四月四日
翌日、誠司が教室へ入ると、教室内の生徒達はチラと見てくる。しかしそれが誠司だとわかると、焦ったように皆が皆、目を逸らした。
既に癖となっているため息を吐き出しながら、誠司は自分の席へと座り、読破五周目になる推理小説を読み始めた。そんな時、教室の扉が開き、それを待っていたかのように教室中の女子たちが好奇の視線を向けながら、ひそひそと話し始める。
「来たよ来たよ、大月さくら」
「無視されてんのわかんないかね~」
「机の上に画鋲置こうかぁ」
相変わらず馬鹿馬鹿しいくらいに、小さな嫌がらせだ。聞いている人間を絶妙に苛立たせてくるな。
席に着こうとしたさくらは、苛立っている誠司に気がつくと、まるで蝶々を見つけた幼女のように無邪気な様子で駆け寄ってきた。クラスメイト達は、幽霊でも見るかのような視線を二人に投げかけている。
気がついてはいるものの、あえて無視している誠司の耳に、落ち着いた声が心地よく響いてくる。
「おはようっ、誠司君」
「……あぁ、おはよう」
毎度のごとく、手元にはやぼったい手帳が握られている。よく見ると、いつでも書き込みが出来るように、本体と背の隙間に細いボールペンが挟み込まれていた。真横から見た手帳は、後からページが継ぎ足されているように見えた。
「嬉しいな。この学校で誰かと、面と向かって話をするのは久しぶりだから」
いい加減、周囲の視線が気になって仕方がなかった誠司は、重々しく立ち上がると、さくらの手を引き、早足で廊下へ出て、一階へと向かった。どうしても、誰もいない場所で訊きたいことがあったのだ。
鉄筋コンクリート造の壁、淡い灰色のタイルの床、そんな廊下はがらんとしていて、ホームルームの始まりを予告しているようだった。
「突然どうしたの? もうホームルーム始まっちゃうよ」
「前から訊きたかったんだが……お前、イジ────」
さくらの表情を見て、誠司は職員室前の一階廊下で立ち止まる。そして、出ようとしていた言葉が喉の奥に引っ込んだ。
イジメを自覚してるのか、だなんて訊けないじゃないか……。
さくらの手を離し、顔を背ける。人がまばらな廊下で誠司は立ち尽くした。そして、問いがボソリと口から漏れ出した。
「どうして、そんなに楽しげなんだ……」
「楽しいんだよ。学校も、授業も、クラスのみんなの顔を見るのも、すっごく楽しいの」
天真爛漫なとびきりの笑みに、誠司は目を細めた。疑問しか頭に浮かばなかったが、そんな誠司を知ってか知らずか、さくらは言葉を紡いでいく。
「これには理由があってね────」
何かを言いかけた時、真横にある職員室の扉から、少しばかり面食らった面持ちの、担任の田場が出てきた。中肉中背の身長は誠司と同じくらいだ。
「んぉ、お前らもうホームルーム始まるぞ? こんなところで何してんだ」
「……チッ、戻れば良いんだろ、戻れば。この中年教師め」
「こら秋元、まーたお前はそんな口きいて」
誠司は顔をむすっと不機嫌そうに歪ませてから、二人をその場に置いて教室へと歩いて行った。さくらは田場に向き直り、真剣な顔で深々と頭を下げた。
「……ごめんなさい先生。話したいことがあって、私が彼を呼び出したんです」
「大月、お前が半ば不良みたいな奴とつるむなんて、先生意外だなぁ」
「そんなことありません。誠司君は……とても良い人ですよ」
さくらは柔らかく微笑むと、再び一礼してから教室へと向かって行った。
さくらが廊下の角を曲がった時、ちょうど鉢合わせた男子生徒と肩が触れ、彼の持っていた書類が床に散らばる。
「あ、わ、私……ごめんなさい」
「ああ、いいよいいよ。僕拾うから」
黒い縁の眼鏡をかけた男子生徒、御影言成は進級当初、誠司の悪い噂をクラスに広めている人間の一人だった。
そんなこととは露知らず、地面に落ちた書類を手早く集めたさくらは、手元でそれを揃え、いつもの笑顔を添えて言成へと手渡した。
「はい、どうぞ。確か、同じクラスの、オカゲ、ゲンセイ君だよね」
その端正な顔立ちに見惚れながら書類を受け取った御影は、苦笑いした。お礼を言いつつ、自分の名前の読みを訂正した。
「あ、ありがとう。えっと、ミカゲ、コトナリって読むんだけど、わからなかった?」
「え、あ、ま、読み間違えちゃった……! ごめ、ごめんなさい」
恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にしたさくらは、何度も頭を下げた。御影がその姿もまた愛らしいと、にやついた矢先、廊下中にチャイムが鳴り響いた。それに気がついた御影は、さくらに会釈してから半ば焦ったように職員室へと駆けて行く。さくらはそれを見送ると、教室へと戻って行った。