいぶんなつかしい、そして忌々しい記憶だった。
「とうに葬った、と思っていましたけど」
思いのほか連日の徹夜が応えていたようだ。
リグリラは淡い自嘲の笑みを浮かべながら宵暗闇の中、大きくとった窓から漏れる月明かりに浮かび上がるドレスを眺めた。
思ったとおりに流れるオーバースカートのドレープとペチコートの布に満足したが、だからこそこの形の美しさを最大限に引き出すために本縫いに使う布地に一切の妥協をするわけにはいかない。
それがドレスメーカーとして、デザイナーとしてのリグリラの矜持であり意地だ。
「やはり……使うなら青、そして橙、ですわね」
ドレスを前に、そうつぶやいた。
今は何の変哲もない安価なモスリンで縫われているが、実際に光沢のあるもっと薄い紗を使う。
さらにこの布の流れを生かすには、深くそれでいて透明感のある色でなければいけない。
散々問屋を見てまわったが、少々妨害もあったうえ、いまだ思うとおりの布地には出会えていなかった。
それでも、打開策がないわけではない。
だが、それを選び取るのには少し己の矜持が邪魔をしていて、何とかほかの方策はないものかと先延ばしに考えていたら仮縫いのほうが先にできてしまったのだった。
これを注文した客は、最高のものを望んだ。
その理由も理解していたし、何より妥協を許さないリグリラはランクを落とす気はさらさらない。
一応デザインの最終確認のためにこの仮縫いを依頼主に見せるが、満足してもらえると確信しているから、その時には実際に使う布も用意しておきたい。
ドレスのデザインを変えず、品位を落とさず、妥協をせずに作り上げるにはこれが一番だとわかっている。
それでもリグリラの葛藤を表すようにしばらくの間ざわざわと金の触手が揺らめいていたが、唐突にぱたりとおとなしくなった。
覚悟を決めたあかしだった。
「仕方がありませんわ。あの方にお願いしてみましょう」
言葉とは裏腹にその声は心なしか弾み、リグリラは揚々と椅子から立ち上がると、算段の為に作業部屋を後にする。
いつの間にか、まどろみで垣間見た夢のことは脳裏から消えていた。