小さな髪飾り一つ
男は少女のことが好きだった。
どこまでも普通で、そして平凡で
他愛無いことにいちいち表情を変える単純さが好ましかった。
謀を知らない、感情をそのまま表す表裏のない
子供そのままの少女に、一緒にいるときだけ
男もその表情に釣られて笑みを浮かべることができたから。
男と少女との年の差は12もある。
それだけあれば親子ほどではないが兄弟でも随分と年の離れた兄弟
くらいある。少女のする行動は男からすれば何でも幼く見えた。
彼女が一生懸命、悩んでいることも
怒っていることも
泣いていることも
喜びはしゃぐその姿も
眩しいほどに無邪気で、愛らしいものだった。
少女が言うには男は無口すぎるのだという。
ちゃんと聞いているか、と少女が話している最中、よく訪ねる。
大抵そういう時は機嫌が悪く
男は一応、話は聞いているが
少女の話は男からすればまともに聞かねばならないような話ではなかったので
左から右に聞き流していた。
それを待っていましたとばかりに生返事しかしない男を少女は責めた。
「だから女っ気がないのよ。顔は悪くないからモテるのに」
少女は勝ち誇ったような顔でもって男を鼻で笑ったが、少女が知らないだけで
男は適当に遊んでいた。ただ少女が知らないくらい上手く立ち回って
ずるい大人の男の顔できちんと隠していただけ。
少女が語るような甘い夢物語のような恋の歌などなく
いつも利害の駆け引きのようなとても事務的なやり取りで
すぐに記憶の片隅に忘れるような刹那の関わりしか持たない男だった。
恋に熱を上げるには遠いところにいると思うような男だった。
男は軍人で
時に命のやり取りも平然とする男だった。
男女の関係だけでなく男にはどこか排他的で、冷たいところがあった。
手柄を上げて地位を上げるほど妬まれ、敵も多かった。
感情を読まれることが命取りになる男の感情は冷えて
滅多なことで揺れ動くこともなかった。
対して少女は人の表しか分からない
子供だった。
人の感情に機敏でもなく、常に危険を身に感じることもなく
他愛無い日常にあふれ、日の浴びる外でまっすぐと空を見上げられる
少々注意も頭の足りない子供だった。
男がどういう男かも知らず
男に無邪気に寄り付き媚びて、時に偉そうにそのご高説とやらまで聞かせた。
まったく物知らずで、無知をしらない子供だった。
馬鹿な少女だから
そんな彼女が裏もなく笑うから男はおかしくて苦笑した。
少女は自分の言葉に賛同が得られたのだと笑った。
「いつか私があなたにぴったりの女性を見つけてあげるわ」
可愛い男の妹分だと名乗る少女の言葉だった。
その言葉が果たされないまま、男は戦場へと向かった。
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一年がたち、二年がたった。そうして時が流れて四年がたった。
男が国の英雄として凱旋して戻ってきた。
男は誰もが憧れる栄光を手に、民衆の喝采を浴びて数年前よりも
さらに男ぶりをあげて輝いていた。
相変わらず無口で表情の乏しい男だったが。
この四年、男は少女のことを忘れていた。
凱旋しても忙しさを言い訳に半月も思い出さずに会わなかった。
ふと彼女を思い出したのは
何故だっただろう。
魔が差すように、少女を思い出した。
「エリック、エリック・バルツオを知りませんか」
久方ぶりに会った少女は、もう少女ではなかった。
あの頃の無邪気さもなく、ただの窶れしなびた女が一人頼りなく、佇んでいた。
表情は暗く、泣き腫らした目をした薄幸な女がいた。
「エリック?知らないな」
女はそうですか、と見るからに落胆した顔をして
顔を伏せた。喜びの再会などどこにもなかった。
女の目に男が写っているかも怪しいところだった。
「彼は死なずに戻るといいました。しかし、遺髪とこの髪飾りが届きました。
私には信じることができません。エリックが生きているとしか思えません」
男が英雄として帰ってきた。同じ戦場にいたからもしや、と思ったらしい。
それに興味もないような女は男がいない間に恋をしたらしい。
幼い初恋。それはこの戦争で別たれたらしい。
この数年で少女には男が思うよりずっと色々なことがあったようだ。
無邪気さはすっかり抜け、苦労が疲労とともにその顔に酷く表われていた。
朝から晩まで女は働いている。
手は荒れて線が細い体でよく働く。家が没落し、働かねばならなかったらしい。
貧乏な娘に縁談はなく、それでも縁があったのがエリックという男らしいが
調べたが男もたいした男ではなかったらしく、戦場でも戦果らしい戦果もないらしい。
女の落胆振りから結婚の約束でもしていたのかと思えば
そうでもなく、周囲にさえ少ないほどでお互いが片思いもいいところだったようだ。
それを哀れに思ったかといえば、男には素直にそう思うこともできなかった。
男の元には毎日腐るほどの縁談が届く。
表情もろくに動かない男だが、いまや英雄と呼ばれる男は
顔も男ぶりもいい。それなのに未婚であり、噂もない。
自分こそがと名乗り出るものはとどまらなかった。
いつか男にぴったりの女性を探し出すといったその女は
そんなことにかまける余裕などないほど独楽鼠のように働いていた。
朝から晩まで下女のような下働きに汗を流す。
男は生意気でお転婆だった、無邪気な少女を思い出す。
男は少女だった女を妻とした。
「ごめんなさい、ありがとうございます」と女は繰り返した。
かつては男の妹分だと誰にはばかることなく息巻いていた女が
借りてきた猫のように式場の壇上の上、純白のドレスに身を包み泣いていた。
自分にはもったいないと、だけれど感謝していると
女は結婚をあきらめ、一生を仕事に生きると思っていた。
毎日に疲れ、ただ生きている。
淡い恋はなくなり、希望と呼べるものもない。
かつて兄と慕った人は遠く、自分では傍によることもできなくなった。
女の家は元に戻り、そして女の荒れた手は男が雇った侍女によって
綺麗にされ、疲れて細った細い体は若干ふっくらに、青白い顔には赤みが出た。
男は男らしからず、女を甘やかした。
周囲からはそう見えたが、男からすればもともと男は女に甘かった。
少女の頃から男の側にいることを拒まれない稀な存在だった。
昔にはなかった愛の言葉も男は女にささやいた。
何不自由ないようもので部屋は埋め尽くされ
女の好きな花が花壇を埋め尽くした。
常にやさしく側にいて、昔のように他愛無い話をする女の言葉を聞いていた。
程なくして腹に子も宿って
誰から見ても幸せに満ちた夫婦になった。
「旦那様、ありがとうございます」
女は男に何かしてもらうたびに遠慮がちに礼を言った。
妻は謙虚だった。質素で、ふと詫びるように笑った。
妻があの髪飾りを捨てていないのを男は知っていた。
知っているからいつまでも借りてきた猫のように身を預けながら
かたばる肩を抱き寄せた。
身をゆだねて何も知らない少女の目で身を投げ出して
笑ってくれない妻に男は笑った。
昔、少女は物を知らず、ものの裏を知らなかった。
言葉は素直に心からの言葉で
素直にすとんと男の心に入ってきた。
そんな少女が男は大好きだった。
それが屈託なく男を笑わせる唯一のことだった。
蛇足になってしまいますが、
少女が髪飾りを持っているのは死者を忘れないためで
そこにある感情は昇華されてます。本当に蛇足ですね。
まあ相手がそれを理解してるかは不明。